ミャンマーの「功徳」から砂漠と森林まで、前回の振り返り
この回は、超相対性理論の松波龍源さんゲスト回の3回目です。テーマは、日本人の精神性や判断基準がどこにあり、それが昔と変わらないのかという問いです。
冒頭で渡邉康太郎さんが前回の内容を振り返ります。松波さんがミャンマーを訪れた際、初対面の外国人にも人々がとても親切な理由を尋ねると、「功徳」だという答えが返ってきました。
ミャンマーの人々の親切の根本には、徳を積めば来世でより良いところに生まれられるという価値観があるといいます。そこから話は、小学校の掃除や、野球のスタジアムで観客が掃除をする日本の習慣へとつながりました。
日本の掃除の習慣は、外国の目線からは周囲へのリスペクトの表れと解釈されているようだ、という話も前回出ていました。
さらに前回は、文化を比べる軸として「砂漠的思考」と「森林的思考」が挙がっていました。日本は森林的思考と親和性が高そうだ、というのが前回の見立てです。
直線的で、ゴールを目指してリーダーが決断する。一神教が生まれるような風土
円環的で曖昧、変数が多く、リーダーがいなくても丸く収まる。多神教が生まれやすい環境
日本については、災害で平和な営みが中断されることや、田んぼの水を村全体で共有しなければならず一人勝ちしにくいことも、考え方に影響していそうだと振り返られます。無印良品が日本で流行りアメリカで流行らないのはなぜか、という比較の話題もありました。
カプセルホテル、盆栽、俳句。日本はなぜ「ちっちゃいもの」が好きなのか
前回の終わりには、ヒロさんから「こういう思考があると論じることはできても、それがどこから来たのかを言うのは難しいのでは」という指摘が出ていました。渡邉さんはこの問いを受けて、日本の小ささへの好みに注目します。
よくよく考えたら思うのは、日本ってちっちゃいものをすごい好きだなって思うんですよね。ちっちゃいとか狭いとか。
あと俳句って17音しかないですけど、そこまでコンパクトな形態に圧縮する詩歌って他の文化圏になかなかなさそうだなとか。
渡邉さんが挙げる例は多岐にわたります。カプセルホテル、盆栽、俳句、トランジスターによる小型化、軽自動車、そして一寸法師や竹取物語のような昔話にまで、小ささへの憧れが見られるといいます。
渡邉さんがこの考えを深めるきっかけになったのが、イ・オリョン ── 韓国の文学者・評論家。韓国の初代文化部長官を務め、日本語での著作も多い人物ですさんの著書『縮み思考の日本人』です。出雲大社や大仏のような大きなものもある一方で、いろいろなものを縮める点こそが日本の他の文化圏との違いではないか、と指摘する本だと紹介されます。
渡邉さんはさらに、二畳台目の茶室や、畳んでコンパクトにする扇子も同じ発想だと続けます。その背景として、島国の狭さ、江戸以降の都市の密集、戦後の小型化や省設計の需要が考えられるといいます。
もう一つの背景として渡邉さんが挙げるのがハイコンテクスト文化 ── 言葉にされない文脈や共有された前提に頼って意思疎通する文化。多くを語らず察し合うことが重んじられますです。多くを言わずに察し合う文化では、俳句や盆栽のように縮めることで、何かを読み取ってもらい相手に預ける考え方が生まれやすいと渡邉さんは見ています。
縮みの発想は、五七五という型や、障子・襖・畳というモジュールにもつながり、小さな単位の組み合わせでものを作る考えに広がったのではないか、と渡邉さんは話します。鎖国による「閉じてもいい」という感覚が、町人文化の中でそれをさらに増幅させたのかもしれない、という仮説も添えられました。
「古池や」を聞くと、なぜ日本人は同じ光景を思い浮かべるのか
渡邉さんの「縮み」の話を受けて、松波さんは短歌を日本語の真言 ── 密教で唱えられる短い言葉で、サンスクリット語ではマントラと呼ばれます。仏の教えや力が込められた言葉とされますとみる考え方を紹介します。松波さんによれば、真言はただの呪文ではなく、各自の中にある身体的な情報を読み出すための記号だという考え方です。
