源平合戦は「源氏対平氏」ではなかった
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この回の出発点は、伊豆に流された頼朝が政子と結ばれ、まだ何かが起こるとも思っていない状態です。深井さんは、この時点の頼朝はこのまま流人として人生を終えるかもしれない立場だったと説明します。
そこで、1180年から5年間にわたる大きな内乱が起こります。治承・寿永の乱 ── 1180年の以仁王の挙兵から1185年の壇ノ浦の戦いまで続いた内乱。俗に源平合戦と呼ばれますと呼ばれる戦乱で、俗に源平合戦とも呼ばれます。
ただし深井さんは、源氏と平氏が戦ったという見方は単純化しすぎだと指摘します。実態は、地方の私有地を持つ在地領主が、自分たちの権益を削ってくる中央政府と戦った構図に近いといいます。
平氏に戦ってるように見えるんだけど、別に平氏を打倒しようというよりは、自分たちの土地を守ろうっていう感覚で戦ってるわけです。
樋口さんは、清盛対頼朝のような二項対立のイメージとは全然違ったと驚きます。実際には各地の武士団が利害に応じて同盟と離反を繰り返し、源氏の中にも頼朝に対抗した者がいたと補足されます。
源氏対平氏、清盛対頼朝の二項対立。貴公子が一騎打ちする華やかな戦い
在地領主が権益を守るための戦い。中小の武士団から動員された民衆まで入り乱れる泥臭い戦乱
天皇になれなかった以仁王が源氏に呼びかけた令旨
乱の始まりは以仁王の反乱です。深井さんは、以仁王を後白河上皇の第三王子で、本来なら天皇になれる立場だった人物だと説明します。
ところが平清盛が自分の孫を安徳天皇 ── 平清盛の孫にあたる天皇。清盛が強引に即位させましたとして無理やり即位させたため、以仁王は天皇になれませんでした。さらに所領没収も重なり、平氏の専横に反乱を起こすに至ります。
以仁王は、落ち目になっていた諸国の源氏に挙兵を呼びかけます。呼びかけに使われたのが令旨 ── 皇太子や親王などが出す命令書。以仁王はこの令旨で源氏に挙兵を呼びかけましたと呼ばれる文書で、東海・東山・北陸の諸国の源氏に、清盛らの追討に応じよと命じるものでした。
この令旨によって、平家を攻撃する大義名分が立ちます。深井さんは、朝廷の位の高い人から呼びかけられて挙兵できるようになった点が大きいと指摘します。勝てば昇進でき、平家の専横に怒る者にとってはチャンスだったからです。
この令旨をいち早く各地の源氏に配って回ったのが、頼朝の叔父にあたる源行家でした。頼朝のもとにも令旨は届きます。
なぜ頼朝は以仁王の失敗の直後に挙兵したのか
頼朝は令旨を受け取りますが、この時点では挙兵しませんでした。一方、以仁王の陰謀はすぐに発覚し、準備不足のまま挙兵を余儀なくされます。
以仁王と源頼政がセットで挙兵した宇治川の戦いで、彼らは敗北します。源頼政は自害し、以仁王は敗走中に殺害されたと伝わります。
この挙兵に対する平家の対応が遅れました。深井さんは、清盛が同時期に福原遷都 ── 清盛が平安京から福原(現在の神戸市)へ都を移そうとした計画を進めており、忙しさから対応スピードが落ちたと説明します。
この初動の遅れが致命的だったといいます。乱の火種を一気に消せなかったことで、戦乱が全国へ飛び火していきました。
そして、令旨を受け取っても挙兵しなかった頼朝が、以仁王たちの失敗の直後に挙兵します。木曾義仲や甲斐源氏の武田氏がすでに挙兵していた中で、頼朝はなぜこのタイミングだったのか。深井さんは、その理由を坂東武者との関係から解き明かしていきます。
坂東武者が「貴種」頼朝を担いだ理由
平家が権力を握った結果、国司や知行国司 ── 国司を推薦する権利を持つ役職。平家の権力拡大とともに平家系の人物へ置き換わっていきましたといった役職が、次々と平家の息のかかった人物へ置き換わっていました。
坂東はもともと源氏が知行国司を務めており、以仁王と挙兵した源頼政がその任にありました。頼政が自害したことで、坂東の国主を任命できる人物が平家系に替わってしまいます。
樋口さんは、伊豆でも同じ状況が起きていたと補足します。伊豆の新しい国主に起用されたのが平時忠で、平家一門でない者は人間ではないと言い放った人物でした。
平家と近い者が力をつける一方、源氏の統治下で力を持っていた者は危うくなります。三浦家、北条家、上総介、千葉常胤といった武士たちが、既得権益を守るために挙兵することになった理由がこれでした。
