なぜポーランドにはユダヤ人が多かったのか
シンドラー編の前2回では、ドイツ国内でユダヤ人への迫害が強まっていく過程を見てきました。樋口さんはこの時点で「結構重いですね」と口にし、深井さんも「人類史上一番重い方の題材」だと応じています。
深井さんによると、この後に登場するシンドラーがユダヤ人を救った場所はポーランドです。そこで今回は、ポーランドのユダヤ人がどんな感覚で暮らしていたのかを、1人の人物の体験記録を通して紹介するという方針が示されます。
その前提として、深井さんはポーランドにユダヤ人が多かった理由を説明します。話の出発点は、14世紀末のポーランド王カジミエシュ三世 ── 中世ポーランドの国王。「大王」とも呼ばれ、ユダヤ人の保護や法整備でも知られます。在位は一般に14世紀中頃とされますに息子がいなかったことでした。
カジミエシュ三世の娘には、リトアニアから入り婿が迎えられました。深井さんの説明では、リトアニアはギリシャ正教、ポーランドはカトリックで、当時の感覚ではまったく違う宗教の人を呼んできたようなものだったといいます。
中世ヨーロッパの国々っていうのは、宗教と政治がめっちゃ密接に関わってんだけど、ポーランドではなんと政教分離が起こんだよね、ここで。
深井さんによれば、この政教分離によってユダヤ教も認められるようになりました。迫害されない土地だという評判が広がり、ユダヤ人がポーランドに集まってきたとされます。
王に息子がいない
カジミエシュ三世の娘に、リトアニアから入り婿を迎える
宗教の違い
カトリックのポーランドに、ギリシャ正教の勢力が加わる
政教分離
宗教と政治を切り離さざるを得なくなり、ユダヤ教もOKになる
ユダヤ人の流入
ヨーロッパのユダヤ人人口の3分の1がポーランドにいる状態になる
こうしてもともとユダヤ人が多かったポーランドに、やがてドイツが侵攻し、ナチスの支配下で迫害が始まります。深井さんは、その過程をシンドラーに救われたレオン・レイソンの手記から紹介していきます。
ナレフカ村の少年レオン、どんな家族に育った?
レオン・レイソンは1929年、ポーランド北東部、現在のベラルーシとの国境に近いビャウィストク ── ポーランド北東部の都市。第二次世界大戦前はユダヤ人の人口比率が高い街として知られていました近郊のナレフカという村に生まれました。深井さんは、戦争が始まった頃に10歳ぐらいだった人だと説明しています。
レオンの家族は両親と5人兄弟で、先祖代々200年以上ナレフカに住んできました。長男ヘルシェル、次男ツァリグ、姉ベシャ、三男ダヴィドに続く末っ子が、手記を残したレオンです。
深井さんは、この話の出典が『シンドラーに救われた少年』という1冊の本だけだと断ったうえで、ユダヤ人側の体験記として非常に貴重な資料だと紹介します。
(この手記は)感覚的なところがすごいわかるから、聞いてる人は多分しんどいと思うんだけど、ここにシンドラーが出てくる価値みたいなのもすごいよくわかるから、それ紹介するね。
平和な時代のレオンの母親は、5人の子どもの世話でいつも忙しくしながらも、愛情を惜しみなく注ぐ人だったといいます。一緒に歌ったり、宿題をやったか毎回確かめたりしていたそうです。
レオンの記憶に強く残っているのは、ある日母親が自分のためだけにスクランブルエッグを作り、「いい子だから特別よ」と言ってくれた場面でした。樋口さんは、末っ子として母親の注目を集めるのが嬉しかったのだろうと話しています。
レオンの父親は、家業の鍛冶屋よりも工場で働くほうが将来性があると考え、結婚後すぐに手吹きガラス瓶を作る小さな工場で見習いとして働き始めました。
父親の勤めるガラス瓶工場は繁盛し、ナレフカから560kmも離れた大都市クラクフへ移転することになります。父親は数人しかいない同行者に選ばれ、若者が生まれた土地を離れるのは珍しいと、村中が大騒ぎになったそうです。
家族全員でいきなり移るにはお金も足りず、生活も変わりすぎるため、まず父親が単身でクラクフへ行きました。節約して家を見つけ、後から家族を呼び寄せる計画でした。
父親が帰ってくるのは年に2回ほどでした。普段は質素な食事の家に、父親がいるときだけごちそうが並んだことを、レオンは覚えていたといいます。
(食事の場で)お父さんが大都会の生活について語るんだよね。路面電車が走ってたよとか、室内にトイレがあるんだよとか。それを子供たちが目を輝かせながら聞くみたいな。めっちゃいい風景やん。
テレビも写真もほとんどない時代に、レオンはキャンディーの箱に描かれたクラクフの街並みを眺め、いつか自分も行けるのだと楽しみにしていました。村では夏に池へ飛び込み、冬は次男ツァリグにくず鉄で作ってもらったスケート靴で凍った川を滑って遊んでいたそうです。
平和なクラクフへの移住、少年は何に驚いた?
