鎌倉殿の十三人は、なぜ動き出した直後に崩れたのか
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この回は前回に続き、源頼朝の死後に成立した「鎌倉殿の十三人」による合議体制のその後を追います。
深井さんによると、十三人が合議的に動き始めた直後から、この体制はあっさり崩壊していきます。
この十三人が合議的に動き始めた直後からですね、ちゃんとこれが崩壊していくということが起こります。
しっかり崩壊していくんです。
最初の事件が、頼朝の側近だった梶原景時の失脚、いわゆる梶原景時の変 ── 御家人たちが連署して梶原景時を弾劾し、鎌倉から追放した事件。1200年に景時は一族とともに討たれましたです。第二代将軍として源頼家が代替わりした翌年に起こります。
きっかけは景時の告げ口でした。御家人の結城朝光が頼家の陰口を言っていた、と景時が頼家に告げます。
ところが結城朝光は「言っていない」と反発します。頼朝の追善供養で朝光が「二君に仕えず」と述べたことが、次の将軍である頼家を下げているとも取れる、という微妙な話でした。
結城さんがこんなこと言ってましたよっつって。そしたらこの結城朝光が、は?みたいになって、言ってねえしみたいになったんですよね。なんか中学校みたいなことが起こる。
結城朝光は他の御家人を仲間につけ、逆に景時を弾劾します。景時は上総介広常を殺すなど恨まれ役を担ってきたため、御家人からあまり好かれていなかったといいます。
頼家は景時を守ることができず、景時は一族とともに鎌倉を退去します。そして京都へ向かう途中、駿河国で討たれてしまいました。
景時を討った吉川朝兼は北条時政の指揮命令下にあったとされ、北条家が殺したのではないかという見解もあります。側近中の側近の一人が、こうしてあっけなく退場していきました。
なんかショックですね。みんなで頑張ったのに。
比企氏の乱と、頼家惨殺の裏にある北条の疑惑
次に起こるのが比企氏の乱です。北条氏と比企氏は、将軍家に次ぐ勢力として、鎌倉幕府の中で争っていました。
両者の争い方は、誰が誰の乳母になるか、誰に娘を嫁がせるかといった、外戚として力を持とうとする形でした。この時点で北条氏と比企氏の力はほぼ互角だったといいます。
頼朝の妻・政子を出し、頼家の弟である千幡の乳母も政子の妹。千幡は後ろ盾が北条だけの「北条カード」
頼家の乳母を出し、頼家の妻も比企氏の娘。頼家の息子にも比企氏の血が入っている
均衡が崩れたのは、頼家が乳母である比企氏を頼りにし始めたためでした。北条氏からすれば、二代将軍が比企氏に寄っていく危機的状況です。
北条氏の希望は、頼家の弟である千幡でした。千幡は乳母も外戚も北条氏で、いわば北条カードしか持っていない子だったからです。
そこへ比企氏が攻勢に出ます。千幡の乳母の夫であり頼朝の弟でもある阿野全成を、反乱の意思ありとして逮捕し、配流の後に殺害させました。千幡の後ろ盾を崩しにいったわけです。
さらに頼家が若くして病に倒れ、後継者をめぐる話し合いが持たれます。頼家は、関東28カ国を自分の息子に、関西38カ国を弟の千幡に譲るという痛み分けの案を出しますが、どちらの賛同も得られませんでした。
この局面で、頼家が比企能員を病床に招き「北条を倒していい」と許可を与えた、という情報が北条政子の耳に入ります。
これを受けて北条時政は、ブレーンである大江広元を味方につけ、比企能員を先に誅殺します。やられる前にやる、という判断でした。
そして病から回復した頼家を幽閉して失脚させ、弟の千幡を実朝と名づけて第三代将軍に据えました。
殺伐してるけれども、後継者争いあるあるですね。
ここで樋口さんが、頼家は本当に許可を与えたのか、と問いかけます。深井さんは「とてもいい質問」と応じ、これが本当かどうかは分からないと答えます。
