「責任を取る」に潜む違和感
話は前回の「組織崩壊」の回の裏にあったキーワードから始まります。小笠原さんが挙げたのは「責任を取る」という言葉。組織崩壊を招くマニュアルの多くが「あなたが後で責任を取らなくていいように」というインセンティブで動いていた、という指摘です。
そこで小笠原さんが投げかけるのが、根本的な違和感です。責任は本来「担うもの」のはずなのに、なぜ「取る」という言葉とセットになり、しかもそれがペナルティを受け入れることを意味するのか。ここに大きなねじれがある、というわけです。
責任を取るという言葉がペナルティを受け入れますに聞こえることが、だいぶおかしいなという。
小笠原さんは、自分が局の責任を担うと言うとき、それは「この領域で何が起きても自分が応答し、対応する」という宣言だと説明します。それなのに、なぜ罰の話になるのか。「責任を担う」から権利(権限)と義務が生まれ、どんな成果を実現したいかに取り組めるはずだ、という捉え方です。
事後・清算のニュアンス。ペナルティを受け入れることを指す
事前・現在進行形。何が起きても応答するというコミットの宣言
「責任を取る」という言葉は基本的に事後のことのように使われ、現在進行形として見られていない、と小笠原さんは言います。時系列を事前やプロセスの途中にずらして考えると、責任を担うことは自分の意志や選択、つまりコミットの話になります。だとすれば、責任という概念の機能は本来「推進すること」にあるはずだ、というのが議論の出発点です。
ペナルティ型責任論が組織を壊す理由
では、この言葉の捉え方のずれは組織にどう影響するのでしょうか。小笠原さんの整理はシンプルです。「責任を取る」がペナルティを受けることを意味するなら、誰も責任を負いたくなくなる、というものです。
能力があり、組織も任せたいと思っている人がいても、責任にペナルティがセットになるなら「同じことができる別の場所に行けばいい」となります。結果として、こうした責任論が広まると、責任を回避することが合理的な判断になってしまう、というわけです。
責任=ペナルティという認識
失敗すると罰を受けると感じる
責任の回避が合理的に
手を上げず、リスクを取らなくなる
失敗の隠蔽・問題の肥大化
自分の責任を小さく見せようとする動きが生まれる
小笠原さんは、この状態が続くと失敗が隠蔽され、自分の責任を小さくするために「小人」がたくさん生まれ、連座制のような構造になると表現します。木原さんも、本来ならもっと高いパフォーマンスやリスクテイクができるはずなのに、ペナルティがセットになることでブレーキがかかり、失敗を隠して問題を大ごとにしてしまうと受け止めます。
ここで小笠原さんは、極端な例として飲酒運転を挙げます。飲酒運転で人を轢いた人が「責任を取って出頭します」と言うのはおかしい、それはただの犯罪であり罰の話で、責任とは関係ない、と。「やらかしたことをかっこよく言っている」ように聞こえるところに悪さがある、という指摘です。
responsibility の原義から捉え直す
なぜこんな使われ方になったのか。小笠原さんは「責任」が明治翻訳語のひとつだと指摘します。哲学、思想、恋愛なども同じく、日本で自然発生したのではなく海外から入ってきた言葉を訳したものだ、という文脈です。
小笠原さんによれば、責任は英語の responsibility から来ており、その原義は「約束とその応答」にあるといいます。つまり、この仕事の領域に対して何が起きても自分が応答し、対応する——それが本来の責任のはずだ、というわけです。
ところが、日本語の「責任」という字には「責める」という語感がある、と小笠原さんは言います。「任」は担うだが、「責」は責めるや罰のほうにフォーカスされてしまう。約束に応答するという前向きな意味のはずが、罰のイメージにモヤっとする、という違和感です。
約束とその応答。何が起きても自分が応答・対応するという能動的な宣言。
「責」が「責める・罰」を連想させ、ペナルティのニュアンスが前面に出やすい。
AI時代の責任と信頼の設計
木原さんは、この責任の話がAIの利用とも重なると気づきます。「AIを使う責任」という言葉づかいです。小笠原さんは「全く一緒」と応じ、仕事の構造を整理します。仕事が業務として構成され、その業務が作業に分解できるとき、作業はAIに任せられる。そして業務が完遂しているかは人間が見て、それが組織の求める方向に進んでいるかに責任を持つ、という見取り図です。
