前回までの議論は、どこまで来ていたのか?
超相対性理論の深井龍之介さんゲスト回は、贈与的な経済や金融を通じて、ソーシャルグッドなビジネスがいかに可能かを考える全4回の対談です。最終回の冒頭では、それまでの議論が振り返られます。
振り返りによると、深井さんは前回までに、新自由主義には「株主以外に還元すると事業を失う」という逆説が潜んでいるかもしれないと問題提起していました。それに対し、テーマが大きすぎるので「手のひらサイズ」の贈与の話をしようという提案も出ていました。
個別の例として挙がったのがWikipedia ── 誰でも編集できるオンライン百科事典。編集者の多くは無報酬で記事を書いており、非営利団体が運営していますです。Wikipediaを編集する人たちは金銭ではなく、知識欲や評判、貢献感を動機にしているかもしれず、階層の弱い非営利の場で成果物がコモンズとして公開されているという特徴が指摘されていました。
荒木さんからは、教育は究極の贈与かもしれないという話も出ていました。金銭的な対価は割に合わなくても、学生の表情の変化や成長は未来へのレバレッジになり、コテンラジオもその先の影響の連鎖に期待している部分があるのではないか、という見立てです。
さらに、大企業の事業部長が「予算が余ったからこの研究をさせてみよう」と知り合いに依頼するような行為は、説明可能性は低くても贈与的ではないか、という具体例も前回の論点として整理されていました。
合理的説明から、どう逃れるか
振り返りを聞いた深井さんは、錯綜したように感じていた前回までの議論の核を、合理的説明の範疇からいかに逃れるかという話だったとまとめます。合理的に説明しようとすると、「AだからB」という交換の枠組みに入ってしまうからです。
だからそこ(合理的説明)をどうやってバグらせるかっていうところに、前回こうたろうが言った私的感覚とかね、私情を挟むとか。
深井さんが特に評価するのが「面白さ」という形容詞です。なぜやるのかと聞かれて「面白いから」と答えるのは説明になっていませんが、説明になっていないこと自体に価値がある、という捉え方です。
深井さんの提案は、意思決定の8〜9割は合理的な範疇で行い、残りの1〜2割に「面白いからやる権」を持たせるというものです。深井さん自身は、この立場を完全に取っていると話しています。
ただし深井さんは、説明不可能なものや面白いもの、私的なものが、そのまま贈与になるわけではないとも付け加えます。そのあたりにポイントがありそうだが、まだ言語化できない、という含みを残しています。
2週間をかけたバングラデシュ行きは、なぜ贈与なのか
「面白い」以外に贈与的行為を支えるものは何か。その具体例として語られたのが、出雲の子どもたちとバングラデシュへ行き、ストリートチルドレンや国の環境の違いを一緒に学んだ体験です。参加はほぼ手弁当だったといいます。
これ(バングラデシュ行き)は僕からすると、やっぱ未来に対する贈与であり、大人としてのなんか参与っていう感じだったんだけど。
この取り組みでは「作為性」をかなりなくしていたといいます。どんな感想を持ってほしいかも、目標値も定めず、定量評価もしていません。行ってみて「クソだった」と言う子が出ても失敗とは見なさない、という態度です。
インフルエンザにかかったこともあり、結果的に1年の50数週のうち2週間をこの取り組みに使いました。今の自分にとってはコストの高い贈与だが、こうしたことをしていくのがとても大事だと語られています。
ここでいう作為性とは、リターンの返り方を先に決めることです。たとえば「起業家になってほしい」「社会的に立派になってほしい」と思いながら子どもに接することはしていない、と説明されます。
暴力のような悪い方向は判断できても、良い方向は無数にあり、自分の評価の範疇を超えている。その謙虚さを持って時間を投下することが、市場経済を前提とした社会でソーシャルグッドを目指すうえで効果の高い贈与的行為ではないか、という意見です。
交換と贈与を分ける3つの軸とは
渡邉さん書き起こしでは西口尚昭と表記は、説明不可能なものは個人の趣味やライフワークでは成り立つものの、組織であらかじめ合意できていないものを受け入れるのは原理的に難しいと指摘します。社長や事業部長がたまたま頷いてくれたときにだけ実現する、というのが現状です。
