形だけの和解と、望まない政略結婚
前回までに語られたのは、逃亡未遂事件を起こした青年フリードリヒが、父である軍人王からひどい仕打ちを受けた話です。冒頭で深井さんと楊さんは、フリードリヒ自身は何も悪いことをしていないと口をそろえます。
だって本人ね、芸術が好きで、ただなんか楽しくやってて。
禁止されて、変な仕打ち受けて逃げたらなんか捕まえられて。最悪っすよね。
本当に生まれる時代と生まれた家の噛み合わせが本当に不幸でしたよね。
楊さんによると、父子の和解はまず形式的なものから始まりました。逃亡事件からしばらくして、軍人王はフリードリヒが行政を任されていた小さな村を訪れます。人々が見守る中、フリードリヒは地面にひざまずき、涙を流しながら父の足にキスをして忠誠を誓い、父も息子を抱いて許すという儀式が行われました。
この儀式で、フリードリヒは監禁に近い生活から解かれます。直後には姉ヴィルヘルミーネの結婚式への参列も許され、久しぶりにプロイセンの首都ベルリンへ戻りました。さらに翌年には、フリードリヒ自身がエリザベート・クリスティーネと結婚します。
フリードリヒの結婚は、当時としては当然の政略結婚でした。軟禁中に決まった話だったため、フリードリヒは逆らうことができません。父には「ありがたく受けます」と手紙を書く一方で、ほかの人には「死んだ方がまし」という手紙を送っていたといいます。
楊さんは、エリザベート・クリスティーネもかわいそうだったと話します。フリードリヒ夫妻はずっと仲が良くなく、二人の間に子どもは生まれませんでした。深井さんは、この時点の父子関係を「形式的には和解したように見えても、心の中では和解できていない状態」と整理しています。
処刑の記憶から生まれた「王として生きる」覚悟
逃亡からしばらく経つと、フリードリヒは軍務への復帰を認められ、第15歩兵連隊を任されます。連隊長としての勤務ぶりは非常に勤勉で、軍人王もすっかり満足したそうです。
逃亡から4年後ぐらいにポーランド王位継承戦争が起こると、22歳のフリードリヒは自ら出陣を希望しました。実際に出陣が許され、そばにいた軍人たちから戦術などを学んで成長していきます。
楊さんは、フリードリヒの変化を、かつての処刑の場面で王として生きる覚悟が決まった結果ではないかと見ています。ただし、これは本人の言葉ではなく、楊さん自身の推測だと断っています。
(フリードリヒは)運命に抗えないということと、自分の適性とか特性とか、やりたいこととの葛藤をするのもやめたんだと思うんですよね。
覚悟を決めて、とにかくやるべきことをやるっていうモードに突入したんじゃないかなっていう、これ予想ですよ。
楊さんによれば、フリードリヒの出陣の希望もレポートの提出も、父へのポーズだけではありませんでした。軍事の知識を実際に血肉として学んでいたことが、その根拠になっています。
同じころ、軍人王は肥満や痛風に悩み、50歳前にしてかなり衰えていました。死を覚悟した軍人王は家臣を集め、息子には統治の能力があり、軍を維持する約束もしてくれたと語ります。病床にフリードリヒを呼んで、国政の助言もあれこれ与えました。
ところが、軍人王は奇跡的に回復します。フリードリヒが姉ヴィルヘルミーネに宛てた手紙には、少し残念だという本音がにじんでいたそうです。
死ぬんじゃないんかいってなったんですよ。
なるほど。気持ちはわかる。不謹慎だけど気持ちはわかる。
その後、フリードリヒはまた戦争への参加を希望しますが、軍人王は代わりにプロイセン各地の巡察を命じます。フリードリヒは各地を回り、軍人王が喜びそうな内容の報告をこまめに送りました。楊さんは、父が何をしたら安心するかをわかって動ける点も、フリードリヒの優秀さだと話しています。
ラインスベルク城の幸福な3年間と「第二の修行時代」
結婚によって自分の居を構えられるようになったフリードリヒは、ラインスベルク城に移り住みます。軍人王から離れた場所だったため、かなり自由に暮らせたそうです。フリードリヒ自身、ラインスベルクでの3年間を「人生で最も幸福な3年間」と語っています。
