遺伝学者ドブジャンスキーは優生学の何を批判したのか
前回までは、ダーウィンの進化論から優生学が生まれるまでの流れが語られてきました。今回のエピソードでは、その優生学に対する批判がテーマです。
番組によると、優生学への批判は、優生学が政策化されていた1930年代にすでに存在していました。特に遺伝学者の間で批判が高まっていたといいます。
その代表として紹介されるのが、テオドシウス・ドブジャンスキー ── 帝政ロシア時代のウクライナ出身で、後にアメリカへ渡った遺伝学者。ショウジョウバエを使った研究で知られ、進化生物学の発展に大きく貢献しましたです。ドブジャンスキーはショウジョウバエの研究を通じて、ネオダーウィニズム ── ダーウィンの自然選択説に、遺伝学などで解明された他の進化のメカニズムを組み合わせた総合的な進化の説の発展に貢献した人物です。
番組の説明では、20世紀半ばには自然選択説は揺るぎない地位を築いていました。ただし自然選択説だけでは進化を説明しきれず、他のメカニズムの解明も進んでいたといいます。
ドブジャンスキーの1つ目の批判は、自然界では遺伝的多様性があるのが普通の状態だという指摘です。多様性は生物にとって欠かせない蓄えであり、多様性がなければ生物は進化する能力を失ってしまうとされます。
ヨーロッパやアメリカの優生学者たちは、人間の良さを促進するために「良さ」を人為的に選択すべきだと主張していたが、自然界に唯一の良さなんていうものは存在しないんだっていう話をドブジャンスキーが言ってる。
楊さんは、積極的優生学も消極的優生学も、遺伝子プールの多様性を狭める行為であり、生物界から見れば逆効果ではないかという意見だとまとめています。
2つ目の批判は、突然変異も多様性の一つに過ぎず、良くなる方向に起こるわけでも、人為的に起こせるわけでもないという点です。ショウジョウバエの集団でも、最初から優れた遺伝型は存在しないといいます。
たとえばABC型とCBA型のどちらが生き残るかは、環境と、遺伝子と環境の相互作用で決まります。ある人にとって異常な変異が、別の人にとっては正常な多様性の一部に過ぎないこともあるという話です。
特定の環境に適応できたかできてなかっただけの違いであると。環境もだって多様じゃないですか。
身長を決める遺伝子は1つではない
ドブジャンスキーの3つ目の批判は、身体や精神の特徴と遺伝の関係は予想以上に複雑だという指摘です。優生学者は、知能や身長、美しさ、道徳性といった複雑な表現型 ── 遺伝子の情報と環境が組み合わさった結果として、実際に現れる生物の形や性質のことを選択しようとしていました。
楊さんは、生物学に特別詳しいわけではなく、ダーウィンの流れで勉強した範囲だと断ったうえで、身長が高くなる遺伝子のようなものがあるわけではないと説明します。
楊さんが挙げるのはネズミの例です。毛が急に白いネズミが生まれたとしても、毛を白くする遺伝子があるわけではありません。設計図のどこかが変わり、タンパク質のあり方が変わった結果として、間接的に毛が白くなっていると考えられます。
毛が白くなってる以外のこともめちゃくちゃ起こってるかもしれないし、それにそういうのが一つの遺伝子によって起こってるわけじゃなくて、あらゆる複合的なものが積み重なってそういうことになってる。
番組では、身長の高さは100個以上の遺伝子によって決まっているらしいと紹介されます。美しさや知能も、1つの遺伝子で決まるような単純なものではないという話です。
そのため、道徳性の高い人同士が子どもを産めば道徳性の高い子になる、と考えて生殖に介入しても、実際にはその要因にアクセスも制御もできていないことになります。楊さんは、優生学は「やり方が間違っている」という考え方だとまとめています。
| 批判 | 内容 | 優生学への含意 |
|---|---|---|
| 遺伝的多様性 | 多様性は例外ではなく普通の状態で、進化の蓄えになる | 「良さ」を選ぶと多様性を狭め逆効果になる |
| 突然変異 | 変異の良し悪しは環境との相互作用で決まる | 良い方向に変異をコントロールできない |
| 遺伝の複雑さ | 身長などの形質は多数の遺伝子の複合的な結果 | 生殖への介入で形質を制御できない |
