プリンストン神学校の学生と、Twitterでつながった縁
今回の番外編のゲストは、アメリカのプリンストン神学校で博士課程に在籍する千葉遊大さんです。千葉さんはアメリカ出身で、学生時代にキリスト教徒になり、その後日本に移って教会で役員も務めたといいます。
千葉さんは神学校で修士を取ったあと、別の神学校で博士課程に進みました。樋口さんに「今は学生ですよね」と聞かれ、「思いっきり学生です」と答えています。プリンストン神学校はニュージャージー州にあり、千葉さんは「ニューヨークの脇の下」と笑いながら紹介しました。
深井さんと千葉さんの出会いは、深井さんがキリスト教の先生を探していたことがきっかけです。深井さんは五大宗教のうちヒンドゥー教以外について、先生について学びたいと考えていました。
キリスト教の先生を探すってすごい難しくて、日本においては。
深井さんによれば、仏教の先生は仏教国の日本では見つけやすい一方、キリスト教では非クリスチャンが誰に教わればよいのか判断しにくかったといいます。Twitterでつぶやいたところ、千葉さんのほうから声をかけてくれたそうです。
深井さんは、千葉さんがヘブライ語を読みながら聖書研究をしていること、修士時代のデューク大学 ── アメリカ・ノースカロライナ州にある私立大学。神学部も有名で、全米有数の名門校として知られていますも含めて名門で学んでいることに触れ、信頼できる人だと感じたと話しています。
非教徒の自分が「なんでなんすか?」とかいうのを聞き続けたら失礼になっちゃうかもしれないし。
その縁から、千葉さんはコテンという会社に向けて定期的にキリスト教の勉強会を開いています。深井さんは、始めて半年ほどで「自分がどれだけわかってないかがわかってくる」段階になったと振り返りました。
千葉さんにとっても、この勉強会は新鮮な機会だといいます。自分の宗教は世界の見方に関わるため当たり前になりやすく、客観視しにくいからです。改めて「なんだっけ?」と考えさせられるのが面白いと話しています。
歴史のためではなく、現代人を理解するために
千葉さんはもともと特定の宗教を持たず、親も宗教とは関係がなかったため、いわゆる改宗の部類に入ると説明しました。何もないところから、自分で選んでキリスト教徒になったといいます。
続いて話題は、深井さんが宗教を学ぶ理由へ移ります。深井さんは以前から、五大宗教はどれも素晴らしいという基本姿勢を持っていると話していました。これほど人口に膾炙し、多くの天才的な信者を経てきた宗教が、少し知っただけで否定できるものであるはずがない、という考えです。
欧米とかの中心の宗教でさ、よくわかんないってすげえ嫌なんだよね。
深井さんは、宗教と文化は未分化で、「宗教が理由でこうなった」という因果の説明は本当はおかしいと考えています。当時の人は自分たちの行動をキリスト教だと意識すらしていなかったかもしれない、というのがその理由です。
コテンラジオではこれまで「キリスト教の考え方がこうだから、こう動いた」と説明する場面があり、「本当はそうじゃない」というコメントも寄せられてきました。深井さんは、番組は本に書かれた内容を紹介する立場で、キリスト教について自分で見極める力はまだないと認めています。
そのうえで深井さんは、歴史のためというより、現代人を理解するためにキリスト教を学んでいると語りました。毎週教会に通う人の感覚やモチベーションは、外からはわかりにくいものです。世界にはそうした人がたくさんいるので、その感覚を理解してコミュニケーションしたい、というのが動機です。
千葉さんはどの立場から話すのか?
