バルチック艦隊派遣で旅順攻略はなぜ急務になったのか
前回までの金融戦争と広報戦争の話から、この回は戦線の話に戻ります。海軍が旅順港の封鎖に成功しなかったため、ロシア軍が立てこもる旅順要塞を陸軍が何としてでも攻略しなければならない状況になっていきます。
元々の計画では、第二軍の兵力の一部を旅順の近くにとどめ、ロシア軍が要塞から反撃してこないように抑えておくだけのはずでした。この計画を変えたのが、バルチック艦隊 ── バルト海を拠点とするロシアの艦隊。日露戦争では極東へ回航され、1905年の日本海海戦で日本の連合艦隊と戦いましたが派遣されるというニュースです。
ロシア政府は、ロジェストウィンスキー少将を司令官に任命し、旅順艦隊と遜色ない海軍力を持つバルチック艦隊の編制と出発を決めます。このニュースを受けて、戦争の戦略本部にあたる大本営 ── 戦時に設けられた日本軍の最高統帥機関。陸軍と海軍の作戦を統括する役割を担いましたは方針を転換します。
大本営が恐れたのは、バルチック艦隊が旅順艦隊と合流し、黄海どころか日本近海の制海権まで危うくなる事態です。そこで、バルチック艦隊が来る前に陸路から旅順を攻略し、旅順艦隊を撃滅すべしという方針が固まります。
いよいよ焦ってきたぞ。
逆算で決まった「8月中」という締切
旅順攻略の期限を決めたのは、バルチック艦隊がいつ来るかという見積もりでした。旅順艦隊を壊滅させたあとも、日本海軍の主力艦艇には修理・点検と訓練のために2ヶ月が必要だとされていました。
深井さんによると、船は長く置いておくとフジツボのようなものがたくさん付き、スピードが落ちてしまいます。そのため艦艇はドックに入って点検を受ける必要があり、旅順作戦はバルチック艦隊到着の少なくとも2ヶ月前に終えていなければなりませんでした。
バルチック艦隊の編制が決まったのは4月末ごろです。大本営は司令長官の任命や出航準備にかかる期間を見積もり、早ければ10月、遅くとも11月には来てしまうと予測しました。その結果、旅順要塞は8月中に落とすべきだという締切が生まれます。
4月末ごろ
ロシアがバルチック艦隊の編制を決定
到着予測
早ければ10月、遅くとも11月に来航すると大本営が見積もる
艦艇の整備
バルチック艦隊と戦う前に修理・点検と訓練で2ヶ月が必要
締切
旅順要塞は8月中に落とさなければならない
実際のバルチック艦隊は、予測で到着するとされていた10月にようやく出航し、到着したのは翌年の5月でした。それでも迎え撃つ日本側としては、希望的観測に頼るわけにはいきませんでした。
めちゃくちゃ時間かかったんですけど、迎え撃つ側としてはさ、希望的観測するわけにもいかないわけじゃないですか。
もし連合艦隊が旅順艦隊とバルチック艦隊に挟み撃ちされれば、日本に勝ち目はありません。制海権を失えば物資や兵力の増強ができなくなり、ただでさえ数で負けている陸軍も勝てなくなる、というのが大本営の懸念でした。
苦肉の策の第三軍と、乃木希典という人物
陸軍は急遽、旅順攻略のための第三軍の編成を企画します。第一軍・第二軍の兵力を割いて第三軍を作るため、北方に回す兵力が不足することになり、深井さんはこれを「苦肉の策」と表現しています。
第三軍の司令官に任命されたのが、長州出身の乃木希典です。開戦前の雑誌では「鉄砲玉の怖くない人、部下を愛する人、清廉潔白の人」と紹介され、日露が戦争になれば真っ先に引っ張り出したい人だと評されていました。
評価がめちゃくちゃ高いな。
深井さんによると、乃木希典は自身も徳のある人間になろうとしていたようで、知らない人から手紙でお金をせがまれても払っていたといいます。楊さんは、日露戦争後に同僚の将軍たちが昇進していく中で、乃木希典が負傷兵を見舞うために各地を行脚したという話も紹介しています。
乃木希典は長州藩の支藩の藩邸で生まれ、萩の明倫館に入学し、幕府による長州征伐では兵士として戦いました。少年時代には家出して親戚の玉木家で学んでおり、その玉木文之進は吉田松陰 ── 幕末の長州藩の思想家・教育者。松下村塾で高杉晋作や伊藤博文らを育てましたの師匠にあたる人物です。
