栄華の裏にあった極端な格差
深井さんはまず、ローマが繁栄した最大の理由を、軍事的に他民族を征服して搾取し、その果実を自分たちのところに持ってくるやり方だったと説明します。
ただし搾取で得た富は、全市民に配られたわけではありません。元老院議員や貴族、一部の騎士に莫大な財産が集中したとされています。
人口は紀元後1〜2世紀で5000万から6000万人ほど。漢帝国とほぼ同じ規模です。このうち富裕層に入るのは0.5パーセントほどで、残りの99.5パーセントはそうではなかったといいます。
ローマが栄華を極めたといっても、本当に栄華を極めている社会階層の人もいれば、おこぼれにあまり預かれてない人もいる。ほとんどの人はやっぱり貧乏だったんじゃないかって言われてます。
楊さんは、古代ローマの基幹産業は農業であり、人口の大部分が農民だったと補足します。作られていたのは小麦、ブドウ、オリーブなど、いかにもイタリアらしいものでした。
水道と浴場へのこだわり
今日のヨーロッパが自分たちをローマルーツだと語る理由の一つは、主要都市の原型をローマ帝国が作ったからだと深井さんは話します。水道橋、テルマエ、競馬場、円形闘技場といった「ローマパッケージ」が各都市に持ち込まれました。
なかでも深井さんが驚くのが水道設備です。最初の上水道は紀元前312年、およそ2300年前に作られました。遠方の水源から動力を使わず、絶妙な傾斜だけで新鮮な水を市内へ導いたといいます。
ローマ人は飲み水の質に神経質で、どの水がうまいかを競うようなこともしていたようだと深井さんは紹介します。
この爽やかな春風が吹き通るような味。これは何々さんの水だとか言って、多分やってると思います。ローマ時代も。
水は極めて大切に扱われ、水を汚染した人には1万セステルティウスの罰金が科されました。樋口さんは、酔って水路に用を足すような行為が上水道全体に影響することを、嫌そうに想像します。
水道橋から家の噴水へ引くパイプの太さで水道代が決まる仕組みもありました。金持ちの家には噴水があり、水を引くほど料金がかかる社会だったといいます。
浴場も暮らしの中心でした。屋内には脱衣場、冷浴室、温浴室、熱浴室、油を塗る塗油室があり、屋外には運動場、プール、庭園、店舗まで揃っていました。
もうあれだよね、もうスーパー銭湯。
薬草やオリーブ油を入れた薬湯、サウナ、食事室、図書室もあり、深井さんは現代のスーパー銭湯以上だと評します。冬でもぬくぬくと読書と食事ができる、大都会のオアシスのような場所でした。
一方で、古代ゆえに衛生環境は悪く、油や汗、垢で濁った水が満ちていたという記述や、浴場での排便の記述も残っているといいます。深井さんは、一例だったかもしれない排便の記述が2000年後まで残っていることを面白がります。
首都ローマを流れるテヴェレ川は下水の規模が十分でなく、汚物が投棄されて激しく汚染されていました。深井さんは、ティベリウスの死後に遺体をテヴェレ川へ投げ入れろと言われたのは、汚染された泥水に捨てろという意味だったと解説します。
こうした上下水道の整備は、18世紀のロンドンやパリですら1世紀のポンペイに及ばなかったとされます。産業革命前まで、中世ヨーロッパは一人当たりGDPでもローマにかなわなかったといわれています。
奴隷の数がステータスだった社会
都市部の普通の市民は、パンや服など品物を製造する仕事に就き、比較的安定した暮らしをしていました。一階が店、二階が住居という家に住み、奴隷を所有していたケースもあります。
奴隷の数はそのまま社会的ステータスでした。街路上で従える奴隷の数を見れば、その人が金持ちかどうかがわかったといいます。
弁護士なら少なくとも8人ほど所有していないと信頼されず、元老院議員は平均で数百人を抱えていました。大富豪は1000人以上、皇帝は万人単位で所有していたとされます。
