贈与論とメリトクラシー、前回までに何が話されたのか
超相対性理論の深井龍之介さんを迎えた対談は、「贈与的な経済、金融を通じてソーシャルグッドなビジネスはいかに可能か」というテーマで3週目に入りました。冒頭では渡邉さんが、前回までの議論を振り返っています。
出発点は、荒木さんが紹介した近内悠太 ── 教育者・哲学研究者。著書『世界は贈与でできている』で、贈与を受け取ったと気づくことが次の贈与を生むという議論を展開しています氏の贈与論でした。贈与が回るには「受け取ってしまった」と気づくことが大事で、気づいた瞬間に他の人へ渡したくなるスイッチが入る、という考え方です。
ただ今の社会は即時決済に偏っているため、受け取ったものはたいてい支払い済みで、贈与を受けていても気づきにくいのではないか、という問いが立てられました。
深井さんからはメリトクラシー ── 能力や努力による業績で地位や報酬が決まるべきだとする考え方。近年は、成功の背景にある環境や運が見えにくくなる点が批判されていますに近い話題も出ました。大学や企業に身を置けるのは、文化的・経済的な恩恵をあらかじめ受け取っているからで、本人が努力だと思っていても「努力が報われる立場にいる」こと自体が恩恵だという見方です。
身近な例としては、先輩が奢ってくれたときに「年を取ったら次の後輩に奢ってあげればいい」と言われる場面が挙げられていました。
交換8〜9割、贈与1〜2割でいいのか
前回は、市場経済が贈与を邪魔しているのかという切り口も出ましたが、議論は「交換も贈与もどちらも大事」という方向に落ち着きました。渡邉さんは、すべてを贈与で回すと負担が大きすぎると整理しています。
毎回贈与メインになっちゃうと毎回関係性を保つとか、毎回いろんな人に借りがあることを覚えておくとか、都度都度人間関係を構築しなきゃいけないとかっていうのはめちゃくちゃ負担が大きいはずで。
深井さんの立場は、8〜9割は交換でいいというものでした。人類は相互扶助を善とみなすバイアスを持ち、それで意思決定の負担を減らしているのではないか、という仮説も添えられています。
深井さんによれば、交換は実力社会や物質的な豊かさを生んできた一方で、説明可能性が低いことができず、中期的な視点や盲点に弱いという弱点があります。これを補えれば、新自由主義的な不都合の多くも解決できるのではないか、と考えていました。
荒木さんはこれを受けて、人間は「2メートル分の因果関係」しか説明できていないが、世界はそれ以上の計り知れないもので動いている、とたとえました。
渡邉さんは、新自由主義のせいにすると自分たちでは変えられない巨大システムの話になってしまうので、手のひらサイズの気づきが得られる贈与のレベルに話を戻そう、と提案していました。
深井さんの新自由主義批判はどこにあるのか
振り返りを受けた深井さんは、渡邉さんの指摘を「その通り」としたうえで、自分は新自由主義を全面的に批判しているわけではないと補足します。
(新自由主義に)8割9割賛成なんだけど、クリティカルにやっぱり株主至上主義的なところが良くないなと思ってんだよね。
深井さんは新自由主義を金融システムではなく「自由主義」の思想として捉え、それが都合よかったので経済界が使っている、という見方を示しました。ただ話しながら「一回キャンセル」と自ら引っ込め、渡邉さんもその提案に乗って、贈与の側に話を振ることになります。
Wikipediaはなぜ無償で回るのか
渡邉さんは、世の中にはすでに贈与的な仕組みがあちこちにあり、多くの人が日常的に使っていると指摘します。代表例がWikipediaです。
Wikipediaの執筆者や編集者は金銭的な報酬を得ません。動機は、社会に貢献している満足感、よく貢献しているユーザーとしての評判、あるいは純粋な知識欲で、市場的な交換とは違うギフトエコノミー ── 金銭の対価ではなく、贈り物や無償の貢献によって財やサービスが行き交う経済のあり方の代表例になりうると渡邉さんは話します。
法学者のヨハイ・ベンクラー ── アメリカの法学者。ネット上で多数の個人が自発的に協働して成果を生む「コモンズ型ピアプロダクション」を論じたことで知られますが言うピアプロダクションも、階層構造が弱く自己選択で参加でき、非営利・非市場的で、成果物がコモンズとして公開されるという特徴を持ちます。エンジニアがGitHubで仕事を公開するのも、役立ててもらい評価されれば金銭は要らない、という同じ土台があるといいます。
無償で貢献
