渡辺大樹氏とエクマットラの活動
ゲストの渡辺大樹氏は、1980年生まれ、宮城県生まれの神奈川県育ち。小中高は野球一筋、大学ではヨット部に打ち込んだスポーツマンです。2001年、大学最後のヨット国際大会でタイのプーケットを訪れた際にストリートチルドレンの少年と目が合い、その衝撃をきっかけに翌年バングラデシュへ単身渡航。ダッカ大学バングラデシュの首都ダッカにある同国最高学府。1921年創立の国立総合大学で、独立運動や民主化運動の拠点にもなってきた。でベンガル語を学びながら、同じ志を持つ仲間たちとエクマットラベンガル語で「一本の線」を意味する。渡辺氏らが設立したNPO/NGO法人で、バングラデシュのストリートチルドレン支援を行う。を立ち上げます。
収録では、正装であるパンジャビ姿で来日した渡辺氏を、深井氏・樋口氏・楊氏の3人が迎えました。深井氏は2024年夏、島根県出雲圏域の子どもたちの体験格差を埋める「スサノオプロジェクト」のメンターとしてバングラデシュを訪れ、渡辺氏と出会ったといいます。
ダッカ路上の現実──コロナ後に深まる格差
バングラデシュは長らく最貧国として知られてきましたが、近年は5〜7%の経済成長を続け、物価も日本の約3分の1程度まで上がってきました。しかしそのぶん格差は広がり、路上で暮らす子どもたちの生活はむしろ厳しくなっているといいます。
特に深刻なのが薬物問題です。かつてはフェンシディル咳止め・睡眠薬の一種で、覚醒作用がある成分を含む。南アジアで乱用薬物として広く出回っていた。という睡眠風邪薬が使われていましたが、コロナ以降はシンナー(現地では「デンディ」と呼ばれる)が急速に広がったといいます。接着剤として合法的に売られており、1本20円ほどで手に入り、警察官の前でも堂々と吸われているのが現状です。
シンナーって別に接着剤なんですよね。だから接着剤なのでどこでも手に入るし、別に吸えちゃうし、警察官の前とかにも吸ったり、もう堂々と吸ってますね、子供たちが。
薬物に手を出す背景には、生活苦、親からの虐待、そのトラウマの解消、空腹を紛らわせるためなど、複合的な要因があります。児童労働も深刻で、雇用主は最低賃金の枠外で子どもを安く使えるため、経済成長の恩恵は子どもたちに届きません。
一方で、バングラデシュは食料自給率がほぼ100%に達する豊かなデルタ地帯であり、飢え死にすることは基本的にありません。だからこそ、物乞いの子どもたちも荒々しさではなく、独特のエネルギーと笑顔を持っているといいます。ただしその裏側には、路上で受けたトラウマやメンタルヘルスの問題が潜んでいます。
富裕層の無関心と、映画という啓発手段
活動初期、渡辺氏はバングラデシュ国内の富裕層にサポートを求めました。しかし返ってきたのは「お前は日本人だろう、日本で頭を下げれば10倍100倍のお金が集まる」「俺たちは貧しいんだ」という言葉でした。子どもたちを安価な労働力として使ってきたビジネスの背景に責任があると訴えても、「そんなことは知らん」と突き放されたといいます。
全くもってこの富裕層たちがこの問題に目を向けてないんだなということを痛感して。じゃあもうショック療法だと。ショックを与えてやろうと思って映画を作った。
そこで作られたのが、ストリートチルドレンの現実を描いた劇映画『蟻地獄のような街』(2009年)です。ドキュメンタリーではなく劇映画にした理由は、バングラデシュの人々にとって物乞いの子どもは「風景」の一部で、無関心の対象になっているため、ショックを与える必要があったから。薬物、児童労働、性的被害、死亡などの事実をつむぎ合わせてストーリーにし、実際の路上の子どもたちをオーディションでキャスティングしました。
目的1:啓発
バングラデシュ国内で無関心層に「ストリートチルドレンの現実」を突きつける
目的2:資金調達
1枚10〜50円で販売し、大学などで大規模上映。アカデミー用地購入の資金源に
結果的に、この映画は大学での上映会に1回800人が集まるほどの反響を呼び、その収益で後のエクマットラアカデミー建設用地を購入することができました。
タイ・プーケットで走った衝撃
