上座部が目指した「枯れ木の境涯」とは何か
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番外編の後半では、前回に続いて松波龍源さんが仏教の中核概念を解説していきます。まず取り上げられたのは、空と書いて「くう」と読む空の概念です。
松波さんはまず前回の復習として、仏教の目的を確認します。仏教が目指すのは苦からの脱却であり、その苦とは「望んで欲して得られない、叶わない」ところから生まれる心の働きだと整理されました。
この前提から、上座部仏教はどう対処してきたのか。松波さんによれば、その論理はシンプルです。苦が「望み欲する」ことから生まれるなら、そもそも望まなければいい、欲しなければいい、というものです。
そのための方法が出家です。俗世の欲求や野望を捨て、僧院にこもってひたすら自分の心を見つめ続ける。ヴィパッサナーと呼ばれる瞑想修行に明け暮れ、ついに心が何も欲しなくなる状態を目指します。
ミャンマーではこの瞑想の極致を「枯れ木の境涯」と呼ぶそうです。松波さん自身もミャンマーでそう言われた経験があると話します。
枯れ木というのは、もう枯れてしまった木ですから、春になっても芽吹くことはない。冬にどれだけ風が吹きすさぼうとも、ただそこにそのように立っていて、何ら反応を示さないのが枯れ木ですよね。
この状態に至ることを上座部的な瞑想の極致とする言説があると松波さんは説明します。多くの人が仏教に対して抱くイメージにも近いのではないか、という指摘です。
「枯れ木になりたい人」はいるのか
松波さんは、枯れ木の境涯には「一理あるけど、嫌でしょ」と出演者に問いかけます。憧れはあっても、凡人には無理だという反応が返ってきました。
憧れはするけれども、自分、凡人である自分には無理だなっていうのはわかる。
一方で樋口さんは「僕そこ目指してます」と応じ、その場で軽く宗派が分かれる展開になりました。欲を捨てることが人生のテーマかもしれない、という発言です。
ここで松波さんは、この後に話す大乗仏教との違いを先取りします。大乗は「希望の考え方」だが、本当に辛く絶望が深い人は、一度上座部に行った方がいい場合があると、現場での実感を語りました。
大乗って本当に今から話しますけど、可能性あるから大丈夫だよ、頑張ろうよ、いけるよっていう考えなんですね。で、マジで痛んじゃった人って、そういうこと一番言われたくないじゃないですか。
痛みの極みにある人には「大丈夫」という言葉自体がダメージになる。そういうとき、望むこと自体をいったんやめる訓練は、有効な選択肢になり得ると松波さんは話します。
全部一回やめましょうっていうのは結構これいいソリューションになるんですよ。
ただし、誰もがそこまで傷ついているわけではありません。スタートアップの起業家や経営者のように、世の中を良くしようとエネルギーに満ちた人に「欲を消しなさい」と言っても意味がないのでは、という疑問が示されます。
枯れ木になりたいと思ってない人たちですからね。
松波さんは、これが上座部と大乗の立場や役割の違いだとまとめます。どちらが良い悪いではなく、向き合おうとしている状況が違う、という整理です。
大乗が問う「お釈迦様は枯れ木になれと教えたのか」
松波さんは上座部の教理を否定したいわけではないと断りつつ、話を大乗へ戻します。すべての生命反応を捨て、枯れ木のようになれというのは、まさに生命の否定だと指摘します。
一切の欲求を捨て、一切の興味を失いなさい、枯れ木のようになりなさいっていうのは、まさに枯れ木という言葉が示すように、その生命の否定なんですよね。
社会は存在する以上、命を紡いでいかなければならない。お釈迦様は本当に「枯れ木になりなさい」と教えた人だったのか。ここが解釈の分かれ目であり、大乗のポイントだと松波さんは言います。
そこから現れてくるのが、中観、すなわち空の思想です。日本では般若心経の「色即是空、空即是色」という対句が有名で、ラーメン屋の屋号になることもあるほど神秘的に響きます。
この空を説くのが、中を観察するという意味の「中観」という思想体系です。説いたのは紀元1世紀末から2世紀頃のナーガールジュナ、漢訳では龍樹あるいは龍猛と呼ばれる人物だと紹介されます。
