ドバイ出張と6年ぶりの新刊、渡邉さんはなぜ忙しい?
今回の収録は、荒木博行さんが渡邉康太郎さんに「最近忙しいですか?」と尋ねるところから始まります。渡邉さんは、初めて中東のドバイへ出張してきたばかりだと話します。
渡邉さんによると、ドバイの男性の正装はカンドゥーラ ── 湾岸諸国の男性が着る、くるぶし丈の白いワンピース型の伝統衣装。頭には布を被ることが多いですという白い布の衣装で、みんな似た見た目になるため一人一人の見分けがつきづらいそうです。現地の人たちはみな英語が堪能で、ワークショップは英語で進められたといいます。
あっちでちょっとデザイン思考のワークショップみたいなので、タクラムの仲間数人と出かけて行って、レクチャーをして。
今度はですね、むしろあちら(ドバイの人たち)が30人くらい東京にやって来て、またこっちでいろいろワークショップをやるなんていう、今なんかそんなよくわかんない仕事をやっております。
荒木さんが「忙しい理由は他にもあるという噂」を振ると、渡邉さんは本の出版準備が佳境に入っていると明かします。前著『コンテクストデザイン』に続く本で、11月末に刊行予定です。
渡邉さんの記憶では、前著の刊行は2019年の年末、コロナ直前のことでした。新刊はそこから5〜6年ぶりになります。たくさんの本を書いている荒木さんの出版ペースに比べれば「塵みたいなもの」だと、渡邉さんは謙遜しています。
編集者・的場さんとの縁は荒木さんがつないだ?
ゲストとして紹介されたのは、渡邉さんの新刊の編集を担当した的場優季さんです。的場さんは、NewsPicksの書籍レーベルNewsPicks Publishing ── ソーシャル経済メディアNewsPicksが運営する書籍レーベル。ビジネスや社会をテーマにした書籍を刊行していますで書籍の編集者をしています。
的場さんは新卒から3〜4年、出版とは関係のないベンチャー企業でIRを担当したり、バングラデシュで事業部を運営したりしていました。本を作りたいという思いから3年前に転職し、今は編集者として4年目を迎えています。
荒木さんは、的場さんが最初に手がけた『資本主義の中心で資本主義を変える』で対談した縁があり、渡邉さんより先に的場さんと知り合っていました。2023年12月のクリスマスの日に、荒木さんが知人を通じて的場さんを渡邉さんに紹介したのが、今回の本の始まりです。
的場さんが「ヒロさんいなかったら始まってないかも」と気づくと、渡邉さんも「ヒロ様様でございました」と応じ、スタジオは笑いに包まれます。一方の荒木さんは、紹介したものの、企画が進むとは思っていなかったと振り返ります。
まあね、広太郎(渡邉さん)も忙しそうだし、そのこだわり強い人だから、どうなんだろうなっていう感じでしたけれども。進んでるとは全然思わず。
渡邉さんによると、本の企画を温めるのにおよそ1年半かかったそうです。その間も二人はちょこちょこ会い、テーマやコンセプトを話し合っていました。的場さんはこの過程を「成長速度が非線形」と表現し、ある時点から急に企画が育ったと話しています。
新刊のタイトルは『生きるための表現手引き』で、11月末の刊行です。今回からの対談は、この本にまつわるテーマを深めていく内容になります。
子どもはなぜ「粘土コール」をするのか
的場さんが立てた問いは「なぜ大人になると表現者でなくなってしまうのか」です。子どもの頃は誰もが表現者だったのに、大人になるとなぜ表現をためらい、抑えてしまうのか、という投げかけです。
的場さんによると、この問いは本の冒頭でも扱われています。オフィスで原稿や表紙案とにらめっこしていると、同僚たちがこの問いに食いつき、「自分は小さい頃これをやっていた」「今これをやりたい」と話してくれるそうです。的場さんはその反応から、表現への思いはみんなが持っているものだと実感したといいます。
渡邉さんに問いの意味をさらに尋ねられると、的場さんは言葉を少し言い直します。「表現をしなくなる」ことと「表現者でなくなる」ことはイコールではなく、誰もが表現者であり得るのに表現をしなくなってしまう、と言うほうが正しいかもしれない、という整理です。
この問いを受けて、渡邉さんは小学2年生の頃の記憶を語ります。クラスがだるい雰囲気になると、先生に向かって「粘土、粘土」とコールが起こり、先生がニコニコしながら粘土の時間にしてくれることがよくあったそうです。
