優生学はナチスだけのものだったのか
この回のテーマは、ダーウィンの進化論が優生学に結びついていく流れです。深井さんによると、優生思想そのものは古代ギリシアからありましたが、科学が宗教に代わって社会の基準になる過程で、「優生学」という学問に姿を変えていきました。
科学の裏付けを持った学問、科学として、障害者差別とかを完全正当化しようとしてくるっていう流れになってきます。
深井さんは、優生思想は現代でも消えていないと考えています。ここ数年の間にも障害者施設で大量殺人事件があり、深井さんはその事件にも優生思想を感じると話しています。
(優生思想の)何が間違っているのかっていうのがこの次回です。聞く人、絶対セットで聞いてほしいんですけど。
近代優生学とは、遺伝と統計の原理をもとに「健全な生殖」を促し、「不健全な生殖」をやめさせることに力を注ぐ運動です。1900年代から広まり、政府の政策決定にまで大きな影響を与えました。
優生学というとナチスドイツが連想されがちですが、深井さんは、程度の差はあれ当時の先進国のほぼすべてが優生政策を行っていたと強調します。人間の血統を改良し、苦しみを減らせるという信念のもとで、科学と社会改革が結びついていきました。
福祉国家であるデンマーク、ノルウェー、フィンランドなどでも優生政策は行われました。社会保障のリソースが限られる中で「与える人」と「与えない人」を選ぶ必要があると考えられ、障害者を排除するロジックに優生学が使われたのです。
今の感覚では、福祉は障害者も包摂するものです。けれど当時は、リソースの限界と国家間競争のなかで、誰に渡すかを厳しく選ばなければならないと認識されていました。深井さんは、そのルールを決めていたのは常に障害を持っていない人たちだったと指摘します。
プラトンからゴルトンへ、「良い種」の思想はどう科学になったか
優生学に近い発想は、古代ギリシアの哲学者プラトン ── 古代ギリシアの哲学者。『国家』などで理想の国家像を論じ、守護者階級の結婚や出産を国家が管理する構想も語っていますにすでに見られます。プラトンは、最も優れた男女はできるだけ交わり、最も劣った男女はその逆であるべきだと述べていました。
さらにプラトンは、優れた夫婦の子どもは育て、そうでない子どもは育ててはならないとも述べています。子どもを選別することでコミュニティ全体の質を上げようという考え方で、深井さんはこれを優生学的だと説明します。
大きな転換点となったのが、19世紀の人物で「優生学の祖」と呼ばれるゴルトン ── フランシス・ゴルトン。イギリスの人類学者・統計学者で、指紋の研究や相関・回帰の概念でも知られますです。ゴルトンはチャールズ・ダーウィンのいとこで、人間の才能は遺伝で受け継がれるのではないかと考えました。
ゴルトンは、ギリシャ語の「良い」と「種の」を組み合わせた「ユージェニクス」という言葉を初めて使いました。これが優生学の英語名です。深井さんによると、ゴルトン自身は当初、差別や排除を狙っていたわけではなかったようです。
それでもゴルトンは、人間にも人為選択を適用すればより良い社会が実現できると論じました。「優秀な親から優秀な子、劣った親から劣った子が生まれる」という俗説に科学的なお墨付きを与え、遺伝形質を社会的介入で改良しようと提唱したことが、優生学の発端になりました。
古代ギリシア
プラトンが、優れた男女の子を育て、劣った男女の子は育てないという構想を語る
ダーウィンの進化論
ゴルトンがいとこのダーウィンから着想を得たと考えられる
19世紀のゴルトン
才能は遺伝すると考え、ユージェニクス(優生学)という言葉を使う
20世紀
遺伝と統計を根拠に、各国の政策に組み込まれていく
障害者はなぜ「国のコスト」とみなされたのか
ここで楊さんが、統計学の側面から補足します。障害者を「役に立たない」「お荷物」「コスト」とみなす見方は今も社会に残っていますが、その認識には近代の統計学が影響を与えたと指摘されているそうです。
統計学っていうのは、近代国家にとって統治のスキル、技術として欠かせないものだったわけですよね。
楊さんが最初に挙げたのが、17世紀イギリスの学者ウィリアム・ペティ ── 17世紀イギリスの経済学者・統計学者。数量的なデータで国家の状態を把握する「政治算術」を唱え、統計学や経済学の先駆者とされますです。ペティは人間を国家にとっての数字に変換し、人が土地からどれだけ生産できるかを計算して、国全体の富を測ろうとしました。