つまり、頼家も比企氏も言っていないのに、北条氏が「約束したろ」と口実を作って攻めた可能性がある、というのです。
だって大江広元、頭いいわけですよね。がいるわけですね、向こうのブレーンとして。考えてもおかしくないですよね。
幽閉された頼家は、入浴中を襲撃されます。陰嚢をつかまれ、首を絞められた上で刺殺されるという惨殺でした。行動を止めるためだったのではないか、と樋口さんは推測します。
問題は、頼家が政子の息子であり、時政の孫でもあった点です。北条氏が主導したとすれば、自分たちの孫であり息子である人物を殺したことになります。
なんかこの辺を見ると、あ、やっぱこの人たち武士だったんだなって気づかされますね。
深井さんは、頼朝がいる頃はなんとかまとまっていた面々が、頼朝がいなくなった瞬間に親族同士で殺し合い始めた、と整理します。
権謀術数の果てに幕府の最高実力者となった北条時政
十二歳で第三代将軍となった実朝の名は、後鳥羽上皇が与えたものでした。後で意味を持つ伏線だといいます。
実朝の擁立に伴い、頼家の派閥とその残党の粛清が進みます。ライバルの比企を倒し、実朝を将軍に据え、その残党も片づけたことで、幕府は少しずつ北条氏の天下になっていきました。
比企氏の乱の後、北条時政は大江広元とともに政所別当 ── 政所は幕府の政務を担う機関で、別当はその長官にあたる役職。時政はここで幕府の最高実力者の地位を得ましたに就任し、一気に幕府の最高実力者として君臨します。
ここで樋口さんが、キーマンである時政のこれまでの動きを補足します。時政は頼朝の義父として、鎌倉幕府の立ち上げから付き従ってきた人物でした。
京都人脈や交渉能力を持っていた時政は、頼朝から対京都の使者に抜擢されます。1185年に頼朝が全国の守護地頭の任命権を獲得した際の交渉も、時政が担いました。
すごく彼も京都人脈とか交渉能力とか持ってたっぽいので、頼朝は時政を対京都の使者とかに抜擢するんですよね。
ところが時政は途中で頼朝に更迭されます。京都の治安を守るために盗賊を処刑し、それを鎌倉に事後報告したことが、ガバナンスを重んじる頼朝の不興を買ったのです。
勝手に動き出したぞ。
時政と頼朝の関係も変化していきました。スタートアップの初期には中核部隊だった時政も、組織が大きくなるにつれ特別扱いする必然性が薄れ、鎌倉内での立ち位置が相対的に低下していったといいます。
頼朝が生きている間、時政は目立った役職を与えられませんでした。しかし頼朝の死で重しが取れ、比企氏を武力で滅ぼし、自分への権力集中に走っていきます。
義理の息子を冤罪で殺す。畠山重忠の乱と時政の暴走
比企氏を滅ぼした後、時政の暴走が本格化します。大きな事件が、畠山重忠の乱でした。
畠山重忠は、頼朝の挙兵直後には平家方の敵として石橋山の戦いに参加し、三浦家の三浦義明を自害に追い込んだ人物です。その後に頼朝軍へ味方として加わり、三浦家から恨まれていました。
一方で畠山重忠は北条家の娘を妻に迎え、時政の義理の息子でもありました。時政にはもう一人、平賀朝雅という義理の息子がいます。
時政は、この平賀朝雅を強引に出世させたいと考えていました。ゆくゆくは実朝に代えて将軍に据えようとしていたようだ、と深井さんは説明します。
たまたま平賀朝雅と畠山親子が、武蔵国という広い地域をめぐって対立します。どちらも時政の義理の息子でしたが、時政は平賀を推したいと考えていました。
そこで時政は、畠山が謀反を起こすつもりだという嘘をつき、畠山親子を殺します。祖父を殺された恨みを持つ三浦義村を扇動する形で、畠山を倒しました。
しかしこれは冤罪でした。裏切りも謀反もしていない義理の息子に因縁をつけ、いきなり殺したことになります。
