五十三歳で世を去った頼朝、死因も定まらず
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鎌倉武家政権が確立した直後、物語は源頼朝の死から動き出します。頼朝は53歳、1199年に亡くなりました。
鎌倉幕府の権力体制が樹立されたのを1185年とすると、そのわずか4年後の死でした。深井さんは「だからいい国じゃないんですよね」と、成立年の暗記の語呂にも触れています。
注目すべきは、その死因がはっきりしていない点です。メインの史料である吾妻鏡 ── 鎌倉幕府の歴史を記した編年体の史書。後世に幕府側でまとめられたもので、北条家に都合よく書かれている面があるとされますには落馬による死と書かれていますが、病死説も暗殺説もあります。
病気で死んだって書いてある書物もあれば、落馬で死んだって書いてある書物もあるってことですね。
一つの人物の死因すら書物によって食い違うところに、この時代の史料の性格が表れています。
愚かな将軍か、それとも堅実な後継者か
頼朝の死後、嫡子である源頼家が後を継ぎます。この時18歳。土御門天皇から、諸国の治安維持にあたるよう宣旨が下されました。
この頼家について、『吾妻鏡』はかなり辛口です。深井さんは、この史料が北条家に都合よく書かれている点を強調します。
『吾妻鏡』が伝える頼家の失点として、最古参の家臣・安達盛長の息子である安達景盛の相手の女性を奪ったというエピソードが紹介されます。
さらに、武士同士の土地の裁定でも、頼家はろくに話も聞かず、地図の真ん中に線を引いて「ここを境とせよ」と決めたと伝わります。人の意見を聞かない愚かな将軍、というわけです。
適当やん。
一方で、楊さんは現在の学者から見た別の評価を示します。同じ頼家について、当事者たちの言い分を踏まえた理知的な判例も残っているというのです。
楊さんによれば、頼家の訴訟処理の基本スタンスは、頼朝時代の決定事項をそのまま堅実に継承していくというものでした。父のやり方を踏まえ、前例に沿って判断していったのが特徴だといいます。
人の意見を聞かず、地図に線を引いて土地の境を決める愚かな将軍
当事者の言い分を踏まえた理知的な判例も残る。頼朝時代の決定を堅実に継承する後継者
鎌倉殿の13人とは何だったのか
若い頼家と、頼朝と苦難を乗り越えてきた手練れの鎌倉武士団。この組み合わせから、家臣たちが相談しながら最終的に頼家が判断する体制へと、自然に移っていきます。これが「13人の合議制」です。
「鎌倉殿の13人」という言葉は、頼朝の死後に合議制を敷いた13人の重臣を指しています。樋口さんはここで「そういう意味だった」と、言葉の由来を理解します。
ただし、この合議制の性格については研究者の見解が分かれます。楊さんが複数の説を紹介します。
本郷先生は、13人の合議制を頼家の権限を制限する組織だと明確に言い切っています。頼家から権力の一部を奪い、家臣たちで合議して決めていく仕組みだという見方です。
一方、坂井孝一先生は、確固たる制度として存在していたわけではないとします。13人が一堂に会して会議をした例はなく、それぞれの家臣が経験や知識を持ち寄って頼家をサポートした動きだと考えます。
藤本頼仁先生は、将軍の独裁を防ぐ機能はあるものの、最終判断をするのはあくまで頼家だとし、若い頼家の権力を補完する体制として整備されたという見解を示しています。
本郷先生の説。頼家から権力の一部を奪い、家臣で合議して決めていく仕組みとみる
坂井先生・藤本先生の説。確固たる制度ではなく、家臣が頼家をサポート・補完する動きとみる
深井さんは、この違いは「抑制するのか、サポートするのか」というフォーカスの当て方の問題だと整理します。
(若い頼家が)独断的に決めようとしたら、それを抑制する働きとしては確かに機能するだろうし、サポートしてるつもりも当然あるでしょうから、ほんとどっちとも言える。
楊さんは補足として、頼家自身の動きにも触れます。頼家は権力基盤を得るたびに、既存の重鎮たちの所領を削り、所領を持たない御家人に分け与えていたというのです。
これは、自分の話を聞いてくれる側近集団を作ろうとした動きと考えられます。かつての重鎮たちから見れば反発の対象となり、頼家の政策への反発の構造があったのではないか、と楊さんは指摘します。
13人は「腕っ節」と「頭脳」の二派閥
いよいよ13人の顔ぶれの紹介に入ります。深井さんは、この13人が大きく二つの派閥に分かれると整理します。
一つは腕っ節の強い武士系が9人、もう一つは頭脳派の文官系です。深井さんは後者を「眼鏡かけてそうな頭いい系」とユーモラスに表現します。
北条時政・北条義時・梶原景時・三浦義澄・和田義盛・千葉常胤・比企能員・安達盛長・八田知家の9人
大江広元・三善康信・中原親能・二階堂行政の4人。行政・財政・朝廷との交渉を担う
以降、この二つの系統に沿って、13人が順に紹介されていきます。まずは武士系からです。