一方ドイツでは、国家が知るに値する項目を整理して調査し、国の情報を見える化する統計学が生まれます。この2つの流れが、19世紀後半に各国で実施された国勢調査として結びつきました。
その国勢調査の項目には、すでに障害者の統計が入っていました。楊さんは、近代化を目指す国家にとって、障害者は「コストを与える存在」として数を把握すべき対象だったと説明します。障害者は生産性が低く、税のコストがかかる経済的損失だ、という認識の素地がここで生まれました。
この話に対しては、「数字を出されると説得力を持つ」「数字がバンとあるだけで正しいと思ってしまう」という反応も出ています。
ペティ(17世紀イギリス)
人間の生産力を計算し、国の富を数字で測る
ドイツの統計学
国家が知るべき項目を整理し、国の情報を見える化する
国勢調査(19世紀後半)
2つの流れが結びつき、障害者の数も調査項目に入る
結果
障害者を国の富から差し引く経済的損失とみなす素地が生まれる
「平均人」が生んだ正常と異常の境界線
もう1つの流れが、障害者を「異常」「劣っている」とみなす見方です。国勢調査で統計資料が大量に出るようになり、それを使った新たな知見が生まれていきました。
中心人物は、ベルギー政府の国勢調査にも関わった統計学者・数学者のアドルフ・ケトレ ── 19世紀ベルギーの天文学者・統計学者。社会現象に統計学を応用した先駆者で、社会物理学を提唱しましたです。ケトレは「平均人」という概念を発明し、人間社会の標準的な人間、つまり「普通」を作り出しました。
ケトレは身長や体重、知能といった身体的データを正規分布で整理し、平均のゾーンに入ることを正常としました。肥満度の指標として今も使われるBMIも、ケトレが作ったものです。
ケトレの測定は、身体だけでなく出生・結婚・死亡といった社会的データや、文学・美術・政治・道徳の分野にも及びました。平均から離れる人は異常である、という形で、異常を排除する正当性の統計学的な土台ができていったのです。
このケトレの統計学を引き継いだのがゴルトンでした。ゴルトンは生物測定学を展開し、才能や知能を軸に人口の分布を図にしていきます。その分布の一番下に位置づけられた人たちが、近代優生学では「精神薄弱者」「劣等者」「無能力者」とされていきました。
この話を受けて、出演者の間では、外れ値という言葉も「外れていない」ものがあるから生まれるのであって、平均という概念がなければ異常という概念もない、という感想が交わされます。深井さんは、異常をつくる営みはどの時代にもあったが、ここで根拠が統計学や科学になったのだと整理しています。
断種と「優良児コンテスト」、2つの優生学とは
深井さんは、科学を好きで信じているとしつつも、科学は人間が作ったものだと話します。当時は「科学だから正しい」という空気が強く、政府の政策にも科学が普通に使われたため、優生学政策が先進国にごく自然に広がっていきました。
社会実装された優生学は、大きく2つに分かれます。主流だったのが「消極的優生学」で、生殖を阻むことで優生学を進めようとするものです。代表例が断種で、男性は精管を、女性は卵管を縛ったり切除したりして、子どもを産めなくしました。
消極的優生学は、知能の分布でいえば一番下の人たちを切り、グラフ全体を上へスライドさせることで民族全体を改善しようという発想だ、と説明されています。
もう一方の「積極的優生学」は、健康で社会的に有益とされた人々の生殖を推奨するものです。深井さんの親の世代ぐらいまで行われていたという「優良児コンテスト」や、ナチスがアーリア人を増やすために進めたレーベンスボルン ── ナチス親衛隊が1935年に設立した組織。「生命の泉」を意味し、「人種的に価値ある」とされた子どもの出産や養育を支援しました(生命の泉計画)がその例です。
生殖を阻む。断種によって「劣る」とされた人が子どもを産めないようにする。主流だった
「優れた」とされた人の生殖を推奨する。優良児コンテストやナチスのレーベンスボルンなど
深井さんによると、アーリア人という概念自体がもともと幻想で、ドイツ人はゲルマン人です。それでも当時のドイツの人たちは自分たちのルーツをアーリア人だと信じ、アーリア人の血を分散させないために、他の人々、とりわけユダヤ人との結婚を排除しようとしました。
IQ検査は誰のために作られたのか
優生学は、社会の下層への不安とも結びついていました。知識階級の子どもの数が、社会階級の低い人たちより少ないという現象が起こり、「貧乏子だくさん」は良くないのではないかという懸念が広まったのです。深井さんは、この発想は現代にもあると話します。