科学者の警鐘はなぜ無視されたのか
ドブジャンスキーは、遺伝理論の過度の単純化に対して道徳的な警告を何度も発していました。しかし強大な政治権力が優生政策を推し進め、その考察は埋もれたまま無視されていったといいます。
楊さんによれば、ドブジャンスキーの主張は科学でした。ところが科学が政治に実装されたとき、科学ではなくなってしまう現象が起きていたといいます。政治の側は、それを科学だと思って使っていました。
なんか一見して普遍性のある科学という衣をまとった、実は人間の想像だったり、社会的な政治的なニーズを満たす一つの挙動でしかないんですよね。
科学者の知見
遺伝学者が優生学の単純化に警鐘を鳴らす
政治への実装
政治権力が優生政策を推し進める
科学のブランド化
政治側は「これは科学だ」と思って使う
警鐘の無視
ドブジャンスキーらの考察が埋もれていく
楊さんは、もっともらしい反論が同時代にありながら無視されていたことこそ学ぶべき点だと話します。同じことが今も別の領域で起きている可能性は高く、今だけ起きていない可能性のほうが低いという見方です。
知能をめぐる科学への批判も出ていました。イタリアの教育家モンテッソーリやスイスの教育者ジャン・ピアジェは知能テストを批判し、アメリカにIQテストを導入したゴダードも、1920年代には自身の主張を取り下げ、環境の影響を認めるようになったと紹介されます。
1930〜40年代の遺伝学や生物学の発展によって、優生学の科学的ロジックは突き崩されていきました。それでもアメリカや日本などでは第二次世界大戦後も強制断種が盛んに行われ、日本で優生保護法が廃止されたのは1996年です。楊さんは、このタイムラグこそ優生学が思想であることを示していると述べます。
ダーウィンの誤読と「絶対的な進歩」という勘違い
番組では、ドブジャンスキーらの批判を踏まえ、優生学はいくつかの段階で複合的に間違っていると整理します。1つ目の間違いは、ダーウィンの進化論を勘違いしていることです。
楊さんによれば、ダーウィンは生物に優劣があるとも、進歩しているとも基本的に言っていません。たまたま環境に適したものが長い時間をかけて変化していくのであり、そこに目的はないという話です。
進歩を語るには、一つの指標が必要になります。しかし歴史を学ぶと、その指標は社会や環境によって変わることがわかります。楊さんは、鎌倉武士団と京都で和歌を詠む人たちでは重要なことが全然違い、チンギス・カンとルソーでも評価されるものが違うと例を挙げます。
絶対性のない指標でしか自分たちを測れないのに、それを絶対的なものと勘違いし、自然界もその絶対性で動いていると信じたこと。楊さんは、絶対性への信奉こそがダーウィン誤読の最たるところだと個人的な見解を示しています。
もしかして古代ギリシャの、例えばプラトンから我々の今の社会を見ると、めっちゃ遅れてるじゃんっていうふうに思うかもしれない。
300年後の人類から見れば、現代のテクノロジーの使い方は愚かに見えるかもしれない、と楊さんは続けます。どの指標でもよいはずなのに、それを絶対視し、その思想を人権侵害に使ってしまうことが、現代における大きな誤りだという整理です。
「劣った人を排除すれば集団は良くなる」の誤り
2つ目の間違いは、劣っている人を排除したり、優秀な人を選抜したりすれば集団を改良できるという考え方です。楊さんは、優生学は目的だけでなくやり方もおかしいと話し、遺伝学の発展でこれは明確に否定されたと説明します。
ただし楊さんは、最近のゲノム解析の進化によって、究極的にはコントロールできるのではという考え方も出てきていると指摘します。その場合、やり方の誤りという点は否定されるかもしれません。
だけど、我々今複合的に間違ってるって話をしてるので、そこで(優生学が)リバイバルされたくないなとは思ってますけどね。
さらに優生学は、社会問題を遺伝の問題にすり替えることが多いといいます。楊さんはこれをメディカリゼーション ── 本来は社会的な問題を、医療や病気の問題として捉え直してしまうこと。医療化とも訳されますと呼び、黒人のIQが低いという話を生まれつきの遺伝の問題として捉えるような例を挙げています。
社会ダーウィニズムが隠した「本音」