自分たちと同列の人間は担げないため、彼らはより貴い血筋である「貴種」を必要とします。深井さんは、源氏の貴種である頼朝が関東にいたことが決定的だったと説明します。北条政子と結婚していた頼朝は、担ぐ相手として近くにいたのです。
平家の権力掌握
国司や知行国司が平家系の人物へ置き換わる
源頼政の自害
坂東の国主を任命できる人が平家系になる
既得権益の危機
源氏の統治下で力を持っていた武士が危うくなる
貴種の必要
同列の人間は担げず、貴い血筋の頼朝を担ぐ
誤報が招いた挙兵。孤独な決意
挙兵の最後のきっかけは、京都から月3回情報を送っていた下級役人の三善康信からの手紙でした。全国の源氏がこの後追討される、陸奥へ逃げた方がいいという内容です。
これは早とちりで、実際に清盛はそこまで考えていなかったといいます。しかし頼朝からすれば、平氏の世で領地を受け取っただけで殺されるかもしれないという恐怖でした。
深井さんは、頼朝がこの時に死を覚悟したのではないかと語ります。父も兄も失い、伊東家で作った息子も殺され、逃げるように北条氏のもとで政子と出会い、ようやく落ち着いた生活を、また破壊されると告げられたからです。
この時になんか多分もう死んでもいいから戦おうと思ったんじゃないかなと思うんですよね。
頼朝は挙兵を決意し、かつて父の義朝に仕えた武士たちに馳せ参じるよう呼びかけます。しかし当初集まった人数はごくわずかでした。
父の家臣だった者たちからは馬鹿にされ、様子見が多く、罵詈雑言を吐く者すらいたという記録も残っています。呼びかけに応じなかった者が平家に密告したことも重なり、頼朝はいよいよ引けなくなりました。
平家系を襲った初戦と、石橋山の絶望
最初の頼朝軍は、義父である北条家の直属軍が中核で、数十騎程度だった可能性があります。深井さんは、まず頼朝が国を治める平家系の人物を襲ったと説明します。
頼朝は山木兼隆の邸宅を奇襲し、その首を取ります。ちょうど祭りで人員が出払っていたこともあり、初戦は成功しました。坂東武者が平家系の人物を嫌っていたため、まずそこから討ちにいったのです。
山木兼隆の領地を没収した頼朝は、伊豆国の支配者のように振る舞います。周辺の武士も集まり始め、軍勢はようやく300騎ほどになりました。
しかし平家方の大庭景親が近くにおり、3000騎で攻撃を仕掛けてきます。10倍の兵力です。頼朝は味方の三浦氏と合流しようとしますが、その途中で大庭景親軍とぶつかってしまいます。
さらに背後からは、かつて頼朝を監視していた伊東祐親が300騎で挟み込みます。正面に3000騎、背後に300騎という絶望的な状況が出現しました。
正面に三千騎、後ろに三百騎っていうすげえ絶望的な状況が出現するんです。
駆けつけようとした三浦氏は、豪雨による増水で進軍を阻まれ合流できません。石橋山の戦いで頼朝軍は夜襲を受け、規模の違いから敗走します。
三度死にかけた敗走と、梶原景時の見逃し
頼朝さえ討てば軍をまとめる者がいなくなるため、大規模な掃討戦が行われます。大庭景親と伊東祐親は血眼になって頼朝を探しましたが、見つけられませんでした。
この時、北条家の嫡男である北条宗時が戦死し、代わって弟の北条義時が登場します。敗走した頼朝は土肥実平のもとに身を寄せ、神奈川県から千葉県へと海を渡って逃げていきました。
逃走の途中で、頼朝は一度敵に見つかっています。見つけたのは梶原景時という武将で、後に頼朝の家臣として合流する人物です。この時、景時は頼朝を見逃しました。
深井さんは、これは相当な判断だったと評価します。死にそうな頼朝を今討てば戦果になるのに、殺さず逃がして恩を売り、その後に頼朝軍へ合流する道を選んだからです。
ここで彼が平氏側を裏切らなかったら頼朝死んでたんですよね。
楊さんは、頼朝がここまでに三度死にかけていると振り返ります。乱の後に流される前、石橋山での敗走、そして梶原景時に見つかった時です。頼朝は何度も死にかけながら生き残っていきます。
判断されたのは頼朝。上総介広常と千葉常胤の合流
命からがら千葉県へ逃げた頼朝を待っていたのは、上総介広常、千葉常胤、三浦義澄といった有力な武将たちでした。彼らが味方につくかどうかで、今後が分岐します。
樋口さんは、ここで判断される立場にいたのは頼朝の方だと指摘します。惨敗して数騎で逃げてきた頼朝が、つくに値するかどうかを彼らに見定められたのです。
頼朝は自分なんかつくに値するかどうかって、頼朝が判断されるんですよ。
頼朝は上総介広常に和田義盛を、千葉常胤に安達盛長という側近を使者として送り、馳せ参じるよう命じます。旗頭として当主のように振る舞う必要があったからです。