ナーガールジュナは、お釈迦様の死後500〜600年紡がれた仏教哲学の歴史を踏まえ、お釈迦様が本当に言いたかったのは枯れ木になれということではなく、万物は空であるという考え方だったと明確に論理化しました。
この論理化をベースラインに、マハーヤーナ、すなわち大乗仏教の伝統が確定的に発生していきます。
「中道」は真ん中ではない。右も左もないという意味
楊さんが、空と中観は同じ概念なのかと問います。松波さんは、中観は空を見る人たちという流派の名であり、「中」や「中道」という言葉が空とイコールだと理解すればよいと答えます。
ここで意外な指摘が入ります。中道は「ちょうど真ん中のバランス」ではない、というのです。上座部では中道を、右にも左にも偏らず適切な真ん中を行くこと、と説明するのが普通だといいます。
ところがナーガールジュナはそう解釈しませんでした。上座部が「右と左からの等距離」を中道とみなしたのに対し、ナーガールジュナは「右も左もないのが中道だ」ととれと言った、という説明です。
お釈迦様の考えっていうのは、右左の等距離が中道じゃなくて、右も左もないっていうのが中道だっていう風にとりなさいというふうに言ってるんですね。
この「右も左もない」が、そのまま空という概念になります。だから中道は空とイコールに取るべきであり、その中を見なさいというのが中観だ、と松波さんは整理しました。
右は左がないと成り立たない。関係性こそ物事の正体
では「右も左もない」とは何を言っているのか。松波さんは、右という概念は左という対比概念があって初めて成立する、と説明します。逆も同じで、左は右があって初めて言えます。
右を決めようと思ったら、何に対しての右なのかっていうのが決まらないと右が言えない。逆もまたしかり。
つまり、右が右だけで、左が左だけで意味を定義することは不可能です。だからお釈迦様の「真ん中を行きなさい」とは、右と左を成立させている、両者の間にある関係性を見よという意味だ、と松波さんはまとめます。
右と言った瞬間、それは左ではないものとしての右になる。左も同じです。ここで見ているのは関係性そのものであり、万物の根源は現れた右や左ではなく、その間に隠れた関係性だという考え方です。
深井さんは、右と左だけでなく全部がそうだと確認し、色を例に補足します。赤という色相は、他の色相がないと固定できません。
色は本来360度に広がるグラデーションであり、どこからどこまでを赤とするかは相対的にしか決められません。深井さんは、絶対的な赤は存在せず、勝手に決める以外の赤の存在の仕方はない、と話します。
松波さんは、私たちは「意味の輪郭」を作って世界を認識していると言い換えます。ペットボトルも、喜びや苦痛のような物理的でないものも、輪郭を切り取らないと言及も操作もできません。
すべての物事は、それ以外のものや対比概念との関係において意味を持つ。そう考えないと論理が破綻する、というのが中観の根本の一つです。
今この瞬間を切ると、赤はそれ以外の色でないものとして、対比の中で意味を持つ
時間軸で見ると、原因は結果があって原因、結果は原因があって結果として意味を持つ
原因と結果もまた、単独では成り立たない
ここまでは、ある時点を横に切った「相対関係」の話でした。松波さんは次に、時間が流れる縦軸に目を向けます。そこに現れるのが原因と結果の関係です。
仏教では「無原因」はありえないという立場に立ちます。深井さんが無原因とは何かと尋ねると、松波さんは、原因がないのに物がそこにある、というのは論理として無理だと答えます。
原因がないけど、これはこうだっていうのって、もうそれ論理じゃないじゃないですか。
そして原因と結果もまた、互いを前提に成り立ちます。原因は結果があるから原因であり、結果は原因があるから結果です。原因だけが単独で存在するのは論理破綻だ、というわけです。
時間軸の縦の関係と、ある一点を横に切ったときの相対の横の関係。その結節点が、時間の経過とともに複雑なネットワークになり、しかも止まることなく動き続けます。
停止すると意味が消滅しますよね。時間が止まっちゃうんで。時間は止まらないと考えると、それがもうバババババババババって無限連鎖していく。
私たちはこの動き続けるものに言語で輪郭を与えます。しかし言語化した瞬間、その状態はもう過去になっている。時間は進み続けているからです。
「空」とは、なさがあるということ