松波さんがその例として挙げるのが、松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」です。この俳句を聞いた日本人は、なぜかだいたい同じ光景を思い浮かべるといいます。
松波さんによれば、カエルを複数思い浮かべる人はおらず、古池の面積もだいたい一致し、何も言っていないのにカエルはトノサマガエルくらいの大きさで、石の上から飛び込むのだそうです。
松波さんは、これが散文では成り立たないと指摘します。「古い池がありまして、そこにカエルがおりまして」と説明すると、アマガエルなのかウシガエルなのかと話がごちゃごちゃになるのに、五七五で言うと思い浮かべる光景が揃うというのです。
ここから松波さんは、日本人は意識の共有を重んじる人たちなのかもしれないと考えます。「お天道様が見ている」「恥を知れ」のように、何を言っているかははっきりしないのに通じてしまう感覚も、同じ身体性の表れではないかと話しています。
魚を見るアメリカ人、背景を見る日本人。2001年の実験が示した文化差
松波さんの「同じ風景を思い浮かべやすい」という話から、渡邉さんはミシガン大学の社会心理学系の実験を思い出します。2001年にニスベット ── アメリカの社会心理学者リチャード・ニスベット。東洋と西洋の思考様式の違いを研究したことで知られますさんと増田さんが行った実験です。
この実験では、日本人とアメリカ人に水槽の様子を描いた同じアニメーションを見てもらい、何が見えたかをインタビューしました。
大きな主な3匹の魚についてばかり語る傾向
水草や小魚、カエルなど背景や周りの環境についてばかり語る傾向
全く同じアニメーションなのに、アメリカ人は魚の話ばかりして、日本人は背景の話ばかりしたっていう結果が出てきたんですね。
渡邉さんによれば、この実験の意義は、心理学の常識を揺さぶった点にあります。それまでは、世界の捉え方は文化圏によらず根本的に同じだという普遍主義的な考え方が主流でしたが、この実験で捉え方に顕著な文化差があることがわかってきたといいます。論文は1000件以上引用されているそうです。
渡邉さんは、個人主義寄りのアメリカと、背景や状況を考慮する日本のどちらが正しいという話ではなく、どちらにも偏りがあるのだと強調します。松波さんはこれを受けて、その違いは文化によるのか、親によるのか、場所によるのかと問いかけました。
「この場ではこれがいい」。関係性の中で善が生まれる日本の意思決定
文化差の由来をめぐっては、教育の効果が大きいのではという声が上がり、渡邉さんは道徳の授業を思い浮かべると応じます。そこからヒロさんが、日本人の判断における関係性の重要さを語り始めます。
ヒロさんによれば、西欧的にはイデアのような普遍的な善があるのに対し、日本人は関係性の中で調和が取れているかどうかで善を判断しているといいます。判断基準を説明しろと言われて困るのは、関係性という曖昧なセンサーで決めているからだ、という見立てです。
ビジネスの意思決定論では、まず明確な原理原則を立て、それに照らせば素早く決められることが良しとされます。しかしヒロさんは、日本にそれを輸入しても、最終的に関係性の調和が取れていないとお題目は消えてしまうと話し、これはある意味仏教的だと付け加えます。
松波さんが「僕たちは意思決定で何をしようとしているのか」と問うと、渡邉さんは「丸く収めようとしているのでは」「突出させないことを良しとしている」と答えます。
事前に判断基準を明確にし、それに照らして機械的に決める。フェアで透明性がある
その場の関係性で善悪の基準が生まれ、場が違えば違う判断をする。都度更新され、消えていく
ヒロさんは、場が違えば全く違う判断をしても平気でいられる日本人は「背骨が通っていない」「八方美人」と見られがちだと話します。これに対し松波さんは、仏教の価値観ならそれは正しいと応じました。