ラインスベルクでフリードリヒがしたのは、父に禁じられていた読書でした。啓蒙思想家の本を読んで議論し、フルートを演奏するという、当たり前の幸せをここで味わいます。
さらにフリードリヒは、「哲学者の王」と呼ばれたヴォルテール ── 18世紀フランスの啓蒙思想家・文筆家。教会の権威や不寛容を批判し、ヨーロッパ中の知識人や君主と文通しましたと文通を始めます。ヴォルテールとの交流は有名な話で、ほかにもヨーロッパ各地の知識人とやりとりを重ねていました。
ラインスベルクの日々を、フリードリヒは「第二の修行時代」とも呼んでいます。「人生とは考えることだ」と言いながら、哲学、文学、宗教、絵画、彫刻、音楽、歴史、兵学まで幅広く勉強しました。
せっかく自由になったのに修行してんですね。
だから勉強したいのがやりたいことだったんだって。
ラインスベルクでは、新しい側近も集まります。処刑されたカッテらに代わる側近として、ジョルダン、カイザーリンク、フケー、ズームの4人がそろいました。ジョルダンはフランスから宗教的理由でベルリンへ亡命してきた秘書で、フリードリヒの文章を推敲する文学上の相談相手でした。
カイザーリンクとフケーは軍人でしたが、コンサートや演劇、談話に才能のある人たちでした。ズームはだいぶ年上で、人生哲学の面で学びを与えてくれる存在だったそうです。フリードリヒは仲間たちにギリシャ風の雅号を名乗らせ、カイザーリンクを「セザリオン」、ズームを「ディアファネス」と呼んで遊んでいました。
楊さんは、側近の顔ぶれから、フリードリヒの人格そのものは軍人王のように変わっていないと見ています。変わったのは、父に合わせると決意したことだけだという解釈です。
(フリードリヒは)軍人王よりもはるかに親しみやすい人物だよね。友達もすぐできるしね。
それはでも俺らが軍人王じゃないからだと思う。
ラインスベルク時代には、著述活動も始まります。ヴォルテールから『ニュートン哲学要綱』を贈られたことを受けて、フリードリヒは「人間は不完全な存在なので誤りはつきものであり、哲学的・宗教的な見解の違いで人間関係を損なってはならない」という趣旨の論考を書きました。政治学的な「ヨーロッパ政治状況論」も書いています。
こうした著作から、フリードリヒはのちに「哲人王」と呼ばれるようになります。楊さんは、読書を禁じられていた反動もあって、ラインスベルク時代に学びが一気に爆発したのだろうと話しています。
アンチマキャベリ論が描いた「法に仕える君主」
ラインスベルク時代の著作のなかで、フリードリヒの思想を知るうえで特に重要なのが『アンチマキャベリ論』です。比較の起点になるのは、フリードリヒより200年ほど前に書かれたマキャベリの『君主論 ── イタリアの政治思想家マキャベリが16世紀初めに著した政治論。君主は国家を保つためには道徳にとらわれない手段も取るべきだと説きました』です。
樋口さんの説明では、マキャベリは君主論で、君主は国を守るためなら嘘も騙しも悪いことも許されると説きました。フリードリヒは、マキャベリのこの考えに対して、君主は悪徳を行使すべきではないと反論します。
国を守るためなら、君主は嘘や騙しなどの悪徳を行ってもよい
君主は社会契約を履行する機関であり、法に基づいて国家を運営する責務がある。悪徳は行使すべきでない
フリードリヒの反論の根拠には、啓蒙思想の人間観があります。ただし、フランス革命のときに語られた「自由で人権を持つ人間」というルソーの考え方とは少し違うと、樋口さんは強調します。
フリードリヒの考え方の土台は、ルソー以前のホッブス ── 17世紀イングランドの哲学者。主著『リヴァイアサン』で、人間の自然状態を「万人の万人に対する闘争」と描き、社会契約による国家の必要を説きましたとジョン・ロック ── 17世紀イングランドの哲学者。政府は人々の生命・自由・財産を守るために契約で成立するとし、近代の政治思想に大きな影響を与えましたにあります。ホッブスは、教育を受けていない原始の状態に人間を置くと、人間は利己的な欲望のために争い合うと考えました。