これに、実の息子である北条義時が激しく怒ります。義時は畠山重忠と仲が良く、本当に謀反なのか確認してから動くべきだと言っていたのに、時政が殺してしまったからです。
重忠の首が義時の陣にもたらされた時、義時は泣いたと伝わります。無実の罪で有力武士を殺したことに御家人からも批判が集まり、義時はさすがにやりすぎだと憂慮したかもしれない、といいます。
これはマジで仁義ないな。
すでに有利なのになぜ欲をかいたのか。時政の失脚
畠山重忠を排した時政は、さらに暴走します。推しの義理の息子である平賀朝雅を、頼朝の血筋ではない将軍に据えようとしたのです。
別の血筋の将軍を立てることで、より権力を集中できるというのが時政側の戦略でした。平賀朝雅は時政の娘婿でもあります。
深井さんは、実朝も北条家が後ろ盾なのだから、自分の孫や息子が将軍でいいはずだと述べ、ここでさらに欲をかく感覚は正直わからないと話します。
ここでさらに欲をかくっていうね。この感覚は僕も正直わからないです。
樋口さんは、時政の幕府内での立場がよほどもろかったのかもしれないと補足します。実朝がまだ幼く、力量が未知数だったため、平賀朝雅を将軍にしたいという意見もあったといいます。
ただ深井さんは、幼いからこそ傀儡として動かせるはずだと考え、その理由には納得感がないと述べます。すでに有利なのに、それでも気に入らず、罪もない人に罪を着せて殺し、息子を怒らせていったのです。
時政の暴走に、政子も敵に回ります。実朝は政子の息子であり、時政の孫だからです。孫の実朝を廃そうとしたことに、いよいよ北条義時と北条政子が切れます。
二人は京都にいた平賀朝雅に刺客を送って殺害します。そして時政と、その妻で義理の母にあたる牧の方を伊豆に謹慎させ、実権を完全に奪い取りました。
平賀朝雅かわいそう。
深井さんは時政の転落を、田舎の侍が急に大きな権力を握ってバグった状態にたとえます。
あるじゃないですか、あの、何て言うかな、宝くじ当たって人生が崩壊するみたいなやつに近いなと思います。
樋口さんが、時政は頭のいいキャラだったはずだと指摘すると、深井さんは、大金を平気で使える人とバグる人がいるのと同じで、権力の器を超えてしまったのではないかと答えます。
樋口さんはこれに、別の視点を添えます。読んだ本には、政権運営に対するスタンスの違いが対立を生んだという考察もあったといいます。
平賀朝雅は源氏の血を引くものの、頼朝の血は引いていません。政子と義時は、幕府を抑えるには頼朝の血筋がまだ重要だと認識しており、頼朝の血を引かない者を担げば御家人が納得しないと考えていた可能性がある、という考察です。
和田義盛との激突と、義時への権力集中
時政が去り、北条義時と北条政子が実権を握ります。比企氏はすでにおらず、安達盛長、千葉常胤、三浦義澄といった初期からの重鎮も亡くなっていました。
そこで新たなライバルとして浮上したのが、和田義盛です。和田義盛は最古参の一人で、侍所の長官である侍別当を務める軍事の要でした。
発端は、北条義時とも和田義盛とも関係のない和泉親平のクーデター計画でした。二代将軍頼家の子・千寿丸を擁立し、義時を殺害しようとする計画です。
ほんとみんな擁立しがちだね。
深井さんは、頼家がしっかり実権を握れていれば大丈夫だったが、合議制になって誰が一番権力を持つか分からなくなったために競争が起こったと整理します。
この計画は未然に防がれますが、一味の中に和田義盛の息子がいました。義時はこの息子を、面前で縛り犯罪者のように連れ去るという、プライドを傷つける形で扱います。
これに和田義盛が激怒し、義時を殺そうとする流れになります。これは義時が、和田義盛を殺す口実を作るためにわざと挑発したという説もあります。
和田義盛が邪魔だから殺したいんだけど、殺す口実がないので、殺す口実を作るいい機会だとして。