同じ見方は、西洋からアジアへの視線にも向けられました。アジアを「劣った、進化していない文明」とみなし、その人口が増えることへの恐怖が、日露戦争シリーズで扱った黄禍論 ── 19世紀末から欧米で広まった、アジア人の台頭が白人社会を脅かすとする人種主義的な主張にもつながっていたといいます。
こうした流れの中で、人間の価値を測る新しい手法として知能検査(IQ検査)が導入されます。ただ、IQ検査はもともと人をランク付けするために作られたものではありませんでした。
考案したのはフランスのソルボンヌ大学の心理学者ビネー ── アルフレッド・ビネー。フランスの心理学者で、医師シモンとともに知能検査を開発しましたで、1904年のことです。当時のフランスでは学校での落ちこぼれが問題になっており、援助が必要な子どもを見つけるためにテストが作られました。
レッテルが貼られることを警戒してたみたい。極度にしかも警戒してたらしいんだけど、まさにそれが起こります。
IQ検査はアメリカに導入されて大きく発展します。心理学者のゴダード ── ヘンリー・ゴダード。アメリカの心理学者で、ビネーの知能検査を英訳して普及させ、優生学を支持しましたは、知能は遺伝で決まり、知的障害も犯罪もIQの低さが原因だと考えました。アメリカの犯罪者の4分の3、娼婦や貧困者、大酒飲みの半数が「精神薄弱」だと主張し、彼らが子どもを産まなければ社会が良くなると考えたのです。
ある家系を追跡した本では、家長が「高潔なクエーカー教徒の女性」との間にもうけた子孫は繁栄し、「精神薄弱」とされた女性との間の子孫は堕落した、と書かれていました。こうした調査が、道徳性や知能は遺伝するという考えを強め、政策に反映されていきます。
アメリカでIQテストが広がった背景について、深井さんは移民の国という事情を挙げます。多様な出身の人々が集まる社会では宗教でコンセンサスを取りにくく、代わりに科学でコンセンサスを取ることが多かったといいます。
ただし楊さんは、実際のIQテストはアメリカ文化に馴染んだ人に解きやすく、移民に不利な内容だったと指摘します。フラットに見えて、実はフラットではなかったのです。さらに、精神障害のある人は生殖能力が高いという思い込みもあり、施設にかかるコストの問題とも重なって、生殖を監視する政策につながりました。
フランスのビネーが、援助が必要な子どもを見つけるために考案。差別につながることを強く警戒していた
アメリカでゴダードらが、知能は遺伝で決まるという前提のもと、人のラベリングと差別のロジックに使う
日本の優生保護法はいつまで続いたのか
ここから深井さんは、各国で実行された優生政策を紹介していきます。最初は日本です。1920年代、教育心理学者の田中寛一がアジアの多様な人々に知能テストを実施し、その結果は日本人の民族的優越性を証明するために使われました。
戦時中には、総力戦体制の一環として、国民の体力向上を求める陸軍の要望をきっかけに厚生省が創設されました。その目玉事業の1つが国民優生法で、民族優生思想の啓発、調査研究、梅毒やアルコールなど「民族毒」の予防、優れた夫婦の多産の推奨、断種や隔離などの「遺伝健康方策」が掲げられていました。
戦後の1948年には優生保護法が成立し、世界でも早い時期に中絶の合法化を実現します。第1条には「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」と明記されていました。この法律は1996年まで施行されており、深井さんは「僕が11歳までですよ」と話しています。
国の法律に書き込まれていることがやべえですね。感覚的に。
優生保護法のもとでは、遺伝性疾患の人に加え、ハンセン病の人も中絶や不妊手術の対象になりました。本人の同意を必要としない強制的な不妊手術は約1万6500件報告されており、身体障害者や精神障害者が対象とされていました。
イギリスの隔離とアメリカの断種法
イギリスでは19世紀末、極貧層の一部の人々の問題が、精神障害という医学的な課題として捉え直されていきます。極貧層の女性は多産だという思い込みもあり、知識人層には「劣悪な人間が増えて社会を脅かす」という危機感がありました。
イギリスで初等教育が義務化されると、極貧層の子どもたちが授業についていけない現象が起こります。旺烈障害者学級委員会という組織が5万人の小学生について教師から報告を集めたところ、医学的裏付けのないまま、1万人弱が精神神経系の障害児だとされました。