樋口さんが「そもそもキリスト教って何?」から聞きたいと切り出すと、千葉さんはまず前置きをしました。キリスト教は信仰者も宗派も多く、自分の話がすべての信者に当てはまるわけではない、という断りです。
千葉さんはプロテスタントの立場です。ローマ・カトリックでも、ギリシャ正教やロシア正教でもない、という大きな区分になります。教育を受けたのはメソジスト派 ── 18世紀のイギリスで、ジョン・ウェスレーらが始めたプロテスタントの一派。規則正しい信仰生活を重んじたことが名前の由来とされますの学校、現在在籍しているのは長老派の学校ですが、特定の宗派に所属しているわけではないといいます。
もう一つの前置きは、誰をキリスト教徒と見るかは内部でも意見が分かれるという点です。千葉さんはエホバの証人 ── 19世紀後半のアメリカで生まれた宗教団体。戸別訪問による熱心な布教活動で知られていますやモルモン教を例に挙げました。
エホバの証人やモルモン教の信者は、自分たちをキリスト教徒と考えています。ただ両者には、キリスト教の古い概念である三位一体の神を信じないという共通点があり、プロテスタントの諸派の間では議論があるそうです。
千葉さんは、彼らがキリスト教徒ではないと言うつもりはないとしたうえで、この日の話は三位一体の神を前提にしたキリスト教であり、彼らには当てはまらない可能性が高いと断りました。
宗教は「遠い存在を近くする」もの
千葉さんはキリスト教を、ナザレのイエスを救世主とし、そのイエスを三位一体の唯一神として信仰する宗教だと定義します。そのうえで、一歩引いて宗教そのものの役割から考え始めました。
千葉さんの考える宗教の役割の一つは、遠い存在を近くすることです。死んだ人とどう対話するか、霊界とどうつながるか、自然や運命を動かす見えない力とどう交信するか。宗教はこうした問いに答えを出している、と千葉さんは話します。正式な定義ではなく、あくまで自分なりの仮定だとも添えています。
そこから千葉さんは、キリスト教の宗教心には2つの大前提があると説明しました。1つ目は、天地万物、存在するすべてのものを創った何かがあること。2つ目は、その創造主を人が知ることができ、交信や交流ができることです。
宗教の役割
遠い存在(死者、霊界、見えない力)を近くする
大前提1
世界のすべてを創った何かが存在する
大前提2
その創造主は知り得る存在で、交信できる
出発点
創造主を仮定し、人がそれを知れるところから思想が展開する
樋口さんが整理したとおり、「遠い存在を近くする」は宗教全体の話で、2つの大前提はキリスト教の話です。創造主は普段見えず、世界の創造も誰も見ていません。千葉さんはその遠さを、人がビッグバンを見たことがないのと同じくらいだと例えています。
樋口さんは、見えないものに人格があるかのように具現化して理解しやすくする、というイメージを「ジョジョのスタンド」に重ねました。千葉さんは「ちょっと違うかも」と笑いつつ、とりあえずその理解で大丈夫だと受け止めています。
一神教の神は「喋るデータベース」?
深井さんは、千葉さんの挙げた2つの大前提に強く共感したと話します。特に、創造主が全知全能であることが極めて特殊で、そこから他の宗教と分かれていくと感じたそうです。
全知全能じゃなければ、それは神のミスだったかもねとか、そこは想定外かもねとか言えるところが、全部想定内でしょと。
深井さんが考える一神教のもう一つの特徴は、神が人格神であることです。スピノザ ── 17世紀オランダの哲学者。神と自然を同一視する汎神論を唱え、当時のユダヤ教共同体から破門されましたの汎神論を学ぶと人格神の要素が剥がれていく感覚がある、と深井さんは対比しています。
直接言葉を人間に言ってくださると。
千葉さんもこれに同意し、人格を持つ神がいることが大きなポイントだと話しました。人格がなければ、一神教は宗教として成り立たないと考えられるそうです。一神教でなければ、人はさまざまな世界の力とうまく接しながら生きていくことになる、とも説明しています。
樋口さんはそれまで、世界に膨大なデータベースがあり、APIのように問いを投げると答えが返ってくるものだとイメージしていました。Googleに検索ワードを入れるような感覚です。
なんか膨大なデータベースみたいなのが世界にあって、で、例えばその、それは数学かもしれないし、物理現象かもしれないし、人類の知の蓄積かもしれない。
深井さんは、そのデータベースの世界観はどちらかといえば仏教的だと指摘しました。イスラームでも人格神であることや、神がプランを持っていることが重要だったといいます。千葉さんも、意思があることはキリスト教で特に大事だと応じました。
世界の知の蓄積に問いを投げると答えが返る。深井さんいわく、どちらかといえば仏教的
データベースが喋り、自分の意思やプランを持っている。人格があるから交流が成り立つ
神は誰が作ったのか?
