民族のナラティブは幻想か、それとも力か
深井龍之介さんを迎えた「僕たちは集団的不安に打ち勝てるのか」は、この回で3週目に入ります。冒頭では、渡邉康太郎さんが前回のナラティブをめぐる議論を振り返っています。
前回、深井さんは、各国の「自分たちはこういう民族だ」というナラティブはだいたい幻想だという見方を示しました。本当のルーツがわかったら絶望するかもしれない。その一方で、幻想だからこそ力を生んでいるのかもしれない、という話も出ていました。
そこから話題は民族の話に広がりました。深井さんがニューヨークで観たブロードウェイミュージカル『ハミルトン ── アメリカ建国の父の一人、アレクサンダー・ハミルトンの生涯を描いたミュージカル。白人の歴史上の人物を、有色人種の俳優が演じる配役で知られています』では、実在の白人の人物をアジア人が演じています。渡邉さんはこの配役に、「アメリカ人にアジア系も何もない」というメッセージが込められているのではないかと読んでいます。
前回は、アメリカの建国を、ジェームスタウンに初めて奴隷が連れてこられた時点に置き直す『ザ1619プロジェクト ── ニューヨーク・タイムズ紙が2019年に始めた企画。1619年に奴隷がバージニアに連れてこられた時点をアメリカ史の起点と捉え直す試みで、賛否を呼びました』も話題になりました。そこから、ナラティブをどうキャンペーンとして広め、どう訂正していくのかも議論されています。
深井さんが投げかけたのは、ナラティブがないと人は不安を払拭できないのか、という問いでした。荒木博行さんはこれに対し、ナラティブなしで生きるのはおそらく不可能だと答えます。そのうえで、どんなナラティブを持つかを自分たちで選べるとよい、と話していました。
渡邉さんは、レストランで自分たちの群れが他の群れと距離を取りたくなる例を挙げました。高校に入ると、話したこともない同じ中学の出身者が仲間っぽくなる、という例もあります。何と近く何と遠いと感じるかは相対的な問題で、「同じ民族だから」ですらないのかもしれない、という話です。
前回の最後に深井さんは、アメリカは分断を克服しようと努力しているように見えるのに、それでも分断が起こることに絶望感もある、と話していました。この回は、その話を荒木さんが受けて展開するところから始まります。
西洋思想OSと仏教OS、日本人はどちらに近いのか?
荒木さんはこの日、たまたま仏教の僧侶である龍玄さんと対談していて、その影響が残っていると話します。対談では「西洋思想OS」と「仏教OS」がある、という話が出ていました。
荒木さんの整理では、西洋思想は実在論 ── 人間の認識とは独立して、ものや世界が実際に存在すると考える哲学の立場。対になる立場として観念論がありますや唯物論の立場をとり、目に見えるものや数字を重視します。一方の仏教OSは、唯識論や空性論のように、認識のほうを重視する考え方だといいます。
西洋ならではのこだわり、だからアメリカならではのすごくこだわっちゃう部分だとか、衝突しちゃう部分っていうのはやっぱりあるのかなっていう気はして。
荒木さんの仮説は、仏教OSを持つ日本人は、ナラティブに距離を置けたり、相対的に物事を見るセンスがあったりするのではないか、というものです。
渡邉さんが「アメリカならではの衝突とは具体的に何か」と尋ねると、荒木さんは執着の対象の違いを挙げます。アメリカは目に見えるものに執着しやすい。仏教OSでは執着の対象が抽象化され、目に見えるものも仮の姿だと考えるので、ナラティブを選べる範囲が広がるのではないか、という説明です。
渡邉さんは続けて、今のアメリカで多くの人が仏教OSを身につけたら何が起こるのか、と問いかけます。これには「すごいことが起こる」と返ってきました。龍玄さんの話は、お金を貯めることや稼ぐこと、大きな家を建てることを大事にするアメリカの感覚からは、だいぶ遠いというわけです。
ただ荒木さんは、日本もかなり西洋OS化しているはずだとも話します。日本とアメリカは本当に違うものなのか、という疑問がここで出されました。
神が作った世界か、認識がつくる世界か
日本とアメリカは本当に違うのか、という問いに、深井さんは「だいぶ違う」と答えます。この点については何度も考えたことがあり、自分なりの見解を持っているといいます。
向こうは向こうでキリスト教をすごくちゃんと踏襲してるし、我々は本当にやっぱりキリスト教を踏襲してないから、やっぱなんか似てるようで全然やっぱルーツが違うから違うんだなっていう、よくわかる感覚かな。
社会システムとか資本主義とかいろいろ頑張って真似してるけど、もう全然違うなっていう。根本が違うわって感じ。
深井さんは、どちらがいい悪いということは基本的にない、と断ったうえで説明を始めます。最初に挙げたのは、哲学の実在論と観念論の違いです。
