迫害の最初の転換点、ニュルンベルク人種法とは?
シンドラー編第2回は、ドイツ国内のユダヤ人の扱いを語った前回の続きです。楊さんによると、ナチス政権の初期に国外へ出たユダヤ人は全体の4分の1ほどで、残りの4分の3はドイツに残っていました。
その人たちの多くは最初、いや、こんなの一時的なものに過ぎないだろうっていう風に、まあ楽観的に実は思ってたんだよね。
ところが実際の状況は最悪の事態まで進みます。楊さんは、そこに至るまでに大きく3つの転換点があるとして、順に紹介していきます。
1つ目の転換点は、1935年9月に公布されたニュルンベルク人種法 ── 1935年に制定されたナチス・ドイツの法律群。ドイツ人の血を引く者だけを国公民とし、ユダヤ人との結婚や性交渉を禁じましたです。ヒトラーの主導で急いで作られた法律で、ドイツ国公民になれるのはドイツ人の血を引く人だけに限定されました。
ニュルンベルク人種法では、ユダヤ人と非ユダヤ人の婚姻や性交渉も処罰の対象になりました。楊さんは、宗教ではなく「人種」を根拠にしている点が、昔からの反ユダヤ主義とは違う近代的な反ユダヤ主義だと説明します。
本来フランス革命以後の感覚では人間には人権っていうのがあるんだけれども、最終的にこれ(人種法)がやっぱり人権がなくなっていくっていう、まあ初手になっちゃうわけですね。
法的に保護されない対象だから何してもいいっていう。
ガラスが輝いた夜、クリスタル・ナハトで何が起きたか
2つ目の転換点は、1938年11月9日から10日未明にかけて起きた水晶の夜 ── ドイツ語でクリスタル・ナハト。1938年11月にドイツ各地で起きたユダヤ人に対する大規模な襲撃事件です事件です。きっかけは、その2日前にパリでドイツ人外交官エルンスト・エドゥアルト・フォム・ラートがポーランド系ユダヤ人の青年に銃撃され、2日後に亡くなったことでした。
この事件を受けて、ヒトラーとゲッベルス ── ナチス・ドイツの宣伝大臣。プロパガンダを担い、ヒトラーの側近として知られますはミュンヘンに集まったナチ党員に向けて、抽象的な言い回しながら復讐を促す発言をしたといいます。
だから好き勝手復讐しろって命令してる状態なんですよ。
水晶の夜には、突撃隊(SA)やナチ党員がユダヤ人の商店を略奪し、家屋を壊し、ユダヤ教の会堂であるシナゴーグに放火しました。90人を超えるユダヤ人が殺害され、3万人が身柄を拘束されたと紹介されています。
「水晶の夜」という名前は、割られた商店のガラスがその夜キラキラと光っていたことに由来するそうです。ガラスの損失額だけで90億円ほどにのぼったといいます。
楊さんは、水晶の夜事件を、ユダヤ人から財産を奪う決定的な転換点だったと説明します。この後、企業や工場の経営権が剥奪され、土地や有価証券がただ同然で売却させられるなど、所有権の侵害が一気に進みました。
深井さんは、財産を奪われるユダヤ人がいる一方で、そこから利益を得る人々が現れた点を指摘します。奪われた工場に群がる人々だけでなく、所有権をドイツ人に移すための不動産鑑定士や弁護士の仕事も生まれ、迫害が新しいマーケットを作ってしまったというのです。
命まで奪われる第3段階と、残った人々の楽観
3つ目の転換点は、1941年ごろに始まった収容所への移送です。水晶の夜から約3年後のことで、楊さんはここからがいわゆるホロコースト ── ナチス・ドイツによるユダヤ人などの組織的な大量虐殺を指す言葉ですだと説明します。
楊さんは3つの転換点を、国民としての権利、財産、そして命が順に奪われていく流れとして整理しています。この後に紹介する救済者と迫害者のエピソードを理解するための前提になる、と位置づけています。
それでも、ドイツに残ったユダヤ人の多くは当初、状況を楽観的に見ていました。楊さんによれば、その楽観には根拠がありました。ユダヤ人は自分をドイツ人だと考えており、第一次世界大戦でもドイツ人として命をかけて戦っていたからです。
自分たちは真面目に生活し、ドイツの発展にも尽くしてきたっていう自負もあるわけ。
もっと悪くなると考えた人や、その時点の状況にすら耐えられない人は出国しました。一方、残った人の多くは「今は悪いけれど、これからは良くなるだろう」と考えていたと、多くの本に書かれているそうです。
ナチスとシオニストはなぜ手を組んだのか?