ナレフカ村には1000人ほどのユダヤ人が住んでいました。レオンは母方の祖父母に連れられてユダヤ教の聖堂であるシナゴーグ ── ユダヤ教の礼拝や学びの場となる会堂。地域のユダヤ人共同体の中心でもありましたに通い、ユダヤ人であることに誇りを持って暮らしていたといいます。
深井さんによれば、村ではキリスト教徒とユダヤ教徒が基本的に調和して暮らしていました。ただし、イースター前の受難の週だけは「キリスト殺し」と言われて石を投げつけられることがあったそうです。
逆に1年間のうちの数日だけはそういう風にされてて、それ以外の時は基本的には調和して暮らしているっていう状態だったと。
1938年の春、父親は5年ほどかけて貯めたお金で、ついに家族をクラクフに呼び寄せます。レオンにとって、身なりをビシッと整えた誇り高い父親は自慢の存在でした。
クラクフへ向かう鉄道では、すべての景色が輝いて見えたとレオンは書いています。都会で一番驚いたのは、家の中に水洗トイレやバスルームがあることでした。
その電気以上にすごい驚いたのは、冬でもめちゃくちゃ寒い外のトイレに行かなくていいみたいなのが、マジで都会ってすげえんだなと思ったと。
手記には、キャンディーの箱に描かれていた場所よりも本物のほうがはるかに素晴らしかったと書かれていたそうです。レオンはデパートのショーウィンドーを眺め、新しい友達と路面電車に無賃乗車する遊びに夢中になりました。
楊さんによれば、クラクフでできた新しい友達も、レオンがユダヤ人であることを特に気にしていなかったといいます。
ナレフカ村。質素な食事、屋外のトイレ、川遊びやくず鉄のスケート靴
大都市クラクフ。家の中の水洗トイレ、デパートのショーウィンドー、路面電車
ドイツの迫害のニュースは、どう伝わってきたのか
レオンの一家がクラクフで新生活を始めた1938年、隣国ドイツではヒトラー政権がユダヤ人を迫害しているというニュースがすでに届いていました。深井さんは、この年がユダヤ人迫害の加速していく時期だったと説明しています。
クラクフのユダヤ人は動揺を感じながらも、当初は新しい生活に忙殺されていました。しかし、新聞もラジオもドイツとヒトラーの話であふれるようになり、不安は無視できないものになっていきます。
ヒトラーはさ、この時はさ、第一次世界大戦の敗北はユダヤ人のせいだ、不況の原因はユダヤ人のせいだって、もうあらゆるところで言ってるからね。
ドイツはオーストリアを併合し、さらにチェコスロバキアのズデーテン地方を割譲させていました。深井さんによると、ドイツに入った土地のユダヤ人の扱いが悪くなっていく様子を、ポーランドのユダヤ人は不安とともに見ていたといいます。
決定的な衝撃になったのは、ヒトラーの命令で、ドイツにいた1万7000人に上るポーランド出身のユダヤ人が追放された出来事でした。少し前まで同じ立場だった人々が国外に出されるのを見て、レオンの家族も怖くなり、その話をするようになります。
不安がる末っ子のレオンに対して、両親は「大丈夫だよ、そのうち落ち着くから」とのんきを装って言い聞かせたそうです。深井さんは、この場面に体験記ならではのリアリズムを感じたと話します。
前の回でさ、ユダヤ人が楽観的に捉えていたって言ってたじゃん。あれは末っ子とかが不安がってる時に(親として)なんか言えないよね。
だから楽観的に捉えていたとも言えるし、捉えようとせざるを得なかったとも言えるし。
深井さんは、5年かけて貯金してようやくナレフカ村を出た家族にとって、ポーランドを捨ててさらに遠くへ移るのは凄まじいコストだったと指摘します。良くなると思いたくなるのは自然な心理だというのが、深井さんと楊さんの見立てです。