松波さんは、ミクロに見ればペットボトルの電子の状態も変わり続けていると言います。さっきの「これ」と今の「これ」は、科学的にも認知的にも同じではありません。
たとえば強く頭をぶつけて記憶を失えば、目の前のものがペットボトルだという意味も消えます。すべてはその瞬間の意味であり、しかもその瞬間は捕捉できず、捕捉したと思った時にはもう過去になっています。
この、瞬間ごとの因果と相対の関係性は、実存でも実体でもありません。永遠の変化、無限の可能性そのものであり、これを「空」と呼ぶ、と松波さんは結びます。
空っていうのは何もないっていう意味じゃなくて、そのなさがあるっていう意味なんですよね。
松波さんは、これを0の概念で説明します。サンスクリット語では空も0も同じ「シューニャ」という言葉です。0は「ない」を表す記号でありながら、記号として書くことができ、操作概念として使えます。
深井さんは、この空を自分の言葉で言い直します。絶対的で個別な存在性はなく、あるのは変わり続ける関係性の中で捉えられる瞬間ごとの意味だけだ、という整理です。
厳密にこのペットボトルが僕がペットボトルと思った瞬間と、その直前とで同じペットボトルだと定義できる論理的な理由は存在しない。
樋口さんは「ないんじゃなくて、ずっと変わり続けているものがある」と受け止めます。関係性の中で変わり続けていくものだ、という理解です。
なぜ「空」だと苦から抜けられるのか
松波さんは、なぜこんな考え方をするのかを、仏教の目的である苦からの脱却に立ち返って説明します。中観と逆に、物事に実在があるとすると何が起きるかを考えます。
もし苦が、それ単独で意味を成立させ、認識する側との関係を持たずに実在するものだとしたら、どうなるか。松波さんは、苦が確定してしまう、と言います。
深井さんは、空の定義に立ち返って言い換えます。苦は「求めても得られないものが生じたときの心の作用」なので、「これは求めても得られないものだ」と認知した瞬間、その作用が発生してしまうという構造です。
もし欲しいものが実在し、それが得られない現象も実在し、そこに感じる苦も実在すると考えると、その状態である限り、論理的に永遠に苦から抜け出せなくなります。
この行き止まりを外そうとするのが、空という概念の意義だと松波さんは言います。樋口さんは、流動性があるという立場をとれると、苦は取り外したり分解したりできる、と受け止めます。
流動性がなかったらずっとあることになるけど、流動性があるっていう立場にとれると、この苦が取り外し可能だったり、分解できたり、なかったことにできるみたいなことか。
すべての物事は因果によってそうであり、相対関係として今そう意味づけられただけです。ならば時間の経過でも、他との関係でも意味は変わります。その事態を苦と捉えねばならない理由は消える、というのが結論です。
だからこそ「大丈夫」だ、と松波さんは言います。あり方も考え方も認識の仕方も変化できるので、自分はダメだ、終わった、絶望するしかない、という決めつけこそが間違いだ、という論理です。
「自分は偉い」も「自分はダメだ」も、実は根拠がない
深井さんは、この論理を日常に引き戻します。「自分はこういう人間で」と語るのは、自分性を意味相対化しつつ固定化する行為だが、その固定化は必要ない、というのです。
たとえば「自分はこんなに偉くなったのに人が態度を変えない」といった落胆も、「自分はしょうもない人間だ」といった否定も、すべての苦はその瞬間しか意味を持てないと深井さんは言います。
その瞬間に意味を持たせているのは自分の認知であって、実在ではない。ここが肝だと深井さんは強調します。人が執着する出発点は、それが実在するという前提だからです。
立ってる論拠がないよ、全部ずっとグニャグニャだよ、あなたの足場はって言われてるんで。
松波さんは、ナーガールジュナが「二辺を離れる」という言い方をすると補足します。二辺とは関係性のあちらとこちら、右と左のような両端のことです。
関係は相手先がないと成り立たず、その最小単位は2です。二辺があって、その二辺を離れる。本質は両端ではなく、その「中」にあるという考え方です。
色即是空、空即是色。どちらを見てもいい
ここで松波さんは、色即是空、空即是色という対句が重要だと言います。大乗は「どちらを見てもいい」と言っている、という読み方です。