上総介広常は大軍を率いて頼朝軍に合流します。深井さんは、2万という数字は誇張で実際はもっと少ないだろうとしつつ、参加したこと自体が大きいと語ります。千葉常胤も強い兵力を率いて加わりました。
北条家の本『吾妻鏡 ── 鎌倉幕府の歴史を記した書物。北条家に有利な書き方がされているとされます』には、頼朝がわざと遅刻した上総介広常を叱責し、それに感服した広常が臣従を誓ったという逸話があります。ただし深井さんは、これは嘘で実際は普通に参加していたようだと述べます。
一方、千葉常胤に対して頼朝が「これからはそなたを父と思うぞ」と言ったという記録も残っています。これも演出かもしれないとされますが、この時点で頼朝に従う武士は2万7000騎に達したといいます。
樋口さんは、荒くれ者の東国武士団が頼朝を見て「こいつはいける」と判断したのではないかと想像します。京都生まれながら弓も強く、武士としても腕っ節があるという印象を抱いたのかもしれないと語られます。
武田信義との同盟と、富士川の戦い
頼朝は大庭景親らを倒し、坂東一帯を一旦治めます。深井さんは、流人だった人物がいきなり数万の兵力を持って現れる現象を、頼朝がオフィシャルな武家の嫡男だったからだと説明します。
オフィシャル武家嫡男だから、自分が兵力持ってなくても、周りの人が誰かをリーダーにしようとすると、オフィシャル武家嫡男しかできないから、リーダーに。
頼朝以外にも挙兵している源氏がいました。中でも甲斐源氏の武田信義とその嫡男の一條忠頼は、初期の段階では明らかに頼朝より強かったといいます。政権を取る可能性もゼロではありませんでした。
ただし彼らも以仁王の令旨に基づいて挙兵しており、平氏打倒という点で利害が一致します。頼朝は北条時政と義時の親子を使者として甲斐へ送り、武田氏と同盟を結びました。
各地の挙兵に対し、平氏は平維盛を総大将とする追討軍を福原から出発させます。この追討軍は甲斐に攻め込みますが、強い甲斐源氏にボロ負けします。
続く富士川の戦いでも追討軍は敗れます。深井さんは、乱の期間中に飢饉が重なっていたことを挙げ、富士川に布陣した追討軍が食料不足で士気を落とし、先発軍の敗北を聞いた兵が逃げて4000騎ほどに減っていたと説明します。
食料不足と先発軍の敗北で士気が低下し、4000騎まで減少
4万以上と伝わる(誇張の可能性あり)
追討軍の大将である平維盛は、戦いもせず逃げ帰ったといいます。深井さんは、武士は自分の業績を盛りがちだと注意しつつ、この一戦もせずの敗走が平氏の権威を失墜させたと語ります。
大企業がベンチャーに負けるみたいな感じで、いざマーケットで戦ってみたらベンチャーの方が強えみたいな。
上洛か鎌倉か。頼朝が下した大決断
平氏を破った頼朝は、次に上洛して京都を押さえたいと考えます。深井さんは、京都を押さえた者が次の権力者になれるという武士社会の常識を説明します。
ところが頼朝軍の内部で問題が起きます。上総介、千葉、三浦といった主力の武士たちが、上洛にこぞって反対したのです。
理由は明確でした。京都まで行けば、自分たちの土地を守る軍がいなくなります。彼らの土地を狙う武士は周囲に実在したため、上洛は権益を守れなくなるリスクだったのです。
リーダーと部下で作戦目的が食い違う中、頼朝は上洛するか坂東に戻るかの大きな決断を迫られます。頼朝の感覚では、朝廷と接近しない限り権力は握れません。坂東と結ぶだけで権力を握った者は歴史上いなかったからです。
京都で育った貴族出身の頼朝は、それを痛いほど理解していました。20年の流人生活を経て、死を覚悟して挙兵し、ようやく勝った矢先の局面です。それでも頼朝は坂東武者の言うことを聞き、鎌倉に戻る選択をします。
坂東武者の言うこと聞くんですよ。すごい状況認識能力だと思う。
深井さんは、これを頼朝の現状認識能力の高さの表れだと評価します。自分の勢力が何によって支えられているかを冷静に把握し、無理を通せば何が起こるかを考えた結果だといいます。
頼朝は鎌倉に戻った後、傘下の武士の土地を脅かすライバルを倒しにいきます。深井さんは、これが「自分はあなた方坂東武者のリーダーで味方だ」と示すパフォーマンスだったと解釈します。
上総介広常の暗殺が示した政治力
坂東武者からすれば、朝廷はどうでもよい存在でした。京都との縁も薄く、政治の実務もよく分からなかったからです。彼らは、自分たちで兵も集められ、中央の役人も排除したのだから、独立国家的に動けばいいと主張し始めます。
