軽井沢の芝生の上で始まった縁とは?
この回の冒頭で荒木博行さんが紹介したのは、10月下旬に軽井沢で開かれたラーニングフェスティバルというイベントです。荒木さんの参加は今年で3年目だといいます。
ラーニングフェスティバルにはあらかじめ決まったタイムテーブルがありません。参加者の誰もが企画を立て、軽井沢のあちこちで車座になって語り合う場だと荒木さんは説明します。
白紙のタイムテーブルで、誰もがいろんな(セッションを)企画してよくて、軽井沢のフィールドの中でですね、いろんな場所でみんなで車座になって語っていて、みたいな場があってですね。
荒木さん自身は、フライヤー ── 本の要約を提供するサービス。荒木さんはこのサービスに関わる立場でセッションを企画していますの企画として、三宅香帆さんの「なぜ働くと本が読めなくなるのか」をテーマにした要約読書会を開き、芝生の上で語り合ったそうです。
さらに荒木さんは、全員が集まるクロージングセッションの進行を主催者から急に頼まれます。そのとき一緒に登壇したのが、密教の修行者である松波龍源さんでした。
荒木さんによると、松波さんとのセッションは「気」のような目に見えないものをどう使うかがテーマでした。参加者同士で気をつなぎ合うエクササイズを実際に行い、非常に貴重な経験になったと振り返っています。
はい、ドラゴンボール的なもの(の話)を。
渡邉康太郎さんのこのたとえに、荒木さんは「まさに元気玉みたいな感じ」と応じます。その流れで、今回のゲストとして松波さんが紹介されました。
渡邉さんと松波さんはこの日が初対面です。渡邉さんは松波さんの著書『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』を読んでいて、知や事象が有機的につながっていく柔らかさが面白かったと伝えています。
賃貸の寺で、檀家を持たない実験とは?
松波龍源さんは自己紹介で、京都にある実験寺院寳幢寺の僧院長だと名乗ります。日本社会にいま必要なのは仏教思想ではないかという仮説を実証するため、新しい形のお寺をつくったと説明しています。
寳幢寺では、大学の先生や実業家と一緒に、21世紀・22世紀の人間の思想や哲学の答えが仏教にあるのではないかという仮説を検証する活動をしているといいます。
寳幢寺の建物は、西陣織の会社の社屋と、それに付随していた工場を借りたものです。松波さんはこれを「世にも珍しい賃貸のお寺」と表現しています。
寳幢寺には檀家 ── 特定の寺に所属し、葬祭などを任せる代わりに寺を経済的に支える家。江戸時代の寺請制度をきっかけに広まりましたがいません。松波さんは商取引のような関係を基本的には持たず、純粋なお布施で成り立たせる在り方を目指していると話します。
松波さんによれば、お布施で寺を支える形はお釈迦様が考えた仏教の基本設計です。「我々のような存在がいたほうがいい」と思う人たちと一緒に寺を続けていくことを、建前ではなく本気で実践しようとしているといいます。
檀家制度について松波さんは、まだフィットしている地域もあるとしながら、日本全体で見ると制度疲労を起こしているように見えると述べています。だからこそ違う在り方を探っているという説明です。
仏教国なのに、仏教で判断していない?
