原罪とは「神から離れている状態」?
前編では、キリスト教が目指すところとして、人間は原罪を負っており、それが許されて本来あるべき場所へ帰っていく、という話で終わりました。千葉さんは、それを「目的」と呼ぶよりも、世界がどこへ向かっているかを示す「物語の終わり」と捉えるのがわかりやすいと説明します。
千葉さんによると、キリスト教では世界を物語として見る考え方が主流です。そのため、聖書の物語性がとても重要な意味を持っているといいます。
深井さんは、神が定義した「正解」があり、人間はそれに即していない、その即していない部分が原罪なのではないかと整理します。そのうえで、人間はいったい何ができていないのかと問いかけました。
千葉さんの答えでは、原罪はアダムとエバが食べてはいけない知識の実を食べ、楽園を追放された出来事に由来します。そこから人は罪を負っていると考えられ、罪とは「神から離れている状態」、あるいは「神に拳を上げている状態」だと理解されるといいます。
千葉さんは、みんながそう言うわけではないと断ったうえで、「人は神に敵対している」という考え方がよく聞かれ、新約聖書の用語でもあると紹介しました。これに対して深井さんは率直な感想を返します。
(神に敵対しているなんて)俺思ったことないですよ。一回も思ったことなくて。
千葉さんは、普通は思わないものだと応じます。一神教徒でない限り、そもそも神がいること自体を思わないはずで、実はその「見えていない」ことにこそ罪が関わっていると考えられているそうです。
深井さんが「無知、盲目ということか」と確かめると、千葉さんはうなずきます。救われることの効能の一つは、目が開かれることだといいます。世界を創造した神がどんな神で、歴史の中で何を行い、最後に人類の救いのために子であるイエスを送った。その物語が見えるようになることが救いだという考え方です。
深井さんが「悟りに向かうみたいな感覚だ」と重ねると、千葉さんはそういう感覚はあると認めつつ、中身はかなり特定されたものだと補足しました。キリスト教の物語を信じられるようになることが、救いにつながっているといいます。
千葉さんは、殺人や盗み、姦淫といった個々の罪も説明します。それらはもちろん悪いことですが、キリスト教では、人が神を見失い、何のために存在しているのかわからなくなっている「罪の状態」の一環として説明されるそうです。
深井さんはこれを「罪のレイヤーが2つある」とまとめ、千葉さんも行動や思考の上での罪があると考えられると答えました。
神から離れ、神を見失っている状態。原罪に由来し、世界の在り方が見えていない
殺人、盗み、姦淫など。根本的な罪の状態から生じる一環として説明される
じゃあ俺、今ずっと罪深いんですね。41年ぐらいずっと。
千葉さんの「残念ながら」という返しに笑いが起こります。樋口さんが「回心すればいつでも許されるんですよね」と確かめると、千葉さんは厳密にはそうだと答えました。
回心の具体的な中身について、千葉さんは考え方がいろいろあるとしたうえで、最もシンプルなのは「イエスが自分の救い主である」と口で言えば救われるという考え方だと紹介しています。
審判の日は「虐げられた民の希望」だった?
