「表現は怖さの克服」とは何だったのか?
渡邉康太郎さんの新刊『生きるための表現手引き』をめぐる4回シリーズは、この回で最終回を迎えます。テーマは「なぜ人は大人になると表現者でなくなってしまうのか」で、担当編集の的場優季さんがゲストです。
冒頭で渡邉さんは、前回までの議論を振り返ります。前回の問いは「大人はどうやったらさらけ出せるのか」でした。荒木さんが思い出したのは、三宅華穂さんがゲストの回で出た「競争と表現」という対比で、表現していない人は競争に忙しいのではないか、という見方です。
渡邉さんの整理では、競争とは決められたルールの中で戦うことで、あるジャンルで1位を競うことや数字を競うことが当てはまります。ただし、競争していないからといって表現しているとは限らない、という留保も付いていました。
その流れで『星の王子さま』の帽子のシルエットの話が出てきました。一見何でもないものの奥に自分なりのイマジネーションを働かせ、それを臆面もなく口に出せるか、という問いです。
荒木さんは渡邉さんの本のゲラを読み、「こうたろうらしさが出まくっている」と評していました。問いがあり、論があり、引用がある構成が、さまざまなジャンルにわたっている点が理由です。抽象度を下げるほどらしさが出る、という見方から、人はどのレイヤーでさらけ出すのかという論点も出ていました。
荒木さん自身については、構造を扱った本は表現レイヤーでのさらけ出しでしたが、努力を扱った本はものの見方の根本に触れるため、出すのが怖かったといいます。価値がないと言われるかもしれないリスクを取ることこそがヴァルネラブル ── 英語のvulnerable。「傷つきやすい」「弱さをさらけ出した」状態を指し、自分の弱みを見せることを肯定的に語る文脈でよく使われますになるということだ、という話でした。
そこから導かれたのが、表現とは怖さの克服だという整理です。渡邉さんは、怖くないものは表現ではないとさえ言えるかもしれず、怖さのマネジメントがあるのではないかと振り返ります。
さらに、自分では表現だと思っていなかったのに後から表現だったと気づくケースや、表現者だと自認できる人とできない人の違いも話題になっていました。最終回の宿題は、表現したい・したくないとは一体どんな状態なのかを深掘りすることです。
表現欲求は「代謝」なのか?
荒木さんはまず、渡邉さんに表現欲求があるかを尋ねます。渡邉さんの答えは意外にも「そんなにない」というものでした。
うーん、なんか作ってなきゃ死ぬみたいな人じゃないんですよ。それ(タクラムに)いるとかなり思う。
渡邉さんが所属するTakramには70人ほどのメンバーがいます。ある美大出身の女性は、家で映画を見ながら手を動かしたくなって木彫をしていたら、クオリティの高いフクロウができていたそうです。それをZoomで話すと、別の美大系のメンバーがチャット欄で「わかる。木彫めっちゃ落ち着くよね」と反応し、渡邉さんは「わかんねー」と感じたといいます。
一方で渡邉さんにも、議論中にどうしても言いたいことや、プロジェクトで「この案が絶対いい」と思う瞬間はあります。ただしそれは、ルールや枠組みが設定されたうえで「その中でやるならこれしかない」という思いに近いものだと説明します。
じゃあルールがないところで何かを常に生み出し続けたいか、動かしてないと不安になるかっていうと、いやそこまででもないなっていう思いはあります。
対照的に荒木さんは、自分は表現欲求がとても強いと話します。経験したらすぐ言語化したくなり、声にしたくなり、外に出していないと落ち着かない感覚があるそうです。
荒木さんのこの感覚は社会人になってから、グロービスで講師をしていた頃に始まったといいます。仕事をきっかけに手押し車が回り始め、今では止まらない、というたとえで語られました。本はたくさん買うのに、読むよりもnoteを書いたりVoicyを録ったりしてしまい、本だけが溜まっていくそうです。
確かに。映画も見たいなとかいろいろあるんだけど、映画見るならなんか書きてえな。
渡邉さんが「書くルーチンやプラットフォームが体になったということか」と聞くと、荒木さんは繰り返しやっているからハードルが低いのだと同意します。ただ、日々の蓄積で向上していくような体育会的、マッチョなノリではないとも言います。
荒木さんによれば、書いたものを読んでほしい、聞いてほしいという欲求もそこまで強くありません。荒木さんの表現は、承認を求めるものというより、体の働きに近いものとして語られます。
ルールや枠組みがある中では「これでいきたい」と強く思うが、ルールのない場で常に生み出し続けたいわけではない
経験するとすぐ言語化・発信したくなる。読まれたい欲求は強くなく「代謝」に近い
書く時間を5年続けても何も生まれていない?