渡辺氏の人生を大きく変えたのは、2001年、大学最後のヨット国際大会キングスカップタイのプーケットで毎年開催されるヨットの国際大会。タイ国王が主催する権威ある大会で、世界中から富裕層セーラーが自艇を持ち込む。で訪れたタイでの出来事でした。豪華ホテルに泊まり、ベンツの2階建てバスでパーティー会場へ移動する日々。その3、4日目、バスが信号で止まった先に広がっていた大きなスラム。入り口にいた1人の少年と目が合った瞬間、衝撃が走ります。
たまたま日本の普通の家庭、たまたまタイのスラム。それだけで、生まれた環境だけでこんだけ大きな差がつくっていうことにすごい衝撃を受けたし、その格差に対する怒りとか憤りとか、悔しさとか悲しさとか、それで何もできない自分への怒り、無力感、もういろんな感情が湧き上がってきて。
渡辺氏はこの衝撃を「アンテナとタイミング」で語ります。この経験があったのが、大学4年間打ち込んだインカレインターカレッジ選手権。大学生の全国大会。渡辺氏はヨット競技で目指していた。の翌週というタイミングだったこと。すべてをかけてきたものが終わり、心が空っぽになったところにその出来事が入り込んだからこそ、頭から離れなくなりました。彼女とも別れ、就活もせず、卒論も半年延長してまでヨットに集中していた渡辺氏にとって、次に向かう先を決める空白の時期だったのです。
バングラデシュへ──アンテナとタイミング
興味深いのは、衝撃を受けたのはタイなのに、渡辺氏が向かったのはバングラデシュだったこと。高校時代の野球部のバッテリーだった友人から「なんでお前タイ行かないの?」と聞かれ、初めてその不思議に気づいたといいます。振り返ると、小学6年生のときに社会の教科書で読んだ「洪水、サイクロン、それに立ち向かうアジア最貧国バングラデシュ」の記述、日の丸に似た国旗、狭い国土に1億人以上が住む事実──そこに立てたアンテナが、大学卒業の時期にひっそりと回収されていたのです。
専門知識もない状態で、「1人の人間が行くことで2人の子どもの人生が変われば、それで胸を張っていい」という思いだけで、8か月分の生活費80万円を握りしめて渡航。ダッカ大学現代語学研究所ベンガル語学科に入り、図書館前で歌う学生たちに声をかけたのが、後の仲間たちとの出会いでした。
ベンガル語をほぼ独学の環境で身につけながら、渡航から8か月後にNGOエクマットラを立ち上げ、その1か月後には青空教室を開始します。ブルーシートを路上に敷き、大学生仲間と月100〜200円ずつ出し合って始めた小さな一歩でした。
青空教室の失敗と、心を動かした発表会
ただし、青空教室の初日は惨憺たるものでした。「アイウエオを学ぼうね」「1+1は?」と教え始めた渡辺氏に対して、子どもたちが放った言葉は「兄ちゃん、つまんねえから帰るわ」。全員があっという間にいなくなったといいます。
路上の子どもにいきなり文字・数字を教える
→ 全員が「つまんない」と帰ってしまう
歌・踊り・演劇・小屋づくり・秘密基地など「楽しいこと」から始める
→ 2時間ずっと居るようになる。半年で歌・詩の朗読・絵などを習得
転機は、活動開始から5か月後の日本大使館主催「外国人によるベンガル語スピーチコンテスト」でした。舞台の合間の5分間をもらい、子どもたちが発表する場を作ったのです。ダッカ大学の一番大きな講堂、観客は500〜600人。ステージ袖で怖気付いた子どもたちを「芋やカボチャ、ナスが並んでると思えばいい」と押し出した渡辺氏。震えながら15人の子どもたちが歌と詩の朗読を終えると、会場は一瞬静まり返り、次の瞬間、全員が立ち上がって1分以上鳴り止まない大喝采を送ったといいます。
翌日、青空教室行ったら「兄ちゃんすごかったよね。俺もっと歌を歌いたい。私はもっと詩を朗読したい」って口々に言ってきて。その時の子供の目がもう全く違う色をしたんですね。人の目ってこんなにも変わるんだっていうところで、ものすごく勇気づけられた。
この体験が、次のステップ──路上から引き離して共同生活の場を作る「チルドレンホーム」設立の決意につながります。青空教室での2時間だけでは、残りの22時間で大人の無関心や暴言に触れ、子どもたちは元に戻ってしまう。本気で可能性に光を当てるには、環境を丸ごと変える必要があったのです。
チルドレンホームの設立と共同生活の日々
