「もう研究し尽くした」と言われた19世紀物理学
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科学技術の歴史編の第4回では、科学革命以降の話と、科学というものの限界について語られています。深井さんはまず、19世紀後半の物理学の到達点から話を始めます。
ニュートン以降、電気や磁気が発見され、その理論も計算式も出てきていました。深井さんによれば、当時の物理学者たちは「この世の中で起こっていることを大体説明できた」と考えていたといいます。
その自信は極端なところまで進んでいました。若い学生が物理学を学びたいと言っても、もう研究し尽くされているから別の道に進んだ方がいい、と勧める空気があったそうです。
もう研究し尽くされて他もう残ってないからなんない方がいいよとか言ってた。ハーバード大学の学科長とかがそういうこと言ってんだよ。
基本法則はすべて発見されていて、今後何か新しい発見がされる可能性は極めて低い。19世紀の科学者たちはそう考えていたと深井さんは説明します。
量子力学の登場で「まだわかっていない」が明らかに
ところが20世紀に入ると、その前提を揺るがす発見が起こります。楊さんが「量子革命」と呼ぶ、量子力学の登場です。
深井さんによれば、身近なレベルの力学はニュートン力学で説明できるものの、めちゃくちゃ大きい世界や小さい世界は説明できていなかったといいます。宇宙や量子の世界がそれにあたります。
重要なのは、当時の科学者たちは説明できていないことすら、わかっていなかったという点です。量子力学が進歩し、ニュートン力学とは違う原理だとわかった時に、もう一度、科学革命のような転換が起きたと深井さんは語ります。
なんか同じこと繰り返してるな。知らない世界があって、はっとさせられるみたいなのがずっと繰り返されてます。
これはさ、まだあるかもっていうことを示唆してると思います。
量子力学の発展は、コンピューターに欠かせない半導体などを生み出しました。今はさらに量子コンピューターが作られようとしている時代でもあります。
科学が到達した先で起こる「どんがらがっしゃん」
ニュートン的な世界観では、適切な数学計算をすればあらゆる自然現象を予測し説明できると考えられていました。しかし深井さんは、それができないどころか、わからないことが死ぬほどたくさんあるとわかった、と繰り返します。
ここから深井さんは、科学の不完全性について話を進めます。科学は実証と実験をしているため、証明できたことについては、人間の知性が到達できる限界までは到達していると言えます。
ただし深井さんは、それはあくまで人間の知性の限界であって、真理そのものからどれぐらいの距離があるかはわからないと指摘します。実験や実証で到達したはずのところでさえ、量子力学のような転換が起こるからです。
科学を否定しようとして、非科学的な直感とかで否定されてもクソ困るんだけど、一方で科学が絶対に正しいかっていうと、そうなってもないっていう、このバランス感覚をどう取るかっていうのが実はすごく大事なんだなっていうのは、この話からも僕は学びましたね。
樋口さんは、実験検証をしているということは、そこに問いを立てられている人間が存在しているということだと応じます。そもそも問いが立てられていないものが世の中にはたくさんあるだろう、という視点です。
結局問いを全てに立てるっていうのがまず難しいから。
流動的だからこそ、科学は頼りになる
楊さんは、科学は常に流動的で、書き換わることもあり得る存在だと整理します。「これが絶対正しい」という硬い科学観には徐々に異議が提示されてきたといいます。
科学っていうのはちゃんとアップデートされていくものだっていう感覚の方が科学の実態にそぐしてるんじゃない?っていうふうな考え方も提唱されているわけですよね。
深井さんも、科学が進歩しているということは、前のものを否定しながら先に進んでいるということでもある、と補足します。100年経てば全然違うことを言っている場合もあるわけです。
では、書き換わるなら科学は頼りないのかというと、そうではない、と楊さんは言います。科学が科学として認められるためには、大きなコストがかかっているからです。
- エビデンスの公開が必要