深井さんは目の前のiPhoneを例にします。iPhoneが実際に存在しているから見えるのか、それとも自分がiPhoneだと思っているからそこにあるのか。すごく雑に言うと、哲学にはこの2つの派閥がある、という説明です。
深井さんによると、キリスト教は実在論をとります。この世のものはすべて神が作ったので、木にも動物にも人間にも、何らかの目的があって存在していると見なすからです。仏教では、人々が牛と呼ぶ四足歩行の何かがあることは認めても、「牛」という実存があるとはあまり考えない、といいます。
深井さんは、日本は仏教だけでなく神道と混ざり合った神仏習合 ── 日本古来の神々への信仰と、外来の仏教が融合した信仰のあり方。明治初期の神仏分離令まで、長く日本の宗教観の基盤でしたの国だとも言います。神仏習合もまた、キリスト教とははるか遠くにある宗教だという見方です。
神がすべてを作ったので、ものには目的があって実在する。人生には強い意味があり、神の計らいとして受け止める
「牛」という実存があるとは考えない。縁や因果はあるが、そこに意味を見出しているのは個々人だと考える
深井さんがより本質的だと考えるのは、「プランがあるかどうか」、つまり自分が生きていることに意味があると思うかどうかです。仏教では縁や因果はあると見なしても、意味は個人が勝手に見出していると考えます。キリスト教やイスラム教では、神がいるので強烈に意味がある、といいます。
深井さんはその実感として、バングラデシュで出会った人の話をしています。元ストリートチルドレンで、今はストリートチルドレンを支援している男性です。どれくらい敬虔なムスリムかと率直に聞くと、彼は「かなり敬虔だ」と答えました。
(その男性は)これ、神が、の計らいで自分今こうしてるって言ってて。なんかその感覚ないじゃん。
深井さんは、アメリカ人も神の計らいで今の仕事をして成功していると考えることが多い、と話します。トランプ氏も、大統領になったこと自体を口では「神の計らい」と言っていた、という例も挙げています。
渡邉さんは、イスラム教のザカート ── イスラム教の五行(信仰の5つの柱)の一つで、財産の一部を困窮者などに施す義務的な喜捨のことを引き合いに出します。ストリートチルドレンにお金を渡しても、渡した人ではなく神に感謝する、という話です。深井さんは、一神教の人たちとは神の存在感のレベルがまったく違う、と応じています。
ナラティブの選択は言葉の力か、他者との出会いか
一神教と日本の違いを受けて、日本人のほうがナラティブを選べるセンスや相対感が高いのではないか、という仮説が改めて出されます。深井さんも同じことを考えたことがあるとしつつ、別の懸念を口にします。
ナラティブの選択可能性ってかなり言語知、言語的知性だなと思ってて。
(ナラティブの選択は)それすごい概念的であり、言語知性的だなと思ってるんだけど、人類の9割ぐらいって、やっぱり言語知性ってあんまり先行してないなと思ってて。
深井さんの感覚では、多くの人は身体的知性のほうが強いので、複数のナラティブを示しても無力ではないか、ということです。一方で、仏教の万物の空性は体で悟れるとされていて、言語知性を使わずに到達できるかもしれない。そこに希望を感じつつも、実際にそれができている人は世の中に何人いるのか、とも話しています。
ここで渡邉さんが、2人とは違う感覚を持っていると切り出します。深井さんは「めちゃくちゃいいね」と歓迎しました。
渡邉さんはまず、日本の仏教的OSならナラティブを相対化する能力が高い、という仮説に反対します。宗教観としてのアドバンテージはあるかもしれないが、実戦で優れているとは思えない、という立場です。
そもそも隣にいる人が他者であるっていうか、なんか全然違うバックグラウンドを持ってるっていうことをヒリヒリ感じる経験を全然せずに育てるのが日本で。
アメリカでは、肌の色や宗教が違う人と暮らすことが当たり前です。日本は多くの人が同じような顔に見え、似た行動をとるという想像の中で生きている。渡邉さんは、その環境の違いは宗教OSだけでは超えられない壁だと考えています。
渡邉さんは、ナラティブの選択可能性は言語的知性だという深井さんの見方にも、半分は同意しつつ別の仮説を出します。
渡邉さんによると、きっかけは単純なものでかまいません。シーク教のターバンを巻いた人がいる、肌の色が違う人が隣に住んでいる、電車で乗り合わせる、といった程度です。自分と違う考えやバックグラウンドを持つ人がいるという体験を重ねることで、自分の信念が唯一の正義ではないと気づける、という考えです。
ナラティブの選択は概念的な言語知性に頼る。身体的知性が強い多くの人には届きにくい
自分を覆す他者と何度出会えるかで決まる。体験や経験によって育てられる
深井さんが「受け手のリテラシーはあまり必要ないのか」と尋ねると、渡邉さんは、他者と一緒にいると自分が唯一の正義だという考えを捨てざるを得なくなる、と答えています。
アメリカの正義は「ぶつけて妥協する」こと?