我々が今住んでる近くで、仮にだよ、仮に戦争が起きた時に、ああ、そんなにひどくならんよっていう感覚になる。
クリスタルナハトからドイツ侵攻へ
1938年11月には、以前の回で紹介されたクリスタルナハト ── 1938年11月にドイツ各地で起きたユダヤ人への大規模な襲撃事件。割れたガラスが散乱した様子から「水晶の夜」と呼ばれますが起こります。ドイツとオーストリアでシナゴーグが焼き打ちにあい、ユダヤ人が100人近く殺されました。
レオンはこのとき、生まれて初めて心底恐怖を感じたと書いています。父親に何度なだめられても怖かったそうで、学校でも街でも、どこでもその話がされていたといいます。
1939年の夏には、クラクフの人々が本気で戦争に備え始めます。窓ガラスにテープをX字に貼り、食料を備蓄し、地下室を防空壕に改築していました。
不安を抱えたレオンは、電気関係の技術を持つ次男ツァリグにべったりついて回ります。ツァリグには地下室や防空壕に電気を引いてほしいという依頼が多く届き、レオンは工事にもついて行って、歩き方までそっくりになるほど兄の真似をしたそうです。
1939年9月1日の夜明け前、レオンは空襲警報で飛び起きます。居間では両親がすでにラジオに聞き入っていました。騎兵隊が中心のポーランド軍は、近代的なドイツの戦車隊にまったく太刀打ちできなかったと深井さんは説明します。
ドイツとソ連がそれぞれポーランドが欲しくて、勝手に約束して、勝手にお互い、東半分と西半分はどっちが取るみたいなこと言って。
空襲警報から5日後には、ドイツ軍がすでにクラクフに到着していたといいます。
ナチス支配下のクラクフで、友達はなぜ離れていった?
ナチスがクラクフで支配力を強めると、まず街のあちこちに、汚い身なりで大きな鉤鼻のユダヤ人をグロテスクに描いたポスターが貼られました。
9歳か10歳だったレオンには、そのポスターがさっぱり理解できなかったといいます。母親はいつも洗濯して清潔を保っていたし、家族に大きな鉤鼻の人もいなかったからです。
現実はどうでもよかったんだよね。単にもう想像上の悪者を作り出すっていうニーズがナチス側にあったということだな。
日常生活の制約も増えていきます。深井さんが紹介した手記の内容では、ユダヤ人への制限は段階的に強まっていきました。
レオンにとって特につらかったのは、一緒に路面電車で遊んでいた友達が自分を無視し始めたことでした。近づくと小さな声で不快な言葉を返され、「お前と遊んでるところを見られるのが嫌なんだよ」と言われたそうです。
見た目でわかる正統派のユダヤ教徒は、ナチスの兵士に捕まって殴られ、あごひげやもみあげを切られました。深井さんは、この混乱に乗じてユダヤ人の家に押し入り、金目のものを奪うポーランド人も現れたと説明しています。
誇り高い父が連れ去られた日、何が壊れたのか
ポーランド人の強盗は、実際にレオンの家にもやってきました。父親は上の階に住む別のユダヤ人家族の家の鍵を持っていて、それを最後まで渡さなかったといいます。
強盗たちはそのことをゲシュタポに密告しました。やってきたゲシュタポの隊員2人は、家族の目の前で父親を罵倒し、皿を割り、家具をひっくり返し、現金や宝石のありかを言えと迫ります。
父親が職場の知人にいるナチスの上官に言いつけると口にすると、ゲシュタポの隊員は逆上し、父親を殴って床に倒し、首を絞めつけました。レオンは後に、父親はそう言わないほうが良かったと振り返っています。
