ビタミンCを作れない人間は「外注」を選んだ生き物?
この回の出発点は、前回までの議論です。前回は、馬から見れば人間もまた家畜に見えるのではないか、という金子拓人さんの仮説が語られました。
その議論では、人間は自分たちで作った社会のルールやシステムに従い、自ら首輪をつけているようなものではないか、と話されました。渡邉康太郎さんはその例として、恋人からの束縛を望む人や、制約があるほうが考えやすい創作、学校に縛られるからこそ楽しい放課後を挙げています。
前回の後半では、医学や栄養の話に移りました。ヤギは体内でビタミンCを作れるのに、人間は作れないという話題が盛り上がったところで前回は終わっています。
(人間は)自分たちは自らに首輪をつけてるようなもんなんじゃないか。ある程度縛られたいんじゃないか。
ビタミンCを作れないという人間の性質に、深井龍之介さんは企業戦略との共通点を見いだします。機能を切り離して外部に任せるほど、組織は変化に対応しやすくなるという見方です。
どんどんどんどん切り離してアウトソースしてった方が変化対応はしやすいみたいなところあるじゃない。
(必要な時だけ借りる)契約をちゃんと結んでおくと柔軟さは増す。しかし、いざという時にその契約が切られたら致命的になるみたいな、そういう宿命も負うわけだよね。
渡邉さんも、外注には諸刃の剣の面があると応じます。ノウハウが社内に残らなくなることや、本業まで外注すると自分たちが何者なのかわからなくなることを、その例に挙げています。
必要な時だけ外から借りることで、組織は重くならず、変化に対応しやすくなる
契約が切られると致命的になる。ノウハウが残らず、自分たちが何者かも揺らぐ
深井さんは、人間がビタミンCを体内で作らず外から摂るのも、生存戦略として切り離されたアウトソースだと捉えます。渡邉さんはさらに、ビタミンという名前自体が、生命の維持に欠かせないのに体内で作れないものを人間が名付けたものだと補足しました。
依存する側が家畜なら、人間はレモンの家畜か
ビタミンCのアウトソースと家畜化はどうつながるのか、と深井さんは問いかけます。金子さんがこれを受けて、外注しているということは、それだけ外に頼っている状態だと答えかけました。
でもさ、そのアウトソースしなきゃいけないっていうのが家畜化っていうのにどうつながっていくわけ?
(外注は)依存しなきゃいけないってことだよね。そうすると僕らはある意味その柑橘類とかの家畜化されているというものの見方もできるってこと?
金子さんはトウモロコシを例に加え、渡邉さんは「もう何でも家畜だな」と笑いながらもこの見方に乗っていきます。人間は欠かせない作物を一定量育てる必要があり、その意味では人間のほうが作物に使われているとも言えるからです。
日本だとその瀬戸内とかを中心にめっちゃ人間がレモンに家畜化されてるとか言えそうですね。
深井さんは、この見方を単細胞生物と対比して整理します。人間は常に何かが欠けた状態にあるため、それを補う関係性を作らなければ生きられません。
欠乏
ビタミンCのように、体内で作れないものを抱えている
関係性
欠けたものを補うため、外部と関係を結ぶ必要がある
調和とルール
関係を保つために調和が必要になり、さまざまなルールが生まれる
家畜化
ルールに従って生きることを宿命づけられる
だからそういう家畜が宿命付けられた種なのかもしれない。
渡邉さんは、大事なのはどんな共生関係のルール、つまりどんな契約を結んでいるかだと応じました。犬は人間を主人に見立てて共生し、猫はむしろ自分が主人になって人間を従わせている、という対比も挙げています。
ここで深井さんは、人間には自分が家畜化されているという認識がほとんどない点に目を向けます。家畜を従え、トウモロコシやレモンも自分たちが育ててやっていると思っているからです。
なぜ我々は家畜化されていることに気づかないのだろうか。気づけないのかな。
渡邉さんの答えは二通りです。家畜化に気づかない哀れな被害者だとも言えますが、意識せずに清々しく生きられるのは幸せなことかもしれない、とも話しています。
誰しも現状の社会に全て満足してる人っていないと思うんですけど、どっかで適合できてないとか、どっかが好みじゃないわけじゃん。
深井さんはこの解釈を、自分たちで決めたルールに個人が適合できていない状態だと言い換えました。
正しい栄養状態は、血液検査でもわからない?