渡邉さんはさらに、贈与的な取り組みでは即時的な結果が出ない、あるいは失敗に見えることがほぼデフォルトになると続けます。すぐに反省で終わらせず、宙づりの期間を長く持つこともセットで大事だという考えです。
そのうえで渡邉さんは、便利だがドライになりがちな等価交換と、不便だが人間的な部分が保たれる贈与の違いを、時間・関係・仕組みの3つの軸で整理しました。
| 軸 | 交換 | 贈与 |
|---|---|---|
| 時間 | その場で支払い、関係もその場で終わる | いつ何で返すかが決まらず、貸し借りが残り続ける |
| 関係 | 物やサービスの価値を測る | 誰とどんな関係を結びたいかが大事になる |
| 仕組み | 貨幣や役務でバシッと決まる | 慣習のレベルで緩やかに動き、次の誰かへ渡していく |
仕組みの例として挙がったのは、誕生日プレゼントをもらったら返そうと思うことや、山で助けられたら直接は返せなくても誰かを助けようと思うことです。贈与の「次」は相手本人とは限らず、見知らぬ誰かへのペイフォワードでもありえます。
この「次」について深井さんは、予算の余りで研修を行う例と結びつけます。研修を受けた人がまた次に何かをするかもしれない、という連鎖への期待が贈与的だというわけです。
じゃあ本当そうなんですか?って言われたら、いや、そうかもねぐらいしか言えないみたいなね。
深井さんは、贈与の連鎖について「そうかもね」としか言えない閉じなさこそが大事だと話します。その場で答えを閉じないことが、時間を経た大きな良いことにつながる可能性を残します。
非合理は、実は合理的なのか?
閉じなさについて深井さんは、全部はわからないという謙虚さを持ち、直感的にいいと思うことをやっていく態度だと言い換えます。そして、それはむしろ極めて合理的だと考えています。
ホモサピエンスがこれはやった方がいいなと思ってることをやるっていうこと自体が、そもそも合理的だと思ってるし、淘汰圧に耐えてきた特性だからさ。
ホモサピエンスは相互扶助で繁栄してきました。その感覚を生かすことは、一歩メタな視点から見れば合理的な行為だ、というのが深井さんの主張です。
この主張を受けて、議論は漁場のたとえに進みます。全員が1つの効率的な漁場にオールインすると、その漁場が死んだときに総倒れになります。少し効率が悪くても別の場所に行く人がいることが、集団を助けることがある、という話です。
効率的な漁場
説明可能で成果がわかっている場所に、8〜9割の時間を投じる
別の場所
効率は悪くても、残り1〜2割で試してみる
リスク分散
主な漁場が死んでも集団が総倒れにならず、満たされない部分も補える
中長期の合理
短期的に非合理に見える行動が、中長期では合理につながる
このたとえは、短期的に非合理に見えることを、ポートフォリオにあらかじめ入れておく必要があるという結論につながります。ただし、その1〜2割の中身がなぜ合理的なのかは、ほぼ説明できないとも話されています。
説明できなさについて、議論の中では「なぜこの人と結婚したのか」という問いに近いという例えも出ます。もっと相性のいい人がいるかもしれないのに、自分の認知範囲の中で直感的に選んでいる。贈与的行為の意思決定も、それに近くなるだろうという見方です。
組織で「非合理な決断」をどう担うか
組織の規模が大きくなると、誰かは非常にいいと思っていても、大半はそう思っていないという状況が普通になります。そこで議論は、そうした状況を前提に頷けるような、メタなルールをあらかじめ作っておく必要があるという方向に進みます。
ルールの案として、非合理な決断をする部署や人を輪番にするというアイデアも出ました。一方で、非合理な意思決定をしてくださいと言われるのは非常に難しいだろう、という声も上がります。
渡邉さんは、仕事と非合理を結びつけていない人は「回ってきたら困る」と言うだろうし、逆に「毎年その予算と決定権が欲しい」と言う人もいるだろうと、反応の両極を挙げています。