深井さんは、元のテーマから外れると断りつつ、アメリカのほうがかえって他者を受け止めることの重要性が弱く感じられる、と話します。他者の正義を受け取っているようで受け取っていない、という感覚です。
深井さんによると、アメリカ人が言うジャスティスは、日本語の正義とはずれがあります。アメリカ人は、機会の平等や自由平等が担保されている状態を正義と呼んでいて、それ以外の状態への許容度がとても低い、と深井さんは見ています。日本の方が正義と正義のぶつかり合いに柔軟な場面もあり、ジャンルによるといいます。
渡邉さんも、自分の正義で他者を攻撃してしまう傾向はたまに見ると同意します。例に挙げたのは、環境問題を訴えるために美術館の油絵に塗料をかける行動や、動物愛護のために船を攻撃する行動です。信念は止めないが、なぜ手法が暴力の方向に寄ってしまうのか、と疑問を口にしています。
自分が信じる正義っていうのを他者にぶつけて、向こうもぶつけてきて、それが妥協される。何らかの形で。
この妥協されるっていうことが、彼らにとって非常にビューティフルだっていう感覚を持ってるなと思ってるんだけど、その感覚と、まあもともと言ってた仏教的感覚ってかなり遠いなと思ってて。
深井さんは、アメリカ人にとっては主張をぶつけ合って妥協するところまでが正義であり、それこそが自由と平等なのだろう、と考えています。そのうえで、荒木さんの言う仏教的な相対性も、渡邉さんの言う他者経験の不足も、実はそれほど対立していないのではないか、とまとめました。
同質に見える日本人は、なぜ衝突を避けるのか
荒木さんは、渡邉さんの主張にまだわからない部分があると話します。肌の色や宗教の違う人が身近にいる経験が多様な文化を育む、という点にはうなずきます。ただ、以前の回で出たレストランの例のように、同質に見える文化の中でも人は違いを作り出すのではないか、という疑問です。
荒木さんの例では、「あいつらはエリートだ」と思った瞬間に、同じ日本人の間でも壁ができます。日本人は大きな差異を感じていないからこそ、かえって微妙な差異に敏感になっている側面がある、という見立てです。
深井さんが「それを指して耐性がないと言っているのだろう」と渡邉さんに確認すると、渡邉さんは同意します。人との大きな違いを感じる機会が少なく、同調圧力も強い環境では、違いを受け入れて先に進む努力をしてきた人が少ない、という説明です。
渡邉さんが例に出したのは、テーゼとアンチテーゼとジンテーゼ ── ヘーゲルの弁証法で知られる考え方。ある主張(テーゼ)とそれに対立する主張(アンチテーゼ)を突き合わせ、より高い次元の結論(ジンテーゼ)に至る過程を指しますです。日本では、ジンテーゼまでたどり着こうとしてきた人が圧倒的に少ない、と渡邉さんは見ています。
自分からすると日本人ってやっぱ衝突して妥協するのにまず全然慣れてないんだよね。
深井さんによると、日本人は分かり合えることに強い希望的観測を持っています。「同じ日本人同士なら普通こうするでしょう」「こう言えば通じるでしょう」とデフォルトで思っているので、意見がぶつかった時点で関係が終わったように感じてしまう、といいます。
一方のアメリカ人は、何を言っても通じない人がいることを強く意識している、と深井さんは言います。だから言葉だけでなく、行動で示しながら妥協点を探るのだという見方です。
圧倒的に異質で、何言ってもマジで通じねえみたいな人にほぼ会ったことがない。もし会ったらその人のことを本当に嫌いになっちゃう。
渡邉さんは、深井さんのこの考えに近いと応じます。渡邉さんは、分かり合えると信じる楽観性はいいようには働いていないと考えています。
楽観
大きくは違わないはずだ、分かり合えると信じている
ハイコンテクスト
言葉に出さなくても通じる前提で、言語化を嫌う
差異の回避
