野田秀樹氏の祝辞──六万年分の記憶とAI
きっかけは、会社のSlackに流れてきた令和八年度・東大入学式の祝辞でした。述べたのは劇作家・演出家の野田秀樹日本を代表する劇作家・演出家。「夢の遊眠社」を主宰し、独創的な言葉と身体表現による舞台作品で知られる。東京芸術劇場の芸術監督も務めた。さん。京都芸術大学にも舞台芸術学科があることから、木原さんは同分野で活躍する存在として注目したといいます。
祝辞はまず、印象的な比喩から始まります。新入生三千人が皆二十年生きてきたとすると、武道館には三千人×二十年=六万年分の記憶が集まっている、という語り出しです。六万年前とは、ホモサピエンス現生人類。約6〜7万年前にアフリカ大陸から世界各地へ拡散したとされる「出アフリカ」の時期が、祝辞で語られる六万年と重ねられている。がアフリカを出た頃とほぼ同じで、人類史とほぼ同じ時間分の記憶が一堂に会しているのだ、という展開でした。
祝辞はここから「六万年分の記憶」とAI人工知能。ここでは大量の知識を高速に処理し正解を導き出す存在として語られている。をバトルさせるような展開へ進みます。しかしAIは六万年分の記憶を一瞬で食べ尽くし、高速で正解を出す存在。単純に正解を出す勝負ならAIが勝る、と野田さんは認めます。
その上で野田さんは、東大生には「道端で虫を拾って持ち帰り、怒られた経験」があると語りかけます。ノーベル賞とは無縁で、一見価値のない情報こそが六万年分の記憶に詰まっている。だからこそ人間とAIは、そもそも比べる土俵が違うのではないか、という問いかけでした。
AIに「心」はあるのか
祝辞が繰り返し強調するのは「AIには身体がない」という点です。人間には体があり、だから不便で、老いて、死ぬ。その不便さこそが人を愛おしく感じさせる。逆にAIには死の恐怖も老いもなく、そこが弱点なのではないか、と野田さんは述べます。
印象的なのは「新しいAIは次々出てくるが、若いAIは存在しない」という一節です。AIは古くなるが、年老いることも若くなることもない。一方で東大生は若い肉体を持つ生き物で、若い肉体からしか生まれない心がある、というのです。
これに対し小笠原さんは、テクノロジーをベースにビジネスをする立場から別の視点を投げかけます。もしフィジカルAI物理的な身体(ロボットなど)を持ち、現実世界で行動するAIの総称。定義は複数あり、まだ発展途上の概念。が人間と同じ情報を知覚し、それがアクチュエータモーターなど、制御信号を受けて物理的な動作を生み出す駆動装置。ロボットの「筋肉」にあたる部分。に反映され、その経験を新たな情報として取り込めるようになったとき、「心はある」と認めるのかどうか、というのです。
経験という情報として摂取できるようになった時に、心はあると認めるのかどうか。
AI自体に心があるとは思ってないですが、AIに心があると信じて恋愛やコミュニケーションを取ることはできると思います。
木原さんは、AIに心があると自分自身に信じ込ませることはできても、根っこの部分では心はないと考えている、と語ります。さらに二人は「戦争での意思決定」という祝辞のテーマにも踏み込みました。心があってもボタンは押す。心があるから平和を目指すとは限らず、他を害してでも同胞を守ると考えるのも心だ──と、心という言葉の複雑さが浮き彫りになります。
身体を持たず、死の恐怖も老いもない。高速で正解を出すが、恐ろしいと感じることはない。
身体があり、不便で老いて死ぬ。その経験を通して恐ろしさや愛おしさを感じる心を持つ。
知識か経験か、祝辞が本当に伝えたかったこと
話が進むうちに、二人は祝辞の本当のメッセージへと迫っていきます。木原さんは、努力して多くの知識を身につけた東大生に対し「その知性をゲーム理論的な効率だけで使うのはやめてね」というメッセージだと受け取りました。
一方、小笠原さんは「知識だけで語るなよ」と経験の側を重んじる話だと読み解きます。ここで引き合いに出したのが、京都芸術大学のヒントの一つになっている松下村塾幕末に吉田松陰が主宰した私塾。多くの明治維新の志士を輩出したことで知られる。の掛軸に書かれた「知行合一陽明学の思想で、知ることと行うことは一体であるという考え方。知識だけでは不十分で、実践してこそ本当の知になるという意味。」です。
知るだけじゃダメだよ、と。知ると行動、経験。これが一つであるという。そこの経験にこそ心が宿るという話になると、今の教育ほとんどを否定する話にもなる。
