ちいさきものを尊び、ログを残さない日本人
この回は、実験寺院寳幢寺の僧院長である松波龍源さんを迎えた全4回の対話の最終回です。シーズンのテーマは「日本人の精神性や判断基準はどこにあるのか」という問いです。
冒頭では渡邉康太郎さんが前回を振り返ります。渡邉さんは『「縮み」志向の日本人』という本を手がかりに、日本には小さいものを尊ぶ考え方があると話していました。
渡邉さんが挙げた例は、一寸法師から弁当箱、盆栽や畳、トランジスタラジオ、そして五七五の短い詩歌までです。限られた情報にハイコンテキストな意味を詰め込み、言葉を尽くさず察し合う文化がありそうだ、という見立てでした。
これを受けて松波さんは、短歌を日本語の真言 ── サンスクリット語のマントラの訳語で、密教で唱えられる短い呪文的な言葉。音そのものに意味や力が宿ると考えられていますだと紹介していました。単なる呪文ではなく、身体に蓄えられた情報を読み出すための記号だという説明です。
荒木博行さんはそこから、ビジネスで求められる「原理原則が明確で一貫した判断」と、日本的なコミュニティで見られる「関係性の中でつど正しさが生まれる判断」の違いを指摘していました。後者は背骨がない、八方美人だと言われがちで、ログを残さない傾向にもつながるという話です。
丸く収めようとしているっていうのは、それはそうなんだけど、そこで終わらせずに、これ(日本的な判断)をもっとうまく使いこなすには?っていう風に問いを一歩進めてみてはどうだろうか。
西洋OSと日本OSは、そもそも目的が違う?
振り返りを受けて荒木さんは、西洋型と日本型の意思決定の「狭間」が見えてきたと話します。そのうえで、日本的な判断をうまく運用するのは難しいのではないかと問いを投げかけます。
西洋OS的意思決定の方が簡単なような気がする。
原理原則バチッと決めれば、あとはもうそれに従えばいいだけで。
荒木さんの考えでは、日本的意思決定は関係性の中で流動的なぶん、関係性を正しく読めないと良い判断ができません。日本人はそれに長けているという思い込みがあるかもしれない、とも話しています。
松波さんの答えは、そもそも二つのOSは目指しているものがずれている、というものでした。西洋的なOSは問題解決に強く、KPI ── 重要業績評価指標。目標達成の度合いを測るために設定する数値指標のことですやサイクルを回して「食べ物をもっと多く取る」ような課題にはとても有効だといいます。
一方で日本的な意思決定の根底にあるものは、食料や建物、外敵との戦いではなく、そこにいる一人一人がいかにハッピーでいられるかに効く、と松波さんは見ています。
原理原則で決める。問題解決や成果に強く、思考コストが低い
関係性をその瞬間ごとに読み、正解を出し続ける。一人一人の幸せに効くが、思考コストが高い
松波さんはさらに、西洋的OSは機能と結果の話に寄るため、極めると人間がマシンや、アルゴリズムで動く昆虫のように扱われる未来につながると話します。思考コストを下げるのが良いなら、人間である必要がないという結論になるからです。
逆に日本的OSは、CPUやGPUに大きな負荷がかかるものの、真実に近いと松波さんは言います。結論は、何でも東洋的にやると疲れて決まらないので、パチンと決めるべきことは西洋的に、そうでない場面は関係性の中で心穏やかに、とケースバイケースで選べばいいというものでした。
渡邉さんもこれに同意し、ルール自体が目的化した町内会のように、日本的な仕組みも行き過ぎれば誰もハッピーでなくなると指摘します。使い分けるには、どちらも知っている必要があるという考えです。
渡邉さんは歌人の穂村弘 ── 現代短歌を代表する歌人の一人。エッセイでも知られ、日常の違和感を言葉にする作風で人気がありますさんの「生き延びること」と「生きること」という対比も紹介します。西洋的なものは生き延びることに大事ですが、それだけでは生を謳歌しにくいといいます。
「生きること」の例は、明日風邪を引くかもしれなくても、雨の中で傘を差さずに遊びたくなるような衝動です。渡邉さんは、人は両方の性質を時によって使い分ける自由がある、と話しています。
ホテルの部屋の使い方と、AIを怖がる理由
荒木さんは、松波さんの「思考コスト」という言葉が発見だったと語ります。決め事を増やせば思考コストは下がり、突き詰めれば経営判断もAIに任せる話がリアリティを持つ、それはプリンシプルが明確だからこそできる作業だという整理です。
昨日と今日の僕は違うとかね、環境は都度都度生成されて変わっていくみたいな、物事の認知の仕方を持っていると、やっぱその都度考えなきゃいけない。
松波さんはここで、ホテルの部屋の使い方を例に挙げます。清掃する人が片付けやすいようにゴミをまとめる、ペットボトルの中身を流しに捨ててつぶしておく、といったことを日本人は考えてしまう、という話です。
松波さんによれば、「金を払っているのだから自由に使う」と割り切るほうが思考コストは低いはずです。日本人は、人間関係においてはハイカロリーな生き方に慣れているのかもしれない、と松波さんは話しています。
そこから松波さんは、欧米の人がAIを強く怖がる理由にも話を広げます。効率よく正解を出すことに焦点があると、AIには勝てないとなる一方、「生きること」を考えれば、AIがどれだけ賢くても今日自分が楽しいかは関係ない、という見立てです。
松波さんは、西洋のSFではAIやロボットものでは人間が殺されがちなのに対し、日本人はAIと聞くとドラえもんを思い浮かべて友達になる、と不思議がります。渡邉さんも、ドラえもんは道具ではなく人間的な役割を担うコンパニオンだと応じます。