しばらく粘土を喜んでやるんですけど、なんか途中で先生がめちゃくちゃなんか機嫌悪くなってきて、「おいー」とか言って。
で、先生をバカにして粘土粘土とか言ってとか言って、なんか説教タイムが始まるみたいなパターンが結構あったんですけど。
渡邉さんが粘土の思い出から考えるのは、小学2年生の頃はなぜみんな粘土やお絵描きが好きだったのか、ということです。成長するにつれて、得意な人だけが図画工作を好きになり、それ以外の人はむしろ苦手になっていく。いつの間にか路線が分かれていく、と渡邉さんは指摘します。
的場さんは、表現欲求をいつまでも心の底に持ち続ける人もいれば、まったく持っていない人もいると感じています。目の前の仕事で手一杯なら絵を描きたいとは思わないかもしれない。けれど、ほかのことが満たされたから表現欲求が生まれるのかというと、渇望とも言えそうだ、と的場さんは迷いを口にします。そのうえで、表現欲求は生き方と深いところでつながっていると話しています。
嫌々弾いたピアノは「表現」だったのか
的場さんに小さい頃何かやっていたかと聞かれた荒木さんは、まず「表現者とは何か」が大事なキーワードになると前置きします。荒木さん自身は小学生の頃にピアノを習っていましたが、それが表現だったかどうかは難しいと考えています。
発表会とかね、そういうところで、なんか人前で何か自分がやった成果を見せるみたいなのって表現っぽい。
けれども、決められた楽譜をちゃんとトレースすることだけに集中しているという意味での自己表現的なものがあったかと言われると。
荒木さんは、何が表現になるかは本人の自認によるのかもしれず、何でも表現になり得るし、何でも表現になり得ないこともある、と話します。的場さんも、「来週レッスンがあるから練習しなきゃ」と弾いている時間は表現ではないかもしれない、と同意します。
荒木さんにとって小学生の頃のピアノは、嫌で嫌でしょうがないものでした。先生が怖く、練習していないと怒られるので、怒られないように必死で弾いていた記憶しかないそうです。
一方で荒木さんは、大人になってから音楽への表現欲求はめちゃくちゃある、と話します。荒木さんは、義務感というくびき ── 車を引く牛馬の首にかける横木のこと。転じて、人の自由を束縛するものを指しますから放たれ、他人のための作業ではなくなったときに、初めて表現欲求が出てくるのではないかと考えています。
だからあのプロセス(嫌々習ったピアノ)は実はいいプロセスだったのかもしれないんだけれどもね。
渡邉さんは、本の中で表現について自分なりの定義を書いていると明かします。ただしこの回ではあえて定義には触れず、別の点を強調します。
渡邉さんが大事だと考えるのは、自分が表現していると思えるかどうかです。一度「自分は音楽や絵が苦手だ」と思い込むと、やる気が起きなかったり、機会があっても手を出せなかったりします。他人から「いい表現だね」と言われても、それを自分で認めきれないこともある、と渡邉さんは話し、荒木さんも強くうなずいています。
「クエスチョンマークで入り、ピリオドで出る」学校
渡邉さんが紹介したのは、ハル・グレガーセンの著書『問いこそが答えだ』です。問いの設定をテーマにした本で、渡邉さんはミミグル ── 組織開発やファシリテーションを手がける会社「MIMIGURI」のこと。渡邉さんの言う「安西さん」は同社の代表を指すと見られますの安斎勇樹さんも好みそうな領域だと話しています。
渡邉さんが印象に残っているのは、「人生の早い段階で表現の自然な欲求が何度も押さえつけられると、人は表現の衝動を弱めてしまう」という一節です。押さえつけ方には、「下手だね」と言われる、自分で遠慮する、周りがやっていないから同調圧力でやめる、などいろいろな形があり得るといいます。
グレガーセンの本で語られる表現欲求が弱まる流れを、渡邉さんの説明に沿って整理すると次のようになります。
自然な欲求
子どもは好奇心や疑問を持ち、自然に表現したがる
押さえつけ
下手だと言われる、遠慮する、同調圧力でやめる
繰り返し
人生の早い段階で何度も押さえつけられる
衝動の弱まり
表現の衝動そのものが薄れていく
同じ本には、ある教育者の言葉も出てきます。「子供たちはクエスチョンマークとして学校に入るけれども、ピリオドとして学校を出る」というものです。