ホッブスは、争い合う状態をやめるために社会契約という考え方を示します。続くロックは、互いの利益のために欲望を制限する社会契約には、それに基づく政府や国家が必要だと論じました。
ホッブス
人間は利己的で、自然状態では万人が万人と争う。それを避けるために社会契約が必要
ロック
社会契約に基づく政府、つまり国家が必要になる
フリードリヒ
君主は法の精神に基づいて国家を運営し、人々の情念を抑えて社会全体の福祉へ向ける
樋口さんによれば、フリードリヒは人間の情念を破壊せずに抑え、社会全体の福祉に向けて流れを変える必要があると説きました。君主は好き勝手にふるまえる存在ではなく、社会契約を履行する機関だという位置づけです。
啓蒙思想を突き詰めると、人間が自由で平等なら君主はいらないという結論にもなりえます。フリードリヒは、法の維持を考えると共和制では皆が勝手に動いて専制に陥りかねず、自分を律せる君主が一人で差配する方が結果的に皆の利益になると論じました。
フリードリヒは、君主の務めを、大地を支えるギリシャ神話のアトラス ── ギリシャ神話の巨人神。ゼウスに逆らった罰として天空を支え続ける役目を負わされたとされ、重荷を背負う存在の象徴として語られますにたとえています。アトラスが重い大地を支えるように、君主は「国家第一の僕」として国を支えなければならない、というのがフリードリヒの考え方でした。
戦争と嘘はどこまで許されるのか
アンチマキャベリ論で、フリードリヒは君主が避けるべき悪徳として、戦争をすることと嘘をつくことの2つを挙げます。ところがフリードリヒはのちに、どちらも破ったように見える行動をとり、「戦争も嘘も山ほどしている」と攻撃されることになりました。
フリードリヒを「理念だけの人」と評する本もあります。一方で一部の学者は、アンチマキャベリ論を丹念に読むと、フリードリヒが例外についてもきちんと説明していると指摘しているそうです。
戦争についてのフリードリヒの説明は、国民の財産や生命が脅かされる場合は戦わなければならず、戦争によって平和を維持するという逆説が成り立つというものでした。樋口さんは、フリードリヒが認めた戦争の例外を次のように紹介しています。
こうした例外があるため、後年のフリードリヒの戦争にも一応は説明がつくとする学者もいれば、やはり嘘をついていると見る学者もいます。
嘘についての主張は、戦争よりも厳しい立場で、フリードリヒも後年トーンダウンしていきます。フリードリヒの理屈は、一度嘘をつくと誰からも信用されなくなるので、嘘には使いどころがある、というものでした。
フリードリヒが認めた嘘は、社会契約上の義務、つまり皆の利益に沿う場合だけです。しかも嘘は一度しか使えないので、よく考えて使えと説いています。君主の感情ではなく、一つ一つの決断をルールで規律化することを、フリードリヒは大事にしていました。
理屈をつけてるっていう、やっぱりその説明ができないとダメなんですよ。
樋口さんは、この点がフリードリヒと王権神授説 ── 王の権力は神から直接授けられたものであり、人民や議会に縛られないとする考え方。ヨーロッパの絶対王政を支える理論でしたに基づく絶対王政との違いだと話します。神から授かった権利なら、王は原理的には何をしてもよいことになります。フリードリヒの考えでは、王は理性と社会契約に基づいて国を運営しなければならず、契約に反すれば王として立ち行かないのです。
軍人王の最期は和解だったのか
ラインスベルクでアンチマキャベリ論を書いたのは、フリードリヒがまだ王太子だったころです。そして1740年、フリードリヒが28歳ぐらいのときに、軍人王が51歳で亡くなります。
フリードリヒは、軍人王が亡くなる3日前から片時もそばを離れず、臨終を看取りました。軍人王は自らの国内外の政策を詳しく説明し、後のことを託します。その中には、苦い経験から来る「ハプスブルク家への警戒を怠るな」という忠告もありました。ここでのハプスブルク家は、神聖ローマ皇帝を指しているそうです。
軍人王の最期の言葉は、「神よ、私は心安らかに眠る。立派な息子を後継ぎに残すことができた」という趣旨のものでした。
これはね、僕はこれは和解だと思ったんですよね。