ここで樋口さんが話題を変え、以前から引っかかっていたという審判の日、いわゆるジャッジメントデーについて尋ねます。
ジャッジメントデーを信じるってすごい、なんていうかな、むずくて。
樋口さんによれば、創造神がいることは異教徒でもおかしくないと思えるし、それが人格神であることも否定できません。ところが審判の日だけは、どう受け取ればいいのかがわからないといいます。
千葉さんはまず、審判の日が一般に聖書の最後に置かれたヨハネの黙示録 ── 新約聖書の最後に収められた書。幻の形で世界の終わりと神の最終的な勝利を描き、終末論の代表的な典拠とされていますに描かれた終末論と結びついていると説明します。イエスは自分が戻ってくると宣言し、それまで待つよう信徒に言っていました。その再来の日が世界の終わりであり、そこから最後の審判が始まるといいます。
では、なぜ審判があるのか。千葉さんは、旧約聖書を世に出したイスラエルという国の置かれた状況を想像してほしいと語ります。イスラエルは小さな国で、南には古代の超大国エジプト、東にはバビロン、北にはアッシリアと、周囲を帝国に囲まれていました。
イエス以前の数百年間、あの地域はギリシャ人やペルシャ人など他国に支配され続けていました。そのなかでイスラエル、あるいはユダヤの民というアイデンティティを強く保ち続けたことは、とても珍しいことだと千葉さんは言います。
さらに紀元後70年、ユダヤはローマ帝国と戦争をして大敗し、神の町とされる聖地エルサレムも焼かれます。ユダヤ教も唯一神を信じるため、聖書のレトリックでは正しい神殿はエルサレムの1つだけですが、それがすべて失われたといいます。
千葉さんは、そこから「自分たちを苦しめたこいつらは今後どうなるんだ」という発想が生まれると考えます。この世の力は最終的には長持ちしないという視点は、旧約聖書にも新約聖書にも共通しているそうです。
旧約聖書にはバビロンやエジプトが仮想敵として繰り返し登場し、新約聖書はローマ帝国をあからさまに敵視しています。千葉さんは、キリスト教内部の理解ではないかもしれないと断りつつ、終末論は虐げられながらもアイデンティティを守ってきた民の一つの願望と見ることもできる、と語りました。
周囲を帝国に囲まれる
エジプト、バビロン、アッシリアなどの大国に挟まれ、数百年にわたり支配を受ける
アイデンティティの維持
支配下でもイスラエル、ユダヤの民としての意識を保ち続ける
決定的な敗北
紀元後70年にローマ帝国に敗れ、エルサレムと神殿を失う
終末論という希望
この世の力は長続きせず、いつか神の日が来るという願望と約束
樋口さんは、始まりには彼らの絶望と希望があったのだと受け止めます。千葉さんは、終末論は希望であると同時に、裁かれる可能性があるという怖さも含むと付け加えます。神がいるなら、道徳を外れたことを裁かないはずがない、という前提があるといいます。
深井さんは、それは審判の日がなぜ生まれたかの分析であって、教えの論理のなかではどう説明されるのかと問い直します。千葉さんの認識では、答えは「聖書に書いてあるから」です。信仰者の立場としては、聖書に書いてあることを神の言葉として受け止めるところから始めるしかないといいます。
なぜ神はイスラエルを選んだのか
樋口さんは続けて「究極の質問」を投げかけます。人類全体を救うはずなのに、なぜイスラエルで、アラム語で語られ、ギリシャ語で書かれたのか、という問いです。
日本語は?ってなる。日本語、日本語ってなるけど、そこ(イスラエルが選ばれた理由)はどう解釈してるんですか?
千葉さんは、意味は確実にあるが、究極的な意味があるかどうかはわからないと答えます。理論上、唯一神は誰を選んでもよく、日本でもよかったはずです。究極的には、聖書で神がイスラエルを選んだと言っているからそうなのであり、その意思はそれ以上わからないといいます。
ただ千葉さんは、イスラエルが弱かったことに一つの意味があると付け加えます。隣国に比べて小さな民が繁栄できたのは神がいるからだ、という理屈が旧約聖書のなかにあるそうです。
樋口さんは、日本の文化も神の被造物であり、世界中に弱い民はいたはずなのに、なぜ中東のあの地域だったのかと重ねます。日本は文化的にも地理的にも遠く、キリスト教も浸透していません。
