4年ぶりの再会と「協賛したことを覚えていない」トモキさん賞
この回は「シュウの放すラジオ」の特別編で、シュウさんがトモキさんと収録した対話です。2人が一緒に録るのは約4年ぶりでした。
きっかけは「おぼえてない1グランプリ」のトモキさん賞です。運営にも関わっていたシュウさんが宮崎弁でわけのわからないエピソードを出したところ、それが受賞してしまいました。
ただしトモキさん自身は、自分が協賛すると言ったこと自体を覚えていませんでした。ポッドキャストウィークエンドで2日間どっぷり飲んでいたときに、バドさんに宣言していたようだと振り返ります。
覚えてないワングランプリに協賛することを覚えてないし。覚えてないワングランプリの存在は、なんとなく知ってましたけど。
何本か番組を聴いた中で、シュウさんのエピソードが圧倒的だったとトモキさんは話します。
内容とかじゃないんだけど、やっぱりあそこにあれ持ってくるところが、まあさすがだなと。引き出し多いなって感じでしたね。
「ちゃんと面白くちゃダメ」な賞と、思いつきの哲学対話
トモキさんは、ちゃんと作って面白い番組もある中で、この企画ではそれは違うのではないかと感じていました。
ちゃんと面白いとかさ。でもちゃんと面白くちゃダメじゃね?とか思って。それはなんか違うんでしょうとか。
シュウさんの回は「ちゃんとは面白くない」けれど、いろんな意味で面白い。「シュウさんがこれをあそこに持ってきた面白み」があると評価します。
一方、賞である哲学対話は思いつきで決めたものでした。そうめん屋のそうめんのように渡せるアイテムがなく、苦し紛れに選んだといいます。
それでも、相手がシュウさんだったからこそ哲学対話でよかったと振り返ります。全く知らない人といきなり哲学対話をするのは辛いものがある、という理由からでした。
行動原理は「ビビリ」なのか、それとも
話は本題へ移ります。シュウさんが普段の番組で言いたいことが言えていない感覚を抱え続けている、という願望から対話が始まりました。
トモキさんは、シュウさんは強い哲学を持ち、それを実践し、行動し、人に影響を与えていると見ています。ただ、それが言葉になりきっていないと感じていました。
4年前の対話で引っかかった記憶もよみがえります。シュウさんが自分の行動原理を「ビビリ」と表現したことに、トモキさんは違和感を覚えていました。
多分シュウさんの根源の部分に、そのビビリっていうのがあって。その行動原理がビビリみたいな風に、その時は話をされていて。「いや、そうなんすかね」みたいなところで終わった気がするんですよね。
シュウさんの答えは今も変わりません。ビビリが行動原理だと考えていました。
ここでシュウさんは、以前聴いた別番組の話を持ち出します。仏教の六波羅蜜にある「不退転」という言葉です。
現代では「不退転の決意」のように強い意志として使われますが、シュウさんが受け取ったニュアンスは違いました。やめたら意味がないから、そうするしかない、という受け身に近い感覚だったといいます。
だからシュウさんは「ビビリだからこの生き方になっちゃう」という感覚に、その不退転と同じものを感じました。ビビリを一番下の層に置き、その上に論理を積み重ねた結果、生きられるルートが限られていく、という説明です。
もうなんか僕はこの体全体がビビリっていうものを生み出すそのものみたいに思っちゃってるんですけど。それで生きていくしかなくって。
温暖化への焦りと「モグラたたきはしたくない」
シュウさんは、以前は扇風機もつけずに暮らしていましたが、去年熱中症になりかけて解禁しました。今年の暑さはさらに厳しく、体の老いも感じています。
そしてシュウさんは温暖化を人間がほぼ生み出していると考えており、そこに強い焦りを抱いていました。
温暖化は僕は人間がほぼ生み出してると思っちゃってるもんで。何かしら僕の最大限の警鐘を、もうちょっと世の中に響かせていかなきゃって。