深井さんは、家畜化の話を医療につなげられないかと金子さんに尋ねます。前回紹介した熊代さんの本では人間の精神が受ける影響が扱われていましたが、栄養や腸内環境のような体の領域ではどうなのか、という問いです。
僕らの栄養、栄養状態が正しい状態っていうのは一体どういうものなのかっていうところにもよると思うんだけれども。
金子さんは、最適な栄養状態がどこにあるのかは非常に難しく、自分もまだわかっていないと答えます。例に挙げたのはビタミンCです。
ビタミンCが不足すると壊血病 ── ビタミンCの欠乏によって起こる病気。歯ぐきの出血や皮下出血などが現れ、かつて長い航海をする船乗りの間で多くの死者を出しましたになり、昔は遠征に出た漁師がバタバタと亡くなったと金子さんは説明します。それを防ぐだけなら、レモン1、2個ほどのビタミンCを毎日摂れば足りるそうです。
一方で現代人は、オンラインショップで買った3000ミリグラムのビタミンCサプリを飲んだりしています。金子さんによれば、それで風邪の引きやすさや肌の状態が変わることもあるため、最適な量は判断しにくいといいます。
最低限の生存: レモン1、2個ほどの量を毎日摂れば壊血病にならない
より良い状態を求める: 3000ミリグラムのサプリで風邪の引きやすさや肌が変わることもある
金子さんは、クリニックで行う血液検査などもすべて「体の影」にすぎないと話します。血液中の鉄が足りていても、筋肉や骨の中の鉄の量を反映しているとは限らず、その鉄がきちんと使われているかどうかも別の問題になるからです。
渡邉さんはこれを、最低限のサバイバルならこの量で足りても、より良い状態を目指すならもっと摂ってもよいかもしれない、という幅があることだと受け止めました。
深井さんは、この「幅」にマーケティングが入り込む点を指摘します。足りないのではないかと煽られて過剰に摂るようになるのも、ある種の家畜化だという見方です。
だからさ、そこになんかマーケティングみたいな要素が入ってきて、なんか煽るみたいな、これも家畜化だよね。ある種。これ足りないんじゃないの?みたいな。
健康について発信している金子さんも、不安を煽って買わせたもの勝ちのような訴求をしているところは多いと日々感じていると話しています。
コロナ禍は「家畜化」が最もあらわになった瞬間だったか
渡邉さんは、どこまでを家畜化と呼ぶかで解釈が変わると整理します。人間にとって好ましい特徴を持つように交配した動物を家畜と呼ぶなら、牛からミルクや肉が得られれば目的は達成されています。
しかし人間がただ自分たちのルールや価値観に縛られているだけなら、それが生存や人間自身にとって好ましいとは限りません。ある業界が自分たちの経済のために作ったルールまで家畜化と呼ぶのか、という問いも渡邉さんは投げかけました。
これを受けて深井さんは、清潔と不潔をめぐる感覚は家畜化の領域に近いのではないかと話します。微妙なラインだとしつつ、コロナ禍では間違いなくそうした面があったと振り返りました。
金子さんも、コロナ騒動は社会の中で自分たちが家畜化されている感じが如実に出た現象だったと同意します。渡邉さんは、ワクチンを進んで打つ人と、少し考えたい人の分かれ方が、家畜のルールに従うかどうかの構造に似て見えると話しました。
あの時はその文字通り家畜になった気がした瞬間の人は多かったんじゃない?家の中から出られないみたいな。
渡邉さんは、友人から聞いたのかメディアで読んだのか覚えていないとしたうえで、あるフランスの高齢女性の話を紹介します。ワクチンを打つ権利を与えられることよりも、打つか打たないかを自分で選ぶ権利がほしい、と主張していたというものです。
これはなんかこう、あるある個人の考えですけれども、家畜化に抗うなんか考え方だよね。
渡邉さんは、PhDレベルの人と学力があまり高くない人の両端がワクチンを避けがちだという統計にも興味を引かれたと話しています。金子さんは、ワクチンをめぐる議論ではナチュラリスト的な考え方の人たちの声が大きくなったと振り返り、自分はどちらの側にも違和感を持っていたといいます。
金子さんの見立てでは、この対立は感覚的に何を心地よいと思うかの差です。ナチュラリストにもワクチンを打ちたい人にもそれぞれの正義があり、心地よさ対心地よさの勝負は決着がつかないと話しています。
金子さんは、家畜化された中で、どちらの心地よさが正しいかを人間同士が争う論争に発展していった、と捉えています。無添加やオーガニックをめぐる議論も同じ構図だそうです。
金子さんが問題だと考えるのは、エビデンスと心地よさが混在していることです。心地よさは互いにリスペクトするしかないのに、自分が好む考えをエビデンスのように発信する人が増えたと指摘しています。
渡邉さんは「共存するしかない」と応じつつも、コロナ禍ではそれが難しかったと振り返ります。打たない人がうつしたらどうするのか、という論調があったからです。医師は病院で働く以上、基本的にワクチンを打つことになっていたことにも触れ、あの時期は「いろんな踏み絵があった」と話しました。
「トイプードルの方が可愛い」は事実か、解釈か