その後、乃木希典は若くして陸軍少佐に抜擢され、西南戦争への参加やドイツでの陸軍留学も経験しています。漢詩を作る一面もあった人物だと紹介されています。
デッドラインだけが決まったプロジェクト
乃木希典を大将とする旅順要塞攻撃は、開戦から半年ほど後に始まります。この時期になったのは、8月中に落とさなければならないという締切があったからです。
プロジェクトマネジメント的にはさ、無茶があるよね。先にデッドラインが決まってて、その難易度とか工数とかよくわからないんだが、やらないといけないことだけ決まってるみたいな。
ローンチ日だけ決まってる。
本来なら、旅順要塞の防備を見て回って分析し、攻略に何が必要かをスケジュールレベルで考えてから攻めるべきでした。しかし日本軍は、締切までに落とすという感覚しかないまま動き出し、そのことが大きな失敗を引き起こしていきます。
参謀総長の山県有朋は、第三軍の全軍が現場に到着しなくても攻撃を始めろと命じています。武器弾薬の備蓄も足りていませんでしたが、大本営と満州の総司令部はとにかく急げと第三軍を急かし続けました。
陸軍と海軍に挟まれた第三軍の苦しみ
楊さんは、日本軍の指揮系統を整理しています。全体を統帥するのは山県有朋がトップの大本営で、満州や朝鮮に派遣された第一軍から第三軍を率いるのは、大山巌が総司令官を務める満州総司令部です。
序列は大本営が上で、現場の指揮は本来、総司令部から出ることになっていました。ところが旅順攻撃については、大本営から直接とにかく急げと言われていたといいます。
さらに第三軍は、陸軍だけでなく海軍の首脳部からもプレッシャーを受けていました。陸軍と海軍では、旅順に求める作戦目的そのものが違っていたのです。
旅順要塞を陥落させ、その後は北で行われる大会戦(遼陽会戦)に参加する
バルチック艦隊が来る前に旅順艦隊を撃滅する。要塞を落とさなくても艦隊が壊滅すればよい
厳密には旅順要塞を陥落させなくても、旅順艦隊だけが壊滅すりゃいいじゃんっていうのが海軍の立場なんですよ。
楊さんは、この違いが混同されがちであり、それが乃木希典の苦しみになっていったと語っています。周囲を測量して攻めやすい場所を探すべきところでしたが、矢の催促によってそうした準備は何もできませんでした。
なぜ最も堅固な北東正面を攻めたのか
深井さんは、大本営の論理そのものは理解できるとしています。楊さんも、もしロシア側がよく準備していて本当に10月にバルチック艦隊が現れていたら、急いだ判断は正しかったことになると補足しています。
ただ、武器弾薬の輸送や集積に時間をかけられなかったため、第三軍は鉄道の末端の駅から最も近い旅順要塞の北東正面を攻撃目標に選びます。この北東正面は、要塞の中で最も堅固な場所でした。
一番最悪やん。
深井さんはここで、リスナーに自分の仕事と照らし合わせて聞いてほしいと呼びかけます。人命がかかっていた分だけ深刻でしたが、似た構図は仕事でたくさん見てきたといいます。
よく考えずに作戦を考えればいいものを、時間がないからという理由で一番最初に何するかを決め、それをとりあえずやるという方向に行くっていう現象がここで起こる。
上から強いプレッシャーが2系統でかかり、それが現場に降りてくる。現場は深く観察して動きたくても、それができない環境に置かれていました。
リサーチするためにパソコンカチカチしてても、お前はよ営業行ってこんかって言われるんですよ。
第一回総攻撃と、歯が立たなかった榴弾砲
旅順要塞は、堅固なコンクリートの堡塁群からなる要塞本体と、その周囲の外郭陣地である野戦陣地で構成されていました。第三軍の計画は、まず外郭陣地を占領し、そこに攻城砲兵を進めて要塞本体を攻撃するというものでした。
8月19日に本体への攻撃を始めたところで、第三軍の榴弾砲がまったく要塞に歯が立たないことが判明します。コンクリートが硬すぎたのです。
そんなことある?