ただし、自分の影響力を高めて多くの人に届けることには逆効果を感じるといいます。ここがシュウさんの面倒なところの一つでした。
個別の課題を無理に解決しても、本質的にはどこかに別の大きな歪みが残るだけ。だから「モグラたたき」のような解決はよくないと考えています。
だから焦りは募っても、無理やりやろうとはしない。「無理やりやらない」がシュウさんのテーマである理由も、ここにつながっていました。
AIと政治に「絶望する」トモキさんと、諦めきったその先
トモキさんも異常な気候への認識は共有していました。日本の暑さ、ヨーロッパの熱波、アメリカの山火事を挙げます。
一方で、AIがデータセンターで大量の電力や水を使う構造にも触れます。流れは止められず、使わなければ国防すら成り立たない社会になりつつあり、抜け出そうとすると別のリスクが立ち上がる。トモキさんはそれを「複雑なロックが絡み合っている」と表現しました。
さらにトモキさんは、社会情勢や政治にも絶望を抱いていると語ります。ブレイキングダウンのような対立をあおる娯楽や、陰謀論的な番組が人気を集める流れを例に挙げました。
結局人はブレイキングダウンが好きだよねみたいな。メタ認知の真逆というか。それが人気を博して今伸びていってしまってる。絶望しているという。
これに対してシュウさんは、そもそも政治にそこまで期待していないと応じます。ビビリゆえに究極を考える癖があり、政治という形ではこの危機は脱せないと考えていました。
もう政治っていう形ではこの危機は脱せないぐらい思っちゃってるんですよね。
シュウさんにとって政治もまた「モグラたたき」でした。ただ、それは単なる絶望とは少し違うといいます。
力で無理やり温暖化を緩めるのではなく、それを生み出している人間の我欲を静めるしかない。だから最悪、人類が滅ぶのと、不便を受け入れてバランスを保つのとでは、後者の方がまだマシだと考えていました。
そのビビリは、自分個人の寿命や快適さではなく、全体のバランスの方に特化して反応してしまう、とシュウさんは説明します。
「一旦絶望する」ことのすすめ
トモキさんは、シュウさんの姿勢を「正義感」や「社会善を達成したい欲」と言い換えることもできそうだと投げかけます。しかし、それでは違うとも感じていました。
シュウさんもその言い換えを避けたいと応じます。善悪や正義という言葉は、争いしか生まないと感じているからでした。
このやり方の方が正しいとか、このやり方の方がいいって言い出すと、絶対違うっていう人の反発との争いの構図にしかならないというか。
トモキさんは、人類の歴史そのものが行き当たりばったりだったと語ります。ソクラテスやガンジーのような存在が現れても、その後にひっくり返ってきた、と。
そしてトモキさんは、温暖化もその場しのぎの対処療法で乗り切ったことにされ、多くの人が間引かれても、数百年後の教科書では「危機を乗り切った人類」と書かれるだろう、という悲観的な未来像を描きました。
シュウさんは、それもやむなしと受け止めます。ただ、一度ちゃんと絶望した上で、次の瞬間をどう生きるかが問題だといいます。
絶望しつつも、命が続く間は自分の好ましいベクトルで生きていく。そこに、やべえと思いながらもすごく幸せな感覚が同居していました。
重要なのは、それを「しなきゃダメ」と言わないことです。「した方が楽しい」でなければ意味がない、とシュウさんは繰り返します。その前例として楽しく生きて死にたいという願いが、この生き方の核にありました。
この対話を通じて、シュウさん自身も気づきます。始まりはビビリでも、いま語った内容には、もはや「ビビリ」という言葉は必ずしも要らなかった、と。トモキさんが4年前から感じていた違和感の正体が、少し見えた瞬間でした。
瞑想で出会ったブッダの教えと、「観察者」
シュウさんは去年10月に初めて瞑想合宿に参加し、いまも毎日2回、1時間ずつ瞑想を続けています。ヴィパッサナー瞑想は、ひたすら自分の感覚に気づき続ける実践でした。