3つ目の間違いは、優生学を生んだ社会ダーウィニズムが科学ではなく思想だったことです。生物学から社会科学へ安易なアナロジーを持ち込み、検証が適当なまま「科学っぽい」とみんなが受け入れ、政治家まで採用してしまったといいます。
国として、民族として、ちょっとなんか一歩アップデートしたいっていうニーズのもとに、いろんな学説が切り貼りされて、それに利用されたっていう流れです。
楊さんは、経済競争や戦争に勝てる国を作りたい、福祉国家の財源を特定の人に渡したくない、といった本音があったと説明します。社会ダーウィニズムは、その本音を隠してもっともらしいことを言える状態を作ってしまいました。
一方で、社会ダーウィニズムを唱えた学者や政治家は、本当に社会を良くしようと思ってやっていたとも語られます。深井さんは、これは意図せずやっていることだろうと応じます。
それでポーンってこういう何か都合がいいロジックが出てきたら、はい、これも使えるってパンって話しちゃう。これはね、マジでこう意図せず無意識にやってると思う。
深井さんは、会社経営でも「こうしたい」が先にあって理由を探すことがあると自分に引きつけて話します。楊さんも、バイアスのない人間はいないとして、確証バイアスの問題として受け止めています。
| 誤り | 内容 | 具体例 |
|---|---|---|
| ダーウィンの誤読 | 進化に優劣や進歩、目的があると考えた | 指標を絶対視して人を評価する |
| コントロールの誤り | 排除や選抜で集団を改良できると考えた | 社会問題を遺伝の問題にすり替える |
| 思想を科学と偽った | 社会ダーウィニズムという思想を科学として扱った | 国家のニーズという本音を隠す |
そもそも人権を無視している
楊さんは、本当は最初に言うべきこととして、優生学は人権のある人の人権を無視していると付け加えます。人権の概念以降の社会では、これで全部が説明されるはずだという見方です。
それでも複数の理由を並べたのは、人権の概念があるにもかかわらず優生学的な意見が存在してきたからです。これらの複数の要因によって、優生学は現在否定されていると整理されます。
しかし楊さんは、数年前に起きた障害者施設での大量殺人事件で、犯人の主張がすごく優生学的だったことに触れます。深井さんは、それを支持するような意見も少なからず見かけたといい、思っていても表向きは言えないという状況がまだあるのではと話します。
楊さんは、優生学のどこが論理的に間違っているのかを言えないことが問題かもしれないとし、間違いを説明できる論理を持っておくことの大切さを語っています。
出生前診断は現代の優生学なのか
後半では、現代の優生学として取りざたされる問題として出生前診断が取り上げられます。深井さんは「スーパーデリケートな問題」と受け止めています。
楊さんは、出生前診断は優生学だけの考え方ではなく、世間体や育てる側の負担など複合的な要因があるとしつつ、優生学的な発想もゼロではないと話します。超音波検査や、母体から羊水や血液を取る検査で、心臓の異常や染色体の異常などがわかるようになりました。
命の選別が可能になるということですね。
この問題については、1980年代を通して原則が整理されてきたと紹介されます。検査は威圧的な空気のない中で自発的に行われ、カップルの自己決定だけで以後の判断がなされ、前後に十分なカウンセリングを受けられ、そのカウンセリングに指示的な要素が混入してはならない、というものです。
一方、出生前診断を危惧する立場からは、この原則は問題を矮小化しているという批判があります。先天性疾患の情報提供や障害者への社会的支援が不十分な現実の中で決断を迫ること自体が、社会的圧力だという意見です。
自発的な検査、カップルの自己決定、指示を含まない十分なカウンセリング
支援や情報提供が不十分な中での決断は、自己決定に見えても社会的誘導がある
でもこれが完全正解であるわけではないですよね。まだ議論中というテーマです。
楊さんは、現代の社会は優生政策に動員できる技術をすでにたくさん持っており、その問題が個人の選択として立てられている状態だと話します。日本では経済的理由でなければならないとされつつ、そこが測られることはなく、理由はぼかされているといいます。