現れている二辺、つまり実在的な面を見てもいい。ここにペットボトルはあると言っていい。同時に、こんなものに実体はなく、すべては関係性のなせる業だから、とらわれる方がおかしいと見てもいいのです。
その基準は、苦からの脱却にどちらが効くかを自分で考えることだと松波さんは言います。あると思った方がハッピーになるなら、あるを取ればいい。それも真理だからです。
あると思った方がハッピーになるんだったら、あるの方を取ったらいい。それも真理だから。だって二辺はあるんで。
松波さんは恋人を例に挙げます。憧れの人と付き合えて嬉しいと感じるのは何の問題もない。しかしそれは実在として見ているので、裏返しで「失う恐怖」が生まれる、というリスクがあります。
もし別れてしまい、二辺だけを見ていると、「奪われた」「苦を与えられた」と受け止めるしかなくなります。そこで関係性の側に切り替えるのだ、と松波さんは言います。
その関係はあって良かったっていう風になることも可能なわけですね。
付き合って別れたことは、すべて関係性のなせる業です。だから「付き合わなければよかった」とも「あの期間は幸せだった、別れも学びだった」とも捉えられます。どう捉えるかは自分が選べる、という話です。
松波さんは、これが上座部と大乗の違いだと整理します。上座部は「欲するな、やめろ」と方向性が強い。中観の大乗は「論理的に考えてこうですよね」と示し、苦から脱却できる可能性は無限に広がっている、という立場です。
量子力学のように、見た瞬間に確定する
深井さんは、大乗には「慈悲の気持ちを持ちなさい」というベクトルはあるが、そのベクトルの中で自由が推奨されている感覚がある、と補足します。強制ではないのがポイントです。
樋口さんは、色即是空メニューと空即是色メニューがあって「どちらがいいですか」と好みで選ぶようなものだ、と表現しました。
深井さんは、これを量子力学になぞらえます。本来はどちらでもあり、見た瞬間に確定するが、どちらに確定するかは自分の認知で決まる、という点がアナロジカルに同じだと話します。
本来どちらともでもありますと。見た瞬間にそれが確定してるんだけれども、それはあなたの認知でどちらに確定するかが決まりますと言われている。
さらに深井さんは、これを社会課題に応用できると言います。社会課題を実体として固定すると、エラーが出るという指摘です。
社会課題が実体としてあるとすると、「かわいそうな人がいて、それを助ける我々がいる」という固定した関係が生まれてしまう。深井さんは、あるのは関係性であって実体ではない、と整理します。
「ムカつく相手」も、関係性を変えれば変わる
松波さんは、もっと卑近な例に引き落とします。すごく腹の立つ相手がいるとき、普通は「ムカついている私」と「ムカつかせるこいつ」という二辺を見て、相手に悪いやつというレッテルを貼ります。
二辺を見ていると、殴るか排除するか逃げるか、という選択肢しか出てきません。しかし中を、つまり空を見るとどうなるか。松波さんはここで関係性へ視点を移します。
彼のそのようなあり方が私をムカつかせている、という関係性がここにある。
関係性としてあると見れば、「関係の仕方を変えればいい」という道が見えてきます。深井さんは、この関係性には時間的な因果もあり、そこに意識的に介入して自分の立ち位置を変えられる、と補足します。
深井さんは、松波さんが武術をしていることを引き合いに出し、この話は体で説明されると分かりやすいと言います。まっすぐ来る力を横にすかせば、受けずにかわせるのと同じ原理だ、というのです。
まっすぐ来てる力を横にすかしたら、受けなくていいからスッてできたりするじゃないですか。それを概念上でやれって言われてる。
松波さんは、自分が関係性の一片である以上、その作り方を変えれば、反対側の辺である相手も意味として変わらざるを得ない、と応じます。
コミュニティナースは「空」を体現している
深井さんは、これを体現している例としてコミュニティナースを挙げます。かわいそうな人を助ける事業ではなく、誰もが助けられる人にも助ける人にもなれる、という点が特徴です。
コミュニティナースは、固定された関係性を築きません。動き続ける関係性の中で全員が相互扶助の体制を築く。ここが「社会課題を解決する」と言う人たちとの一番の違いだと深井さんは言います。
松波さんは、これを仏教的だと受け止めます。変化する関係性を、慈悲という前提で変化させ、自分もその関係の一片として参与しているからです。