楊さんは、フリードリヒの心の中にはまだ思うところがあっただろうとしつつ、死刑まで宣告された息子が、最後に父に「立派な息子を残せたから心安らかに死ねる」と言わせたことに重みを見ています。病気で心境が変わった面もあるだろうと話しています。
フリードリヒは泣きながら自室に下がり、過ぎ去った日々の悲しい思い出にふけったといいます。父の死は同時に、28歳で人口250万の王国の君主になることを意味していました。重い責任も感じていたのではないかと考えられています。
「国家第一の僕」として即位、いきなりの啓蒙改革
即位にあたって、フリードリヒは「苦しめられた人々のために国王になろう」と語ります。そして即位の日には、有名な「国家第一の僕である」という言葉を残しました。
楊さんによれば、「国家第一の僕」は、アンチマキャベリ論のアトラスのたとえと同じ考え方です。国を一番下で支える者になる、それを最もよく果たせるから自分が選ばれたのだという義務感が込められています。
国王になったフリードリヒは、すぐに改革を始めます。拷問を原則として廃止し、残酷な処刑も廃止しました。出版の自由、婚姻の自由、宗教の自由といった啓蒙主義的な改革を、即位直後に次々と実行します。軍人王に追放されていた学者や、イングランドに亡命していた人物も呼び戻しました。
啓蒙思想家たちにとって、フリードリヒの即位はセンセーショナルなデビューでした。フランスの絶対王政を嫌っていた知識人たちは、サロンの一員だったフリードリヒが本当に君主になり、啓蒙君主らしい政策を打ち出したことで、自分たちの時代が来たと沸き立ちます。
ほんと新しい考え方を持った(2)代目が会社を継いだっていう感じで。
友達は友達、官僚は官僚
フリードリヒの即位に一番期待していたのは、ラインスベルクでともに詩作や哲学を楽しんだ友人たちでした。父の圧力から解放されたフリードリヒなら、哲学者や芸術家を厚遇してくれるだろうと、大きな役職を期待していたのです。
ところが実際には、友人たちにはとても小さな仕事しか与えられませんでした。フリードリヒから見て、国家の役職を担う実力がないと判断されたためです。
楊さんは、縁故で人を取り立てない姿勢は今なら当たり前でも、君主制の時代にそれを実行したことがすごいと強調します。フリードリヒは、自分の思想に照らして、できる人にしか役職を任せてはならない義務があると考えていました。
「セザリオン」と呼ばれていたカイザーリンクは、仲間が王になったのだからと、政治に口を出そうとします。そのときフリードリヒが返した言葉は痛烈でした。
(フリードリヒは)「カイザーリンク君、君はいい人で、機知にも富み、学があって、歌もうまいし、洒落も巧みだよね。だけど君の意見はすっげえバカみたいだよ」(と言った)。
フリードリヒは、仕事ぶりも徹底していました。何人もいた大臣と会議で政策を決めるのではなく、各官庁から届く膨大な書類にすべて自分で目を通し、自分で決裁を下しました。優秀な一人の君主が国を合理的に統べるという信念を、強く貫いたのです。
楊さんは、フリードリヒ個人の性格と、君主としてのふるまいが友人の目にはまったく別人に見えたのだろうと話します。王として生きる覚悟を決め、哲学を突き詰めた末に、王としてのベストな動きにたどり着いたという見方です。
後年彼も言ってるんだけど、クソみたいな仕事って言ってます、これ(君主の仕事)のこと。だけどそれをやってるっていう覚悟を決めてるって感じなんですよ。
だから一本やっぱ筋通ってるんですね。
出演者からは、自分で設計した役割にはまり、ずっと演じ続けているようで切なさや哀愁も感じる、という声も上がります。楊さんも、現代なら真似したくない生き方だが、一度逃亡して派手に失敗したフリードリヒには、この時代にはこういう生き方しかできなかったのだろうと応じています。
軍縮の予想を裏切った軍備増強
即位後、フリードリヒと妻エリザベート・クリスティーネの関係はさらに疎遠になります。ラインスベルクでは同居していましたが、即位後は住む場所も分け、形式的な手紙のやりとりだけになりました。
