前回の振り返り:日本は「前近代的」だから贈与的?
今回の対談のきっかけは、荒木さんが仕事で関わる関西電力の熊代さんが立ち上げに携わった、CQ BANKという新しい金融機関の試みです。CQ BANKには、預金で集めたお金をソーシャルグッドへ投資したり、金利を社会に還元したりして、中長期的に意味を生む流れを設計できないかという問題意識があります。
深井さんも、自身の会社を通じて株式会社のあり方を問い直そうとしています。短期的な利益追求だけに頼らず、世の中へ還元する仕組みをどう作るかが、深井さんの関心です。
前回の議論では、贈与を「返ってくるかわからなくても与える行為」と捉えました。市場経済の登場で交換が中心になった中でも、日本は特に贈与的なのではないか、という見方が出ています。
深井さんはこの「日本は贈与的」という見方を補足します。日本は市場経済が十分に浸透した先進国だと思われていますが、深井さん自身は浸透しきっておらず、ある意味で前近代的な社会だと見ています。
前近代的社会はみんな贈与的なんで、先進国じゃなくて贈与的な社会はめちゃくちゃたくさんある。けど、先進国なのにも関わらず前近代的っていうのは結構少ない。
深井さんは、イタリア南部も近いかもしれないとしつつ、日本ほど経済が発展した国でこの性質を持つ例は少ないと話します。
前回はほかにも、山では見知らぬ人同士が挨拶し危険箇所を教え合うといった贈与的なふるまいが生まれること、日本は身近な人には手厚い一方で知らない人には冷たくなりうることが話されました。日本の特殊性を語るときは、安易な日本礼賛にならないよう背景を踏まえて話そう、という確認で振り返りは締めくくられています。
贈与は「受け取ってしまった」と気づいた瞬間に回り出す
2回目の本題として、荒木さんは国の違いをいったん外し、自分が感じている論点を切り出します。手がかりは近内悠太 ── 教育者・哲学研究者。著書『世界は贈与でできている』で、贈与を受け取った側が気づくことから贈与が始まるという考え方を示しましたの本です。
贈与が回るポイントっていうのって、受け取ってしまったっていうことに気づくみたいなところがあるじゃん。
知らずして自分が受け取ってしまったということに気づいた瞬間、これ(受け取ったもの)をじゃあ人にペイフォワードした、しなくてはならない、したくなるみたいな、そういうスイッチが入る。
荒木さんの見立てでは、贈与を回すスイッチになるのは、自分が受け取っていたと気づくことです。ところが今の世の中は即時決済が前提で、受け取ることと支払うことがセットになっています。
そのため、受け取った側には「もう決済済み」という感覚が残りやすい、と荒木さんは言います。今の仕事や地位も、自分の時間や努力を支払った対価だという物語で捉えがちになります。
払った以上にもらってるとか、純粋に受け取ってしまっているみたいなことにどうやったら気づけるんだろうなっていうのが、なんか一つの論点のような気がして。
受け取る
知らないうちに、誰かから何かを受け取っている
気づく
「受け取ってしまった」と自覚する。即時決済の感覚はここを妨げる
ペイフォワード
受け取った分を、別の誰かに渡したくなる
渡邉さんはこの論点に賛同し、お金が介在してもしなくても「受け取りに気づかない」ことは起こると話します。例に挙げたのは文化資産です。家に本棚があって本が読めるように育ったこと自体が受け取りなのに、多くの人は気づいていない、といいます。
渡邉さんは、いい大学に入った人が自分の努力だけで入ったと思っている場合も、受け取りに気づいていないのかもしれないと続けます。そのうえで「努力もあるけどね」と付け加えています。
深井さんは努力も認めつつ、努力そのものを文化資産と見る立場もあると補足します。渡邉さんは、努力すれば報われる環境にいること自体も受け取りだと指摘し、深井さんは「努力して報われた人をたくさん見てきたこと」も資産だと応じます。
お金が介在する場面について、深井さんはアメリカのチップ文化を挙げます。素晴らしいサービスを受ければ、その場で多めに払って返すことができますが、日本にはその文化がありません。
一方で渡邉さんは、田中仁の本に出てくる心付けの文化に触れます。小さな袋にお札を入れて懐に忍ばせておく習慣です。さらに、先輩に奢ってもらってお礼を言うと「君も大人になったら後輩に奢ってあげてね」と返される場面を挙げます。
ペイフォワードがまあ柔らかく粋な振る舞いとして半制度化、制度ではないんだけど、やってみたいなと思わせる方だよね。
値段がない世界の「残尿感」と、贈与しかない世界のつらさ
荒木さんは、先進国で交換が主流になる背景を「あらゆるものに価格がつくこと」に見ます。価格がつけば、即時決済が当たり前になります。