初期に国外へ脱出できたユダヤ人の主なルートの一つが、パレスチナでした。当時、パレスチナにユダヤ人の国を作ろうとするシオニズム ── パレスチナにユダヤ人の国家を建設しようとする運動。19世紀末から本格化しましたの動きがあり、その推進者はシオニストと呼ばれていました。
番組では、このシオニストとナチス・ドイツが実は手を結んでいたと紹介されます。ナチス・ドイツはユダヤ人に早く出て行ってほしく、シオニストは国づくりのためにとにかく移住者が欲しかったため、両者の利害が一致したのです。
ただしナチス・ドイツは、ユダヤ人の財産はドイツに残してほしいと考えていました。そこで作られた枠組みは、ユダヤ人が自分のお金でドイツ国内の製品を買い、それをパレスチナへ送るというものでした。
出国するユダヤ人
自分の財産でドイツ国内の製品を購入する
ドイツ側
自国製品の輸出というビジネスが生まれる
シオニスト側
インフラや灌漑施設、農業機械などを手に入れる
なぜ残り、なぜ出られなくなったのか?
深井さんは、4分の1ほどのユダヤ人が出国したなかで、残った人々がなぜ残ったのかという疑問を投げかけます。楊さんの答えの1つは、先祖代々住んできた土地を離れること自体が大きな決断だったという点です。
楊さんはもう1つの理由として、受け入れ先の問題を挙げます。新しい法律が制定されるたびに出国を望む人は増えましたが、出ていきたい人が多すぎて難民化し、受け入れてくれる国がなくなっていったのです。
どこの国も今の世界もそうなんですよ。難民って基本的に受け入れたくないんですね。
最初にパレスチナへ渡ったユダヤ人は比較的裕福な人々でした。ナチスによる財産の剥ぎ取りが激しくなるにつれ、財産のない状態での国外脱出はどんどん難しくなっていきます。
楊さんは、1938年ごろのユダヤ人の日記を紹介します。そこには、逃れられる人はとっくにアメリカやボリビア、スマトラへ脱出しており、財産の75%を失うだけで済んだ人に幸あれ、と書かれていました。75%とは、出国時にナチスに没収される割合のことです。
日記にはさらに、お金ならまた稼げるし、財産を失う苦しみは乗り越えられるとも書かれていたそうです。楊さんは、この時期にはすでに、出たいと思っても出られない状態になっていたと読み解きます。
深井さんは、当時は大恐慌の影響で他の国々も経済が悪く、失業率が高かったと補足します。難民を助けるお金も、働き口もなかったのです。さらに水晶の夜の翌年に第二次世界大戦が始まると、国境は封鎖され、脱出の道はほぼ閉ざされました。
法律の段階的な制定
出国を望む人が増え、難民化する
財産の剥奪
財産がないと国外脱出ができなくなる
大恐慌と失業
各国に難民を受け入れる余裕がない
第二次世界大戦
国境が封鎖され、脱出の道が閉ざされる
出たいと思った時にはもう遅かったってやつだよね。
国外追放から絶滅収容所へ、方針が変わった理由
楊さんによると、アインシュタインやハンナ・アーレント ── ドイツ出身のユダヤ系政治哲学者。ナチス政権下で亡命し、のちに全体主義や『エルサレムのアイヒマン』で知られますのように早めに国外へ出た人もいました。一方で、絶滅収容所が決まる頃には、ナチスはユダヤ人の国外移住を禁止し始めていました。
ナチスは当初、ユダヤ人を大量に国外へ送り出す戦略をとっていたといいます。しかし戦争が始まると、海軍の強いイギリスに制海権を握られ、海路での移送ができなくなりました。ドイツ国内にも、新たに占領した地域にも、大量のユダヤ人が残されたのです。
この「ユダヤ人問題」をどう解決するかを話し合ったヴァンゼー会議 ── 1942年1月にベルリン郊外のヴァンゼーで開かれたナチス高官の会議。ユダヤ人問題の「最終解決」の実施について協議されましたで決まったのが、絶滅収容所だったと楊さんは説明します。
要はユダヤ人というものを排除するって決めたのもドイツやし、それで困ったのもドイツなんですね。
そうした状況のなかでも、ユダヤ人を助ける人々が現れました。第二次世界大戦はドイツとソ連がポーランドに侵攻して始まり、ナチスに占領されたポーランドにも多くのユダヤ人がいました。ドイツでもポーランドでも、迫害されるユダヤ人を助けた人々がいたのです。
ユダヤ人を助けたのはどんな人々だったのか
番組では、ナチス・ドイツで1万2000人ものユダヤ人が地下に潜って隠れていたという推測も紹介されます。自分たちだけで隠れることはできないため、必ず支援者がいたはずで、その数もそれなりにのぼったのではないかという研究もあるそうです。
全然マイノリティだけど、でもゼロ人じゃなかったってことだよね。