議論はここから、合理性とは何かという問いに行き着きます。今合理的とされていることはそれほど合理的ではなく限定的で、合理的でないとされることが合理的な場合もままある、という指摘です。
合理性は時間軸によっても、どこまでを自己と見なすかによっても変わります。たとえば日本の合理性の追求とアジアの合理性の追求は衝突しうる、と話されています。時間的・空間的な範囲をどこまで広げられるかが、株式会社のチャレンジになるだろうという見立てです。
だましだまし変えていく折衷的なルール
渡邉さんは、すべてをひっくり返すのは難しいので、非合理を合理的に説明する仕組みを作ってしまってよいと考えます。だましだまし折衷的なルールを作ることで、いつの間にか移行が起きているという補助線が一番実践的だという提案です。
渡邉さんによれば、深井さんが「それは全然贈与じゃない」と言うような贈与っぽいものをたくさん実装していくと、それがいつの間にか普通になり、贈与的なものが可能になりやすくなります。そのための条件として、渡邉さんは次のようなルールを挙げました。
3つ目のルールの例として挙がったのが、サスペンデッドコーヒー ── 後から来る誰かのためにコーヒー代を前払いしておく習慣。イタリア・ナポリ発祥とされ、各地に広まりましたやカルマキッチン ── 食事代が前の客によって支払われており、自分は次の客の分を支払う「恩送り」型のレストランの取り組みです。自分でお金を払うのと一見変わらなくても、コミュニティが強くなるように作用します。
渡邉さんは、贈与的な仕組みは小さな範囲のほうが機能しやすく、スケールするほど制度上・運営上の問題が出てくると指摘します。だからこそ、一見合理的に見える最低限のルールの中で非合理をやり、両立した小さな事例を重ねていく、という考えです。
荒木さんと深井さんは、この提案に全面的に賛成しました。深井さんは、こうした実践が繰り返されることで「このロジックで説明すれば合意が得られる」というコンセンサスの儀式の型が変わり、曖昧なものを通すための説明が存在するようになると続けています。
贈与そのものではなく、贈与したくなる仕組みを考える
対談の終盤、深井さんは、この場に安心しすぎてまとめる気がなかったと笑います。長く研究してきたテーマなので、強めのイデオロギーを持って話していたと振り返り、立場の違いが見えて勉強になったと話しています。
ラディカルな深井さんと現実論の渡邉さん、その両方を見ながら考える荒木さんという構図は、懐かしいものだったとも語られます。締めの言葉を任された荒木さんは、自分の思考の変化を次のように語りました。
すごく僕にとって面白かったのは、贈与という行為を合理的に考えようとしていた自分に気づいて、その延長にあんまないのかもって思ったのよね。
荒木さんによれば、贈与は「ちょっと良さそう」という直感の積み重ねの先にあるのかもしれません。だから贈与を促す仕組みそのものを合理的に考えるほうがいい、という着地です。
渡邉さんは自分は極ではなく真ん中だとし、交換市場主義者のような人が加わればさらに激しい議論になると話します。深井さんも、新自由主義には8〜9割賛成していると明かし、3つの極を置いた議論を時間制限なしでやってみたいと応じました。
次回は、3人がイスタンブールで収録した回が2月ごろに配信される予定だと告げられます。最後は「絶対に風邪を引かないようにしよう」と声をかけ合い、対談は終わりました。
まとめ
深井龍之介さんを迎えた対談の最終回は、贈与を合理的に説明しようとする発想から離れ、「贈与をしたくなる仕組み」を合理的に設計するという答えにたどり着きました。面白さや直感を残す余白と、それを組織で通すための折衷的なルールが鍵になりそうです。
- 合理的説明の枠に入ると交換になるため、意思決定の1〜2割に「面白いからやる権」を残すという提案が出た
- リターンを規定しないバングラデシュ行きは、作為性をなくし、良さを決めない謙虚さに支えられた贈与として語られた
- 交換と贈与は、時間・関係・仕組みの3つの軸で対比できる
- 短期的な非合理は、漁場のリスク分散のように中長期では合理的でありうる
- すべてを変えるのではなく、目的・関係・コミュニティを重視する折衷ルールで小さな事例を重ねる道が示された


