第一次ポエニ戦争前夜、格上だったのはカルタゴ?
ハンニバル編の本編は、カルタゴの英雄ハンニバルが登場する前の時代から始まります。楊さんによれば、第一次ポエニ戦争 ── 紀元前3世紀に始まった、ローマとカルタゴによる3度の戦争の最初のもの。主にシチリア島の支配をめぐって争われましたが始まる頃のローマは、まだ地中海を支配する大帝国ではありませんでした。
当時のローマは、王を追放して共和制を築いたばかりの若い共和国の一つにすぎず、イタリア半島をようやく統一した頃だったといいます。
一方のカルタゴは、すでに何世紀にもわたって地中海の覇者でした。船を操る海上貿易で大きな富を築き、北アフリカの現在のチュニス周辺に巨大な都市を構えていたと語られます。
カルタゴの建築の壮大さを示す例として、楊さんはコトンと呼ばれる軍港の再現図を紹介しています。軍船1隻ずつが入るドックが何百も円形に並ぶ港で、どこまで正確かはわからないとしつつも、想像を絶する建築だったといいます。
現代の建物ですって見せられたら、ああそうですかって思うようなやつ。
すげえな、二千年以上前に。
カルタゴのルーツ、フェニキア人とは何者か
カルタゴのルーツはフェニキア人 ── 地中海東岸、現在のレバノン周辺を拠点にした古代の民族。海上交易と植民都市の建設で知られ、アルファベットの原型となる文字を生み出しましたです。楊さんは、フェニキア人がカルタゴ人と同じく海上貿易を得意とし、古代エジプトに匹敵するほど古い歴史を持つ人たちだったと説明します。
フェニキア人の拠点は、現在のレバノンの首都ベイルートから30キロほど北など、レバノンやシリアのあたりでした。そこから地中海を渡って北アフリカへ植民し、その植民都市の一つがカルタゴになったといいます。
樋口さんは、カルタゴを「フェニキア人が建てた数ある植民都市の一つ」と整理しています。楊さんも、植民都市はたくさんあったと応じています。
フェニキア人はアルファベットのルーツを作った人たちでもあります。楊さんによれば、交易の中でメソポタミアの楔形文字を発展させてアルファベットを作り、形を変えながら今も使われているといいます。
ただしフェニキア人自身が残した文献は、ほとんど残っていません。パピルスや羊皮紙など耐用年数の短い素材を使っていたためと語られ、カルタゴの姿も他国の記録から探るしかないことが、この回の前提になっています。
牛の皮1枚分の土地?女王エリッサの建国神話
カルタゴ建国には神話が残っています。楊さんは本筋とは関係が薄いとしつつ、Tips程度に紹介すると前置きし、カルタゴが女性によって建てられた国だと語ります。
建国者は女王エリッサで、ディドーとも呼ばれます。伝承では建国は紀元前814年とされ、考古学的な遺跡の年代ともおおむね合っているため、実際その頃だろうと考えられているそうです。
エリッサが率いる一団は、亡命のような形でフェニキアから逃れ、北アフリカに流れ着きます。そこには原住民がいたため、エリッサたちは「牛の皮で覆える土地だけ譲ってほしい」と交渉したといいます。
原住民側も、フェニキア人と交易して豊かになりたかったため、それくらいならと承諾します。ところがフェニキア人は牛の皮を細い紐状に切ってつなぎ、その長い紐で丘全体を囲って自分たちの土地にしたと伝えられます。
出演者はこの逸話を一休さんの「この橋渡るべからず」のようなトンチになぞらえています。楊さんは、どこまで本当かわからないうえ、ローマ人から見た「ずるいやつ」という意味合いが込められている可能性もあると補足します。
神話にはエリッサの最期も描かれています。先住民の王に結婚を迫られて自ら命を絶ったとされますが、剣で命を絶った説、焼身自殺の説などいくつもの版があるといいます。
カルタゴには人身御供の慣習があったことから、エリッサがその慣習に従って人柱になったという説もあると紹介されました。出演者の一人は、神話は面白いから語り継がれるものだと話しています。