レオン少年からするとさ、お父さんって誇り高い人なんだよね。なんかそれがね、踏みにじられた感じだっていう、そこがきつかったっす。
深井さんは、息子の目線だけでなく、家族の前で何もできずに連れ去られた父親自身のつらさにも触れています。父親のクラクフの銀行口座の預金はナチスにすべて没収され、手元にはほとんどお金が残りませんでした。
まだクラクフに慣れず、ナレフカ村に戻りたいと思っていた母親は、この状況で取り乱します。どうやって子どもたちを食べさせればいいのかと叫び、体を震わせていたといいます。
末っ子のレオンは、この時自分が家族の頼りになろうと思ったそうです。楊さんは「救いをどこに求めていいかわかんない」と絶望を口にし、深井さんは最後にはシンドラーが救ってくれると前置きしています。
ソーダ1本の仕事と、変わり果てた父の帰宅
父親が連れ去られた後、レオンは学校にも来てはいけないと言われます。兄と一緒に学校へ行けなくなったレオンは仕事を探しますが、ユダヤ人の子ども全員が同時に仕事を探していたため、なかなか見つかりませんでした。
ようやく見つかったのは、飲料工場でラベルを張り替える仕事でした。1日働いてもらえるのはソーダ1本で、それを持ち帰って家族で分け合って飲んでいたといいます。
いやなんそれ。
ある日の午後、仕事の帰り道で、レオンは父親を連れて行ったゲシュタポの隊員を見つけます。必死で追いかけて父親の居場所を尋ねると、なぜか教えてもらえたそうです。レオンは後に、何をされるかわからない危ない行動だったと振り返っています。
父親は、刑務所として使われていた聖ミカエル教会に入れられていました。生きているとわかって安心したレオンのもとに、数週間後、父親は釈放されて帰ってきます。
けれども、帰ってきた父親は自尊心を奪われ、目が死んだようになっていたそうです。レオンは、父親が変わってしまったことにまたショックを受けます。
これ一事例だけどね。もっとひどい人はもっとひどいだろうしね。それで死んじゃってる人もたくさんいるからさ。
禁止事項は毎日のように増え、12歳以上のユダヤ人には腕章が義務づけられました。まだ12歳になっていなかったレオンは、見た目もユダヤ人らしくなかったため、非ユダヤ系のポーランド人として振る舞いながら動いていたといいます。
戦争が終わっても、なぜ迫害は続いたのか
楊さんはここで、ポーランドでのユダヤ人迫害の根が深く、1945年の終戦後も続いたことを補足します。強制収容所を生き延びたユダヤ人たちは、徒歩や列車で故郷の街に戻ってきましたが、歓迎されませんでした。
楊さんが紹介した例では、収容所から故郷の村に戻ったあるユダヤ人が、駅に着くなり、戦前から知っていた村のアイスクリーム屋の息子に罵声を浴びせられています。
(その男に)まだそんなにたくさん生きていたのか。なぜナチスはみんな殺してしまわなかったのかみたいなことを戦後に言われるっていう。
帰還したユダヤ人は「なぜ戻ってきた」「街から出て行かないとひどい目に遭うぞ」と脅され、戦後のポーランドでも実際に殺された人がいたといいます。
楊さんは、歓迎されなかったもう1つの理由として、ユダヤ人が持っていた家にポーランドの市民がそのまま住んでいたことを挙げます。ユダヤ人抜きの新しい日常がすでに成立していて、家の返還をめぐる経済的な対立もあったという説明です。
金庫を開けた父と、ナチ党員の工場主
レオンの話に戻ると、釈放された父親は連行されていた間に職を失っていました。父親はナチスに逆らう形で、ガラス工場でこっそり働き始めます。