Wikipediaへの執筆やGitHubでのコード公開
見えない見返り
評判、帰属意識、貢献している意義、知識欲
共有財産になる
成果物がコモンズとして誰でも使えるようになる
そこで渡邉さんは問いを絞り、お金を返さない巨大プロジェクトがなぜ持続可能なのか、そこにある見えない見返りは何かを考えるほうが、贈与を考えるうえで機能するのではないかと提案しました。
もともとの問いは何だったのか、荒木さんの教育体験
深井さんは、そこまで贈与に絞ってよいのか、話のきっかけになった「クマシロさんのバンク」はそもそも贈与的なわけではない、と確認します。エピソード説明によれば、きっかけは関西電力の新規事業「CQ BANK」という金融機関の実験です。
荒木さんは、銀行の話はきっかけにすぎないと答え、問いの中心をあらためて示しました。
8割9割が市場経済で1、2割が贈与だとした時に、その比率をどうやったらちょっと高めるのか、もしくは維持するのか。
すでにある1〜2割の贈与をきちんと見つめれば、それを広げることにつながるのではないか、というのが渡邉さんの話の意図だと荒木さんは整理しました。渡邉さんは地域通貨の話でもいいと付け加えましたが、深井さんはWikipediaのような例から入るほうがいいと答えています。
渡邉さんに促されて、荒木さんは自身の話をします。荒木さんにとって、教育はとても贈与的な行為です。給料は受け取っているものの、市場経済的に見合っているとは言えません。
では荒木さんが教育から何を受け取っているかといえば、中長期的で抽象的なもの、たとえば学生の表情が変わることや、その人が変わることで次の人も変わっていく「レバレッジ」のような連鎖です。
(自分の行為が)その人だけで終わっちゃう行為なのか、それが連鎖的に続く可能性がある行為なのかみたいなことはちょっと考えたりしてるね。
荒木さんは、換算できないものを重視している感覚を言葉にしようとし、渡邉さんがそれを「エモーショナルなカリキュレーション」と言い換えました。
ご祝儀は払うのに、企業の寄付はなぜ払わないのか
深井さんは、日本には市場経済のなかの贈与的行為が多いとし、次の人のためにコーヒー代を払っておくサスペンデッドコーヒー ── イタリア発祥とされる習慣で、客が自分の分に加えてもう1杯分を先払いし、困っている人が無料で飲めるようにするものも例に挙げます。そのうえで、市場経済上の贈与の多くは本当には贈与として機能していないと主張しました。
深井さんの論点は、企業の意思決定です。贈与っぽく見せた経営でも、最終的な予算の割り振りでは「贈与に回してもいいお金」として組み込まれているだけで、その意思決定自体は贈与的ではない、というのです。
ご祝儀とか香典を(払わないことってないじゃん)。けど、企業の寄付は利益が出なかったら払わないじゃん。
深井さんによれば、こうした贈与は説明可能で予算化できる範囲にとどまるため、前回挙げた2つの問題、つまり盲点と中長期合理性に投資できないという弱点に回帰してしまいます。
荒木さんが「CSRの予算を持つのと何か違うのか」と尋ねると、深井さんは同じだと答えました。SDGsのための予算も同様ですが、お客さん自身が行うサスペンデッドコーヒーは卓越した贈与として別扱いだといいます。
CSRやSDGs予算、企業の寄付。利益が出なければ払われず、説明可能な範囲にとどまる
ご祝儀・香典やサスペンデッドコーヒー。状況に左右されずに行われる
ご祝儀は交換か、年度末予算は贈与か
渡邉さんは「これめっちゃむずい」と言いつつ、ご祝儀の例に異を唱えます。金額は人によって3万円、5万円、10万円とさまざまで、参加を決めた人には払う以外の選択肢がなく、払いたくない人はそもそも参加しない、という点で多分に交換的だというのです。
深井さんは結婚式の例にこだわっていないと引き取りました。そこで渡邉さんが別の例を出します。大企業の事業部長が、年度末に余った予算で「よくわからないけど研修をお願いしてみよう」と決めるような使い方は、かなり贈与っぽいのではないか、というものです。
贈与っぽいんだが、説明可能性の中での贈与。本物の贈与は説明不可能性がもう少しあんだよね。
深井さんはこれを「贈与行為っぽさ60%ぐらい」と表現します。それで何が問題かと問われると、やはり中長期合理性に投資できないことと、説明不可能なことにお金を使えないことの2つに収斂すると答えました。
根本から変えるか、身近な贈与から始めるか