その合宿の初日に聞いた話が、シュウさんに強い衝撃を与えました。「自分」と認識できるものは体と心の5つの要素からなり、心はさらに意識・認識・感覚・反応に分かれる、という説明です。
鍵は「感覚」と「反応」が別物だという点でした。良い感覚には「もっと欲しい」という渇望が生まれ、積み重なると執着に、悪い感覚には嫌悪が生まれ、積み重なると憎悪になる。その感覚と反応の両方をただ観察し続けるのが瞑想の目的だといいます。
この話が、シュウさんが子どもの頃から抱えてきた問いと結びつきます。戦争がなぜ起きるのか、感情をどう制御すればいいのか。その最後のピースがはまった感覚でした。
感情みたいな、感覚と反応がない混ぜになった何かみたいな風にしか捉えられてなかったのが、その瞑想の説明でそんなにくっきり分けられるんだ。
同時にシュウさんは、ブッダが実在した一人の人間だったのだと実感します。自分がここまで納得できるのは、人間が発見したものでない限りありえない、と考えたからでした。
ブッダも人間だったんだって僕思ったんですよ。実在した人間じゃないとこんなとこたどり着けたわけがねえとか思ったりして。
トモキさんは、この教えが「心の中に観察者を置く」ことだと受け止めます。感覚と反応が同時に走ってしまう瞬間を、あとから振り返って「あの時、観察者がいなかった」と気づく、と自分の夫婦喧嘩を例に語りました。
耳を動かせるようになったように、観察者もいつか
シュウさんは、この瞑想がロジックとして衝撃だったと強調します。感覚と反応がくっきり分けられるという説明に、頭で納得したのが出発点でした。
さらにシュウさんは、悟りのような身体知を得た人の言葉は、ロジックとしても整合性が取れていないわけがない、と考えています。
反応を止めるのは果てしない話ですが、大事なのは進歩の速度ではなくベクトルの向きだといいます。10回に1回でも気づけたならいい、という合宿の講話が、シュウさんの実感と重なりました。
そのベクトルを信じられる理由として、シュウさんは子どもの頃に耳を動かせるようになった体験を挙げます。使ったことのない筋肉でも、意識し続けたら動かせるようになった、と。
今まで一回も使ったことなくって、存在すら知らなかったけど、めちゃくちゃ意識してたらできるようになるもんだなっていう体験をそこでしてたもんで。観察者もいつかくっきりするはずって今思ってますね。
トモキさんは、ジャグリングや車の運転も同じだと応じます。できるはずないと思っていた動きが、身につく感覚に近いのかもしれない、と。
一方でトモキさんは、赤ちゃんが立ち上がったり言葉を覚えたりするのは、DNAにプログラムされたものだと指摘します。努力とは違う何かなのではないか、という問いを投げかけたところで、対話は前半を終えます。
まとめ
4年ぶりに再会した2人の哲学対話は、シュウさんの「ビビリ」を起点に、温暖化への焦り、政治への諦め、そして瞑想で出会った「感覚と反応」の話へと広がっていきました。核にあったのは、無理に正しさを押しつけるのではなく、一度絶望した上で、それでも楽しく生きる前例になりたいという願いです。
- シュウさんは自分の行動原理を「ビビリ」と表現するが、対話の中で「不退転」に近い、そうせざるを得ない感覚として語り直された
- 温暖化や政治を「モグラたたき」と捉え、力で解決するより人間の我欲を静めるしかないと考えている
- シュウさんは「しなきゃダメ」ではなく「した方が楽しい」として、一度絶望した上で好ましいベクトルで生きることをすすめる
- ヴィパッサナー瞑想で「感覚」と「反応」を分けて観察するブッダの教えに、子どもの頃からの問いの最後のピースがはまった
- 反応を止めるのは果てしないが、大事なのは速度ではなくベクトルの向きであり、耳を動かせるようになった体験がその根拠になっている



