悟りを開いた人たちは、なぜ禁欲へ向かうのか
話は、赤ちゃんが立ったり喋ったりする「先天的な能力」から始まります。トモキは、耳を動かすやジャグリングのような後天的な技を身につけた人に「すごい」と感じるのと同じ感覚で、悟った人にも惹かれると話します。
悟り開いたりとかした人いるんだから、もうちょっとそれDNAに刻んどいてよとかめっちゃ思いますね。
ただし、そこには矛盾があるとトモキは続けます。悟った人や宗教者は反出生主義や禁欲に向かいがちで、それを全員が受け継げば人類は滅んでしまうというのです。
シュウは瞑想合宿の経験から、そこでも男女が分けられ、5つの戒律の中に不適切な交わりを禁じる項目があったと補足します。
一方で、悟った人が必ずしも禁欲的とは限らない例として、シュウはOSHOを挙げます。
なんかそのオショーっていう人は多分禁欲的じゃなかったっぽい。
トモキも、ガンジーが性欲だけは捨てられずに困っていたという話を重ね、悟りと欲望の関係が一筋縄ではいかないことを確認していきます。
悟りは「ミーム」として広がるのか
シュウは、歩くことや喋ることは遺伝子に可能性としてあるだけで、狼に育てられれば発動しないと指摘します。つまり自動的な発現ではなく、文化的な伝達に近いのではないかというのです。
遺伝子での遺伝じゃなくて、文化として遺伝するって、なんて言うんでしたっけ。
ああ、ミームってやつですか。
ここからシュウは、悟りやメタ認知的な意識もミームとして伝わっていくかもしれないという期待を語ります。
その根拠として、自身の変化を挙げます。コテンラジオを聴き始めて1年ほどで雇われ仕事を辞め、ポッドキャストを配信し始めてから思考の深まりが加速したというのです。
古典ラジオ聴き始めて1年ちょっとして、僕完全に雇われ辞めてるので。
昔に比べて、こうした意識が伝わるスピードは上がっているのではないか。シュウはそんな楽観的な希望を持っていると話します。
若者は柔軟、では悟りに必要なものとは
トモキは、悟るには人生経験が必要で、10代でいきなり悟るイメージは湧かないと語ります。あれもダメ、これもダメと苦悩を重ねた末に辿り着くもの、というイメージです。
だとすれば高齢化が進む社会は悟る割合が増えるのかもしれない。しかし若者がいなければ社会は滅ぶ方向へ向かうため、単純に良いとも言えないと悩みます。
若者たちを、なんか、「お前らわかってねえな」みたいな扱いにしちゃいそうだなとか。でもなんかそういう世の中にもあんまりしたくないなって感じもしていて。
一方でシュウは、自分の実感は逆だと返します。年上には頭が固まった人が多く、若い人のほうがよほど柔軟だというのです。
若い人たちの方がよっぽど柔軟で。シェアの文化とかも広がってたり、そういう人たちに僕もめっちゃ影響受けてこの暮らしに入ってきたし。
個人が悟れるかどうかとは別に、世の中の「空気」が変われば状況は変わるのではないか。シュウはそう続け、話は彼の核心的な発想へと移っていきます。
「アウトプットが先」とは何か
シュウが繰り返し語ってきたのが、「インプットが先」ではなく「アウトプットが先」にすべきだという発想です。
「インプットが先」とは、給料をもらわないと働かない、お金を払った人にだけ渡す、という資本主義の基本的な仕組みを指します。
シュウは、自然界は本来アウトプットが先だと考えています。太陽は無償で照らし続け、植物は実をならし続ける。人間社会だけが逆のルールを作ってしまったというのです。
これに対しトモキは、マルクスの「疎外」という概念を持ち出します。
その存在としての人じゃなくて、労働力だったりとか、その、消費者だったりとかっていう、そういうなんか記号でしか見なくなっていき。
働くことが偉く、金を稼ぐことが偉いという価値観はおかしいのではないか。トモキの問題意識は、シュウの「アウトプットが先」と響き合っていきます。
マルクスのコミューンと、シュウの違和感