植民都市が本国を追い越した理由は地の利
カルタゴが建国されたあと、本国フェニキアは隣国アッシリアに圧迫されて衰退していきます。楊さんは、本国から距離が離れていたことが、かえってカルタゴに有利に働いたと説明します。
カルタゴは北アフリカの北端という、交易都市としてきわめて良い場所にありました。本国が弱る一方で植民都市カルタゴだけが大きくなっていくという逆転が起きたといいます。
出演者の一人は、この構図をローマになぞらえています。ローマも数ある都市国家の一つから台頭したように、カルタゴも多くの植民都市の中から「地の利のパラメータ」の高さで伸びていったという見立てです。
カルタゴは商業だけの国でもありませんでした。楊さんは、北アフリカの内陸を開発して農業を大きく発展させ、その高度な農業技術がのちにローマへ引き継がれたという研究があると紹介しています。
植民
フェニキア人が北アフリカに植民し、カルタゴを建てる
本国の衰退
本国フェニキアは隣国アッシリアに圧迫されて弱っていく
地の利
カルタゴは交易に有利な北アフリカ北端で商業を伸ばし、内陸の農業も発展させる
台頭
植民都市のカルタゴが、フェニキア人の中心都市として大きくなる
常備軍から傭兵へ、カルタゴの軍制改革
カルタゴの大きな特徴として、楊さんは傭兵制を挙げます。自国民を軍人として育てて常に抱える常備軍に対し、傭兵制は戦争のときに外部の兵士を雇う仕組みです。
カルタゴはもともと国民兵中心だったものの、紀元前6世紀ごろの軍制改革で傭兵制へ転換したといいます。人口も増えていましたが、それ以上に領土の広がりが速く、自国民だけでは守りきれなくなったためと説明されます。
貿易で得たお金があったからこそ、カルタゴは兵士を雇って数を増やし、さらなる拡大が可能になりました。拡大のために傭兵というスタイルが必要だったという流れです。
領土の急拡大
人口の増加より、領土が広がる速度のほうが速かった
兵力の不足
自国民だけでは広い領土を守りきれない
貿易の富
海上貿易で得たお金で外部の兵士を雇う
さらなる拡大
兵力を増やせたことで、領土の拡大がさらに進む
カルタゴの傭兵は、リビア人が最も多かったそうです。ほかに、ヌミディアやモーリタニアのベルベル系の強力な騎兵、イベリア半島の人々、ギリシア人も雇われていました。
出演者の一人は、この国際色豊かな兵団がハンニバルの戦争に直結してくるので覚えておいてほしいと強調しています。
カルタゴ軍の構成要素は、大きく4つに整理されています。
| 構成要素 | 内容 |
|---|---|
| 支配下の原住民 | 北アフリカやイベリア半島など、カルタゴが支配する地域の人々 |
| 同盟国の兵力 | 同盟国が派遣してくれる兵 |
| 狭い意味での傭兵 | 単純な金銭契約で雇う兵 |
| カルタゴ市民 | ときに兵士として招集される市民 |
傭兵が多数を占める一方で、カルタゴ人の兵士が軍の中枢を担っていたと考える学者もいるそうです。出演者の一人は、指揮官や傭兵の訓練、兵站の構築などをカルタゴ人が担っていたのではないかと推測しています。
カメルーンまで航海?ドン・キホーテのような交易品
カルタゴの勢いを示すエピソードとして、楊さんは航海の到達範囲を紹介します。交易ではなく探検としてですが、カルタゴの船はアフリカ西岸を回り、カナリア諸島を経て、現在のカメルーンあたりまで行っていたらしいといいます。
2000何百年も前に赤道付近まで到達できる航海技術を持っていたことになります。出演者の一人は、船を造るための木材を確保できたことも大きく、当時の木材は今でいう鉄鉱石のような重要資源だったと話しています。