北条時政・義時、二派閥の橋渡し役
最初に紹介されるのは北条時政です。頼朝の義父であり、北条政子の父にあたります。頼朝が流人だった頃から保護をした人物です。
その息子が北条義時で、大河ドラマの主人公にあたります。この二人が御家人のメインメンバーとして参加していきます。もともとは平氏系とされますが、深井さんは「ちょっとよくわかんない」説もあると付け加えます。
北条家の特徴として、深井さんは時政が残した直筆の手紙を挙げます。武士にしては字が綺麗で内容もしっかりしているというのです。
これは、京都で過ごした頼朝的な貴族感覚を理解できるかどうかに関わります。粗暴な坂東武者が多いなかで、その感覚を持つのは実は北条家しかいないと深井さんは言います。腕っ節系のなかで事務作業もできるのは時政と義時のみでした。
楊さんは、頼朝が北条家に選ばれたのではなく、頼朝が北条家を選んだ可能性にも触れます。既成事実を作って血縁ネットワークを広げるサバイバル戦略のなかで、北条氏が「話のわかるやつ」として選ばれたのではないか、という見方です。
さらに深井さんは、北条家が腕っ節系と頭脳系の両方にアクセスできる橋渡し役だった点を重要視します。時政は腕っぷしの強い人たちのなかでも戦略的・戦術的に動く、狡猾で野心家のタイプだといいます。
頼朝挙兵の時、時政は伊豆の国の地域の名士のような存在でした。深井さんは、これを在庁官人 ── 国司のもとで地方行政の実務にあたった地元の役人。中央から派遣された役人ではなく、その土地に根づいた有力者が務めましたと説明しています。
息子の北条義時は次男でしたが、長男が頼朝挙兵の直後に戦死したため、家を担う立場になります。四郎という名を持つ時政の子であることから「小四郎」、後に江間の土地を得て「江間小四郎」とも呼ばれました。
深井さんは、この義時が後にラスボスとなる後鳥羽上皇と戦う人物になると、先の展開を予告しています。
見逃しから懐刀へ、梶原景時
次に紹介されるのは梶原景時です。義経と敵対したことで後世の軍記物では悪く言われがちですが、実際には非常に活躍している人物だと深井さんは評価します。
景時は平将門と同時代の平良文(将門の叔父)の子孫とされ、相模国の鎌倉党と呼ばれる武士でした。石橋山の合戦では平家方として参戦していました。
その石橋山の合戦で、景時は隠れていた頼朝を見つけながら見逃し、後に頼朝の傘下に入ります。理由はよくわかっていませんが、この見逃しが二人の関係の起点になりました。
(景時は頼朝の)命の恩人では。
頼朝のもとで、景時は軍事機関である侍所のナンバーツーを務め、御家人統制の要として重用されます。ナンバーワンの和田義盛を補佐し、むしろ実質上のナンバーワンのように動いたといいます。
景時はまた、関東独立の思想を打ち出して頼朝と対立した上総介広常を、双六の最中に殺した人物でもあります。頼朝の懐刀として、実務能力も高く評価されていました。
木曾義仲を破って初めて入京した際、義経たちの報告が要領を得ないものだったのに対し、景時は詳細な戦果を記して頼朝に報告しました。この一件で「仕事ができる」という評価を得ています。
三浦義澄・和田義盛と、根深い恨みの伏線
続いて三浦義澄です。三浦半島を本拠とする三浦氏の出身で、もともとは相模の在庁官人でした。北条氏と同じような立場で、平氏の出身とされますが、近年ではその系譜は不明とされています。
三浦義澄は頼朝の挙兵に参加しますが、石橋山の戦いには合流できませんでした。この時、父の三浦義明が敵方に攻められ、自害に追い込まれてしまいます。
自害に追い込んだのは畠山氏でした。ところがこの畠山氏は、その直後に頼朝軍へ加わります。つまり、三浦義澄は父を死に追いやった畠山への恨みを抱え続けることになり、これが後の事件の伏線になると深井さんは示唆します。
三浦義澄自身は頼朝の死去の翌年に亡くなります。息子の三浦義村は北条義時と非常に仲が良く、最後まで友情で結ばれていくのが特徴です。北条家と三浦家の関係は、この友情が軸になっていきます。
和田義盛は、ドラマだと分かりにくいものの、実は三浦家の一族で、三浦義澄の甥にあたります。安達盛長に次ぐ最古参メンバーで、頼朝が石橋山の戦いの後に海路で逃げた際もそばにいて信頼を得ました。
和田義盛は侍所の長官である侍別当となります。晩年には最長老として隠然たる力を誇るようになっていったと、深井さんは後の展開を予告しています。
千葉常胤と比企能員、頼朝を支えた二つの重み
千葉常胤は、ドラマで見るよりも圧倒的な実力を持つ武士だと深井さんは言います。参加の際、頼朝から「あなたを父と思います」と言われたほどの人物でした。
千葉常胤と上総介広常は房総半島の二大巨頭で、彼らが仲間にならなければ挙兵直後に頼朝は死んでいたとされます。その広常が謀殺された後、領地の多くが千葉常胤に渡り、彼はさらに勢力を増していきました。