トモキは、マルクスがコミューンを作ろうと呼びかけたことを紹介します。ギブし合うコミュニティという発想は、シュウの「アウトプットが先」に近いものがあると指摘します。
しかしシュウは、それが「形の話」だと感じてしまうと返します。コミューンという形にすれば人の心が落ち着くのか、という疑問です。
なんかそれは形の話だから、別に形はどうでもいいんだよなみたいに思っちゃうんすよね。
シュウにとって「インプットが先」とは、ルールで強制することを多分に含む発想です。禁止事項を作って人を制御する政治も、その一種だと考えています。
そうではなく、心からいいと思えることをそれぞれがやるのが先に来ないとうまくいかない。それがシュウの言う「アウトプットが先」です。
トモキはこの直感に強く共感します。マルクスの思想が実際に行き着いた先が、ソ連のような強権的で監視的な社会だったことを踏まえてです。
トモキは、資本主義への反発が結局は教会と同じような抑圧のシステムを生んでしまったと整理します。
資本主義が違うだろうっていうところまではいいかもしれないですけど、それに対して結局ただの反発をしたら、意味がない。
測らない社会と「余剰」の考え方
シュウは、人らしさは数字で測れるものではないと語ります。瞬間的に測れたとしても、人生は一瞬ごとに続いていくからです。
測らずにうまくいく方法は「アウトプットが先」しかない、とシュウは考えます。最初から正解は決められないという前提です。
測れないし、決められないとしたら、その時のちょうど良さって自分の中から出てくるものでしかないので。
自分が十分だと思ったそれ以降が、初めて人に回せる「余剰」として出てくる。シュウはそう説明します。
トモキは、これが仏教のお布施に近いと指摘します。
シュウは仏教にも余剰を確定させる閾値の話があると応じ、自分は月5万円という最低限を感覚的に決めていると明かします。
自分の中でも最低限ってのが大体月5万円だなって決まってきてはいたんですけど。
この閾値があれば測る必要がない、というのがシュウの発想です。ただしトモキは、それでも「クーラー欲しいな」と思ってしまう、と正直な感覚を口にします。
エアコンと温暖化、「本質的に大事なこと」への問い
話は具体的な問題へ移ります。シュウは、ムヒカ元大統領の演説に影響を受けたと語ります。
一家に一台の車を世界中の人が持てるか、という問いから、シュウは自宅のエアコンを10年以上一度も使っていないと話します。全員が持つのは無理だと直感したからです。
一方トモキは、この夏に欧州が熱波に見舞われた出来事を挙げます。エアコンのない環境で人々があえぐ様子を見て、「人命の方が大事」と言われたら反論できないと語ります。
人間活動によって熱くなっていった地球に対して、なんか、結局さらにCO2を出すという答えしかない人類みたいな。
シュウは、こうした議論もすでに「インプットが先」の前提で進んでいると指摘します。もし「アウトプットが先」の社会なら、買おうと思って買えるとは限らないというのです。
ギブネス三原則と、財布を落とした経験
シュウは、「アウトプットが先」に近い考え方として、吉田卓さんが提唱する「ギブネス」を紹介します。
ギブネスには3つの原則があるといいます。
- 今自分にとって最高のことを無料でやる
- 困った時には助けを求める
- 人を変えようとしない
特に2つ目の「困った時には助けを求める」がしっくりくるとシュウは話します。測らない社会では、助けを求めなければ余剰を持つ人から受け取る機会がなくなるからです。
ここでシュウは、7月1日に財布を落とした経験を語ります。未だに出てきていないものの、立ち直りは異常に早かったといいます。
僕自身は財布を落としたことで何の価値も減ってなく、僕自身という価値は何一つ減ってなくて。
むしろシュウは、財布を拾って自分のものにした人のほうが傷ついているのではないか、と感じたと話します。金銭的に足りないという単純な話ではない、心の傷への想像です。
この経験を通じて、シュウは自分の思想が体感レベルで身についてきたと感じたといいます。お金は途中で媒介しているだけで、エネルギーとしては一切摂取していない、という考えです。