そのガラス工場の向かいには、ホーロー ── 金属の表面にガラス質の釉薬を焼き付けたもの。食器や鍋などに使われ、エナメルとも呼ばれますの工場がありました。深井さんによれば、もとはユダヤ人が所有していた工場が倒産し、ドイツ人が二束三文で買い取って、ナチ党員の新しい工場主が経営し直していたといいます。
ある日、父親はその向かいの工場に呼ばれ、金庫を開けてほしいと頼まれます。父親が適切な道具で手早く金庫を開けると、工場主は驚き、自分のところで働かないかと誘いました。
当時のユダヤ系ポーランド人は、働いても賃金をもらえず、その分はドイツ政府に入っていたと深井さんは説明します。それでもナチ党員の工場で働いていれば、街でゲシュタポに捕まったときに身を守る言い分になりやすかったといいます。
いや僕はナチのところで働いてるんで、無下にしないでくださいって言いやすくなるじゃん。
父親がどういう考えでその誘いを快諾したのかは、レオン自身にもわからないと手記に書かれていたそうです。父親はその場で即座にOKと答えました。
その場で即座にOKって言ったらしいんですけど、このナチ党員がオスカー・シンドラーなんですよ。
え?急に出てきた。急に出てきた。
深井さんは、亡くなる家族も出るものの、この出会いによってレオンの一家が救われると明かします。次回以降は、オスカー・シンドラー ── ドイツの実業家でナチ党員。第二次世界大戦中、自らの工場で雇ったユダヤ人を多数救ったことで知られ、映画『シンドラーのリスト』の題材となりましたの人生をたどりながら、レオンの家族のその後も伝えていく予定です。
平和な日常から語り始めた理由とは?
楊さんは、シンドラーの登場がドラマティックすぎて驚いたと話し、序盤がほのぼのとしていたぶん、後半の話が重く響いたと振り返ります。
映画とか見るとさ、ひどいところから始まるじゃん。だけど平和なところから始まるとさ、余計しんどいんだよね。
深井さんは、その落差こそがリアルであり、だからあえて平和な暮らしから伝えたと説明しています。
ユダヤ人の人権やニュルンベルク人種法の話として語られ、個人の感覚は出てこない
9歳ほどの少年から見て、父親の尊厳がなくなっていく様子が実感として伝わる
楊さんは、この話を聞きながら、尊敬している自分の父親に重ね合わせていたと明かします。深井さんは、逆に自分が父親の立場だったらという見方もあると応じ、レオン少年の体験は自分の家族に置き換えて想像できる歴史として受け止められています。
深井さんは「来させてしまって申し訳ない」と言いつつ、レオンは最終的に助かると改めて伝え、次回からシンドラー本人の話へ移ることを予告して回を締めくくりました。
まとめ
今回のエピソードでは、レオン・レイソンの手記を通して、ポーランドのユダヤ人家族の平和な暮らしが、ドイツの侵攻とナチスの支配によって少しずつ壊されていく過程がたどられました。父親の尊厳が奪われる場面のような個人の体験が、制度の説明だけでは見えない迫害の重さを伝えています。
- ポーランドには、番組の説明では中世の政教分離をきっかけに、ヨーロッパのユダヤ人の3分の1が暮らすようになった
- レオン一家はナレフカ村から大都市クラクフへ移ったが、ドイツの迫害のニュースで不安が強まっても、移住の重さから楽観を選ばざるを得なかった
- ナチス支配下のクラクフでは、差別的なポスター、公園や路面電車の利用禁止、財産の没収、友達の離反が次々に起きた
- 父親の連行と変わり果てた姿は、暴力以上に尊厳の侵害としてレオン少年の記憶に残った
- 父親が金庫を開けたことで、ナチ党員の工場主オスカー・シンドラーとの接点が生まれ、一家の運命が動き出す





