編集者は表現者であっていいのか?前回の振り返り
渡邉康太郎さんの新刊『生きるための表現手引き』をめぐる対談の3回目は、渡邉さんによる前回の振り返りから始まります。前回の出発点は、表現には余白と遊びが大事で、それは生きることと密接につながっているのではないか、という的場優季さんの投げかけでした。
前回はそこに、荒木博行さんから「この本は的場さんの表現でもあるのか」という、面接のような問いが投げられました。的場さんは、この本を作るまでは編集者は表現者であってはならないと思っていた、と答えています。
的場さんの考えを変えたのは、本の元になった渡邉さんのフライヤー ── 本の要約サービスを運営する企業。渡邉さんはこの会社のプログラムで、表現をテーマにした講座を開いていましたでの講座の受講生の話でした。講座を経て「作らないと自分でいられない」と変化し、ビジネスの現場でも言葉や態度で自分をさらけ出すようになった受講生の姿から、的場さんは編集行為も表現であっていいと思えたそうです。
前回の議論では、編集が表現でなくなる場面も挙げられました。編集がメソッド化して「うちの会社ではこうやる」と決まると余白や遊びがなくなること、そして上司の顔を見て考えているときも、編集は表現から離れてしまうという指摘です。
荒木さんは著者の立場から、表現はリスクを通る行為であり、著者は思想を開示して脆くなっている、だから編集者にもさらけ出してもらうことで対称性が保たれるのではないか、と話していました。この振り返りを受けて、今回は「大人の私たちはどう自分をさらけ出せるのか」を深掘りしていきます。
表現じゃない人は何をしているのか?「競争」という補助線
荒木さんは、過去の超相対性理論に三宅香帆さん三宅香穂が出演した回を思い出し、そこで出てきた「競争と表現」というフレームを補助線として持ち出します。
だから表現じゃない人って何してんのかっていうと、競争してんですよね、多分ね。
荒木さんの言う競争とは、決められた演技の中でいかにいい点を取るか、ということです。一方で表現は、その枠からはみ出す、決められていない余白の部分にあたります。
荒木さんは、競争と表現は0か1かではなくグラデーションで、競争的な表現の場も、表現的な競争の場もあると補足します。それでも競争の要素は表現を駆逐していくので、いかに表現者になるかは、いかに競争から逃れるかという問いでもあるのではないか、と荒木さんは考えています。
決められた演技の中で、いかにいい点を取るかを目指す
決められていない余白の部分へ、枠からはみ出していく
これに対して渡邉さんは、競争をしないと決めることは、表現することと全然イコールではないと指摘します。
競争から降りるけど、別に表現してないってあり得るじゃん。
渡邉さんによれば、表現するリスクとは、否定されるかもしれない、陳腐かもしれない、失敗しているかもしれない、すでに誰かが言っていてつまらないかもしれない、それでも「あえて言う」ことです。そうなると自分が満足できるかという自分の中の競争が生まれ、数字を追わなくても、プレッシャーの中で表現する構図にはあまり本質的な変化がないのかもしれない、と渡邉さんは話しています。
他者の目に否定されても、想像力を信じ続けられるか
的場さんは、競争という言葉には必ず他者が入ってきて、結局は「他者の目」の問題に戻ってくるのではないかと受けます。
渡邉さんは、大人になるほど他者の目を気にしやすいという問題を、星の王子さま ── サン=テグジュペリの童話。冒頭で、大人には帽子にしか見えない絵が、実はゾウを飲み込んだうわばみの絵だったという場面が描かれますの冒頭の場面で説明します。大人には茶色い帽子にしか見えないシルエットが、子どもにはゾウを丸ごと飲み込んだうわばみに見える、という場面です。
渡邉さんによれば、表現にはただの凹凸のある塊に特別なものを見出す想像力と、それをバカにされようが人に伝えられるかという2つの段階が関わっています。世界に否定されても表現しなければならない、という態度です。