転んで怪我をするほうが本来は嫌な経験のはず。それなのにお金には「数字の魔力」がある。シュウは、そこに社会がおかしくなる原因を見ています。
「現実逃避」の定義が真逆になった瞬間
トモキは、本質的に大事なことこそ哲学だと応じます。金銭が忌避された時代を経て、プロテスタントの登場とともに欲望を肯定する流れが生まれ、資本主義が発展したと歴史をたどります。
そのうえでトモキは、本質的に大事なことは内側から湧き出すものに従うことだと語り、カントやエマーソン、ソローの名を挙げます。
シュウは、自分はルールという言葉で強制することには意味がないと感じ、内側から出るものとして語っていたと補足します。カントの言う自立や自由とも重なると2人は確認します。
後半、話題はトモキ自身の「ビビリ」という気質に移ります。トモキは、どっちにしても苦しいなら現実を直視したほうがいいと語り、そこには20歳で受けた自己啓発セミナーの影響があると明かします。
人はとにかくこう、現実逃避するみたいなことを教わったんですよ、そこで。
トモキはそれ以来、自分が現実逃避をしていないかをチェックする癖がついたといいます。一時的に逃げても、長期的な本当の逃げはしないという感覚です。
ところがシュウは、ここで「現実」という言葉の捉え方の違いに気づきます。
シュウにとっての「現実」は、我欲の塊のような人々が動かしている世間そのものでした。だからシュウはむしろ、そこから全力で逃げる側に立っていたのです。
トモキが言う「現実逃避」は、我欲によって都合よく物事を捉え、矛盾に気づかない状態を指していました。同じ言葉が、定義によって真逆になる瞬間でした。
定義によって真逆になり得るんだなって、今日初めて気づけたんで。
ビビリの哲学者、誕生
トモキは、自分の思想も気質もすべてビビリが元だと語りつつ、そこには自己啓発セミナーの影響も駆動していると気づきます。
シュウは、トモキがHSPの判定を受けたことにも触れながら、「ビビリでもいいのかもしれない」と感じたと話します。世間一般が抱くビビリとは違う、括弧付きのビビリだというのです。
シュウは、トモキが「ビビリ」も「アウトプットが先」も自分で名付けて表現していることこそが、まさにアウトプットだと評価します。
トモキは、ビビリが原動力だからこそ「誰のことも傷つける気がない」「無理やりやらない」につながると語ります。
そこでシュウが提案したのが、「ビビリの哲学者」という呼び名です。
考え抜いた結果ビビりなんすよみたいな感じになるじゃないですか。
名乗ることにもビビリが発動してしまうというトモキに代わり、シュウはリスナーに呼びかけます。
これ聞いた人は必ずあの、#ビビりの哲学者、シュウ放でつぶやくっていう。
約4時間、ほぼ「シュウとは何か」を掘り続けた対話は、こうして一つの呼び名に着地しました。哲学は自分にはないと謙遜するトモキに、シュウは実践を伴う考えを持つ人こそ哲学者だと返します。
まとめ
悟りと禁欲、資本主義の限界、そして「アウトプットが先」の社会像まで、話題は広がりながらも一貫して「本質的に大事なことは内側から湧き出すもの」という点に収束していきました。財布を落とした経験や「現実逃避」の定義のズレを通じて、2人はそれぞれの言葉を確かめ合っています。
- 赤ちゃんの発達も悟りも、遺伝子ではなくミームとして文化的に伝わるのではないかと語られた
- シュウの「アウトプットが先」は、給料や対価を前提とする「インプットが先」の社会を逆転させる発想
- マルクスのコミューンは「形」であり、心からいいと思えることを各自がやることが先だとシュウは考える
- お金は数字の魔力を持つが、財布を落としても自分の価値は減らないとシュウは体感した
- 同じ「現実逃避」という言葉が、定義によって真逆の意味になることに2人は気づいた
- 考え抜いた末にたどり着いたトモキの気質は「ビビリの哲学者」と名付けられた