その結果、特殊学級が作られ、教育の場が分けられました。基準は教師の印象で決まっていたとされます。さらに1913年には精神病法が成立し、生活手段がない、有罪判決を受けた、給付制度に頼りながら妊娠したといった「精神薄弱者」を強制収容する権限が地方に与えられました。
このイギリスのモデルは、オーストラリアやニュージーランドなどの植民地を含む帝国全体に広がります。ただしイギリスは断種政策はとらず、隔離という方法をとっていました。
アメリカでは、優生学の研究が家畜や農産物の品種改良で成果を上げたことから、人間の改良にも使えると考えられました。1907年には早くも断種法が成立し、性犯罪者や知的障害者が対象とされます。1936年までに2万人を超える男女が断種手術を受けました。
後にナチスドイツが採用した断種法も、カリフォルニアの断種法を参考にしたといわれます。深井さんによると、断種法に対抗できたのはカトリックなどの宗教界でしたが、アメリカではその勢力が比較的小さく、各州で断種法が次々と成立していきました。
福祉国家デンマークとスウェーデンで何が起きたか
デンマークは福祉国家ですが、深井さんは「福祉国家だからこそ」優生政策に力を入れたと説明します。社会福祉を必要とする人が減れば、残った人たちにより手厚く人道的なサービスを提供できる、という考え方でした。
デンマークでは19世紀末から宗教関係者や慈善家が知的障害者の施設を建て、やがて経費の大部分が国費で賄われるようになります。1929年には、ドイツより早く断種法が成立しました。1933年の公的扶助法によって、本人や家族の意思に反しても施設入所を強制でき、断種手術も本人同意なしで未成年にまで適用できるようになりました。不妊手術の9割以上が知的障害者を対象としていたといいます。
スウェーデンでは1915年に婚姻法が改正され、知的障害者、精神障害者、てんかん患者の結婚が禁止されました。1930年代には「国民の家」を標語に福祉国家政策が進められ、1934年にはその一環として断種法が制定されます。
スウェーデンの断種法は、障害ゆえに自己決定能力が期待できないとされた人を対象とし、本人の同意は不要とされていました。優生学者ホフステンは、遺伝する障害がなくても、経済的に自立できず子どもを育てられない人の子どもは結局社会が引き受けることになるとして、社会的理由による不妊手術を正当化しています。
その後の法改正で本人同意の原則が明記されますが、深井さんによると、これは権利の回復ではなく、断種を広めるためでした。優生学が科学として浸透していたため、自ら断種を望む障害者もおり、そうした人たちを取り込む狙いがあったといいます。スウェーデンではこの断種法のもとで、合計6万3000件の不妊手術が実施されたそうです。
| 国 | 主な政策 | 規模・特徴 |
|---|---|---|
| 日本 | 国民優生法、1948〜1996年の優生保護法 | 強制不妊手術は約1万6500件。ハンセン病の人も対象 |
| イギリス | 特殊学級、1913年の強制収容の法律 | 断種は行わず隔離。植民地にも広がる |
| アメリカ | 1907年の断種法 | 1936年までに2万人超が断種手術 |
| デンマーク | 1929年の断種法、1933年の公的扶助法 | 本人同意なし、未成年にも適用 |
| スウェーデン | 1915年の婚姻法改正、1934年の断種法 | 合計6万3000件の不妊手術 |
「逆淘汰」の論理はどこが危ういのか
最後はドイツです。深井さんは、この回で伝えたいのはドイツ以外の国も優生政策を行っていたことだとしつつ、ナチスのもとのドイツは抜きん出て過激だったと話します。
20世紀初頭には、治療も説明もできない病気や障害を「遺伝」で説明するようになっていました。深井さんは、宗教の時代に説明できないものを宗教で説明していたのと構造は同じだと指摘し、出演者からは「カルマとあんまり変わんない」という声も出ます。
ドイツの優生学者シャルマイヤー ── ヴィルヘルム・シャルマイヤー。ドイツの医師で、同国における優生学(民族衛生学)の先駆者の一人とされますは、文明が発展するほど淘汰が妨げられ、人間が退化していくと主張しました。その理由として挙げたのが、医学、戦争、私有財産の3つです。
医学の発達
本来なら死んでいた個体が延命し、生殖できるようになる
戦争
健康で屈強な人が戦死し、徴兵検査に通らなかった人が生き残る
私有財産
お金があれば、何かが欠けていても生き延びられる
逆淘汰
優秀な人ほどいなくなり、そうでない人ほど残るという主張