ユダヤ人を助けた人々は、特定の信仰や政治信条で特徴づけることができないといいます。大多数は普通のドイツ人で、庶民も上層階級もいました。労働者、教授、農民、修道院の人、外交官、警察官、サーカスの団長、娼婦まで含まれていたと紹介されています。
救済者のなかには、反ナチの抵抗運動として助けた人々もいれば、キリスト教やイスラム教の宗教者もいました。無償で助けた人もいれば、謝礼や性的な見返りを求めた人もいたといいます。
| タイプ | きっかけ | 例 |
|---|---|---|
| 体制への反対 | もともとナチス体制に反対している | 抵抗運動をしていた人々 |
| 状況に応じた自発的救済 | 目の前の迫害を見て、その場で助けようと決める | 見るに堪えない迫害に直面した人 |
| 求めに応じた救済 | ユダヤ人から助けを求められて応える | 知人・友人、商売のお得意様から頼まれた人 |
匿う、偽造する、逃がす。具体的な助け方
救済の方法としてまず挙げられるのは、ユダヤ人を匿うことです。自宅の地下室や屋根部屋、小屋、修道院、隠し部屋などが使われ、アンネ・フランクの家族も隠し部屋に隠れていました。
もう1つの方法が、偽の証明書を用意することです。ユダヤ人は身分証明書を持たなければならず、それを見せればユダヤ人だとわかってしまうため、ドイツ人であるという偽の身分証明書が求められました。
具体的には、キリスト教会が偽の洗礼証明書を発行したり、地下組織が身分証明書を偽造したりしました。他国の外交官が本国の指示に反してビザを発行した例もあり、シリーズで紹介予定の杉原千畝 ── 第二次世界大戦中、リトアニアで日本政府の指示に反してユダヤ人難民にビザを発給した日本の外交官ですはこのタイプにあたると説明されています。
ほかにも、危険な場所から安全な場所へ逃がすことや、相手がユダヤ人だと気づいても知らないふりをすることも、救済行為として挙げられています。
ゲシュタポの気分次第という、計算できないリスク
番組では、この状況下でユダヤ人を助けることは「スーパーハイリスク」だったと強調されます。違法行為であるうえに、処罰は法律ではなくゲシュタポ ── ナチス・ドイツの秘密国家警察。反体制派やユダヤ人の摘発を担い、恐怖支配の中核となりましたの判断に委ねられていたため、リスクを計算することができなかったのです。
だから本当に何にもないところから死ぬまで、もうゲシュタポの気持ち次第みたいなところがあったんですよね。
さらに、戦争がいつ終わるかわからず、いつまで匿えばいいのかというゴールが見えませんでした。ユダヤ人を助けることは、それまでの暮らしを捨てて未知の状況に入ることを意味していたといいます。
救済者は、友人や家族、近所の人から密告される危険に常にさらされ、誰に秘密を打ち明けるかにも神経を使いました。匿ったユダヤ人の生存に完全に責任を負い、食料を集めるために一日中駆け回らなければなりませんでした。
食料を買い込みすぎると「何人分も買っている、誰かを匿っているのでは」と怪しまれ、密告された例もあったそうです。楊さんは、密告する側にはインセンティブがあり、足音の多さでさえ密告される密告社会が形成されていたと語ります。
もしナチスが世界大戦に勝ったら、じゃあいつまでこれ続けないといけないんだろうってなるわけじゃないですか。
戦後、多くの救済者は、無限に続く幻滅と不安の日々に恐ろしいほど疲れ果てていたと証言しているそうです。匿う側にも匿われる側にも楽しいことはなく、それでも彼らは助けることを選びました。
次回の第3話では、ある1つのユダヤ人家族の視点から、これまでの段階的な迫害が実際にどう展開したかが紹介される予定です。樋口さんは、ユダヤ人だけでなく助ける側も相当な覚悟と不安の中にいたはずだと、話の重さを受け止めていました。
ユダヤ人側ももちろんですが、それを助ける側もなんか相当な覚悟と不安の中でやってったんやろなってすげえ想像しちゃうから、うわってなりますけども。
まとめ
シンドラー編第2回では、ユダヤ人の権利・財産・命が3つの段階を経て奪われていったことと、脱出の道が閉ざされていった背景が語られました。そのうえで、あらゆる階層の人々が、計算できないリスクを負いながらユダヤ人を助けた実像が紹介されています。
- 迫害はニュルンベルク人種法、水晶の夜、収容所への移送という3段階で、権利・財産・命の順に深刻化した
- 初期のパレスチナへの脱出には、ナチスとシオニストの利害の一致があった
- 難民の受け入れ拒否や大恐慌、戦争によって、ユダヤ人は出たくても出られなくなった
- 救済者は特定の信条では括れない普通の人々で、匿う・偽造する・逃がすなど多様な方法で助けた
- 救済はゲシュタポの気分次第で処罰が決まり、密告の危険と終わりの見えない不安を伴う行為だった