カルタゴの交易品は、塩、麻、鉄、黄金、象牙、香料、オリーブ油、工業製品、ブドウ酒、アフリカの奴隷、象、ダチョウ、宝石など多岐にわたりました。楊さんはその品揃えを「ドン・キホーテみたい」と表現しています。
カルタゴはこれらを、ギリシア、エジプト、ローマなどと取引していました。出演者の一人によれば、商業は個人の商人任せではなく、黄金の貿易に国家が深く関わった記録があるほか、条約や協定を結んで国として貿易振興の外交を打っていたといいます。
ハンニバルの「バル」は神様の名前
カルタゴの宗教は多神教で、イシスやホルスなどエジプトの神も祀っていたそうです。最も崇拝されたのは、バアル・ハモンとタニトという二柱の神でした。
楊さんによると、バアルはキリスト教にも悪魔として登場する神で、ハンニバルの「バル」はこのバアルから来ています。
ハンニバルという名前の人物はカルタゴに何人もいたとも語られます。楊さんは、カルタゴの将軍は4つか5つほどの名前を使い回している印象があると話しています。
ローマでも父と長男が同じ名前を受け継ぐため同名の人物が多くいますが、カルタゴは完全に同じ名前ではなく、名前のパターンが少ないという違いがあるそうです。
行政と軍事は分けるべき?ローマとカルタゴの政体
カルタゴの政治体制について、楊さんはアリストテレスの記述を紹介します。アリストテレスは、カルタゴが王政・貴族制・民主制の良いところを取り入れていると褒めていたそうです。
ただし実際のカルタゴは、どの要素も一応あったものの、ほとんど貴族制だったようだといいます。そのうえで楊さんは、後の戦争に関係してくるローマとの違いに絞って説明します。
ローマのコンスル ── 共和政ローマの最高官職で、執政官とも訳されます。毎年2人が選ばれ、政治と軍の指揮の両方を担いましたは任期1年で必ず2人選ばれます。王政への反動から、1人に権力を集中させず、固定化もさせないという強い意志の表れだと語られます。
コンスルには諮問機関として元老院 ── 共和政ローマで貴族らが議員を務めた機関。コンスルに助言し、実質的に国政へ大きな影響力を持っていましたがあり、300人ほどの貴族がいました。楊さんが強調するのは、このコンスルも元老院議員も戦争に行く軍人だったという点です。
(元老院は)おじいちゃんが座ってるイメージでしょ?違うんです。元老院っていうのはそうじゃなくて、全然戦争に行く。
一方のカルタゴでは、スフェスと呼ばれる貴族出身の役職が政治を担い、それとは別に将軍がいました。楊さんは、この行政と軍事の分離が後にハンニバルを苦しめると予告します。
出演者からは、三権分立に慣れた現代の感覚では、行政と軍事を分けるほうが進んでいるように見えるという声も上がります。
カルタゴでは民会のような民主的な仕組みもあったものの、将軍は特定の家からしか選ばれなかったといいます。その家の一つが、ハンニバルの家であるバルカ家です。
カルタゴの将軍には任期の制限がありませんでした。ハンニバルが十何年にわたって戦ううち、任期1年のローマ側の指揮官は15回ほど入れ替わったと語られます。
敗戦への扱いも対照的でした。ローマは勇敢に戦っていれば負けた将軍でも迎え入れて次の機会を与えましたが、カルタゴは敗北した将軍を基本的に磔や追放に処したといいます。
| 項目 | ローマ | カルタゴ |
|---|---|---|
| 政治のトップ | コンスル2人(任期1年) | スフェス |
| 政治と軍事 | コンスルが政治も戦争指揮も担う | 行政と将軍が分離 |
| 将軍の任期 | 1年で交代 | 任期の制限なし |
| 敗れた将軍 | 勇敢に戦えば次のチャンスがある | 基本的に磔や追放 |
人材の層と「政治的」な国民性の違い
楊さんは、将軍の扱いの違いが優秀な人材の輩出量を大きく変えたと話します。ローマとカルタゴでは、人材の出てくるレベルがまったく違っていたといいます。