荒木さんによれば、中世のように価格がついていない時代は、受け取ったものに対等なお返しをすることが物理的にできませんでした。そのため、払いすぎた、もらいすぎたという感覚がお互いに残ります。
1500円払ったからこれでいいよねっていう。ただ、そこにもフェアなプライシングがないから、そうすると私はまだまだ払い足りないのかもしれないみたいな、すごくこう残尿感が残るというか。
この「残尿感」があるからこそ、相手との関係を続けたくなり、もらった側も関わり続ける、と荒木さんは考えます。その意味で、市場経済が贈与を邪魔しているというのが荒木さんの見方です。
これに対して渡邉さんは、贈与が一方的に良いわけではないと待ったをかけます。渡邉さんの考えでは、交換と贈与の両方を使いこなせるのが理想で、贈与しかない世界はむしろつらいものです。
なんか俺半年くらいいろんな人に贈与してるけど、何も返ってこないわみたいなの(贈与だけの世界では)生きていけなくなっちゃうし。
渡邉さんは、あらゆる人との贈与関係が複雑になりすぎて把握しきれなくなる怖さも挙げます。荒木さんも、贈与が主になると、人間関係を築くのが苦手な人には地獄のような世の中になると同意します。
渡邉さんの例はわかりやすいものです。出先でカイロや水が1本欲しいだけなのに、いちいち人に恩を感じていたら生きていけません。そういう場面ではお金で決済し、それ以上考えないほうが平和だといいます。
深井さんは、社会のほとんど、8割から9割は市場経済の交換行為でよく、残りの1割から2割が贈与的であればいいと考えています。さらに、マンションのように信頼スコアが高くないと買えないものがあってもいいのではないか、という私見も述べます。
深井さんは、今の技術を使えば贈与も可視化できると話します。渡邉さんがブロックチェーンのような仕組みを挙げると、深井さんは「それがディストピアかもしれないけどね」と付け加えます。
倫理も贈与も、ホモ・サピエンスの相互扶助の一形態?
荒木さんが「贈与にはなんとなく善いニュアンスがある」と指摘すると、深井さんは、贈与には良さも悪さもあると答えます。そこから深井さんは、倫理そのものを「いいもの」とは思っていない、と話し始めます。
すごいフラットに受け取ってる。合理性の一つとして受け取ってる、倫理を。
深井さんの考えでは、倫理はホモ・サピエンスの相互扶助性の延長線上にあります。何かを「善」と決めておけば、いちいち判断するコストを減らせる、というのが深井さんの説明です。
いちいち判断しなくていいじゃん。「いいことである」っていう定義をしたら。
深井さんによれば、判断のコストを減らした先にあるのは、相互扶助をよりスムーズにすることだけです。深井さん自身も、ホモ・サピエンスだから相互扶助をやるしかない、という程度の感覚で受け取っているといいます。
深井さんは、この出発点に立てば、日本の特性についても変な礼賛にならずに済むと考えています。荒木さんはこれを、人間は相互扶助を善とする性質を持つ生き物だから、贈与も善の響きを持つ、とまとめます。
深井さんはホッブズ ── 17世紀イングランドの哲学者。著書『リヴァイアサン』で、国家のない自然状態を「万人の万人に対する闘争」と表現しましたの「万人の闘争状態」という言葉を例に出します。猫は縄張り争いをして群れもあまり作らないのに、猫の知能が高くてもそれを「闘争状態」とは呼ばないだろう、と深井さんは考えます。
自らの相互扶助性にずっと気づけないホモサピエンスみたいなのが、やっぱいろんなあの手この手で相互扶助してると思うんだよね。その一つが贈与であり、交換行為であるっていう感じがしてる。
深井さんの視点では、贈与と交換は対立するものではありません。どちらも、人間が相互扶助を実現するための別々の手段として並べられています。
市場経済の2つの弱点:説明できないものに張れない
深井さんは、市場経済と交換行為の功績をはっきり認めます。封建社会を脱して実力主義になり、売りたい人が売りたいものを売れるようになった結果、社会は物質的に大きく豊かになりました。
もうローマ皇帝より美味しいものを食べてるし、各国のあらゆる料理が食べれるし、映画とかも全部見れるしみたいになったのは完全に交換行為、市場経済のおかげだから、なんかそれを停止しようとも思ってないですと。
そのうえで深井さんは、市場経済にはピンポイントの弱点があると指摘します。1つ目は中長期的な合理性に張れないこと、2つ目は自分が予測していない善いことにリソースを配分できないことです。
深井さんは、交換行為と市場経済は厳密には別物だとも断ります。市場経済の登場前から交換行為はありましたが、市場経済のもとで交換行為が大きくブーストされ、偏りもかかっている、という整理です。