千葉さんは、一般のキリスト教徒の認識は代弁できないとしたうえで、特定の国、特定の民、特定の文化と言語に神が注目したことは神学上重要だと答えます。小さな民であっても、神はその民を見ているという証拠になるからです。
千葉さんによると、ユダヤ教ではイスラエルであることに大きな意味がありますが、他の民がどうでもいいと信じているわけではありません。キリスト教は初期の段階で、イスラエルという小さな特定の人々への約束が全世界に広げられた、という点でユダヤ教と差別化していったといいます。
神とイスラエルの民との契約。選ばれた民を通して一神教の神の意思が伝えられる
イエス・キリストの十字架の死と復活によって、全人類に広げられた契約
千葉さんは、この広げられた約束がキリスト教でいう福音 ── ギリシャ語で「良い知らせ」を意味する言葉。キリスト教では、イエス・キリストによって救いがもたらされたという知らせを指しますであり、それを伝えていくことがキリスト教徒の責務と認識されていると説明しました。
ザビエルはなぜ命がけで日本に来たのか
この説明を受けて、ザビエルのような宣教師が命がけで日本に来たのは、全人類との契約が更新されたのに、それを知らない島の人々がいるのは不公平だというミッション意識からなのか、という問いが出ます。千葉さんは「絶対持ってますね」と強く肯定しました。
深井さんも、原罪には「知らないこと」も含まれるのだから、キリスト教が広まっていない地域の人々は神から最も遠く、救わなければならない存在になると整理します。千葉さんは、いろいろな人に怒られそうだとしつつ、そう言えると答えています。
一方で千葉さんは、宣教師が現地の人を下に見る事例も実際にあったと認めます。千葉さんがお世話になった年配の日本人キリスト教徒は、戦後どこも節電しているなか、向かいの外国人宣教師の家だけ明かりが煌々と灯っていたと話していたそうです。
ただ千葉さんは、決死の覚悟で行ったこともない土地に赴き、その人々の言語を必死に覚え、文化を学んだ宣教師もいたと補足しました。
話はさらに、アジアに来た初期の宣教師がカトリックだった背景に広がります。千葉さんは、恐怖心かどうかはわからないとしつつ、宗教改革への反発は事実だと述べます。世界に出ていったイエズス会 ── 16世紀に創設されたカトリックの修道会。フランシスコ・ザビエルも創設メンバーの一人で、世界各地での宣教と教育に力を入れましたは、英語でCounter Reformationと呼ばれる宗教改革への対抗勢力の一つでした。
千葉さんによると、宗教改革の直後、プロテスタントはあまり宣教師を出しておらず、その分カトリックが大きく広がりました。ちゃんとしたキリスト教を世界に伝えなければならないというミッションを負っていたと考えられるそうです。
また、世界を知ることが神を知ることにつながるという感覚や、博物館のように世界中の動植物や風習を集めてデータベース化する営みが神に近づく行為だったのではないか、という想像も出されました。千葉さんは、自分の知識では検証できないとしながら、あり得ると答えます。ヨーロッパの大学は神学を中心に数学や自然科学が周りに置かれ、すべてが神につながっているという認識があったといいます。
いいことをしても救われない?
深井さんは、原罪を許されるために人間ができる行動として、神の言葉を知ること以外に、世界のためにいいことをすることも入るのかと尋ねます。
千葉さんは、いいことをする目的は確実にあり、被災地に人を送る教会など、それを行う宣教団体もたくさんあると答えます。ただし根本的には、人はいいことをすることによって救われないのだといいます。プロテスタント寄りの考えかもしれないが、キリスト教徒の間ではある程度共通しているそうです。
千葉さんの説明では、いいことをするのはむしろ「救われた証」に近いものです。いいことをすることで救われるとすれば、それは行い中心であって信仰によるものではなくなってしまうからです。
いいことを積み重ねれば救われる(行い中心の考え方)
神に近づき救われた結果として、いいことをする(信仰による考え方)