小笠原さんはさらに、知能と知性を区別してみせます。インテリジェンス(知能)情報を処理し正解を導く能力。AIが得意とする領域。とウィズダム(知性・叡智)経験や思慮を通して物事を深く判断する力。単なる知識量とは異なる。でいえば、祝辞は「ウィズダムを持てよ」と言っているのではないか、と。だとすれば、そもそもAIと比べる話ではないのかもしれません。
祝辞の終盤には「頭が良いと言われるあなた方は脳みそ寄りの人間です」という一節があります。これは人間の中でもAIに近い存在として東大生を位置づけた比喩でしょう。二人はここから、野田さんが本当に伝えたかったのは「知識寄りになりきらず、ちゃんと身体的経験による知性を持ってね」ということだった、という解釈にたどり着きます。
興味深いのは、小笠原さんが指摘した「もしこれをAIがやったらハルシネーションだと言われる」という点です。六万年という比喩も、フィジカルAIへの言及も、人間だからこそ許され、感情の動き方まで違ってくる。ここに人間とAIの違いがあるのかもしれません。
小笠原氏が祝辞を述べるなら「専門家になるな」
最後のコーナーとして、木原さんは「今年の京都芸術大学入学式で祝辞を述べるなら何を話すか」と小笠原さんに投げかけました。即座に返ってきた答えが「専門家になるな」でした。
小笠原さんが担当するクロステックデザインコース京都芸術大学のコースの一つ。技術とデザインを横断的に学ぶ。小笠原治さんが教授を務める。では、学生募集の際に「専門性を持ちたいなら他のコースへ行った方がいい」と伝えているといいます。まだ何者でもないという自覚を持ち、何をやろうか四年間探せる人に来てほしい、というメッセージです。
専門性っていう権威とか、分断、分解によって解けない問題を増やしてると思ってて。皆さんには広く浅くいろんなことを試してほしい。
目指すべき究極の一つとして小笠原さんが挙げたのがレオナルド・ダ・ヴィンチルネサンス期の芸術家・科学者。絵画から解剖学、工学まで幅広い分野で才能を発揮した「万能人」の代表とされる。のように幅広く手がける人。それを小笠原さんは「包括科」と呼び、専門性による分断ではなく、包括的にさまざまなことにトライしてほしいと語ります。これは、野田さんが言う「経験」の話とも重なります。
知識が尊ばれ、特殊な身体的経験だけが良しとされる。分断・分解によって解けない問題が増える。
広く浅くいろんなことを試す。知識だけによらず、様々な経験からいつか興味が発芽する。
木原さんは、大学がコースを分けているのは学生募集上の都合という側面もあると打ち明けます。本来、芸術という領域なら包括的に学べた方がよいはずですが、高校生に伝わりやすくするために馴染みのある職域で分野を設計している、というのです。一方で小笠原さんは、大学が持つ「社会の要請に応える人材育成」という役割そのものを問い直します。
木原さんも、野田さんが「創作には作る喜びがあり、初恋には初恋の切なさがある。それは知識と理解とはまた異なるものだ」と語っていたことに共感を示します。最後は「恋愛は知能を下げる」という小笠原さんの一言に、木原さんが「でも、それがすごいじゃないですか」と返して締めくくられました。効率や正解では測れないものこそ、人間らしさなのかもしれません。
まとめ
今回は野田秀樹さんの東大祝辞を出発点に、AIと人間の違い、そして学び方をめぐる対話が展開されました。祝辞はAIそのものを論じているようで、その核にあったのは「知識だけに寄らず、身体的な経験に宿る知性=ウィズダムを持ってほしい」というメッセージだった、と二人は読み解きます。
小笠原さんの「専門家になるな」という言葉も、突き詰めれば同じ方向を向いています。分断された専門性ではなく、広く浅く経験を重ねる「包括科」であること。それが百年学び続けるためのメタスキルになり、いつか興味が発芽する土壌になる。効率で測れない喜びや切なさこそ、人間の強みなのだ──そんな余韻を残す回でした。
- 野田秀樹氏の東大祝辞は「六万年分の記憶」とAIを対比し、身体を持たないAIの弱点として死の恐怖や老いのなさを挙げた。
- 身体を通した経験にこそ心が宿るという視点は、知識偏重の教育を問い直すものでもある。
- 祝辞の核心は「知能(インテリジェンス)ではなく知性・叡智(ウィズダム)を持て」というメッセージだと二人は解釈した。
- 小笠原氏が祝辞を述べるなら「専門家になるな」。専門性の分断より、広く浅く経験する「包括科」を勧める。
- 効率や正解では測れない創作の喜びや初恋の切なさこそ、人間らしさだと締めくくられた。