市場経済の交換行為には、アカウンタビリティとレスポンシビリティ、つまり説明責任が求められます。その結果、説明可能な投資にしかお金が流れない、と深井さんは言います。
中長期合理性に張れない点について、深井さんは、社会は財団を作るなどあの手この手で補っていると見ています。ただ、その財務効率は良くないとも感じています。
深井さんの解は、日本ではアメリカほどNPOが幅を利かせる必要はない、というものです。NPOは政府ができない痒いところに手が届く役割に特化し、それ以外を株式会社が担う体制が、最も資本効率の良さそうな相互扶助体制だと考えています。
荒木さんが「それは現状と同じでは」と問うと、深井さんは違うと答えます。経営の現場では、ブラインドスポットに投資できず、短期のリターンを説明できるものに資本が集中するため、まだ十分にできていない、というのが深井さんの見立てです。
深井さんは、CQ BANKで熊代さんたちが試みていることは、まさにこの2つの弱点に働きかけられるものだと位置づけます。また、よく新自由主義 ── 政府の介入を減らし、市場の自由な競争に経済を委ねるべきだとする考え方。1980年代以降、各国の政策に大きな影響を与えましたを批判しているものの、内容には9割賛成している、とも話します。
渡邉さんは、資本が資本を生むことで格差が広がりすぎるといった問題もあると反論します。深井さんは格差を大きな問題と認めつつ、2つの弱点が解決されれば格差も解消に向かう従属的な問題だと見ています。マルクスのように、それこそが中心的な問題だという見方もありうる、とも断っています。
深井さんは、2つの弱点が解消されれば教育投資なども進めやすくなり、資本が固定化して金持ちにお金が回り続ける社会も変わっていく可能性が十分にある、と期待を語ります。
因果の「2メートル」を広げるか、贈与の実例に戻るか
渡邉さんに振られた荒木さんは、深井さんの話の正体が見えてきたと応じます。荒木さんの整理では、交換・市場経済では説明可能性の低いものが劣後し、説明できない理由は因果関係を理解できていないことにあります。
今2メーター分の因果しか理解できてませんと。この2メーター範囲の中でだったら私は説明できるとか、私はだから投資できるってことなんだけど、実は世界っていうのは2メーターの範囲で動いてなくて、もっともっと10メーター、20メーター、もっとあるかもしれない。
荒木さんは、教育投資などで社会の平均が2メートルから4〜5メートルに広がれば、今は意味がわからないことにも説明や理解が届くようになり、状況は改善できるのではないかと考えます。深井さんもこの整理にうなずきます。
ここで渡邉さんは、議論の方向に疑問を投げかけます。話が新自由主義批判に寄っていて、贈与経済とは別のトピックになっているのではないか、という指摘です。深井さんは、厳密には別だが着地点は同じになると思って話していた、と答えます。
渡邉さんが提案するのは、交換型経済の中で贈与がすでに成り立っている事例を観察することです。例として、サスペンデッドコーヒー ── イタリア・ナポリ発祥とされる習慣。客が自分の分に加えてもう1杯分を先払いし、あとから来た困っている人が無料で飲めるようにする仕組みです、Wikipedia、ペイフォワード型のレストランを挙げます。
新自由主義的な経済を変えるっていうのを、贈与経済を社会に実装することの条件にしたら、贈与経済を起こすのめっちゃむずいねで終わっちゃうんだよね、議論が。
渡邉さんの提案は、贈与が入り込める余地を観察することで、議論を贈与の側に戻すことです。そうしないと新しい気づきには至れない、と渡邉さんは考えています。深井さんも「確かに」と応じ、荒木さんの提案で、次回はこの論点から話を始めることになりました。
まとめ
2回目の対談では、贈与が回る条件として「受け取ってしまったことに気づく」感覚が示されました。そこから、即時決済が当たり前になった市場経済の強みと弱点を確かめ、最後は交換型経済の中で贈与が成り立っている事例に目を向ける方向へ議論が戻っていきました。
- 荒木さんは、贈与は「受け取ってしまった」と気づくことで回り始めるが、即時決済は「決済済み」の感覚を生みやすいと指摘した
- 渡邉さんと荒木さんは、贈与だけの世界はつらく、日常の多くは交換で済ませるほうが平和だという点で一致した
- 深井さんは、市場経済の弱点を「説明できない中長期合理性やブラインドスポットに張れないこと」と整理した
- 深井さんは、贈与や交換も倫理も、ホモ・サピエンスの相互扶助の一形態として見ている
- 渡邉さんの提案で、次回はサスペンデッドコーヒーやWikipediaなど、贈与が入り込んでいる実例から考えることになった