違いを強調することを避ける
結果
アンチテーゼすら出し合えず、ジンテーゼに至れない
渡邉さんの結論は、アンチテーゼすら提示し合えない人たちがジンテーゼに至れるはずがないというものです。これが、渡邉さんが日本の文化について感じていることだといいます。
他者と思った瞬間に終わる日本、どう相対化を鍛えるか
深井さんは渡邉さんに同意しつつ、日本人の楽観にも別の面があると付け加えます。分かり合えるという幻想を持っているからこそ、他者を内在化でき、「これをやったら喜ぶだろう」という細やかなサービスができる、という見方です。深井さんは、これを同質性の高さの副産物だと捉えています。
その日本の他者包摂性って他者だと思ったら結構日本人って終わっちゃうんだよね。他者に対して何らなす術を持ってないのよ、日本人って。
深井さんは、アメリカでは他者とどう対話するかが問われるのに対し、日本では相手を他者だと思った時点で排斥モードに入ってしまう、と話します。そこで日本に合った相対化の方法として、「同じ人間なんだな、死ぬほど違うけどな」と思えるスキルを鍛える方向を挙げています。
荒木さんはここで「わかった」と言い、哲学者レヴィナス ── 20世紀フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナス。リトアニア出身のユダヤ人で、自分には回収できない「他者」との関係を倫理の出発点に置いた思想で知られますを読んだときの引っかかりを話します。レヴィナスの哲学は、他者との強い断絶感から出発しているといいます。
今日の僕がそれ(レヴィナスの哲学)を勉強することは可能なんだけど、ある種身体知的に理解するっていうのはすごい難しいんじゃないかって、やっぱ読みながら思うわけって。
荒木さんは、その断絶感は、レヴィナスがリトアニア系ユダヤ人というマイノリティであり、ホロコーストが身近にあったことから来ていると見ています。日本人が他者に絶望した経験をあまり持たないことは、こだわりのなさというアドバンテージでもあります。一方で、それゆえの思考の浅さという日本人の固有性もあるのかもしれない、と荒木さんは話しました。
渡邉さんから、渡邉さんの主張がわからないという状態は今どうなったかと聞かれ、荒木さんは「クリアした感じがする」と答えます。そのうえで荒木さんは、最終回では元のキーワードである不安に戻りたいと提案しました。ナラティブ論や他者論がどう不安とつながるのかを、次回考えることになります。
深井さんは、この回はかなり右往左往したと振り返りつつ、「このメンバー以外だともっとまとめようとしちゃう」と、迷走できる議論を楽しんでいる様子でした。
まとめ
この回は、仏教とキリスト教の世界観の違いから始まり、日本人が持つ相対化のセンスと、他者と衝突する経験の不足という、一見すると対立する2つの見立てを行き来しました。深井さんは、両者は実はそれほど対立していないと整理しています。そこから、「他者と思った瞬間に終わってしまう」日本人の他者への向き合い方の課題が見えてきました。
- 深井さんは、キリスト教は神が作った世界として実在と意味を強く認め、仏教は意味を個人が見出すものと考える点が大きく違うと語った
- 荒木さんは、仏教OSを持つ日本人にはナラティブを相対化するセンスがあるのではないかと考えた
- 渡邉さんは、ナラティブを選べるかどうかは「自分を覆す他者」と何度出会えるかで決まり、日本はその経験が乏しいと反論した
- 深井さんは、日本人は分かり合えると楽観しているため衝突と妥協に慣れておらず、相手を他者と見た瞬間に排斥してしまうと指摘した
- 深井さんは、日本に合った相対化として「同じ人間だ、死ぬほど違うけど」と思えるスキルを鍛える方向を示し、最終回では議論を不安というテーマに戻すことになった