楊さんは、データベースにはデータを蓄積するという前提条件があると指摘しました。そのうえで、キリスト教の神はそれ以前の原因を持たない「すべての因果の始まり」なのかと尋ね、千葉さんはその通りだと答えています。
え、その、じゃあなぜあるんですか?その神様は。
千葉さんは、キリスト教の神は定義上、誰にも作られていないと説明しました。物事にはたいてい原因があり、たとえばパソコンにはそれを作った人がいて、その人には親がいます。こうした原因の連鎖が神で止まる、というのがキリスト教の考え方です。
パソコン
ここにあるのは、作った人がいるから
作った人
その人がいるのは、産んだ親がいるから
さらに前へ
原因の連鎖がさかのぼっていく
神
連鎖はここで止まる。神には原因がない
千葉さんは、科学者に怒られるかもしれない雑な例えと断ったうえで、宇宙の誕生の文脈で語られるシンギュラリティを挙げました。すべてが一つだったところから分散した、という「原点」の発想です。
全てに因果があったら、一番最初何なんだって話になるじゃないですか。
深井さんは、最初の前に何かがあればそれは最初ではなくなる、という無限ループを避けるために、どこかに原因を持たない何かを置く発想ではないかと推察しました。樋口さんは、それはどうこう論じるものではなく前提なのだと受け止めます。
ただし、その原点の存在に人格があるという点で、樋口さんは「パニックになってます」と笑いました。否定しているのではなく、今まで考えたことがないのでピンと来ていないだけだと念を押しています。
三位一体は「完璧なバンド」?
樋口さんが三位一体を「10文字で」と頼むと、千葉さんは「絶対無理です」と即答しました。説明自体は簡単でも、納得できるかは別問題だといいます。
千葉さんによれば、一神教なので神は一体です。その一体の中に、厳密には「3つ」と言ってはいけないものの、父なる神、子なるイエス、聖霊という3つの「メンバー」がいます。
千葉さんは、このメンバーをバンドに例えました。バンドのメンバーは本来は個人ですが、良い日には同じ目的と意思を持ち、一体感を持っていい音楽を作ろうとします。ここから想像するのが「ステップワン」だといいます。
父と子と霊は何か存在であって、それぞれ意思を持っている。
千葉さんは「もうすでに地雷踏んでる」と神学的な難しさに触れつつ、父・子・聖霊はそれぞれ独自の意思を持つ点では個体であり、その意思が完璧に統合されていると説明しました。それが、キリスト教の中での世界の在り方だといいます。
千葉さんは原罪 ── 人類の始祖アダムとイブが神に背いたことで、すべての人間が生まれながらに負っているとされる罪。キリスト教の救いの考え方の前提ですを例に挙げます。堕落した人を救おうと父は思い、普通でない手段として子を送ります。子が独自の意思を持つなら反対もできるはずですが、意思が統合しているので言わない、というのです。千葉さんはこれを「すっごい完璧なバンド」と表現しました。
楊さんが聖霊とは何者かと問うと、千葉さんは聖書に出てくる「神の霊」から説明しました。創世記の天地創造では、創造前の大海原のようなところの上に神の霊が浮いていると書かれ、神の意思を遂行する存在として描かれているそうです。
新約聖書では、聖霊がハンコを押すように認証する役割を担います。千葉さんは、イエスが洗礼を受けたときに聖霊が鳩のように天から降りたという福音書の記述を例に挙げました。信じる人の心に聖霊が宿るという考えもあるといいます。
樋口さんは聖霊を「不思議な現象」のように捉えましたが、千葉さんは、初期のキリスト教の理解では聖霊は独自の意思を持つ神格の一つであり、ただの現象ではないと補っています。
楊さんが天使はどこに入るのかと尋ねると、千葉さんはどれにも当てはまらず、神が作った被造物だと答えました。天使は聖書では漠然とした存在で、ユダヤ教の歴史の中で肉付けされていったそうです。サタンもヨブ記に登場しますが、今思われている「堕天使の長」のような悪魔像とは違い、そうした理解はイエスの時代ごろに固まっていったといいます。
| 存在 | 分類 | 千葉さんの説明 |
|---|---|---|
| 父なる神 | 三位一体の神 | 独自の意思を持ち、人を救うために子を送る |
| 子なるイエス | 三位一体の神 | 父とは別の意思を持つが、統合しているので反対しない |
| 聖霊 | 三位一体の神 | 神の意思を遂行し、父から来たことを認証する神格 |
| 天使 | 被造物 | 神の使いの役割を担うが、神に作られた存在 |
イエスは人間なのか、神なのか?