周囲が注目していたのは軍事でした。フリードリヒは軍事を好まず、アンチマキャベリ論で嘘や戦争を戒めていた人物です。隣国の王たちもイギリスもヴォルテールも、フリードリヒは兵を減らすだろうと予想していました。
実際、フリードリヒは即位するとすぐ、背が高いだけで高給を得ていた「巨人部隊」を解散します。しかしその一方で、1万人の新兵を新たに募集しました。
軍事を好まず、アンチマキャベリ論で戦争を戒めたフリードリヒなら、軍備を縮小するだろうと周囲は予想していた
巨人部隊は解散したが、1万人の新兵を募集し、軍事力をさらに強化した
番組では、軍備の増強も、自国の安寧を守るには軍事力が欠かせないという啓蒙思想の統治の論理に従った結果だと説明されています。フリードリヒの即位時点で、軍人王の軍拡によってプロイセンの軍事費はすでに国の収入の7割以上に達しており、そこにさらに上乗せしたことになります。
理念で設計された国家と、中国との「時差」
番組の終盤では、フリードリヒの即位を世界史の視点から捉え直します。それまでの国は、なんとなくでき上がり、目の前の課題をなんとなく解決しながら運営されていました。フリードリヒがやったのは、ある理念に合わせて国を一から作る「理念国家」の建設だったと語られます。
理念
理性と社会契約に基づき、国の安寧を守る
軍隊
理念を実現し、国を守るために必要
財政規律
軍隊を維持するために必要
官僚組織
財政規律を保つために必要
理念国家の考え方では、それまで当然とされてきたカトリックかプロテスタントかという違いや、ユダヤ人かどうかは、国の運営に関係がないとされました。刑罰を厳しくすることにも意味はないとして、それらを緩めていきます。まだ近代に入っていない世界で、いち早く近代国家を作ろうとする動きだったと語られています。
一方で、中国の春秋戦国時代にはすでに同じようなことが行われていた、という指摘も出ます。番組の最初の回で取り上げた韓非子 ── 中国・戦国時代末期の思想家。法による厳格な統治を説く法家思想を大成し、のちに秦の始皇帝の統治にも影響を与えたとされますの法家思想が、秦にルールに基づく国づくりを導入したことが例に挙がりました。
これは中国人が言うと顰蹙を買うかもしれない。
楊さんは冗談めかしつつも、中国では国家運営の領域がかなり早い段階で発達していたと同意します。春秋戦国時代には、統治や富国強兵という課題が明確に表れ、そのレベルで国家運営を考えた王が数多くいました。ヨーロッパでは、そうした課題が表面化したのがフリードリヒの時代だったのかもしれない、という見方です。ただし、西洋には「理性」という別の概念がある点にも楊さんは触れています。
次回は、いったんフリードリヒから離れ、永遠のライバルともいえるオーストリアの女帝マリア・テレジア ── 18世紀オーストリア・ハプスブルク家の君主。父の死後に広大な領土を継承し、フリードリヒ大王のプロイセンと長く争いましたの話に移ると予告されています。
まとめ
逃亡未遂事件で死の淵を見た青年フリードリヒは、父との形式的な和解を経て、ラインスベルクで学びを爆発させ、アンチマキャベリ論で「法に仕える君主」という理念を固めました。即位後は「国家第一の僕」として、友人を登用しない人事や軍備増強まで、その理念に忠実に国を動かし、近代的な理念国家づくりへ踏み出していきます。
- 父との和解は形式から始まり、軍務での勤勉さと、臨終の「立派な息子を残せた」という言葉で一つの区切りを迎えた
- ラインスベルクでの3年間は、読書とヴォルテールらとの交流に満ちた「人生で最も幸福な時期」であり、「第二の修行時代」でもあった
- アンチマキャベリ論は、ホッブスとロックの社会契約論を土台に、君主を社会契約を履行する機関と位置づけ、戦争と嘘に厳格な条件を付けた
- 即位後の啓蒙改革、友人を重用しない人事、軍備増強は、いずれも理念から導かれた一貫した行動として語られた
- 理念に基づいて国を設計するという発想は、中国の春秋戦国時代の法家との比較からも、ヨーロッパにおける近代国家の先駆けとして位置づけられた