話を振られた的場さんは、荒木さんの「映画を見るなら作りたい」という感覚に共感したといいます。的場さんは自由な時間があればインプットよりアウトプットをしようと試み続けてきたものの、形になったアウトプットはない状態だと話します。
具体的には、的場さんは5年ほど友人と毎週1時間「書く時間」を取っているそうです。写経をしたり、noteを書こうとしたり、ジャーナリングだけの日や仕事に充てる日もあるといいます。それでも、やめようという話には一度もなっていないとのことです。
的場さんはこれを「欲求はあるのにアウトプットはない状態」と表現しました。荒木さんは「それはおもろい」と反応し、渡邉さんは「書いてはいるんだよね」と確かめます。的場さんも、人に見せないが書いてはいる、と認めています。
的場さんは最近、渡邉さんの本に触れて変化があったと語ります。本では他人と比べてしまうことが投げかけられており、生み出す人を間近で見て「自分はそこまでではない」と感じたことから、書く以外のことを試してみようと考えたそうです。
的場さんが始めたのは、花を生けることと、自宅にあったマリンバを2年ぶりほどに組み立てることでした。今では1部屋がマリンバ部屋のようになっているといいます。的場さんは自分を、渡邉さんと荒木さんの中間くらいだと位置づけます。
そうね。いやだからそうなんだよね。他者との比較はどうでもいいんだよね。
渡邉さんは、木彫を「落ち着く」と頷き合う美大出身者たちも、受験や大学での木彫の共通体験がベースにあると気づきます。荒木さんが書くことを自然にできるのも、書く経験を十分に積んだからで、構造は同じだという見立てです。
なんか苦手意識があろうがなかろうが、なんかとりあえず騙されたと思って手を動かし続けたら、いつの間にかもうそれが自然になっちゃうだけであるっていう感じだよね。
獣道は高速道路になるべきか
荒木さんはここで、深井龍之介さんと「作る」をテーマに話した特別6週バージョンの回を思い出します。そこで荒木さんが語ったのは、内と外をつなぐ「道」のメタファーでした。
外側にさ、やっぱりそのちゃんと道があると作れるんだよね。
荒木さんの説明では、最初は雑草が生い茂って道がない状態でも、踏み固めるうちに獣道になり、アスファルトで舗装され、やがて高速道路になります。そうなると内と外が即応的につながり、表現しやすくなるといいます。その道は人によっては書くことであり、木彫かもしれません。
道がない
雑草が生い茂り、内と外がつながっていない
獣道
何度も踏み固めて、通れる道ができる
舗装路
アスファルトで舗装され、通りやすくなる
高速道路
内と外が即応的につながり、表現しやすくなる
渡邉さんは、その回で折口信夫 ── 民俗学者・国文学者で、釈迢空の名で短歌も詠んだ人物。日本の古代信仰や芸能の研究で知られますの短歌を紹介したことも振り返ります。
的場さんは、渡邉さんの原稿を読んで、その前提すら取り払われたと語ります。褒められた経験から書くことが好きなのかもしれない、小さい頃から続けたマリンバなのかもしれないと思っていたものの、それは思い込みかもしれないと感じたそうです。荒木さんがピアノのレッスンに義務感を覚えていた記憶のように、そこには義務感が付いて回っていたといいます。
そこで的場さんは、ドライフラワーではなく切り花を飾ってみる、という新しい獣道を踏み始めました。水の感じが好きだ、生きているものが家にあるのはいい、と感じることが、自分として生きることにつながっているそうです。
もう出やすいところに出ちゃうから、ちょっとそれ(高速道路)を封印してみて、なんか違う道を探してみるっていうのも。
荒木さんは、的場さんの試みを高速道路ができることへのアンチテーゼと捉えます。渡邉さんも、獣道や舗装路までは人間的なのに、高速道路と言った途端に都会化して非人間的に聞こえた、と応じました。的場さん自身は、自分の場合は踏み固めが足りず、常に雑草が生えているから別の道へ行く感じかもしれないと話しています。
渡邉さんは、このメタファーで人のパターンが見えると言います。どこも踏み固めきらずに次の獣道へジャンプし続ける人、1本の高速道路が心地よすぎて他へ行けない人、誰かの道が羨ましいのに怖くて行けない人などです。
荒木さんは、そもそも内側に「外へ伝えたいモヤモヤ」というコアがなければこのメタファーは成立しないと指摘します。これに対し渡邉さんは、コアがあるから外へ行けるというより、騙し騙し外と中を行き来するうちに自分らしさが見えてきた、というほうが実感に近いと語りました。
まあでもそうだね。でもその内と外の往復なんだね。行ったり来たりして、それで道が固められて。
「非表現者」は本当にいるのか
的場さんは議論を聞きながら、ある気づきを口にします。営業職の人のように普段は自分を表現者だと考えていない人も、「非表現者のための」という言葉を聞いて、自分のことだと感じたのではないか、という見方です。