渡邉さんに「エビデンスと心地よさの混在」の意味を尋ねられた金子さんは、事実と解釈の問題だと言い換えます。事実と解釈を混ぜると大変なことになる、という指摘です。
金子さんが挙げたのは犬の例です。トイプードルが小さくゴールデンレトリーバーが大きいのは事実ですが、トイプードルのほうが可愛い、だからトイプードルを飼うべきだというのは解釈です。
ゴールデンレトリーバーよりトイプードルのほうが小さい
トイプードルのほうが可愛い。だからトイプードルを飼うべきだ
金子さんから見ると、健康の分野は特に極端な人が多いそうです。健康は命に関わるため、事実と解釈を意識して分けないと非常に危うい、と話しています。
金子さんは教育にも話を広げます。海外の学校には、ある文が事実か解釈かを判別させる授業がある一方、日本の教育ではその差を学ぶ機会はまだ少ないと感じているそうです。渡邉さんは、小学校で5W1Hを入れて解釈を控える新聞記事づくりの授業がある程度だと応じました。
金子さんは、札幌の牧場で体験したホースローグでも、解釈を交えずに事実を述べるという場面があったと振り返ります。
なぜ健康の議論は極端になりやすいのか、という渡邉さんの問いに、金子さんはこう答えます。健康分野で事実として確かだと言えるのはごく限られた中核部分だけで、残りは「こちらのほうが良さそうだ」という解釈が占める範囲が広いからです。
そのため、健康の議論は解釈同士のぶつかり合いになりがちです。それでいて身体の健康被害に直結する部分もあるので、話がややこしくなる、と金子さんは整理しました。
陰謀論はなぜ紛らわしいのか、事実と解釈のグラデーション
渡邉さんは、激化する議論をいくつかの型に分けてみせます。解釈に大きく寄ったもの、事実と解釈が混ざったもの、事実ベースで話し合えるもの、というグラデーションです。
完全に解釈の領域の例として渡邉さんが挙げたのは宗教です。世界の主要な宗教の指導者の多くはすでに亡くなっていて、歴史的な記録のようなエビデンスがないため、解釈同士がぶつかると喧嘩になりやすいといいます。
少し事実が混ざり始める例はアニマルウェルフェア ── 家畜などの動物が、心身ともに健康で苦痛の少ない状態で暮らせるよう配慮するという考え方。動物福祉とも呼ばれますです。かわいそうだという解釈に立つのか、痛覚のような基準に立つのかで立場が分かれます。甲殻類の痛覚が強いと知ってロブスターを食べなくなったペスカタリアン ── 肉は食べないが、魚介類は食べる食生活をする人。菜食主義の一形態とされますもいる、と渡邉さんは紹介しました。
コロナ禍は、ウイルスの性質も不透明で、急ごしらえのワクチンが長期的にどうなるかも誰にもわからない状況でした。渡邉さんは、事実が半分で残りは解釈で動くしかない苦しい状況だったのだろうと話しています。
そして完全に事実の領域は、普通の科学で反対があまり起きない、ほぼ確定した話です。ただ渡邉さんは、地球平面説を信じる人が増えているという話もあり、エビデンスのあるマスクでさえしない人がいるのは謎だとも付け加えました。
深井さんはこの整理を高く評価したうえで、人々が喧嘩するのは中間の領域だと指摘します。事実で決着がつく話はもうほとんどなくなっていて、明らかな事実でさえフェイクや陰謀だと言われてしまう、という見立てです。
ファクトベースで決着つくものってなんかありそうで、もうなくなってきてんじゃん。
で、だから陰謀論とかもさ、なんかちょっと事実混じってるわけじゃん。
渡邉さんは、陰謀論は事実が混じっているからこそ余計に紛らわしいと応じます。本当に事実だけの話は数学の定理のようなもので、そこでは誰も喧嘩などしたくない、とも話しました。人が争うのは事実と解釈が混ざる中間領域だというのが、この回の議論の着地点です。
最後に渡邉さんは、話は楽しんでいるものの「私たちは自由か、家畜か」という最初のテーマからやや離れていると指摘します。金子さんはここまでで話題はおおむね網羅できたとし、着地に向けたディスカッションこそ楽しみにしていた部分だと話しました。議論は最終回へ続きます。
まとめ
今回は、ビタミンCを体内で作れない人間の性質を「アウトソース」と捉えるところから始まり、欠けたものを外部に頼るからこそルールに縛られる家畜化の構造が語られました。さらに、健康情報やコロナ禍の論争を、事実と解釈が混在する中間領域での衝突として整理しています。
- ビタミンCを外から摂る人間は、依存と引き換えに柔軟さを得た「外注」の生き物とも見られ、その意味でレモンに家畜化されているとも言える
- 最適な栄養状態は血液検査でも捉えきれず、その曖昧さに不安を煽るマーケティングが入り込む余地がある
- コロナ禍は、外出制限やワクチンをめぐって、社会の中での家畜化が如実に表れた出来事として語られた
- 健康の論争が激しくなりやすいのは、事実として確かな部分が限られ、解釈同士がぶつかるのに命に直結するからだと金子さんは見ている
- 議論が対立するのは事実と解釈が混ざる中間領域で、陰謀論も事実が混じっているからこそ紛らわしい