的場さんは、否定されても「これだ」と言い続けられる人には、幼少期などに受け入れられた安心感があるのか、もともと強烈な光を持っているのか、そこが気になると話します。表現したい欲求が湧かず、そうした人を羨ましく思う人も多いし、否定されたら多くの人は沈んでしまうかもしれない、という問題意識です。
荒木さんは、余白が多すぎるアウトプットは受け止める側もびっくりしてリアクションに困り、否定的に捉えられがちだと指摘します。本人にとっても、さらけ出しが多くなって怖いものになります。
そこで荒木さんが挙げたのが、子どもの表現力が段階的に育っていく道筋です。塗るスペースが決まった塗り絵から始まり、少しずつ自分らしさを足し、やがて線のない絵へと進んでいく「階段」があるのではないか、と荒木さんは話します。
創作者は「自分で作っていない」?無意識を野放しにする許し
渡邉さんは、多くの創作者が「自分がゼロから生み出している感覚がない」と語っていることを紹介します。
詩人のルース・ストーンっていう人は、畑にいて、詩が向こうからやってくる、全力で走ってそれを捕まえに行くみたいなことを言ったりして。
渡邉さんはさらに、『スタンド・バイ・ミー』の著者スティーブン・キング ── アメリカの小説家。ホラーを中心に多数のベストセラーを持ち、創作論『書くことについて』でも知られますも、地下室の少年たちがいつの間にか作っているようなものだと、無意識が創作していると語っていることに触れます。
ここから渡邉さんは、次の問いは自分の無意識をいかに野放しにできるか、イマジネーションがワイルドになっていいという「自分への許し」をいかに作るかのほうが、実は本質的なのかもしれないと話します。
荒木さんは、いきなりその域に行くのは難しいからこそ補助線が大事だと応じます。渡邉さんの本は「手放す、作る、続ける」で構成され、「作る」編では模倣など、他人の思考を補助線にしながら表現することが書かれている、と荒木さんは紹介しています。
著者はどの「レイヤー」でさらけ出しているのか?
的場さんは渡邉さんに、この本でのさらけ出し度はどのくらいだったのかと尋ねます。
(さらけ出し度は)自分でよくわかってないんですよね。
渡邉さんは何年もレクチャーをして考えてきたため、本の内容が新しいのか、常識なのか、特殊なことを言っているのか自分では判断がつかないといいます。的場さんも、すごくユニークだと思っているのに、それを渡邉さんにパシッと打ち返せていない感覚があると明かします。
渡邉さんは、「あらゆる創作は模倣から始まる」というテーゼは誰でも一度は聞いたことがあるとしたうえで、本では「あらゆる創作は模倣の失敗である」まで踏み込んでいると説明します。目次を一見しただけではわからないが、よく読むと攻めている部分があるかもしれない、という見立てです。
荒木さんは、抽象度を上げるほど人類がほぼ言い尽くしたことになるが、レイヤーを下げるほどその人らしさが出てくると話します。領域を横断して引用し、問いと論を立てる渡邉さんの書き方は「完全にこうたろうワールド」で、的場さんも「ここで利己的な遺伝子 ── 生物学者リチャード・ドーキンスの著書と、その中心概念。生物の行動を遺伝子の自己複製の視点から説明しましたが出てくるんだ」という驚きを挙げます。
荒木さんによれば、出版直前のこのタイミングの著者はめちゃくちゃフラジャイルで、どのレイヤーでさらけ出しているかは本によって違います。上のレイヤーで実験的なことを言う本もあれば、下のレイヤーで実験している本もあるといいます。
渡邉さんに「本によってさらけ出しのレイヤーは違うか」と聞かれた荒木さんは、自身の2冊を例に違いを語ります。
内容そのものより、伝え方などにさらけ出しが入っている本
ものの見方そのものにさらけ出しがあり、めちゃくちゃ怖かった本
こんなの考えてんの俺だけじゃない?って。俺だけじゃないっていうのはいい意味じゃなくてね。
荒木さんは、表現とは本当にその怖さの克服であり、少なくとも「怖さのマネジメント」が多分にあるのではないかと話します。
怖い本をなぜ出せたのかと渡邉さんに問われた荒木さんは、徐々に階段を上ってきたことに加え、自分の生き方とアラインしてきた感覚を挙げます。当たり前にとらわれて困る人が多いので、その当たり前を構造化して柔らかくし、認知は多様だと伝えたいことが今の最大のモチベーションだと語っています。