的場さんによれば、そうした人は表現したくないわけではなく、ずっと表現してきたのに、それを表現と認識していないだけかもしれません。つまり、表現したいと思っていない人は、実は表現していた、ということです。
荒木さんは「すごいパラドックスだね」と受け止めます。荒木さんの整理では、「非表現者のための表現の手引き」の前半の非表現者は「囚われた表現」の意味を持たせた言葉で、後半の表現は「すべてのものが表現になっている」という意味になります。渡邉さんも、足かせを解き放つこと自体がそこから伺い知れると同意しました。
最終的な書名は『生きるための表現手引き』です。荒木さんに意味を問われた渡邉さんは、歌人の穂村弘 ── 現代を代表する歌人の一人。エッセイや短歌入門書も多く、口語的でユーモアのある作風で知られますさんの『はじめての短歌』にある「生きる」と「生き延びる」の対比を挙げます。
渡邉さんの説明では、サラリーマンが『モダン・タイムス』のように部品になっている時間が「生き延びる」時間です。一方で誰もが「生きる」時間も持っていて、それは有用性やお金への換算から離れた、大事な人との時間、他人に理解されないかもしれないダジャレ、絵画や生け花などで構成されています。
役に立つことやお金に換算できることが求められる時間。自分が部品になっている時間
大事な人との時間、ダジャレ、絵画、生け花など、有用性から離れた時間
無理してその表現で生きようとしなくてもいいから、少なくとも表現の時間をちゃんと持つっていうことを自分に許してもいいじゃんねっていう、その作法が書いてあるっていうところがまず入り口としてあります。
的場さんは、本の中にある「表現者は職業ではなく生き方でいい」という考えを挙げます。表現者をアイデンティティとして持てることが、自分として生きることにつながり、書名には生き方としての表現者という意味合いも込められていると語りました。
荒木さんは、生きると生き延びるの話は以前から聞いていたものの、今回で腹落ちしたといいます。荒木さんにとってビジネススクールで教えてきたことは、生き延びるための知恵でした。だからこそ、生きることに注目したいのだと話します。
だから生きるためのほにゃららっていうのがめちゃくちゃ大事だよね。
「好きなことで食べていく」はなぜ残酷になりうるのか
荒木さんは、だからといって「生き延びるのはもうやめましょう」という言い方でもない、と迷いを見せます。渡邉さんも、誰しも生き延びなければならないと応じます。
渡邉さんが挙げたのは、「好きなことで食っていく」という教えです。それは生きることと生き延びることを完全に一致させよという話で、渡邉さんは、それはそれで結構残酷だと語ります。
渡邉さんによれば、生き延びるには、自分の時間をお金に変える競争に身をさらす必要があります。好きなことで本当に稼げるのか、マーケットで戦えるのかを問われたとき、喜びだった「生きる」が苦しみに変わりかねません。
社会的な強者の中には両者を一致させて稼げる人もいますが、構造的に全員ができるわけではありません。渡邉さんは、生きると生き延びるは別々でいいという話はあまり表立って語られていないものの、とても大事だと強調します。
荒木さんは「理解した」と応じ、無邪気に「生きることが大事」と言うだけでは残酷な面もあると認めたうえで、書名を「いいタイトル」と評しました。的場さんは、タイトル決めが難航する本はいい本になる、と編集者として教わっていたため、希望だと思っていたと明かします。
渡邉さんは、的場さんへの感謝も語ります。本が作れるかわからない段階で声をかけ、1年半企画を温めてくれたこと。執筆が捗らない時期には毎朝のようにZoomのアポを入れ、執筆を見守ってくれたこと。渡邉さんはこれを「昭和的編集者行為をZoom上でやる令和的現象」と表現しました。
原稿をめぐっては、渡邉さんも的場さんも頑固で、収録時点でもまだ校了前のせめぎ合いが続いていたそうです。本は11月下旬の発売予定で、収録時点でAmazonの予約ページができていました。
締めくくりに渡邉さんは、このシリーズで荒木さんの執筆への思いや、的場さんの編集への考え方とその変化を聞けたと振り返り、4週にわたる対談を終えました。
まとめ
大人が表現者でなくなるのは、表現をやめたからではなく、自分の営みを表現と認識できなくなったり、表現を仕事や競争と結びつけすぎたりするからかもしれません。この回は、道を踏み固める経験と、「生きる」ための時間を自分に許すことが、表現を取り戻す手がかりになると示しています。
- 荒木さんの表現欲求は読まれたいというより「代謝」に近く、繰り返しの経験で書くハードルが下がったことが背景にある
- 表現は内と外をつなぐ「道」を踏み固めることで自然になり、高速道路ができたら別の獣道を試すことにも意味がある
- 表現したいと思っていない人も、実は表現している。「非表現者」は囚われた表現観から生まれる言葉かもしれない
- 「生きる」と「生き延びる」を無理に一致させず、表現の時間を仕事とは別に持ってよい、というのが『生きるための表現手引き』の入り口