木原さんは、AIが行った作業を人間がレビューし、それがクライアントや組織に迷惑をかけたときに「責任を取る」という言葉が使われがちだと指摘します。「責任を取るからAIを使う」というセットで語られる、というわけです。小笠原さんは、組織として許容できない失敗や、悪意・故意による妨害に罰があるのは分かるが、それなら「罰」とはっきり言おう、と応じます。
ここで議論は「信頼」の話へ移ります。木原さんが、失敗しても挽回できる文化があればいいのに大学でも会社でもチャレンジのムーブがない、と問うと、小笠原さんは「それは信頼の問題」だと答えます。組織がどこまで失敗を許容するかを明確に示していないことが多く、示せたとしても全員がやらかせば組織が終わるため公開しにくい、という現実があります。
失敗してもいいよって言っても、その言葉を信頼できないですよね。
小笠原さんは、これをクレジットカードの仕組みになぞらえます。組織がどこまで失敗を許容できるかは「信用(クレジット)」の話であり、個人がその「大丈夫」という言葉を信頼することで成立する。クレジットカード会社は取りっぱぐれるリスクを算定して手数料を決めているように、利益幅があればある程度の失敗は許容できるはずで、その設計が大事だ、というわけです。
どこまで失敗を許容できるかを算定して示す。利益幅があるほど許容範囲を持てる。
「ここまで失敗しても大丈夫」という言葉を信じて能動的に動く。
木原さんは、実際に自分の立場で「責任を取る」といっても、せいぜい謝罪する程度で大きなリスクではないと振り返ります。それでもチャレンジに踏み出せないのは、クビや逸失利益への漠然とした不安のためかもしれません。小笠原さんは、怒られるのは叱られているだけで罰ではないし、まだ得ていない将来の昇給がなくなるのはペナルティでも何でもない、と整理します。
さらに小笠原さんは、自社の契約が約3〜4か月で自動更新ではなく、合わなければ理由をつけずに自然に離れられる設計になっていることを紹介します。合わない相手と契約を継続しないときに無理やり理由をつけようとするところから、ペナルティや責任論が生まれる面がある、と考えているためです。「もっと優しくいこうよ」という提案です。
責任の対義語は「依存」か
締めくくりに、小笠原さんは自分なりの定義を示します。正しいかどうかは別として、自分にとって責任の対義語は「依存」だ、というのです。責任とは、自分が能動的・自律的に動くために必要なものであり、その反対は依存であり、沈黙や傍観だ、という捉え方です。
依存・沈黙・傍観
能動的・自律的に動くために必要なもの
木原さんは、責任イコール能動という認識はあまり持っていなかったと振り返ります。そして、この回を通じて「責任」という言葉を日常でどれだけ無自覚に使っていたかに気づいたと語ります。「これって責任って簡単に使っていいんだっけ?」と考えるようになり、良い意味で生きにくくなる——聞いた人はそんな効果を得られるかもしれない、というのがこの回の後味です。
まとめ
「責任を取る」という何気ない言葉には、罰やけじめとセットになった「ペナルティ型責任論」が潜んでいます。それが蔓延すると、責任の回避が合理的な選択となり、失敗の隠蔽やチャレンジ不足を招きます。
responsibility の原義は「約束とその応答」であり、本来の責任は事後の清算ではなく、事前・進行中に何が起きても応答するという能動的なコミットです。AIに作業を任せる時代だからこそ、罰の話は罰と正直に呼び、組織の信用と個人の信頼を設計し直すことが、人が動きやすい環境をつくる鍵になりそうです。
- 「責任を取る」がペナルティの受け入れを意味する使われ方(ペナルティ型責任論)に、小笠原さんは違和感を示す
- この責任論が蔓延すると、責任回避や失敗の隠蔽が合理的になり、組織崩壊につながる
- 責任は明治翻訳語で、原義の responsibility は「約束とその応答」。本来は能動的なコミットの宣言
- 失敗をどこまで許すかは組織の「信用」、それを信じて動くのが個人の「信頼」。クレジットカードのように設計できる
- 怒られるのは叱られているだけで罰ではない。犯罪でないのに罰前提で責任を語るのはやめようという提案
- 小笠原さんにとって責任の対義語は「依存」。責任は自律的に動くために必要なもの