特に上総介広常が、朝廷から距離を取って坂東で独立的に動こうと言い出します。ところが頼朝はこれを許さず、功労者であるはずの上総介広常を暗殺します。
深井さんは、頼朝が譲歩する部分と絶対に許さない部分を使い分けたと指摘します。譲歩したのは坂東武者の土地を守ること、絶対に譲らなかったのが朝廷との関係を保つことでした。
上総介広常の広大な土地は、坂東武者に分配されました。頼朝をリーダーにしておけば土地を守り広げられるというメリットを作ったうえで、頼朝は君臨する存在になっていきます。
楊さんは、これを政治センスだと評します。深井さんは、第三者から見れば当たり前でも、当事者が正確な現状認識をするのは歴史上でも非常に難しいことだと語ります。
これは武士の、武士による武士のための政権を選んだと北郷先生がね、表現してるんだけど。
楊さんは、良い判断に見える一方で、京都で権勢を誇る夢を諦めた瞬間でもあると指摘します。深井さんは、頼朝はその可能性を完全には捨てず、実は後白河法皇とコンタクトを取り続けていたと補足します。急がば回れで自分の基盤を固める決断だったのです。
御家人と「俺がルール」の組織づくり
この頃、頼朝はかの有名な源義経と再会します。義経は幼くして父を失い、奥州平泉の藤原氏のもとで育っていました。頼朝の挙兵を聞きつけ、藤原秀衡の軍勢を率いて参集したと伝わります。
義経のほか、同じ母を持つ阿野全成と義円も参集し、感動の再会を果たしたといいます。頼朝には、強力な武将である藤原秀衡から武力を割いてもらう期待もあったと考えられます。
鎌倉に戻った頼朝は、坂東の武士団のために動き、利害の一致をアピールしていきます。この頃から、御家人 ── 鎌倉将軍の直属の家来を指す尊称。「家人」に敬意を込めた呼び方ですという家来の感覚で組織運営を進めるようになります。
深井さんは、頼朝が強力な主従関係を築くことに専心したと語ります。3百11人の御家人を一堂に会させ、頼朝直属の家来だと明確にしました。これは律令制にはない、新しい概念でした。
この強い私的主従関係は、中央から遠い坂東だからこそ作れたものでした。頼朝は上洛しない選択をしながら、朝廷では作れないメリットのある組織を地方で作り始めたのです。
頼朝が徹底したのは、俺がお前らの土地を守るから、俺が主人だという関係でした。深井さんは、これを頼朝が「俺がルールだ」とブランディングしていたと表現します。
律令じゃねえぞ、俺がルールだって言ってんすね。
深井さんは、頼朝が朝廷から独立させない路線を守りつつ、後白河法皇を直接聞いてしまう御家人を厳しく罰したと説明します。朝廷に部下を奪われないためのこのバランス感覚が、頼朝の非凡さだといいます。
律令制を基盤とし、朝廷の枠組みの中で権力を運営する
律令制にない強い私的主従関係。朝廷から独立させず地方で作った新組織
なぜ頼朝だけが両者の気持ちを分かったのか
深井さんは、頼朝のバランス感覚の源泉を20年の流人生活に求めます。関東の武者たちの挙動を長年理解できたことが、後の政治判断に生きたといいます。
関東の武士は軍事力を持っていましたが、日本では朝廷とのパイプ役ができない限り権力を握れませんでした。この両方をこなせたのが頼朝だけだったというのが、深井さんの見立てです。
どっちの気持ちもわかるんです。朝廷の気持ちもわかるし、坂東武者の気持ちもわかる。
楊さんは、何度も死にかけて助けられた経験も、究極的な合理判断だけでは人心がついてこないと頼朝が理解した背景にあるのではと語ります。次回は、ライバルの木曾義仲、そして平家との決着が待っています。
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まとめ
この回は、流人だった源頼朝が坂東武者に担がれて挙兵し、上洛より坂東を選ぶ大決断を経て鎌倉殿へと駆け上がる過程を描きました。頼朝の非凡さは、朝廷と坂東武者のどちらの気持ちも理解できるバランス感覚にありました。
- 治承・寿永の乱は源氏対平氏ではなく、在地領主が権益を守るために中央政府と戦った構図に近い
- 坂東武者は既得権益を守るため、源氏の貴種である頼朝を担いで挙兵した
- 頼朝は石橋山の敗戦や梶原景時の見逃しなど、何度も死にかけながら生き残った
- 上洛を望む頼朝は、坂東武者の反対を受けて鎌倉に戻る決断を下した
- 頼朝は土地を守る代わりに主従関係を強いる、律令制にない新しい組織を作り上げた