松波さんが今回持ち込んだテーマは「日本人の精神性とは何か」です。ものの考え方の根本、つまり日本人は何を判断基準にしているのか、それは昔と変わったのかを考えたいといいます。
(日本人の精神性とは)判断基準、何をよりどころに我々は選んでいるのかという、そういうことですね。
松波さんがこのテーマを選んだ背景には、日本は国際的な調査でも「ブディズム」に分類されるほどの仏教国なのに、日本人が実際に仏教を判断基準に使っているようには見えない、という違和感があります。
松波さんは、仏教のよさを説いて回っても話がすっと入らないことが多いと明かします。すっと入らないのは、別の何かがすでに入っているからではないか、その正体を考えてみたいというのが松波さんの問題意識です。
「お天道様」で納得してしまう日本人
仏教の話が伝わりにくい理由を荒木さんに尋ねられ、松波さんは「一言で言うとエモいんですよね」と答えます。
松波さんが提案している仏教は、理論を積み上げて「こう考えるのが幸せの道」と示す、とてもロジカルなものだといいます。ところが多くの日本人の反応は「そんな難しいことを考えなくてもいいんじゃない?」というものだそうです。
松波さんによれば、仏教は幸せや苦痛、善悪をロジックで厳密に定義します。定義がなければ自分が何を話しているのかわからない、というのがお釈迦様の考えでもあるといいます。
それに対して日本人は、「お天道様に恥じなければいい」「人生楽ありゃ苦もあるさ」といった言葉で納得してしまう、と松波さんは指摘します。
幸せ・苦痛・善悪をロジックで厳密に定義し、理論を積み上げて考える
「お天道様に恥じなければいい」と、定義せずにふわっと納得できてしまう
この日本人の受け止め方は、仏教的にも見えるけれど仏教とは違うようにも思える、と松波さんは言います。かといって神道を詳しく理解している人もほとんどいません。
松波さんは、仏教を主張する立場としてはつらい反応で、対話が成立しにくくなると話しています。一方で、欧米で働く人からは「日本人はとてもスピリチュアルに見えるらしい」という話も聞くそうで、そのスピリチュアリティの根源がわからないと首をかしげます。
西洋のOSが入り込んでいるわけでもない?
荒木さんは、松波さんがよく話す「仏教OS」と「西洋思想OS」という区別に触れ、日本人に西洋思想OSが入り込んでいるから仏教がすっと入らないのかと考えます。
お天道様が云々かんぬんというのは、ちょっとそういう(西洋思想OSの)話とも違いそうですよね。
松波さんもこれに同意します。アメリカのビジネス事情に詳しい人によると、現地の「ゴリゴリのビジネスマン」には経済的合理性以外の判断基準を認めない人もいて、儲からないことをなぜするのかを論理的に問い詰められるという話があるそうです。
松波さんは、そうした人々は資本主義を精神性の根本に置き、人間の価値は稼ぐ額で決まるという明確な世界観を持っている、と整理します。日本もその影響は受けているものの、大半の人はそうではないのではないか、という見立てです。
経済的合理性を判断の根本に置き、儲かるかどうかを論理的に説明させる
お天道様が見ている、ご先祖様に顔向けできない、お互い様、おかげさま
松波さんは「お互い様」「おかげさま」という言葉が世界的に見て独特だと述べ、こうした価値観を手がかりにすると、日本人の変わったところが見えてきて面白いのではないかと話します。
荒木さんは続けて、日本以外の仏教国について尋ねます。松波さんは地域ごとに国を挙げたうえで、仏教が判断基準にどこまで根づいているかで、その国々を分けて説明しました。
| 地域 | 国・地域 | 仏教と判断基準の関係 |
|---|---|---|
| 東南アジア | スリランカ、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムの一部 | 根っこから仏教で、判断の基準に仏教がある |
| ヒマラヤ | ブータン、ネパール、チベット、シッキム | 根っこから仏教で、判断の基準に仏教がある |
| 東アジア | 日本、台湾、朝鮮半島、モンゴル、中国 | 仏教っぽいけれど仏教でもない。中国は文化大革命で文化が変わったとの見方 |
松波さんは東南アジアとヒマラヤの国々を「本物の仏教国」と呼びます。それに対して日本を含む東アジアは、自分たちが何を基準にしているのかを自覚していない点が面白い、と話しています。
空も諸行無常も、ビジネスでは使っていない
仏教にも日本らしさにも詳しくないと前置きした渡邉さんは、このテーマにどうアプローチすればいいかを荒木さんに尋ねます。
荒木さんは、松波さんから空 ── あらゆるものには固定した実体がなく、関係の中で成り立っているとする仏教の中心的な考え方や諸行無常、縁の話を聞いて理屈では理解していても、日常の判断はそこまで至っていないと打ち明けます。
実際ビジネスしてる中でそれ(空や諸行無常)を振りかざして何か意思決定してることって、ほとんどねえなみたいな。
荒木さん自身の感覚は、目に見えるものがあってそれが絶対だという実在論的な見方に近いといいます。一方でアメリカ流の徹底して実利的な意思決定とも違い、そこまで行くと気持ち悪いとも感じるそうです。
荒木さんは、日本人の判断基準は何かと何かの微妙なブレンドなのではないか、ただその源泉が何と何なのかはよくわからない、と問いを投げ返しています。
モラルの高さはどこから来るのか?