楊さんが本で読んだ説によると、ロシア側は日本陸軍が持つ最新鋭の15サンチ榴弾砲を基準に要塞の強度を決めていたといいます。一方、第三軍が持っていた榴弾砲は最強のものでも12サンチで、15まで耐えられる壁に12で撃っても穴は開きませんでした。
深井さんは、調べていれば分かっていたはずだと話します。楊さんも、第三軍はそもそも旅順を陥落させる想定で作られていない急造の軍で、装備が十分ではなかったと補足しています。
「頑張る」を選んだ5日間の代償
大砲で穴が開かず、最も堅固な場所を攻めていて、しかも残りは10日ほど。この状況で日本軍が選んだのは、力押しで頑張るという方法でした。総攻撃は8月19日から24日まで続けられます。
日本軍が何したかって言ったら、頑張るっていうのをやるんですよ。頑張って落とそうとするんですよ。
楊さんによると、旅順要塞は大砲・機関銃・小銃が死角なく配置され、どこから攻めても必ず撃たれる構造でした。そこへ次々と兵を送り込んだため、次々と撃たれて死ぬという事態が起きます。
楊さんは、ミリタリーには詳しくないと断ったうえで、戦闘単位の3割ほどを失うと普通は全滅とみなされると話します。第一回総攻撃は、大敗北といえる結果でした。
古い地図と誤った情報が招いた初手の失敗
第三軍の不運はさらにありました。開戦前、第三軍は参謀本部から旅順要塞攻略の研究用に地図を渡されましたが、それは日清戦争中に作られた10年前の古い地図で、情報量も正確性も非常に乏しいものでした。
楊さんによると、その地図には北東正面が「臨時築城」、つまり急いで作った要塞だと記載されていました。第三軍はそれなら簡単に落とせると考えて北東を攻めましたが、実際には半永久的な要塞が築かれていたといいます。
古い地図では臨時築城と記載され、簡単に落とせると想定
実際は半永久的な要塞で、要塞の中で最も堅固な場所だった
深井さんは、急がなければならない事情はわかるとしつつ、勝つためにやるべきステップを飛ばしたことが敗因だと語ります。特に敵情分析が杜撰だったことが、ここでの敗因だと言われているといいます。
同じ頃の遼陽会戦と、足りなかった兵力と弾薬
第三軍が旅順で第一回総攻撃をしていた頃、北方の遼陽では別の日本軍がロシア軍の主力とぶつかっていました。8月末から始まった遼陽会戦 ── 1904年8月末から9月初めにかけて、満州南部の遼陽周辺で行われた日露両軍の大規模な陸戦ですで、日本軍13万に対し、ロシア軍は22万を投入しました。
日本は本来、この戦いに20万以上の兵力を投入する予定でした。しかし、その兵力の一部は旅順に回されていたのです。
本当はさっさと落としてここに来いって言われてましたからね。
めっちゃ使うやん。めっちゃ使う第三軍。
ロシア軍の司令官クロパトキンは、数で勝りながらも日本軍の戦力を過大評価し、退却していきます。深井さんは、猛烈な砲撃と犠牲をものともしない日本軍の前進が怖かったという面もあったのではないかと話しています。
ただ、日本軍には敗走するロシア軍を追撃する力が残っていませんでした。想定以上に弾薬を消費し、12万発の砲弾を使い切っていたためです。遼陽会戦の日本軍の戦死傷者は2万3500人にのぼりました。
次回は二〇三高地へ
陸でも本格的な戦闘が始まり、旅順の第三軍はこの後、第二回・第三回の総攻撃に進みます。深井さんは次回、映画にもなった二〇三高地の戦いを取り上げると予告します。
陸軍戦闘の中で多分一番有名なのがこの二〇三高地での戦闘って感じですね。
これちょっと絶望的な環境に見えますけどね。今。いやー、ここからどうなるのか。
まとめ
旅順要塞の第一回総攻撃は、バルチック艦隊の到着予測から逆算した締切に追われ、敵情分析も装備も不十分なまま始まりました。陸軍と海軍から異なる目的で急かされた第三軍は、最も堅固な北東正面を力押しで攻め、大きな損害を出すことになります。
- バルチック艦隊の到着予測から逆算し、旅順要塞は8月中に落とすという締切が決まった
- 第三軍は陸軍と海軍の双方から、異なる作戦目的でプレッシャーを受けていた
- 古い地図と時間不足から、最も堅固な北東正面を攻撃目標に選んでしまった
- 榴弾砲が要塞に通用しないまま総攻撃を続け、死傷者1万5860人を出す大敗北となった
- 深井さんは、締切だけが決まり準備を飛ばす構図を、現代の組織でもよくある失敗として語った