これを受けて、ポイントを貯めるのではなく、神に近いか近くないかが本質で、なるべく近づこうとすること以外にやることはないのではないか、という受け止めが出ます。深井さんも、近づいている人は神に近いから人にいいことをする、くらいの関係なのだとまとめました。
千葉さんは福音書のエピソードを紹介します。律法のなかで一番大事なものは何かと問われたイエスは、2つ答えました。神を愛することと、隣人を愛することです。神を愛しているなら人も愛するはずで、人を愛していないなら本当は神を愛していない。ただ理屈の上では、神を愛することが先行するといいます。
千葉さんはさらに、新約聖書の奴隷の比喩を挙げます。ローマ帝国の時代を背景に、「あなたは罪の奴隷だったが、イエスによって解放され、今は神の義の奴隷だ」という表現があるそうです。神に縛られた人は、自ずと神にふさわしい生き方をするだろう、という考え方です。
神に近づくには何をすればいいのか
深井さんは、これをしたら神に近づけるという行為がないのなら、結局何をすればいいのかと素朴な疑問をぶつけます。
今日僕は何をしたら神に近づいたことになるのかがわかんないんですよね。
千葉さんは、人それぞれ答えが違うとしたうえで、完全に持論だと断って答えます。一つは、単純に聖書を読んで神を知ってみることです。物語を通して神を理解するのだから、という理由です。
ただし現実的な問題もあると千葉さんは言います。聖書を買って読めるのは比較的最近の現象で、歴史的には聖書を読んでこなかったキリスト教徒がたくさんいました。障害があって読むことや聞くことが難しい人もいます。
そこで重要になるのが教会という概念です。千葉さんによると、神学的に教会は「キリストの体」とされます。神の愛を体現したのがイエス・キリストなら、それを引き継いでいるのが教会という人のコミュニティだと理解されているそうです。
深井さんが「建物じゃなくてコミュニティなんですね」と確認すると、千葉さんはそうだと答えます。信者の集いに触れ、キリスト教徒が神を礼拝している場に行くことで、神の救いを体験できるという考えもあるといいます。
審判の日には何が裁かれるのか
深井さんは、そうやって神との距離を縮めながら生き、やがて死んだ後に審判の日が来るのなら、その日に何がジャッジメントされるのかと問います。誰が一番神に近いかを競うゲームなのか、という問いかけです。
千葉さんは、そもそもわからないとしたうえで、冗談めかして「あなたはこの人より2ミリ近いですね」ということもないとは言い切れないと返します。深井さんが「今のところ僕より千葉先生のほうがだいぶ近いですよ」と言うと、千葉さんは「はいとはすごく言いづらい」と笑いました。
聖書的に言えば、審判の日に審査されるのはキリストの教えに従ったかどうかだと千葉さんは説明します。最も単純に言えば、隣人を愛したかどうかが審判されるというのが基本的な認識です。
深井さんは、死んだ人々がまだ裁かれずにいて、審判の日に全員が並べられ、一斉に判断が下されるイメージかと確認し、千葉さんは大体そんな感じだと答えます。では、そこで合格・不合格やランクが決まるのか。
千葉さんによると、救う救わないがそこで決まるのではなく、強いて言えば「救われていたかいなかったか」が確定する、という感じだそうです。ただ、ここは正直よくわからないとも述べます。遠い未来だからというより、聖書を読んでいてもそこまで確実には言えない感覚があるといいます。
深井さんは、神がそのあたりをあえてぼかしていて、「詳しく知らなくていいけれど、最後にそういうものがあることだけは知っておけ」ということなのかと受け止めました。千葉さんは、誰が天国に行き誰が地獄に行くかがここで決まるという側面もあり、自分の考えを間違いだと言う人も必ずいるだろうと認めています。
仏教の一部の宗派にある「良い行いをすれば天国、悪いことをすれば地獄」という世界観と比べるとかなり違う、という感想に対し、千葉さんは、西洋から来た伝統的なキリスト教は天国と地獄の教えをかなり中心的に教えてきたと補足します。ザビエルたちも地獄やディアブロ、つまり悪魔についてよく語っていたそうです。
わかりやすい答えは「伝える責任」から生まれた?