価値観
効率を上げ、コストを下げることを良しとしてきた
道具の登場
それを最も効果的に実現するAIを手にする
結果
楽になる一方で、自分が置き換えられるリアリティが重くのしかかる
松波さんは、日本人は良くも悪くも効率や早く正解を出すことを重視していないと話します。悪く出れば決められない会議になり、良く出ればAIを過度に恐れず、関係の中でみんなで人生を楽しめるのが利点かもしれない、という見方です。
「それを言ってる君は今幸せなん?」という問い
荒木さんは、ゲマインシャフト ── 社会学者テンニースが示した概念で、家族や村落のように感情的な結びつきで成り立つ共同体を指しますのような共同体重視の生き方は「みんなハッピーだが成果を出していない」と批判されがちだと切り出します。それでも、そこに軸足を置くのは悪いことではないのでは、と思えてきたといいます。
どちら側に重きを置くかっていう選択になった時、共同体のハピネスがまずあるっていうのは、(その都度の正しさを追求することが)あってもいいのでは?と思えてきてしまった。
松波さんは、これは「人間とは何か」という根源的な問いに近づいていく話だと応じます。そして、寳幢寺で京都大学の若者たちが哲学対話をしたときのエピソードを紹介します。
その場では切れ味の鋭い論理が飛び交い、松波さんも言い負けそうになるほどでした。議論が煮詰まったとき、理論物理学の博士課程の学生が「それを言ってる君は今幸せなん?」と言い、全員が黙ったといいます。
松波さんは、その一言こそ人間とは何かに直結していると考えます。仏教や神道を含む東洋哲学は、その人生をいかに幸せに生きるかの体系であり、そこに目を向けることでバランスが良くなるのではないか、という話でした。
言語化しすぎると苦しくなる?ご都合主義の再評価
荒木さんは、南直哉さんの『超越と実存』という本に触れます。松波さんは著者を曹洞宗 ── 道元を開祖とする禅宗の一派。坐禅を中心とした修行を重んじますの方だと補足しました。
荒木さんによれば、この本には「言語があるから人は苦しむ」という趣旨が書かれていたといいます。言葉はバーチャルなもので、定義に執着するから苦しみが生まれる、という考え方です。
言語化すればするほど、形のないものに執着していく人が増えてって、実態と乖離していく。
荒木さんは、会社が大事にするものを言語化したプリンシプルに、自分たちの幸せ以上の何かを見出してしまうのは本末転倒かもしれない、とつなげます。松波さんも、カント ── 18世紀ドイツの哲学者。道徳や認識の普遍的な原理を理性から導こうとしましたのように幸せが個人と無関係に存在すると言われても、本人が幸せと答えられなければ嘘だと応じます。ただし、自分が今ハッピーならすべて良いわけでもない、とバランスの必要性も添えています。
渡邉さんの立場はもっとシンプルです。ビジョンやバリューは暫定的に一回言語化し、都度変えていけばよく、両立に悩む必要はないと話します。
荒木さんもそれ自体には同意しつつ、都度変えることが「ご都合主義」「背骨がない」と見られることにジレンマを感じていたと明かします。今回の対話を通じて、それは悪いことではなく、ハイカロリーだからこそAI社会で意味を持つという積極的な肯定に変わったといいます。
ご都合主義で背骨がなく、悪いことだと思っていた節があった
ハイカロリーな生き方だからこそ、AI社会で意味が出てくると積極的に肯定できた
そこに慈悲はあるか、お天道様というメタ視点
クロージングで松波さんは、日本人は思考コストの高い生き方を無意識にできている部分が多いと振り返ります。その背景には、カロリーを大量に消費できる生存環境と、周りの環境自体のハイカロリーさがあるのだろう、という理解です。
松波さんはそこに、仏教的に言えば「そこに慈悲はあるか」という問いを重ねます。他者と自分の幸せな関係が基軸にあれば、決められない会議や意味不明の慣習がひたすら残ることにはならない、という考えです。
松波さんは、その慈悲性を担保するために、「情けは人のためならず」「お天道様」「ご先祖様」といったナラティブがあったのではないか、と締めくくりました。
渡邉さんは、お天道様とは一人でいても自分の中に客観的な外部の視点を持ち、関係性を意識しようとする作法かもしれないと応じます。そのうえで、数字で測る計量の世界と関係性の世界を取捨選択せず、どちらかが過剰になるのを制御することが求められていると整理しました。
西洋的OSが過剰になったときや後ろめたさを感じたとき、仏教的な思考がリバランスの一助になりうる、というのが渡邉さんの解釈です。荒木さんは冒頭の恐る恐る感に触れつつ、面白かったと全4回の対話を締めくくりました。
まとめ
最終回では、効率と原理原則で決める西洋型と、関係性の中で都度正しさを生む日本型の意思決定を「思考コスト」で捉え直し、両者を使い分ける視点と、その軸に慈悲や幸せを置く考え方が語られました。
- 西洋的OSは問題解決に強く思考コストが低いが、極めると人間が機械のように扱われかねない
- 日本的OSは関係性を読み続けるハイカロリーな判断で、一人一人の幸せに効く
- 効率重視の価値観がAI脅威論を強め、日本的な感覚はAIを過度に恐れない利点にもなりうる
- 都度変える判断は「ご都合主義」ではなく、AI時代に意味を持つ生き方として肯定できる
- 他者との幸せな関係という慈悲の軸があれば、決められない会議や形骸化した慣習に陥りにくい