- 厳密な手順を踏まえた検証がなされる
- 学会などで激しく批判される
- 科学者は嘘を言ってはいけない倫理的な縛りを負う
こうした手続きとコストを経て、やっと「今のところ一番確からしい知識」として科学は認められます。だから流動的だからといって失望するのは別物だ、と楊さんは述べます。
深井さんは、自分の直感のみを信じるのも違うと付け加えます。直感自体は大事でも、実験と実証の結果を大切にする姿勢を失ってはいけない、というのがこの回で繰り返される軸です。
科学は完全ではないけど、じゃあその代替案がそれ(直感のみ)かっていうとそうじゃないでしょって話になるんで、やっぱここはバランス感覚がすごい大事なところだなと思います。
ヒュームが指摘した帰納法の限界
続いて深井さんは、哲学の領域からの指摘に話を移します。実証と実験そのものにも客観性の限界があるという論点です。
例として挙げられるのが、哲学者ヒュームによる帰納的推論の限界の指摘です。帰納法とは、何度もデータを取って並べ、そこに法則性を見いだす、まさに実験で証明する科学の思考プロセスにあたります。
深井さんは身近な例で説明します。ライオンがシマウマを食べた、ヌーを食べた、ウサギを食べた。だからライオンは肉食動物である、と考えるのが帰納法です。
事例を集める
ライオンがシマウマ・ヌー・ウサギを食べた
パターンを抽出
複数の事例に共通する法則を見いだす
結論
ライオンは肉食動物である
ただしヒュームは、この帰納的推論が論理的に成り立つには大前提が必要だと指摘した、と深井さんは言います。わかりやすいのが太陽の例です。
太陽は毎日東から昇り続けているから、太陽は東から昇る、と考えるのは帰納法的です。しかしそれは「同じルールで動き続ける」という前提の上に成り立っています。
もしかしたら五十万年単位で変わるかもしれないし、三十億年単位で変わるかもしれないじゃん。
つまり帰納法を信じることは、そうした変化の可能性を勝手に否定する立場に立つことになります。だから帰納法の使用を合理的に正当化することはできない、とヒュームは述べました。
深井さんはこれを「斉一性の原則」として説明します。未調査の対象も、重要な点で調査済みの対象と似ているはずだ、という確証のない前提のことです。この前提の上に成り立っている以上、科学が本当に真かどうかは言えない、という指摘になります。
ただし深井さんは、そこまで言うと何の研究もできなくなるとも付け加えます。とりあえず斉一性の原則はあるだろうとして研究しているのが今の科学だ、というのが現実的な立場です。
客観性の限界と、東洋哲学からの視点
樋口さんは、ライオンの例で帰納法の限界を補足します。シマウマやヌー、ウサギだけを見て肉食だと判断しても、動いている葉っぱを食べる可能性を観測していなければ、本当のところはわからない、というわけです。
深井さんは、そこまでは科学も想定して証明できているとしたうえで、斉一性の原則が問題にしているのはもっと先だと言います。人間が知り得ない別の法則によって前提が変わる可能性を、ない前提で進めているのはおかしい、という指摘です。
さらに深井さんは、ヒュームに限らず哲学の領域からさまざまな指摘があると紹介します。客観的事実の客観性を100パーセント客観的に獲得することは不可能だ、という主張もそのひとつです。
全て認知からしか出てきてないから、その認知してる時点で客観性はない。
深井さんは東洋哲学からも同じことが言えると述べ、唯識を例に挙げます。要は、科学を否定しようと思えば哲学レベルでは否定できてしまう、という状態です。
深井さん自身は、科学を信奉していると前置きしたうえで、あくまで科学は完璧ではないと言いたいだけで、否定したいわけではないと繰り返します。
クーンが指摘した、科学に残る社会性とバイアス
もうひとつ深井さんが挙げるのが、科学者クーンが『科学革命論』の中で述べた指摘です。科学は客観的なデータの相克によって進歩しているように思えるが、意外とそうではない、という内容だといいます。
深井さんは、学会などで批判をオープンに受け入れる環境は、人類の中で最もエラーチェックを行っている仕組みだと評価します。しかし、人類は社会的な動物なので、科学にも社会性が残ると続けます。