話は、宗教がなぜ断定的な答えを出すのかという問題に移ります。千葉さんは牧師でも神父でもなく学者に近い立場なので、この場ではこうした答え方になるのではないか、という指摘が出ました。
千葉さんも、自分が牧師なら答えを出さなければならないプレッシャーはあると認めます。信徒は「私は救われているのか」「私の娘は救われるのか」と本気で聞いてくるため、長く論じられてきた伝統のなかから、無難な答えや正しいと考える答えを一つ選ぶことになるといいます。
仏教の功徳を積むといった考えも、元々の仏教哲学からではなく、説明しようとした人々が考え抜いた結果だろう、という見方も示されます。信仰は人が殺人を犯すか善人になるかにまで直接影響するため、「よくわからない」と言えば「なら人を殺してもいいのか」となる人もいるかもしれず、それならポイント制だと伝える人もいただろう、という話です。
学問も同じで、本来は常に仮説で結論は出ないけれど、教室では一旦正解を教えなければならない、という指摘もありました。年号の語呂合わせも、テストをするために決めているという話が続きます。
さらに、物理で空気抵抗や相対性理論を考えないものとして高校生に教えるように、相手に合わせてモデル化して伝える必要もあります。理解力がさまざまな人に伝えるには、「鬼が出るぞ」「地獄に落ちるぞ」という言い方や絵が必要になる、という話にもつながりました。子どもに「寝ないとお化けが来るよ」と言ってしまったというエピソードも出て、相手に合わせて何をどう伝えるかの一例として語られています。
| 場面 | 本来の姿 | 伝えるときの形 |
|---|---|---|
| 宗教の現場 | 断定しきれない教え | 天国と地獄、ポイント制のような説明 |
| 学校の授業 | 学問は常に仮説 | 一旦の正解、覚えやすい年号 |
| 物理の授業 | 空気抵抗や相対性理論も関わる | それらを考えないモデル |
信仰の真剣さへのリスペクトと、次回の「祈り」
締めくくりに近づくなかで、宗教を学ぶうえで重要なのは、その真剣さを理解することだという話が出ます。それぞれの宗教の人々は超真剣で、そこに天才が現れ、とことん考え抜いた結果がいまの形になっている。それを軽く見ないことが大事で、リスペクトがなければ何を言っているのかわからないはずだ、という指摘です。
勉強する理由は、信仰の感覚をつかみたいからだとも語られます。葬式にお坊さんを呼ぶ感覚と教会に通う感覚には集合知的なずれがあり、それがエンターテインメント作品や文章、ステートメントの細かな違いに表れる。そのパターンをなるべくたくさん知りたい、という欲求です。
同時に、信仰していないのにわかりたいというのは、信仰者からすると失礼かもしれないという自覚も共有されます。実際に「学問や好奇心として知りたいのはわかるが、結局あなたは信じないからわからないでしょう」と言われたことがある、という経験も語られました。ただ、信じないと決めているわけでもなく、まずその感覚を知りたいのだといいます。
最後に、次回聞きたいテーマとして「祈り」が挙がります。南無阿弥陀仏を唱える感覚や、神社で手を合わせてご利益を願う感覚と、キリスト教の人格神とのコミュニケーションとしての祈りは、だいぶ違うのではないか。願うことや未来を強く期待することと祈りが違うのかすらわからない、という疑問を残して、中編は終わります。
まとめ
今回は、キリスト教の原罪を「神から離れ、世界の在り方が見えていない状態」と捉えるところから始まり、審判の日の背景、イスラエルが選ばれた意味、善行と救いの関係、そして教えを伝える責任へと話が広がりました。千葉さんが「わからない」ことをそのまま示す姿勢も含めて、信仰の真剣さに向き合うことの大切さが浮かび上がる回です。
- 原罪は個々の悪行ではなく、神を見失っている根本的な状態として説明される
- 審判の日を含む終末論は、帝国に虐げられながら自らを保ったイスラエルの民の希望とも読める
- イスラエルという小さな民への約束が全人類に広げられたことが、キリスト教の福音とされる
- いいことをするのは救われるためではなく、救われた証に近いと考えられる
- 宗教のわかりやすい答えは、真剣に伝えようとした人々の責任の産物であり、その真剣さへの敬意が理解の入口になる