樋口さんは、三位一体で神とされるのがイエスだけなら、人間の中でイエスだけが特別なのかと尋ねます。千葉さんはシンプルに人間だと答えつつ、本来は人間が神であってはいけないという難しさがあると説明しました。
イエスの事情は特殊です。新約聖書では、聖霊によってマリアが身籠り、イエスが生まれたという処女降誕 ── イエスの母マリアが、男性と関わることなく聖霊の力によってイエスを身籠ったとする教えが語られます。千葉さんは現代的に言えば「あまり人のDNAを受け継いでいない」と表現しました。
では、救世主が神である必要はあるのでしょうか。千葉さんは、救世主は人でもいいと思いませんかと問いかけます。キリスト教はユダヤ教から分派した宗教で、当時のユダヤ教ではメシア(救世主)は普通の人だと期待されていたといいます。
普通に生きて死んでいきますからね。何もなくても。
そもそも救われる必要があるのか、という疑問に対し、千葉さんはキリスト教が聖書の物語を通して世界を理解しているからこそ、大きな問題意識を持つのだと説明しました。
三位一体の神が最初にあり、世界を創り、それは「良かった」と聖書に書かれています。しかし神は意思を持つ人を作りました。意思には選択肢と選択権が必要です。人は神か神でないものかを選ぶとき、神でないものを選んでしまった、とキリスト教徒は理解しています。これが原罪や堕落の起源です。
なぜそういう選択をしちゃったんですかね。
千葉さんは、なぜ人が神から離れたのかは究極にはわからないと答えます。そのうえで、神は見えない遠い存在なので、神から寄ってこないと人は絶対にたどり着けない、という前提があると説明しました。
神が寄ってきた証拠の王道の答えの1つが聖書です。聖書は神が直接発した言葉というより、神が認証した言葉だと理解されています。聖霊が人に宿って神の意思を伝え、書かれたものが聖書だという考えです。
インスパイアってそういう語源だった。
英語のインスパイアは、スピリット(霊)が入るという意味だそうです。千葉さんは、古事記や日本書紀、中東の諸文明にも創造神話がある中で、創世記が正しいと言えるのは、神に起源するものだという確信があるからだと話しています。
全知全能の神の下で、人間はなぜ過つのか?
深井さんには、一神教に対する究極の質問がありました。神が全知全能なら、なぜ被造物の人間は過つのか。そして、すべてをコントロールできるはずの神が、なぜ人間に「コラー」と怒る描写があるのか、という疑問です。
深井さんは、千葉さんの話にヒントがあったと言います。人間に選ばせる性質を与えなければ、意思は生まれません。神は人間に意思を生じさせたかったのだ、という解釈です。
深井さんは、意思を持たせることは大きな神のプランの中にありつつ、その中で間違ってしまった人間をどうするかという問題が神の側にある、と整理しました。千葉さんも、その通りだと答えています。
深井さんはノアの箱舟 ── 旧約聖書の創世記の物語。人間の堕落を見た神が洪水で地上を一掃し、ノアの家族と動物たちだけが箱舟で生き残りますを「一回クリアリング」した例として挙げました。そして究極的には、イエスのところでもう一度、神の側から大きな変更があったのではないかと問いかけます。
旧約から新約へ。「契約」の更新とは?
千葉さんは、この問いに答えるうえで重要なのが「契約」という概念だと説明しました。神は特定の人々と契約を結びます。聖書のいう古代イスラエルの存在意義は、神が契約した国、つまり「契約の民」であることです。
新約聖書の「約」は契約の約です。旧約は古い契約、新約は新しい契約を意味します。イエスの時代に契約が更新され、世界の方向がガラッと変わった、と千葉さんは話します。
旧約の時代、契約の民は神の神性を正確に認め、それにふさわしい生き方をする約束事を守らなければなりませんでした。見えない神が見えるように、神は自分の世界での代表として人と契約を結んだのです。しかし結論から言うと、それは難しかったといいます。
キリスト教的立場から見ると、旧約聖書っていうのは失敗したかのように見えると。
千葉さんは、これはイスラエルの人々が特別にダメだったという意味ではないと強調しました。人間はルールを守って神に近づくことはできない、人間とはそういうものだ、という結論だといいます。だから言葉を与えるだけでなく、人間の現状を根本から変える何かが必要になり、それがイエスでした。
旧約:神は古代イスラエルと契約。人は約束事を守って神に近づこうとしたが、難しかった
新約:イエスの時代に契約が更新され、救いが約束された。神の側から人の現状を変える