この奴隷を、ローマ人はどう見ていたのか。深井さんは、ローマ史で知られる本村凌二さんの言葉を「言葉を理解する家畜」だと紹介します。
当時の表現では、農場の道具には「全くものを言わないもの(鋤や鍬)」「少しものを言うもの(牛や豚や羊)」「非常に口を利くもの(人間の奴隷)」の3種類があるとされました。
奴隷は動産であり人権はありませんでした。自由民が他人の奴隷を殺しても賠償金で済む一方、奴隷が自由民を殺せば、その家の奴隷全員が処刑の対象になる連帯責任もあったといいます。
剣闘士とパンとサーカス
深井さんは、人権のなさ自体はローマ特有ではないものの、殺人ショーを娯楽として楽しむ点は特殊だったと指摘します。
もともと祝祭では戦車競走や競馬、悲劇や喜劇が楽しまれていました。樋口さんは、剣闘士の見世物の起源の一つに、貴族の葬式で亡き人に血を捧げる宗教的な動機があったとする説を紹介します。
剣闘士の多くは養成所で調達され、敗れて死ぬか降参するまで戦いは続きました。無様な戦いと観客に判断された敗者は、生きていてもその場で喉を切られたといいます。
楊さんは、出場者がどれくらい自主的だったのかと疑問を投げかけます。深井さんは、スパルタカスの乱があった以上、出たくなかった人は多いはずだと答えつつ、強い剣闘士は人気で女性にもモテたと補足します。
奴隷だけでなく自由民も出ていたこの見世物への熱狂の理由を掘り下げる問い
奴隷だけでなく自由民も出ていたこの見世物に、なぜ人々が熱狂したのかは今も研究されています。楊さんは現代の格闘技の延長とも捉えられると言いますが、深井さんは格闘技も全員が好きなわけではないのに対し、ローマの人気は桁違いだった点が問われていると話します。
もう一つ有名なのが「パンとサーカス」です。1〜2世紀の詩人ユウェナリスが、ローマ市民をパンと娯楽にしか関心がないと揶揄した言葉で、パンは穀物、サーカスは戦車競走や闘技場を指します。
見世物の開催日数は時代とともに増え、アウグストゥスの時代は年間65日程度、2世紀後半のマルクス・アウレリウスの時代には130日に達しました。臨時開催も含めると、ローマの住民はほぼ2日に一度は何らかの見世物を見られる状態でした。
娯楽を提供することは皇帝の責務であり、無料でパンを配ることもありました。食費の2割ほどが皇帝から無料で配られた時代もあったといいます。
民衆にとって理解しやすい、徳の高い皇帝っていうのは、食べ物と娯楽を提供してくれるものなんですよ。シンプルにね。
住宅・食事・宴席のマナー
人口100万人を超えるローマでは住む場所が足りず、建物は上へ伸びていきました。この高層集合住宅はインスラエと呼ばれます。
面白いのは、家賃が最も高いのが1階だった点です。水道がなく、上の階ほど水汲みが大変で、火事や地震の危険も増したためです。現代のタワーマンションとは逆の価格設定でした。
都市を壁で囲んでいるため敷地面積は限られ、人口が増えれば建物を高くするしかありませんでした。1階は店舗、中2階に居住スペース、上階にアパートメントやワンルームという構成だったといいます。
一方で、下水道やダストシュートがないため、上層階の住人がゴミや糞尿、壺や皿を窓から投げ捨てることもありました。アウグストゥスは建物の高さを20メートル以下に制限する法律を作りましたが、楊さんは投げ捨てをやめさせる方が先ではと突っ込みます。
食事も富の誇示の場でした。孔雀、フラミンゴ(ポイニコプテルス)の舌、チョウザメの一種など、様々な珍味が食されたといいます。楊さんは、珍味を食べることが富の象徴だった点は現代のキャビアやトリュフと通じると話します。
宴席では寝ながら食べるのがマナーでした。クッションに肘枕をして横たわり、指で料理をつまむ食べ方は身分の低い人にはできませんでした。妻は夫の足元に座るなど、家族の中にも序列がありました。
コの字に並べた台には、寝れば3人、座れば9人が着けたといいます。食事ごとに服を変える見栄っ張りもいて、ゲップは礼儀とされていました。