実際に和田義盛は挙兵します。しかしその情報を、北条義時と仲の良い三浦義村が事前に義時へ伝えました。
和田義盛は150騎を率いて、義時のいる将軍御所を襲います。ですが襲撃を事前に知っていた義時方はこれを鎮圧し、和田氏を滅亡させることに成功しました。
和田氏を倒した義時は、和田義盛が務めていた侍所別当を兼務します。これにより義時は政所と侍所、政治と軍事の両方の長官を兼ね、絶大な権力を持つようになりました。
梶原景時の失脚
御家人に弾劾され、退去の途中で討たれる
比企能員の誅殺
後継争いのなかで先手を打たれ、比企氏が滅ぶ
畠山重忠の乱
時政が冤罪で義理の息子を殺し、義時が反発
時政の失脚
平賀朝雅擁立をきっかけに義時と政子が時政を追放
和田義盛の滅亡
義時が挑発から挙兵させ、鎮圧して権力を集中
十三人が三人になった。諸行無常の権力闘争
樋口さんは、頼朝の死後の展開を「めちゃくちゃ」と評します。偉大なリーダーである頼朝のもとにまとまっていた御家人たちが、頼朝の死後は内部闘争を繰り返したからです。
梶原景時が失脚し、比企能員が討たれ、畠山重忠が失脚し、和田義盛が討たれる。食うか食われるかの闘争の中で生き残ったのが北条氏でした。
北条氏の中でもさ、政子アンド義時versus時政の骨肉が争いが展開されて、最後に生き残ったのが政子と義時の姉と弟ですね。
深井さんは、鎌倉殿の十三人という体制自体が結構な幻想だったと振り返ります。合議制になった瞬間から、面々は減り続けていったからです。
梶原景時と比企能員が内紛で死亡し、安達盛長と三浦義澄が病死。ほかの何人かも早い段階で隠居し、時政が失脚します。最後に残ったのは、大江広元、三善康信、北条義時の三人でした。
頼朝の死後に成立した合議体制の十三人
内紛・病死・隠居・失脚を経て、大江広元・三善康信・北条義時の三人だけが残る
二人は、この権力闘争をスタートアップになぞらえます。ビジネスに例えがちだと自覚しつつ、実際に新しいことをやっている点で似ていると話します。
樋口さんは、状況が急激に変わって求められる能力や器が変わったのに、やっている人は同じである点がスタートアップと似ていると指摘します。戦って勝つのが得意だった人が、いきなり政治や人のとりまとめを求められるからです。
深井さんは、組織が安定する前の段階だからこそ人がゴロゴロ変わると述べ、この後に北条氏へ落ち着くことで、ある意味で鎌倉幕府が誕生し安定化したとも言えると整理します。
鎌倉幕府ワンのラスボス、後鳥羽上皇の登場
内乱の末に北条氏が生き残ったところで、今度は外敵が現れます。後鳥羽上皇です。
来た。ラスボスや。ラスボスや。
深井さんは後鳥羽上皇を、鎌倉幕府ワンのラスボスと呼びます。元寇のような他の敵もいるものの、鎌倉幕府最大の相手は後鳥羽上皇だといいます。
この後鳥羽上皇との戦いが、次回のテーマとして予告され、この回は締めくくられます。
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まとめ
頼朝の死後、鎌倉殿の十三人は合議を始めた直後から内部抗争で崩れ、梶原景時、比企能員、畠山重忠、和田義盛が次々に退場しました。権力に走った北条時政も義時と政子に追放され、最後は義時への権力集中と後鳥羽上皇との対決へと向かいます。
- 十三人の合議体制は成立直後から内紛・病死・隠居・失脚で減り続けた
- 比企氏の乱では頼家が惨殺され、北条氏が主導した疑惑も残る
- 北条時政は義理の息子・畠山重忠を冤罪で殺し、平賀朝雅擁立を機に失脚した
- 和田義盛を倒した北条義時が政所と侍所の長官を兼ね、権力を集中させた
- 最後に残ったのは大江広元・三善康信・北条義時の三人で、次回は後鳥羽上皇との戦いに入る







