エリザベス・ブラックウェルとは誰か
エリザベス・ブラックウェルは、19世紀にアメリカとイギリスで活躍した女性医師、教育者、社会活動家です。日本ではほとんど知られていない人物ですが、英語圏では「近代における女性医師の先駆者19世紀以前にも医療行為に携わる女性は存在したが、近代西洋医学の正規カリキュラムを修め、学位を取得した女性医師の第一号として歴史に名を残した。」として広く知られています。
彼女が偉人とされる理由は明確です。近代の西洋医学の免許制度19世紀に整備された、医師資格を公的に認定するシステム。それまで医療行為は誰でも行えたが、近代化に伴い専門教育と免許が必要になった。の中で、医学を学び学位を取得した**アメリカ初の女性医師**であり、イギリスでも**医師名簿に登録された最初の女性**だったのです。
「日本語の文献は本当に少ないです。漫画も含めて三冊ぐらいかな。」
さらに彼女は、医師になっただけでなく、後に続く女性たちのための教育の仕組みも残しました。女性医師のロールモデル──つまり、「自分も医師になれる」という可能性を他の女性に想像させる存在──として、歴史に大きな足跡を残したのです。
女性医師が現れるための「三つの条件」
今では当たり前に感じる「女性医師」という存在ですが、19世紀当時、その実現には三つの大きな壁がありました。楊さんはこう説明します。
この三つすべてが、当時の社会規範からは「ありえないこと」でした。女性には「あるべき姿」が定められており、それから外れることは個人の問題ではなく、家族の名誉を傷つける社会問題とみなされたのです。
「三つ目の職業的な壁だけしか想像しなかったけど、それはそうか。」
エリザベスが生きた時代は、これらの規範が徐々に揺らぎ始めた**転換期の最初の方**でした。彼女の挑戦は、この時代の価値観との闘いそのものだったのです。
中産階級のステータスとしての「働かない妻」
なぜ中産階級の女性は外で働いてはいけなかったのでしょうか。その背景には、中産階級産業革命によって生まれた新しい階級。王族・貴族のような既得権益もなく、肉体労働者でもない、実業家・医師・弁護士などの専門職が該当する。自らの努力と才能で富と社会的地位を築いた人々。という新しい階級のアイデンティティがありました。
産業革命によって台頭した中産階級の人々は、自分たちの努力と才能で富を築きました。しかし彼らには、上流階級のような既得権益がありません。そこで彼らは、**ジェンティリティ**──つまり「紳士らしさジェントルマンの語源。上流階級の洗練された生活様式や振る舞いを真似ることで、自らの社会的地位を示そうとした中産階級の価値観。余裕ある優雅な生活、教養の高さ、道徳的な高潔さなどが含まれる。」──を体現することで、労働者階級とも上流階級とも異なる自分たちの地位を示そうとしました。
ところが、ここに矛盾が生まれます。ジェンティリティを体現するには「働かない余裕」が必要ですが、中産階級は働かなければ生活を維持できません。そこで解決策として選ばれたのが、**妻や娘を家庭に置き、優雅な生活を送らせること**でした。
男性:外で働き、稼ぐ
実業家、医師、弁護士など専門職として活躍し、家族を養う
女性:家庭で優雅に過ごす
デパートで爆買い、社交、ピアノ、刺繍など「上流階級らしい」振る舞いをする
家族全体のステータスが維持される
「うちは余裕がある」という印象を社会に示せる
つまり、**妻や娘が働かないこと自体が、中産階級のステータスシンボル**だったのです。逆に言えば、妻が外で働くことは「夫の甲斐性がない」「家族を労働者階級に没落させかねない」とみなされました。
「奥さんを外に出して働かせると、なんか男の甲斐性としてそれどうなん?みたいな。」
女性には、貞節、純潔、従順さ、品格といった美徳が求められました。有名な言葉に「少年は世界のために、少女は客間のために教育される」というものがあり、これは中産階級の共通認識だったといいます。女性は幼い頃から、自分の意見を抑え、家族に従順であることを美徳として教え込まれたのです。
「家庭の天使」と道徳的優越性の矛盾
女性が家庭にいるべき理由は、ステータスだけではありませんでした。もう一つの大きな理由は、**家庭という場を守るのは女性こそがふさわしい**という考え方でした。
なぜ女性が家庭を守るにふさわしいのか。それは、**女性が道徳的により優れている存在**とされたからです。外の世界──つまり資本主義の競争、金銭、誘惑にまみれた俗世──で働く男性に対し、女性は家庭で道徳を回復する役割を担うとされました。
・競争、金銭、誘惑
・罪と汚辱に満ちた俗世
・道徳が毀損される場
・道徳と信仰を回復する場
・癒しと慰めの避難所
・神聖で秩序正しい空間
イギリスでは「家庭の天使19世紀イギリスで理想とされた女性像。家庭を道徳的に清らかな場として維持し、夫や子供に良い影響を与える存在とされた。外で働く夫が俗世で疲弊しても、家に帰れば妻が道徳心を充電してくれるという考え方。」、アメリカでは「共和国の母アメリカ独立後に生まれた女性の理想像。共和国を支える立派な市民を育てることが母親の役割とされた。子育てに「国家づくり」という新しい意味が与えられた。」という理想像が語られました。どちらも、女性は道徳的に優れており、家庭を守り、子供を立派に育てる存在であるべきだという価値観を反映しています。
「夫とか父親が外の世界で活動してても、家に帰れば妻や娘が道徳心とか信仰心を充電してくれると。」
ところが、この「女性は道徳的に優れている」という観念が、思わぬ形で女性の社会進出を正当化する足場になっていきます。
女性は道徳的に優れている → だから家庭にいて家族を守るべき
女性は道徳的に優れている → だからこの仕事もできる、あの場所にも行ける
「女性は純潔で道徳的に優れているから、社会に良い影響を及ぼせる。だったら、この職業もやっていいのでは?」──こうした論理が、女性の社会進出を正当化する**水戸黄門の印籠**のように使われるようになったのです。
楊さんは「弱みだと思ったら強みに転ずる」と表現しましたが、まさにこの矛盾が、エリザベス・ブラックウェルが女性医師という職業を正当化する後ろ盾になっていくのです。
まとめ
今回は、エリザベス・ブラックウェルの人生に入る前に、彼女が生きた19世紀の社会背景を整理しました。中産階級の女性にとって、外で働くこと、高等教育を受けること、医師になることは、すべて社会規範に反する行為でした。
しかし同時に、「女性は道徳的に優れている」という価値観が、皮肉にも女性の社会進出を正当化する武器になり始めていました。エリザベスは、この価値観の転換期に登場し、女性医師という前人未到の道を切り開いていくことになります。
次回は、この「道徳的優越性」がどのように女性たちの立場を高め、風穴を開けていったのかについて掘り下げていきます。エリザベス個人の物語は、そこから始まります。
- エリザベス・ブラックウェルは、近代西洋医学で学位を取得したアメリカ初の女性医師
- 19世紀の中産階級では、女性が外で働くこと自体が家族のステータスを脅かす行為とされた
- 「女性は道徳的に優れている」という価値観が、女性を家庭に縛る一方、社会進出の正当化にも使われた
- エリザベスは、この価値観の転換期に登場し、女性医師という職業を切り開いた