さらに上流階級では、宴席で吐くことも当たり前でした。満腹でも料理が大量にあるため、食べては吐くことを日常的に繰り返していたといいます。
大食漢として知られたウィテリウスや、クラウディウス帝が鳥の羽を喉に突っ込んで吐き、また食べていたという逸話も紹介されます。深井さんは、それが幸せなのかと問いながらも、当時はそれが贅沢という感覚だったと話します。
仕事こそアイデンティティだった労働観
現代と同じく、ローマでも仕事はアイデンティティでした。ただし肉体労働は蔑まれる傾向がありました。
中級階級の墓石には仕事道具のシンボルが彫られ、職業とアイデンティティの結びつきの強さがうかがえます。200以上の職業があり、無給ながら名誉のある政務官などもありました。
人々は基本的に死ぬまで働き、子供も体力がつけば働いていました。子供の遺骨から重労働の痕跡が見つかることもあるといいます。
一方で、皇帝や官僚の仕事時間は予想外に少なかったと深井さんは紹介します。平時であれば、皇帝の公務は概ね午前中で終わっていたようです。
ウェスパシアヌス帝は夜明け前に起き、書簡や報告書に目を通し、友人と会って案件を処理した後、昼寝や入浴、夕食という一日を過ごしていたといいます。
樋口さんは、トラヤヌス帝と属州総督の往復書簡を例に挙げます。あれこれ指示を仰ぐ総督に対し、トラヤヌス帝は何度も「自分の判断で決裁して、結果報告だけでいい」と返していたそうです。
現場の総督も皇帝から全て承認を得ていたわけではなく、彼ら自身も午前中で仕事を終えていました。都市の自治がうまく機能している間は、トップダウンの統治にリソースを割く必要が少なかったのです。
寿命・外食・街の風景
平均寿命は今日の研究で20〜25歳とされ、非常に短いものでした。ただしこれは子供の死亡率の高さによるものです。
ある研究では、乳児の28パーセント、およそ3分の1が誕生後1年以内に亡くなったのではないかとされています。口減らしのために新生児や弱った子、女児を捨てるという研究もあります。
楊さんは、この時代の感覚は現代とまったく違うため、善悪では語れないと述べます。深井さんも、当時の人々の善悪をここで断罪しても意味がないと応じます。
家に台所がなく、外食文化だった点も特徴です。酒場では酒だけでなく食事もとられ、サンドイッチのようなものもあったといいます。安い酒場やカフェも多数あったと考えられています。
人口1万2000人ほどのポンペイでさえ100軒以上の店があり、その100倍の人口を持つローマなら1万軒はあってもおかしくないと深井さんは話します。店は持ち帰りカウンターとイートインのテーブルを備え、アメリカのダイナーのようなレイアウトだったといいます。
店の内装には性的な絵や男性器をかたどった像が飾られることもありました。深井さんは、子供が生まれることが神秘だったためだろうと解釈します。
ほかにもサイコロ賭博で喧嘩が起きて問題視されるなど、現代と重なる出来事もありました。成人男性の識字率は20パーセント以下だったとされます。
なんかこんな、いいですね、イメージしやすいですね、こういうの入ると。こういう生活してるって。
まとめ
水道や浴場に象徴される豊かさの裏には、奴隷制と極端な格差がありました。ローマ人の便利な暮らしは、人権を持たない多くの人々の労働に支えられていたのです。
- ローマの繁栄は他民族の搾取に基づき、富は0.5パーセントの富裕層に集中していた
- 上下水道や浴場は高度に発達し、産業革命前のヨーロッパでも及ばないほどだった
- 奴隷は「言葉を理解する家畜」とされ、その数が社会的ステータスだった
- 剣闘士やパンとサーカスなど、娯楽の提供は皇帝の重要な責務だった
- 皇帝や官僚の労働時間は短く、都市の自治が機能する限り統治にリソースを割く必要が少なかった