深井さんはここで、契約が更新されたと信じるのがキリスト教徒、信じないのがユダヤ教徒で、それが両者の分岐点になると整理しました。千葉さんはこれを歴史的な分岐点だと認め、メシアが来たかどうか、新しい契約があるかどうかとも関係していると補っています。
「魂は神、肉体は人間」は異端だった
深井さんは「いろんな人から怒られるかもしれない」と前置きして、イエスについての自分の仮説をぶつけました。樋口さんも「怒られよう」「間違うから人間は」と背中を押します。
それでいくと、まず魂は神だよね。
(イエスの)肉体は人間なんですよね、多分。
千葉さんの答えは「いや、異端です。普通に」でした。「じゃあ火あぶりで」と冗談を返し、樋口さんが「怖い怖い」と笑う場面もありました。千葉さんは、日々の生活でそのイメージを持つこと自体は問題ないが、厳密には違うと説明します。
もし魂だけが神で肉体が人間なら、キリストは人間の体だけを救っているのか、という話になってしまいます。千葉さんによれば、深井さんと同じ考えを持った人は昔も多く、イエスのどの部分が神でどの部分が人間かは、キリスト教の初期に議論された事柄の一つでした。結論は、イエスは魂も体も、両方が神であり両方が人間でなければならない、というものです。
千葉さんは、その理由をキリスト教の救いの原理から説明しました。イエスは人を驚かせることを言う不思議な先生で、不治の病を癒やし、社会的地位の低い人を見ていた人物として福音書に描かれています。
当時のユダヤはローマ帝国に支配され、メシアはローマから救ってくれる王だと理解されていました。そのためイエスがメシアを名乗ることは、ユダヤの王を名乗り、ローマ帝国に反発するのと同じ意味になり、政敵となって十字架にかけられます。
千葉さんは、その後の復活が鍵だと言います。人間は死が定められ、不平等なまま生きて死んでいきます。復活は、人間の一番弱いところが克服されたという理解につながるのです。
神が人になることを受肉 ── 神の子が人間の肉体をとってこの世に現れたとする、キリスト教の中心的な教えと呼びます。神が「人」というタイプの生き物全体を受け持ったからこそ、イエス一人ではなく人類全体が救われる、という理解です。千葉さんは、そこには浄化思想に近い考えが働いており、「神格化」と呼ばれる古い考え方だと紹介しました。
エデンの園から新しいエルサレムへ
樋口さんが、救いの対象は人間だけなのかと尋ねると、千葉さんは、キリスト教の世界理解では人間は世界の管理人として任命されていると答えました。創世記の記述に基づく考え方です。
役職があるよね、生物の中で。
管理人である人間が神から離れて堕落したことで、世界全体がおかしくなった、とキリスト教では考えます。そのため、全世界が人間の救われるのを待っているという考えがあるそうです。直接救われるのは他の生物ではありませんが、原罪の問題が解決されれば、世界全体が本来の理想の状態に戻れるといいます。
千葉さんは、キリスト教徒は聖書の物語に沿って世界を理解していると説明し、始まりと終わりを示しました。始まりは創世記2章のエデンの園で、アダムとイブが暮らす調和の取れた楽園です。そこから追放されることが原罪のスタートであり、神から離れたことの象徴だといいます。
終着点はこの始まりをミラーする形になります。ただし、エデンの園そのものに戻るのではなく、それを匂わせる新世界が訪れます。旧約聖書で神の町とされたエルサレムが、更新された形で天から下ってくる「新しいエルサレム」が、千葉さんのいう「エンドゲーム」です。
樋口さんは、何かを知るためには別の何かを知る必要があり、どんどん深掘りしてしまうと振り返りました。話し足りない部分は、次回以降に続きます。
まとめ
前編では、千葉遊大さんがプロテスタントかつ三位一体を前提とする立場を明らかにしたうえで、人格を持つ唯一神、三位一体、原罪、契約の更新、受肉までを一続きの物語としてたどりました。深井さんや樋口さんの素朴な問いや大胆な仮説が、キリスト教の考え方を浮かび上がらせる回です。
- 千葉さんは、宗教の役割を「遠い存在を近くする」ことと捉え、キリスト教は創造主の存在と、その創造主と交信できることを大前提にしていると説明した
- 一神教の特徴は神が人格と意思を持つことで、樋口さんの「データベース」のイメージは、深井さんによればどちらかといえば仏教的
- 三位一体は、別々の意思を持つ父・子・聖霊が完璧に統合した「完璧なバンド」のような一体の神として説明された
- 旧約から新約への契約の更新を認めるかどうかが、キリスト教とユダヤ教の歴史的な分岐点になる
- 「魂は神、肉体は人間」という深井さんの仮説は異端とされ、イエスは魂も体も神であり人間でもあると説明された