松波さんの説明では、不幸な関係がスタックしているのは、当事者同士が関係を変えられないからです。コミュニティナースがするのは、そこにもう一つ別の関係軸を作ることだといいます。
そのスタックしちゃった不幸な関係性にもう一個別の関係軸を作るわけですよね。
別の関係性が入ることで、一対一の関係に変化が起こる。それを誰も犠牲にせず、みんながハッピーになるように加えると、行き詰まっていた人間関係がパッと変わる。それを実際にやっているのが彼らだ、という説明です。
深井さんはこれを、認知を変えられない人がいても、違う認知を持つ他者が介入して関係性を変えられる、という話だと整理します。だからコミュニティナースの説明は難しいのだ、というのです。
この説明が難しいのって、やっぱり世界を空的に捉えてないからですよね。
自我は固定されていない。関係性が変われば一瞬で変わる
松波さんは、デカルトの「我思うゆえに我あり」を対比に出します。私の存在を前提にすると、あなたはこういう人だという固定が生まれ、変えようがなくなる、という指摘です。
一方で中観の哲学を使うと、変化する関係性をきれいに説明でき、どうすればよいかも見えやすくなると松波さんは言います。
深井さんは、自分の実体験を三つ挙げます。子どもができると夫婦の関係性が変わること、外敵がいると仲良くなること、そして漫才コンビの役回りです。
漫才コンビの一人が別の番組ではツッコミをやることがある。深井さんは、その場での振る舞いはその人の性質ではなく、場の関係性で決まっている例だと話します。
さらに深井さんは、関係性は瞬間ごとに相当変わると受け止めます。自分の苦しみに再現性があると感じても、仏教哲学は「その再現を一瞬で止められる」と言っている、というのです。
止められるわけがないと思うが、認知のレベルでは一瞬だ、と松波さんも応じます。だからこそ、コミュニティナースのような上手い他者に介入されると、一気に変わることが起こります。
一瞬で変わる時は変わる。この一瞬で変われるということの方がファクトですよって言われている。
固定するのは言葉。虚構と知って使う
松波さんは、最後のポイントとして、固定するのは言葉だと言います。だから言葉の使い方には細心の注意が必要だ、というのがナーガールジュナの主張の大きなところです。
意味の輪郭をつけないと操作概念にならず、話もできません。だから言葉で輪郭を作るのは避けられない。ただし、それはフィクションだと分かった上で使おう、というのが中観の立場です。
意味の輪郭は取らないといけないんだけど、それは虚構だよっていうことが分かった上で扱っていこう。
たとえば「俺は頑固だ」と言ってもいいが、それは関係性で一発で変わります。その意味の枠組みに囚われると、苦を生むだけで何もいいことがない、という説明です。
深井さんは、実際は変わるのに、自らの固着によって自らを固定化しているのだと受け止めます。変えられるのに、自分が嫌がって変えていないから変わっていない、という理解です。
この「自らの認識がどう作用するか」という論点が、次回テーマの唯識につながっていく、と深井さんは予告します。空はそうだが、自らの認識がそこにどう作用するかをさらに分析するのが唯識だ、という流れです。
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まとめ
この回は、上座部の「枯れ木の境涯」と大乗の「空」を対比しながら、苦をどう扱うかを論理でたどる内容でした。すべては変わり続ける関係性でできているという中観の見方が、苦からの脱却の可能性を開く、というのが核心です。
- 上座部は望みや欲を捨て「枯れ木の境涯」を目指すが、それは生命の否定にもなりうる、と松波さんは指摘した
- ナーガールジュナの中観では、中道は真ん中ではなく「右も左もない」こと、つまり物事の正体は関係性そのものだとされる
- 空とは「何もない」ではなく「なさがある」ことであり、絶対的な実体はなく、あるのは変わり続ける関係性の中の瞬間ごとの意味だけとされた
- 苦を実在と見なすと永遠に抜けられないが、関係性は変化するため、苦の捉え方も変えられるという論理が示された
- 色即是空・空即是色はどちらを見てもよく、抜苦与楽に効く方を選べばよい。関係性を変える実践例としてコミュニティナースが挙げられた