樋口さんは「ロジック的には通っている」と受け止めますが、深井さんは「その優秀を何とするかなんですけどね」と返します。深井さんは、ここで紹介した論理がどう否定されるかは次回で説明すると繰り返しています。
ナチスドイツのT4作戦とは何だったのか
第一次世界大戦後のドイツでは、若い男性が大量に亡くなり、財政も栄養状態も悪化して、出生率が低下しました。ワイマール共和国を打倒する形で登場したナチスは、遺伝的に劣ったものを切り捨てて人類を進歩させるという優生学の考え方と、非常に相性が良かったといいます。
1933年に実権を握ったヒトラーは、アーリア人という虚像を作り出します。アーリア人は各地に広がる民族の祖先で、文明や宗教を生み出したとされ、それに最も近いのがドイツ人だという説が20世紀初頭のドイツで広まっていました。深井さんは、これは誤った学説だと強調します。
ナチスのもとでは、慢性アルコール中毒なども遺伝的に劣っている証拠とされ、何でも遺伝で説明されました。ユダヤ人はゲットーに隔離され、非ユダヤ人との間に子どもを作ることを禁じられ、最終的にはホロコーストへ至ります。
障害者に対しても、ナチスは他国の断種を超えて、安楽死や銃殺にまで踏み込みました。これがT4作戦 ── ナチスドイツによる障害者などの組織的殺害計画。本部がベルリンのティーアガルテン通り4番地にあったことから、この名で呼ばれますです。ヒトラーの指示のもと、総統官房長官のフィリップ・ボウラーと医師のカール・ブラントが指揮し、遺伝病患者や同性愛者も対象となりました。
犠牲者のほとんどは病院や施設の収容者でした。民衆やカトリック教会からの反発で作戦は1941年に表向き中止されますが、安楽死政策は裏で続けられ、ナチスの崩壊まで行われていたとみられます。占領下のポーランドの精神病院でも銃殺があったといいます。
なぜ「科学」は差別を止められなかったのか
深井さんは、各国で優生学が政策化され、科学の名のもとで断種や殺害が行われた根源に、近代特有の「メディカリゼーション」があると説明します。メディカリゼーションとは、社会問題を単純化し、個人の体や遺伝、病気の問題にすり替えてしまうことです。
深井さんが挙げた例は、アメリカで貧困層や犯罪率に黒人が多いという統計です。本来は社会問題であるこの統計を、「生まれつきIQが低いから貧困から抜け出せず、犯罪を犯しやすい」と考えるのがメディカリゼーションで、優生学もその1つといえるとしています。
こうした理屈づけによる差別は、「性の歴史」編で扱った同性愛者や女性への差別と同じ構造だと深井さんは話します。根拠があるようで何の根拠もない理屈が差別を加速させ、女性、黒人、障害者、同性愛者など、特権階級ではない人たちに繰り返し向けられてきました。
深井さんは、科学が中立的で客観的だと考えられていたからこそ、障害者を含む差別が正当化されたとまとめます。
科学の権威がついて、その権威がついてしまったからこそ、こういう問題が起きたっていうのが、またこれ皮肉やなっていう。
その権威を打ち破ることが難しかった理由も語られます。障害者は「科学を理解できない」とみなされ、科学教育の機会を与えられませんでした。そのため、弱者たち自身がデータを集め、当時の世界観に科学的に異議を唱えることは、構造的に難しかったのです。
深井さんは、こうした構造がなぜ起こるのかを認知することが、この歴史を学ぶ価値だと話します。そして、優生学の考え方は今も世の中に残っているとして、次回は1回をかけて優生学への批判を扱うと予告しています。
次回一回をかけて優生学への批判の話をします。
まとめ
優生学は、プラトン以来の選別の発想が、ゴルトンや統計学、IQ検査という「科学」の裏付けを得て、20世紀の各国で政策化されたものでした。日本や福祉国家も例外ではなく、ナチスドイツではT4作戦という殺害にまで至っています。その背景には、社会問題を遺伝や病気にすり替えるメディカリゼーションと、科学を絶対視する空気がありました。
- 優生学はナチスだけでなく、日本や北欧の福祉国家を含む当時の先進国のほぼすべてで政策化されていた
- 統計学の「平均人」や国勢調査が、障害者を「異常」や「国のコスト」とみなす土台になった
- IQ検査は本来、援助が必要な子どもを見つけるためのもので、考案者のビネーは差別への悪用を警戒していた
- 日本の優生保護法は1996年まで施行され、約1万6500件の強制不妊手術が報告されている
- 科学が中立的だと信じられ、弱者が科学に参加できなかったことが、差別の正当化を止めにくくした