クーンが言う「通常科学」には、科学者コミュニティの中で大前提として扱われている事実があります。それに反する実験結果が出ても、最初のうちは「実験を間違えたかな」と思ってしまう、と深井さんは説明します。
もうこの時点で、厳密に言うと、超客観的に実験結果だけで動いてないよねと。バイアスかかってるじゃんって言ってるわけですよね。
そのため、前提をひっくり返すようなパラダイムシフトが起こるには、かなりデータが溜まる必要があります。この、常識では説明できない事象を深井さんは「変則事象(アノマリー)」として紹介します。
樋口さんは、その仕組みで潰されてきたものが歴史の中にたくさんあっただろうと応じます。深井さんは、地動説がまさにその例だと答えます。
どんどんどんどんそのギャップを観測して蓄積していかないと認識の転換が起きない。
深井さんは、こうしたバイアスは科学では他の領域に比べてだいぶ少ないとしつつ、社会科学ではもっと大きいと指摘します。歴史学ではどの先生が何を言っているかという権威の影響が大きく、超自由に発言できるとは限らない、というのが正直な見方だそうです。
学会もホモサピエンスが形成している組織である以上はさ、そういうルールもね、ゼロではないよ。
結局は「態度」に行き着く科学との付き合い方
クーンの指摘を踏まえて深井さんは、科学はこれ以上客観的に証明できないレベルで超頑張っているが、それでも常に限界があるとまとめます。絶対正しいと思っていることも、いつひっくり返されるかわからない状況に置かれ続けているわけです。
一方で、疑い続けるのは大変であり、信じた方が動きやすいという現実もあります。樋口さんは、科学を信じていた方が実際にいろいろなことが便利になっている、と応じます。
すべてを疑って検証していたら時間が足りません。ある程度ここまでは合っていることにして、その先の研究を進めないと、今の到達点までは来ていない、というのが二人の共通認識です。
斉一性の原則とかを信じないという態度を取っちゃうと、その実験しても意味ないってなっちゃうんで。代替案がないよね。
深井さんは、社会科学はもっと妥協の連続だと言います。社会のデータは取りきれないため、実証データの取り方も物理などに比べれば妥協になります。ただし、大事なのはそれが「マックス」であることだと強調します。
樋口さんも、結局は態度の話になってくると同意します。さらに、理系の方が再現性が高そうだという印象を、ボールを落とせば同じところに落ちる例で説明します。
深井さんは、物理は因果関係を限定して実験しやすいが、社会は因果関係が広いと補足します。心理学や社会学の実験は、証明という意味で物理よりずっと難しいというわけです。
樋口さんは、幼少期の経験が大人になってどう影響するかといった研究を例に挙げます。検証に何十年もかかるうえ、時代や文化の差も起こりうるため、再現性の確保が難しいと語られます。
こうして科学の総論は終わり、次回からは各論に入っていきます。深井さんは、次に金属という汎用の発明を取り上げ、そのインパクトを見ていくと予告します。
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まとめ
この回は、19世紀に「もう研究し尽くした」とまで言われた物理学が量子力学で覆された経緯を出発点に、科学の限界を哲学と科学史の両面から整理する内容でした。ヒュームやクーンの指摘を通して見えてくるのは、科学が完璧でないと認めたうえで、それでも実証を最大限まで頑張る「態度」こそが科学的だ、という結論です。
- 19世紀の物理学者は「もう発見し尽くした」と考えていたが、量子力学の登場でそれが誤りだと明らかになった
- 科学は流動的で書き換わるが、公開・検証・批判・倫理という大きなコストを経て「今のところ一番確からしい知識」として認められている
- ヒュームは帰納法が「斉一性の原則」という確証のない前提に依存していると指摘し、科学が真かどうかは論理的には言えないと論じた
- クーンは、通常科学の前提に反する結果は最初「実験ミス」と疑われるとして、科学にも社会性とバイアスが残ると指摘した
- 科学は完璧ではないが、直感のみを信じる代替案も違う。これ以上できないほど実証を頑張る「態度」こそが科学的だとまとめられた