樋口さんは、中絶の良し悪しを言いたいわけではないと断ったうえで、自己決定も重要であり、優生学のような否定されてきた考え方を重視することも重要だと話します。どちらにも理由があるから、まだ正解がないという受け止めです。
楊さんも、中絶を完全に禁止しても、生まれた子どものケアや社会の受け入れ態勢が整っているかは別問題だと認めます。ただし障害を理由に産みたくないとして中絶するのは、ここまで見てきた観点からすると、多様性のプールを狭める「とても優生的」なことだとも話しています。
歴史を知ったうえでの決断に意味はあるか
樋口さんは、判断する親にとっては遺伝子プールの話は関係なく、「嫌」と思ったらもう嫌と思っているものだと話します。楊さんも、その人にとっては産むかどうかの決断が一番重要だと認めます。
(障害者の歴史の)流れを見た上での決断か、そういうことを全く知らない人が無意識に差別してる中での決断なのかっていうのは僕は大きい差があると思う
楊さんは、ここに障害の歴史シリーズを学ぶ価値があると考えています。そのうえで、出生前診断や中絶に批判的な立場の人たちが示す視点を紹介します。
1つ目は、古典的な福祉国家の過剰な合理性や、アメリカ的な過度に楽天的な商業化に対して、体系的な懐疑の目を持ち続けることです。楊さんは、国による過剰な管理や、倫理を無視して儲かりそうだとゲノム解析やクローン研究を進める動きを例に挙げて説明します。
2つ目は、ドイツやスウェーデンで行われた強制不妊手術の被害者への補償のように、過去に何が問題だったのかを明らかにし、一つずつレビューして清算していくことです。
3つ目は、出生前診断のような潮流に対して批判や懐疑があまり存在しない現状そのものが危ういと気づくことです。楊さんは、もっと議論されるべきだという問題提起だとまとめています。
日本では、経済的理由を拡大解釈する形で、障害のある胎児の選択的中絶が今も実施できると語られます。建前上は、胎児に障害があるという理由での選択的中絶はできないことになっているという補足もありました。
人権を突き詰めると死刑はどうなるのか
楊さんは最後に、障害者の人権が大切だから殺してはいけない、という論理だけで簡単に説明できる問題ではないと考えていると打ち明けます。
人権の対象は、歴史の中で少しずつ広がってきました。最初は金持ちの男性だけだったものが、戦争を経て女性や黒人へと広がり、いま障害者にも目が向くようになってこうした議論がされていると楊さんは説明します。
限られた範囲
金持ちの男性など一部だけが対象
拡大
女性や黒人などへ広がっていく
現在
障害者にも目が向き、議論されている
楊さんによれば、人権の概念を突き詰めると、人が人の命をコントロールすることはできないことになり、死刑もダメになります。実際に世界的な潮流もそちらに向かっているといいます。
楊さんは、死刑もその感覚の延長線上にあると話します。一方で日本には、ひどいことをした人には相応の罰が与えられるべきだと考える人も多くいます。こうした概念の問い直しは連続的に起きていくものであり、やはり簡単ではない、という投げかけで今回は締めくくられます。
次回と最終回となる第7話・第8話では、ひどい歴史の中で人権の概念を獲得した障害者自身が、権利拡大の活動を始める時代が語られる予定です。
まとめ
優生学への批判は同時代にすでにあり、遺伝学の発展で科学的な根拠は崩れていました。それでも政策が続いた事実は、優生学が科学の衣をまとった思想だったことを示しています。そして出生前診断や死刑の議論のように、人権を突き詰める問いはいまも簡単ではありません。
- ドブジャンスキーは、遺伝的多様性、突然変異、遺伝の複雑さの3点から優生学を批判していた
- 優生学の誤りは、ダーウィンの誤読、コントロールできるという思い込み、思想を科学と偽ったことの3つに整理された
- 根底には人権の無視があり、都合のいいロジックに飛びつくバイアスは誰にでもある
- 出生前診断は自己決定に委ねられているが、社会的圧力や優生的な発想を含む難しい問題として議論が続いている
- 人権の概念を突き詰めると死刑の是非などにもつながり、簡単に答えは出ない