「表現しちゃってた」という、もう一つの表現
荒木さんは話しながら、リスクや怖さのマネジメントとしての表現は勇ましい話だが、別の領域の表現もあると気づきます。
自分はあんまりリスクでもなんでもないと思ってたんだけど、振り返ってみると、あれは表現だったのではないかみたいな。
渡邉さんは、思いがけず贈与しちゃっていたとき、他人からはそれが表現として受け止められる、というケースに近いのかもしれないと応じます。荒木さんも、本人は表現として人生に向き合っていなくても、振り返るとその人生が極めて表現的である、ということがあると話します。
的場さんは、表現と自分らしく生きることがなぜこれほど近いのかが気になっていると言います。
渡邉さんは、東京の満員電車や品川駅のスーツの行進を、チャップリンのモダン・タイムス ── 1936年公開のチャップリン主演映画。機械化された工場で人間が歯車のように扱われる姿を風刺しましたになぞらえます。人は暮らしの中で自分が歯車に過ぎないと知ってしまう瞬間があり、生き方が表現になっていないと追い詰められる人が少なくないのではないか、と渡邉さんは考えています。
その逆の例として渡邉さんが挙げたのが、地方に移住して自分で野菜を育てて食べるような暮らしです。アクションと生きることの一致度が高まり、自分が見て触れてやり取りできる範囲に人生があるという手触りを思い出すことは、あの行進の真逆として理にかなっている、と渡邉さんは話しています。
満員電車やスーツの行進のように、無個性な社会の歯車になっている感覚
自分で野菜を育てて食べるように、行動と生きることが一致した手触りのある暮らし
「俺は表現者だから」と言う人に、表現欲求はあるのか
的場さんは、必ずしも行動が変わることや手触りの問題ではないのでは、と別の角度を出します。以前は「生きられている人は表現欲求がないのでは」という仮説を持っていたそうです。
きっかけは、本の仮タイトルでした。もともとフライヤーの講座名から借りた「非表現者のための表現手引き」という仮タイトルを印刷してオフィスに並べていたところ、広報や営業などさまざまな職種の人から「俺は表現者だから僕のための本ではないね」という反応がちらほらあったといいます。
的場さんは、その人たちは自分を表現者だと捉え直せているのだと感じた一方、時間が無限にあっても作ることを考えず、アニメを見るなど消費をしたいという人もいて、表現欲求があるかないかの境目が気になっていると話します。
荒木さんはこの問いを面白がりつつ、自己表現している人には表現欲求そのものがないという見方はちょっと違う気がする、表現者は表現欲求が無限に湧いてくる気がする、とモヤモヤを口にします。
なんかね、それ(表現欲求がないという見方)ちょっと違うような気するんだけど、そのモヤモヤ感がなんとも言語化できないんだよな。
渡邉さんは、「自己表現している人」という前提が何を意味するのかから聞きたいとしたうえで、今回の問いは「表現したい、したくないとはそもそも何なのか」なのかもしれないとまとめます。この問いを次回に持ち越して、今回は締めくくられました。
まとめ
今回は、大人のさらけ出しを入り口に、競争と表現の関係、他者の目と想像力、表現の怖さ、そして表現欲求の正体へと話が進みました。表現は勇ましいリスクの引き受けであると同時に、振り返ると表現になっていたという形でも現れる、という幅も見えてきます。
- 荒木さんは、表現者になる問いは競争から逃れる問いでもあると考え、渡邉さんは競争から降りても表現しているとは限らないと指摘しました
- 否定されても想像力を信じ続けるには、塗り絵から線のない絵へ進むような段階や、無意識を野放しにする自分への許しが鍵になると語られました
- 著者がさらけ出すレイヤーは本ごとに異なり、荒木さんは表現を「怖さの克服」「怖さのマネジメント」と捉えています
- 意図せず「表現しちゃってた」人生や、手触りのある暮らしも表現として語られました
- 「俺は表現者だから」と言う人に表現欲求はあるのか、という問いが次回へ持ち越されました