さらに楊さんは、本当かどうかまったくわからない考察レベルの話と断ったうえで、カルタゴ人は非政治的で、ギリシア人やローマ人は非常に政治的だったという見方を紹介します。
その背景とされるのが軍役です。ローマやギリシアでは、市民が戦争に行くことと政治参加がイコールで結ばれていました。一方のカルタゴでは傭兵を雇っているため、戦争に行かずに政治参加する人たちがいたといいます。
楊さんによれば、ここでいう「政治的」とは、国のためにどこまで身をすり減らせるかという意味に近いそうです。国の規模ではカルタゴが上だったのに、危機に陥ったときのローマの反応はカルタゴとまったく違ったといい、この違いが後のシリーズで効いてくると予告されています。
200年の抗争、ギリシア人とピュロスとの戦い
カルタゴが商業都市として台頭していく中で、最初にぶつかった相手はギリシア人でした。同じ海洋民族として各地に植民していたギリシア人とカルタゴは、地中海をめぐって200年以上戦い続けたといいます。
カルタゴは長い戦いの中で、スパルタやコリントスなどを擁するギリシア人を徐々に圧迫していきます。そこに現れたギリシア側の「ラスボス」が、アレクサンドロス大王の親戚であるピュロス ── 古代ギリシアのエペイロス王。イタリア半島南部でローマなどと戦い、大きな犠牲を払った勝利を指す「ピュロスの勝利」の語源にもなりましたでした。
楊さんによれば、ピュロスはアレクサンドロス大王ほどの実力はなかったものの野心家で、南イタリアやシチリアに帝国を築こうとしてカルタゴを圧迫したそうです。
このときカルタゴはローマと同盟を結んでピュロスと戦いました。5年間の戦いの末にピュロスを追い返すと、地中海に手を出す勢力がいなくなり、今度は味方だったローマとカルタゴの戦いに突入していきます。
イタリア半島を広げるローマと不平等条約
続いて楊さんは、ローマ側がカルタゴと戦うまでの経緯を振り返ります。共和国が成立した直後のローマは、イタリア半島の中部までしか治めていませんでした。
ローマはそこからサビニ人やサムニテ族などを臣従させ、建築技術を学んだ北方のエトルリア人も征服していきます。紀元前4世紀末ごろには、イタリア半島の北半分を支配下に置いたといいます。
残る南半分は、カプアやタレンツームなどギリシア人の植民都市が栄える地域で、マグナ・グレキア ── 「大ギリシア」を意味する呼び名。イタリア半島南部やシチリアに広がったギリシア人植民都市の地域を指しますと呼ばれていました。ローマはこのマグナ・グレキアと戦う際にも、カルタゴと組んでいます。
ただし両国の関係は対等ではありませんでした。楊さんによると、格上のカルタゴはローマと典型的な不平等条約を結んでいたといいます。
条約では、ローマの艦船の東地中海での行動が事実上禁じられ、ローマ人のカルタゴ領内での貿易も大きく制限されました。一方でカルタゴは、イタリア半島での貿易も軍事行動も自由だったそうです。
楊さんはこれを明治時代の日本と列強の関係になぞらえています。カルタゴの海軍提督が「カルタゴの許可なく、ローマ人は地中海で手を洗うことも許さない」と言ったという表現も、真偽は不明としつつ紹介されました。
出演者の一人は、この時期のローマはまだ強力な中央集権国家ではなく、部族や都市と同盟関係を築いた中で少し上に立っている程度だったと補足しています。トップダウンの統治を意識し始めたのは、ポエニ戦争の後だったといいます。
動員可能数75万人、ローマの底力はティッシュの束
楊さんは、この時期のローマを「緩やかな連邦」のような存在だったと説明します。各都市は自治を認められ、戦争の際には軍役として動員される一方、ローマは安全保障を提供し、軍の移動のために道路などのインフラにコストをかけていました。
この仕組みによって、ローマの兵員動員可能数は非常に大きくなっていました。ポエニ戦争が始まった時点で、動員可能数は75万人に達していたといいます。