松波さんによれば、目の前の人も状況も、昨日と今日も違うのだから、言うことが一つでなければならない理由はどこにあるのか、というのがお釈迦様の考え方です。ヒロさんは、判断が都度更新されるからこそ、過去のログを元に追及されると困るのだと続けます。
ヒロさんは山本七平 ── 日本の評論家。著書『「空気」の研究』で、日本の意思決定を左右する「空気」を論じたことで知られますの「空気」の話を引き、その都度生まれる関係性の中での判断はビジネス的には悪とされると話します。松波さんは、それは今のビジネスが砂漠の思想だからではないか、と前回の議論につなげました。
松波さんは、森や田んぼでは何が生まれるかがある程度しか読めず、木を切ったら予想外のことが起きると日本人は骨身に染みているのかもしれない、と語ります。そのうえで、仏教を世の中で使ってもらう立場としては、自分がなぜそう判断するのかをメタ的に見てほしいと話しました。
ヒロさんも、原理原則で決める意思決定論はもっともだと思いつつ、腹落ちしていない日本社会が浮き彫りになったと振り返ります。松波さんはドラマ『踊る大捜査線』の名ゼリフ「事件は会議室で起きてんじゃねえ」を挙げ、日本人は現場の側に感情移入しがちだと指摘しました。
審査会で更新される基準と、尊皇攘夷から開国へ。正しさは誰のものか
ここで渡邉さんは、デザイン賞の審査員を何年か務めた経験を語ります。その審査会では、毎回なぜか会場で審査員同士が審査基準を更新しようとし始めたといいます。
空間デザインの部門では、ある審査員が「自分が行ったことのある場所についてスピーチし、それが票を集めるのは不公平だからやめよう」と主張しました。渡邉さんはこれに違和感を覚えたそうです。
お互いがお互いの話によって意見を変え得るためにみんなが集まってるんだから、むしろ個人的に行った話をこそ全員した方がいいのではと思っちゃったんですよ。
渡邉さんは、個人の経験を持ち込めないなら、全員が無記名でオンライン投票すればいいと考えたといいます。渡邉さんの提案は「一理ある」と受け止められつつ、議論はうやむやに終わりました。
さらにこの審査会は全過程がライブ配信されていましたが、20の受賞者からグランプリを1つ決める場面だけは映像がオフになったそうです。渡邉さんは、関係性の中で正しさが生まれる場面はログを残してはいけないという不文律があるのかもしれない、と今回の議論に重ねます。
ヒロさんは、筋論は事前の判断軸を機械的に粛々と適用するのがフェアで透明だとしつつ、状況は刻々と変わり、1時間前の自分も今の自分とは違うという感覚もあると話します。松波さんは、尊皇攘夷を唱えていた人々が開国し、岩倉使節団でヨーロッパへ渡った明治維新を例に挙げました。
次回はシリーズ最終回です。松波さんは、日本人が「丸く収めようとしている」のはそうでしかないとして、それをどう使いこなしているのか、もっとうまい使い方はないのかを考えたいと提案しました。ヒロさんは、それが暴走して日本の悪い部分が出ることも多いと応じ、そこを切り口にクロージングへ向かうことになりました。
まとめ
今回の対話では、俳句や盆栽の「縮み」、文化心理学の実験、審査会の体験を手がかりに、日本人が普遍的な原理原則よりも、その場の関係性の中で善や正しさを判断している姿が浮かび上がりました。松波さんは、それを仏教の考え方と重ねています。
- 日本には俳句や盆栽、茶室など、ものを縮める美意識があり、多くを語らず察し合う文化と結びついている
- 「古池や」で同じ光景が浮かぶように、日本人は言葉にしない意識の共有を重んじているのかもしれない
- 2001年の実験では、アメリカ人は魚に、日本人は背景に注目するという文化差が示された
- 日本人の善悪は関係性の中で都度生まれ、場が変われば判断も変わる。仏教ではそれも正しいとされる
- 次回の最終回では、「丸く収める」性質の使いこなし方と、その暴走がテーマになる