チルドレンホーム設立の資金は、日本の里親制度で月3,000円×5人からスタートしました。バングラデシュの富裕層に断られた渡辺氏が、悔しさを飲み込んでまず日本から始めた形です。青空教室に来ていた15人のうち、最初にセンターへ来られたのはわずか6人。残り9人は親の反対で来られませんでした。
子どもを路上で働かせて得られる日々の収入。その日暮らしの家庭にとって手放せない現実。
教育で開かれる子どもの可能性。しかし成果が見えるまでには何年もかかる。
渡辺氏は仲間が試験期間だったため、住み込みで6人の子どもと最初の共同生活を1人で始めることになります。台所で料理を作りながら隣室で勉強を見て、深夜2〜3時に翌日の準備、朝5時に子どものおねしょ騒動で叩き起こされる日々。おねしょをした子は、自分だとバレないようにわざと他の子にかけて「共犯者」を作るという逸話も飛び出しました。
だってあれでしょ、もう一回さかのぼると、「頑張ってバングラデシュ行こう」つって、電車にも乗らずに歩いて、1円も使わずに行って、「よっしゃ」って言ったら「帰るわ」。ヒョトン、シーン。
センターに来られた6人は、社会性、集団生活のルール、身なりを整えること、人への挨拶や気遣いといった、日本の子どもなら当たり前に得られる経験を積み重ねていきました。
変わっていく子どもたち、そして次の世代へ
半年後、渡辺氏は6人を元いた場所へ連れて行きました。目つき、話す言葉、振る舞いの変化を目撃した周りの親たちが「うちの子も」と言い始め、残りの9人もついにセンターに来られるようになります。そのなかにいたのが、第2期生として入ったシモンとナスリンの2人。彼らは同じ学校で育ち、大学まで同じ道を歩み、卒業後に結婚。シモンは現在、青空教室のフィールド活動責任者として、次の世代のストリートチルドレンをレスキューする立場に立っています。
渡辺氏が印象深いエピソードとして挙げたのが、イードイスラム教の重要な祝祭日。ラマダン明けのイード・アル=フィトルと犠牲祭のイード・アル=アドハーがあり、家族で祝う日本の正月のような位置づけ。のお休みで、昔いた場所に子どもたちを連れて帰った時の話です。50円ほどをお年玉として渡すと、ある子どもがその中から30円を、物乞いのおじいさんに分けて渡していたといいます。
「うん、だってこのおじいちゃん、昔見たことあるけど、すごい大変そうだから。僕だって食べるものあるし」って。
ビル持ってる金持ちとの挙動の違いやばい。
渡辺氏はセンターの子どもたちに、常に「君の背中を100人が見ている。自分が変わることで100人が変わる」と伝え続けてきました。それは「なれるエリート」ではなく、「路上にいたからこそなれるエリート」──苦しさを知る優しさと、失うもののない堂々とした強さを持つ「心のエリート」を育てるという思いです。
まとめ
タイ・プーケットで走った一瞬の衝撃から、20年以上にわたってバングラデシュのストリートチルドレン支援に取り組んできた渡辺大樹氏。青空教室での「つまんない」から始まった試行錯誤、スピーチコンテストでの喝采、チルドレンホームでの共同生活、そして「捨てられた子」「迷子になった子」たちがやがて次世代の支援者になっていく物語──そこには、環境がどれほど過酷でも、人は変わり得るという確かな手応えがありました。
後編では、この活動の次のステージであるエクマットラアカデミーの構想、そしてこれからさらに何を目指していくのかが語られます。
- バングラデシュは経済成長を続ける一方で格差が広がり、コロナ後にストリートチルドレンは約20万人から70万人へと約3.5倍に増加。シンナー乱用も深刻化している
- 渡辺氏は2001年、タイ・プーケットで見たスラムの少年との出会いから活動を決意。80万円を握りしめて単身バングラデシュへ渡り、ダッカ大学の仲間とエクマットラを立ち上げた
- 青空教室は最初「つまんない」と拒否されたが、歌・踊り・遊びから始めることで子どもの信頼を獲得。スピーチコンテストでの発表と大喝采が転機となり、チルドレンホーム設立を決意した
- 富裕層に支援を断られたため、映画『蟻地獄のような街』を制作。啓発と資金調達の両輪で、アカデミー用地購入まで実現した
- 共同生活を通じて育った子どもたちが、大学を卒業し、次世代のストリートチルドレン支援の担い手として活動する循環が生まれている