渡邉さんはこの言葉を、子どもは好奇心やセンスオブワンダー ── 自然や世界の不思議に目を見張る感性のこと。生物学者レイチェル・カーソンの著書の題名として知られていますを持って学校に入るのに、答えを一通り教わるうちに問う心や冒険する心をそがれて卒業していく、と説明します。学ぶことで問う心や表現する心が刺激されるより、唯一の答えに触れる形で今の教育が成り立っているのではないか、という問題提起です。
この話を聞いた荒木さんは、自分のピアノをなぜ表現と呼びたくないのか、その理由に思い当たります。
荒木さんによると、子どもの頃のピアノは、音符を間違えずに鍵盤を押すだけの業務やタスクになっていました。本来のピアノ表現には、「ここは静かにゆっくり」「ここは感情的に」と、楽譜から受けたインスピレーションで余白を埋めていく領域があります。
楽譜どおりに、音符を間違えず鍵盤を押すことに集中する
楽譜からインスパイアされ、感情の乗せ方などの余白を自分で埋めていく
荒木さんは、学校でも余白のないものは表現になりにくいと話します。例えば、算数の問題を全部解けたことを表現だと自認する人はあまりいないかもしれない、という指摘です。渡邉さんは、表現という言葉にはオープンクエスチョン性、つまりアウトプットの形が一様じゃないという含みがあるのではないかと応じます。
ただし荒木さんは、同じ算数でも難しい図形問題で意外な補助線を引くような場面には、表現的なものが入るかもしれないと続けます。答えは同じでも、プロセスに表現が宿るという見方です。渡邉さんも、ここで直角三角形を見出したのか、ここに内接円を描いたのか、という驚きがあると共感しています。
的場さんは、遊びや余白とは、自分自身が入り込むスペースが用意されているかどうかなのかもしれない、とまとめます。
荒木さんはさらに、表現には制約の「さじ加減」があると話します。表現慣れしていない人ほど適度な枠が必要で、熟達するほど余白を楽しめるようになる、という段階的な見方です。
音楽の授業では、なぜ作曲をしないのか
渡邉さんが続けて紹介するのは、以前ラジオにゲストとして来た、バンドWONKのキーボード奏者江﨑文武さんの問題提起です。江﨑さんは演奏や作曲・編曲だけでなく、教育にも携わっているそうです。
江﨑さんの問いは、日本の美術の授業では自分でモチーフや主題を選んで絵を描くのに、音楽の授業ではリコーダーやピアノで楽譜どおりに演奏するだけで、自分のモチーフで作曲する機会がないのはなぜか、というものです。
それって別に鍵盤を使って音楽理論に基づいて作ることじゃなくて、替え歌とかただの言葉遊び歌でもいいかもしれず。
渡邉さんは、子どもの頃には替え歌や言葉遊びを遠慮なくやっていたのに、年を取ると恥ずかしくなる、と話します。詩や俳句をやろうと言われると照れてしまい、他人に見せるのが気恥ずかしい、おっくうだ、となりがちだという指摘です。
的場さんは、恥ずかしさは表現をためらう大きな要素かもしれないと受け止めます。そのうえで、勉強と同じように表現やピアノを「褒められる道具」「他者から認められる道具」にしてしまうと欲求が押さえつけられ、教育を受けるうちにどんどんしぼんでいくのかもしれない、と話しています。渡邉さんはこの点を「めっちゃ大事だと思う」と強調します。
次回以降について、的場さんは、表現欲求がどんなタイミングで、どんな人に生まれてくるのかを話してみたいと提案します。渡邉さんが「大人になってから」という意味かと確かめ、的場さんが同意したところで初回は締めくくられ、話は次回へ続きます。
まとめ
シリーズ初回は、『生きるための表現手引き』の担当編集・的場優季さんの問いを起点に、子どもの頃の表現欲求がなぜ大人になって薄れるのかを考えました。嫌々弾いたピアノや粘土の思い出、グレガーセンの言葉、音楽の授業への問題提起を通じて、表現の鍵として「遊び」と「余白」が浮かび上がりました。
- 渡邉康太郎さんの新刊『生きるための表現手引き』は、前著から5〜6年ぶり、11月末の刊行予定
- 荒木博行さんは、楽譜をなぞるだけのピアノには遊びがなく、表現と呼びにくいと振り返った
- 幼い頃に表現欲求を何度も押さえつけられると衝動が弱まる、というグレガーセンの指摘が紹介された
- 表現には自分が入り込む余白が必要で、表現慣れの度合いによって適切な制約の量が変わる
- 恥ずかしさや「褒められる道具」としての表現が、大人の表現欲求をしぼませているのかもしれない