松波さんは、日本は治安がよく、職人芸のような品質でメイドインジャパンが強いブランドになっていると挙げます。つまり日本人は基本的にモラルが高い、という見方です。
松波さんによると、西洋的な価値観ではモラルは宗教によって担保されます。神様がダメと言い、聖書に書いてあるからしないという考え方ですが、日本人のモラル感はそうではありません。
そこで松波さんは、宗教に担保されていないのにモラルが高い日本人は、それをどこでどう獲得しているのかという問いを立てます。
荒木さんはこれに対し、哲学者の近内悠太さんと話した「道徳と倫理の違い」を紹介します。
上から規範が決まっている。宗教に基づく善悪の判断のようなもの
その都度の関係性の中で、一回ごとの判断として立ち現れる
荒木さんの記憶では、日本はボトムアップの倫理的な判断が多く、だからこそケースバイケースで曖昧になる、という話になったそうです。荒木さんと渡邉さん、荒木さんと松波さんのあいだにそれぞれの倫理観がある、というイメージです。
松波さんは、この倫理のとらえ方はとても仏教的だと応じます。関係の中で認知されるものが瞬間的に現れて消え、その連鎖が続いているだけだというのが仏教の考え方だからです。
ただし松波さんは、そうした仏教的な在り方が明確に自覚されないまま社会全体に受け継がれていることを不思議に感じています。自覚されないままモラルが維持されている仕組みこそが、この対話の核にある問いです。
森林の思考か、砂漠の思考か
荒木さんは、地理学者の鈴木秀夫による森林の思考・砂漠の思考 ── 気候や風土が人間の思考様式を形づくるとして、森林の民と砂漠の民の世界観を対比した著作。一神教と多神教の違いなども論じていますを思い出したと話します。
荒木さんの解釈では、森林的な思考は登場人物一人ひとりだけでなく、人と人の間柄も大事にします。誰かを主役に立てるのではなく、ネットワークの線がどう保たれるかに着目するという考え方です。
ひとたび森林的な思考のOSがあると、それ(つながり)をどうにか維持しようとするっていう力が働くのかもしれないですね。
松波さんは、それは人々の生育環境によるものなのか、そしてアプリオリな道徳を持つ砂漠的な考え方とは何が違うのかと問い返します。
荒木さんは、この問いは地理学や人類学、ビジネスなど、さまざまな方向から語れそうだと答えます。森林と砂漠の違いから次回の議論を始めることにして、1回目は締めくくられました。
まとめ
1回目の対話では、仏教国とされる日本で、人々が仏教のロジックではなく「お天道様」や「おかげさま」のような感覚で判断していることが確かめられました。その感覚を道徳ではなく関係から生まれる倫理と見ると仏教的にも見えますが、自覚されないまま受け継がれている理由が、次回以降の問いとして残されています。
- 日本は国際調査で仏教国に分類されるが、仏教を判断基準として意識している人は少ないと松波さんは見ている
- 日本人の判断は、アメリカ流の経済合理性とも、ロジカルな仏教とも違う「ふわっとした」ものとして語られた
- トップダウンの道徳とボトムアップの倫理という整理で見ると、日本のモラルは関係性から生まれる倫理に近い
- 関係性を重んじる森林的な思考が、日本の高いモラルを支えているのではないかという仮説が次回に持ち越された