カルタゴは貿易で富を得て地中海を制している感覚でしたが、傭兵は雇い続けるほどお金がかかり、動員できる数はそれほど多くありませんでした。カルタゴの動員数は残っていないものの、ハンニバルがイタリアに到達したときの兵は5万人ほどだったとされています。
出演者の一人は、75万人を同時に動員したわけではなくポテンシャルの話だとしたうえで、この差をハンニバルは針、ローマはティッシュの束と例えています。1枚破っても次のティッシュが出てきて、針では貫けないという意味です。
楊さんは、この膨大な動員可能数こそが、ハンニバルが有名なアルプス越えをした理由につながると予告します。普通の戦い方ではローマに勝てないため、特別なやり方が必要になったという構図です。
愛国心が特に強くない傭兵を集めたカルタゴ軍で、中核に強い愛国心を持つローマ人を相手にすることが、ハンニバルに課された試練だと語られます。さらに、陸軍国のローマと海軍国のカルタゴという対比がありながら、ハンニバル自身は陸の指揮官だった点も紹介されました。
80点の優等生を量産するローマ、150点の孤高の天才ハンニバル
出演者の一人は、ローマの動員可能数の多さは、人材が尽きず層が厚いことも意味すると付け加えます。楊さんも、1年ごとに指揮官を交代できるのは優秀な人間が大勢いるからで、カルタゴには基本的にハンニバルしかいないと応じています。
楊さんは、ローマの人材の厚さの理由を、権力を集中させない実力社会にあると説明します。当時のコンスルは平民と貴族から1人ずつ選ばれており、平民も頑張ればコンスルになれました。
対するカルタゴは、将軍がバルカ家やマゴ家など決まった家からしか出ない固定的な社会でした。その中から、時代の誰よりも優れた天才ハンニバルが生まれたことが、この戦いの面白さだと楊さんは語ります。
(ローマは)八十点ぐらいのやつをバンバン出してくるわけ。これと百五十点のハンニバルみたいな戦いなんですよ。
実力で選ばれる仕組みで80点ほどの優秀な人材を次々に出し、負けても再挑戦させる
将軍の家が決まった固定的な社会から、150点の天才ハンニバルがただ1人現れる
さらにハンニバルは、自国で優秀さを十分理解されず、妬みや嫉みで足を引っ張られる存在だったとも語られます。行政と軍事が牽制し合うカルタゴの仕組みは、良く言えばバランスを保つ一方で、軍事が振り切ろうとするときに引き止める力学として働いたといいます。
どちらの仕組みが良いかは、時代や国家が向き合う課題によって変わると語られ、メリットにもデメリットにもなるという受け止めで議論が締めくくられます。
次回は、敵がいなくなったローマとカルタゴがぶつかる話です。楊さんは、陸軍国家のローマに対し、船を操れるのは自分たちだと考えるカルタゴが余裕を見せていたと予告しています。ハンニバルの登場は、次回の半分ほどからになるそうです。
まとめ
今回のエピソードでは、フェニキア人の植民都市として生まれたカルタゴが、地の利と海上貿易で地中海の覇者となり、ギリシア人を退けたあとローマとぶつかるまでが描かれました。傭兵制、行政と軍事の分離、固定的な将軍の家柄といった特徴が、ローマの人材と兵力の厚みと対照的に語られ、孤高の天才と層の厚いシステムの対決という構図が示されています。
- カルタゴはフェニキア人の植民都市で、伝承では紀元前814年に女王エリッサが建国したとされる
- 本国フェニキアが衰える一方、カルタゴは交易に有利な立地と農業の発展で台頭した
- 領土の急拡大に対応するため、カルタゴは紀元前6世紀ごろに傭兵制へ転換した
- 政治と軍事を担うコンスルが毎年交代するローマは、75万人の動員可能数と厚い人材層を持っていた
- 80点の人材を量産するローマに、150点の天才ハンニバルが挑むことがこの戦いの面白さとされる