渡邉さんは、その規模の話になると資本主義や新自由主義の話であって贈与の話ではなくなる、と返します。深井さんは、市場経済がすでに成立している以上、贈与の拡大と市場経済の弱みの補完は切り離せないと主張しました。
渡邉さんの見解は、それでは根本的すぎて実効性を持ちにくいので、贈与っぽいだけの話でもリアリティを優先したい、というものです。深井さんは、意見が分岐しているのは自分が「根本から変えることが可能だ」と思っている点だと認めました。
市場経済の意思決定そのものに贈与を混ぜることは可能で、だましだましのやり方は今後通用しない
根本的な話は実効性を持ちにくいので、贈与っぽい身近な事例から考える
深井さんは、過去30年は「だましだまし」やるフェーズだったが、これからの30年はそうではない、という見方を示しています。根拠がないわけではないが、経験則にもとづく信仰に近いものを持っている、とも話しました。
その立場の違いが明確になればいいんじゃない?この場では。
予算が余っている感覚と「意味不明度」
荒木さんは、両者がそれほど決定的に分かれているとは感じないと話します。手がかりは渡邉さんの年度末予算の例でした。
荒木さんによれば、ひとつのポイントは「予算が余っている感覚」をどれだけ持てるかで、多くの人はその感覚を持ちにくいといいます。もうひとつは、今までと違う相手に面白いことを頼んでみるような、意味不明度の高い使い方をすると贈与の度合いが上がる、という点です。
僕らにはもっと豊かさがあり、実験可能性が高いんだっていう部分をやっていくことが、緩やかな贈与行為につながるんじゃないかっていう気がしていて。
深井さんは「その通りだと思う」と応じ、自分の立場が過激なだけで、言っている内容はよくわかると話しました。荒木さんは、根源的な問いからはまだイメージを持ちにくいので、今あるものに意味づけしていくほうが議論は深まりやすい、と自身の感覚を述べています。
深井さんは、時代が明治維新のように非連続に動くと予測しているため、積み上げ型の思考の価値が自分のなかで薄れているのだと説明しました。渡邉さんも、実は自分もどちらかといえば深井さんと同じく信じている側で、テーマが贈与だから絞りたかっただけだと明かします。
説明できないこととどう付き合うか
荒木さんが次の問いをどう立てるか投げかけると、渡邉さんは「説明できないこととの付き合い方」を挙げ、深井さんは「めちゃくちゃいいね」と即答しました。
渡邉さんの念頭にあるのは、年度末に予算を使い切っていない事業部長が、普通に役立つ研修より、うまくいくかわからないが自分の趣味や信頼するメンバーに触れてほしいものを選ぶような場面です。人事部の研修には入らないが、自分のチームには受けてほしい、というものです。
全体への説明可能性は低いけど、自分が信じてるものを投入するチャンスになったりするわけだよね。
渡邉さんは、こうした選択は短期的な成果を見込まず、いつか何かにつながればいいという思いで種をまく行為で、贈与的だと話します。企業では建前として短期的効果を説明しても、本音ではどうでもいいと思っていることがある、とも指摘しました。
これは事業部長に限りません。たとえば会社員が上司から与えられたプロジェクトに、最近転職した仲間への外注のような、ほんの一部の公私混同を持ち込む場面も同じだといいます。
渡邉さんによれば、そうした私情がモチベーションを上げ、いい意味での事故を増やし、新しい結果を誘発します。短期的な因果関係に回収されないランダム性が増えるほど、説明できない魅力が世の中に増していく、というのが渡邉さんの見立てです。
荒木さんはこの考えを「いいと思う」と受け止め、次回はこの問いを頭出しに考えてみようと話して、今回の対談は終わりました。
まとめ
市場経済のなかの贈与をめぐり、深井さんは経営の意思決定そのものに贈与を組み込む必要を説き、渡邉さんと荒木さんは身近な贈与を見つめ直すことから広げる道を探りました。立場の違いを確かめ合った末、議論は「説明できないこととの付き合い方」という次の問いへつながっています。
- WikipediaやGitHubのようなコモンズは、評判や帰属意識、貢献の意義といった見えない見返りで回っている
- 深井さんは、CSRや企業の寄付は説明可能な範囲にとどまり、盲点と中長期合理性への投資ができないと指摘した
- 根本から変えるか、身近な贈与から始めるかで立場は分かれたが、内容への理解は互いに一致していた
- 年度末予算や小さな公私混同のような説明しにくい選択が、新しい結果を生むランダム性を増やすと渡邉さんは見ている