そのため千葉常胤は、壇ノ浦の戦いで頼朝の弟・源範頼の主力軍に従って戦います。主力軍のなかの主力という重要な立場でした。宴会では舞踏を披露するなど、芸道に通じる一面もあったと伝わります。
比企能員は、この回でとくに重要な人物として紹介されます。比企氏は、比企尼が頼朝の乳母として応援した縁があり、頼朝はこの恩から比企氏を引き立てていきました。
比企能員は娘の若狭局を二代目将軍・頼家に嫁がせ、子も生まれます。これにより比企氏は源氏の家に非常に近い有力な家となりました。
頼朝が一つの家だけに権力を握らせないようバランスを取ろうとした結果、比企氏と北条氏が御家人の二大巨頭となります。北条氏からすれば比企氏は目の上のたんこぶで、この対立が後の事件につながっていきます。
比企尼が頼朝の乳母を務めた恩の家。能員の娘・若狭局が頼家に嫁ぎ、子も生まれて源氏の家に接近
政子が頼朝の妻となった家。頼朝の家族として権力を握り、接近する比企氏を目の上のたんこぶとみる
文官4人と、腕っ節系の残り一人
安達盛長は、頼朝の流人時代から仕えた部下で、比企尼の長女の婿にあたります。挙兵前から身辺の世話をし、挙兵後もずっと信頼され続けました。
(安達盛長は)絶対に裏切らない人として位置付けられてて、この13人の中でも筆頭って感じですね。
楊さんは、安達盛長の序列を北条に次ぐものだったとする本もあると補足します。最古参で、非常に重要な家臣でした。
八田知家は、比較的最近になって知られるようになった人物ですが、参加自体は古く、範頼軍に従って奥州合戦などで活躍しています。栃木の宇都宮出身で、常陸国八田の地名から名字を取ったとされます。ここまでが腕っ節系です。
ここからは文官系に移ります。まず大江広元は、頼朝の書記として大活躍した人物です。守護地頭の任命権の原案を考えたのも大江広元だとされています。
大江広元は行政の実務能力と京都の人脈を持ち、公文所や政所が設置されるとその長官となりました。北条氏とも協調しながら政治を補佐した、いわば幕府のブレーンです。
三善康信は、頼朝が伊豆で流人だった頃に京都から月に3回も手紙を送ってくれた人物です。頼朝の再起後に重用され、恩に報いる形で仕えていきました。
中原親能は、青年期を相模国で過ごし、頼朝とは長年の知り合いでした。京都で貴族の家来となっていましたが早くから頼朝を手伝い、後に鎌倉で幕府の中枢になります。理由は、彼が大江広元の兄だからです。
文官の最後は二階堂行政です。深井さんは「行政するために生まれてきたみたい」と名前をいじりつつ紹介します。1184年頃に幕府に合流し、朝廷での財政経験を活かして幕府でも財政に携わりました。
二階堂行政は政所の次官、後に長官である別当となり、大江広元のもとで実務能力を発揮しました。深井さんは、腕っ節系で紹介し忘れていた安達藤元にも触れます。武蔵国を拠点とし、平治の乱の前から家来だったとされ、文字も書けた人物だといいます。
書記から公文所・政所の長官へ。守護地頭の任命権の原案も考えた幕府のブレーン
流人時代の頼朝に京都から月3回手紙を送った。再起後に重用される
大江広元の兄。京都の貴族の家来から幕府の中枢へ
朝廷での財政経験を活かし、政所別当として実務を担った
カリスマ亡き組織に始まる争い
以上で13人がそろいました。深井さんは、この一人ひとりがキーパーソンになっていくと同時に、頼朝の死後から13人同士の争いも始まると予告します。
なんかカリスマが亡くなった後の組織って大変ですね。
頼朝という絶対的なカリスマが死んだ瞬間から、御家人たちの内乱が始まっていきます。この争いの本編は次回に持ち越されます。
樋口さんは「ドラマを見ていないと一回では覚えられない」と正直な感想を漏らします。深井さんも、すべてを覚える必要はなく、北条時政や義時などの主要人物を押さえておけば十分だと答えます。
この13人がどんなドラマを繰り広げるのかってことですね。
13人という顔ぶれの紹介を終え、次回はいよいよ、彼らが繰り広げる争いの物語へと進んでいきます。
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まとめ
この回は、源頼朝の死をきっかけに、二代目・頼家を支えることになった「鎌倉殿の13人」の顔ぶれと、その合議制の実像を整理する内容でした。人物紹介を通して、次回以降の内乱の伏線が張られています。
- 頼朝は1199年に53歳で死去。死因は落馬・病死・暗殺と諸説あり定まっていない
- 二代目頼家への評価は、『吾妻鏡』の辛口評価と、堅実な後継者とみる学者の見方に分かれる
- 13人の合議制は「頼家の権限を制限する組織」とも「頼家を補完する体制」とも解釈され、研究者間で見解が割れている
- 13人は腕っ節の強い武士系9人と、行政・財政・朝廷交渉を担う文官系4人に大別できる
- 北条家は事務能力と貴族的感覚を併せ持ち、武士系と文官系をつなぐ橋渡し役として重要な位置を占めた







