もののけ姫と組織論の話はどこまで来たのか
この回は、渡邉康太郎さんと荒木博行さんが年明けのスペシャル版として2人だけで話す3回シリーズの続きです。テーマは、もののけ姫に見る日本的なサステナビリティの仮説です。
渡邉さんはまず前回までを振り返ります。組織を生き物として見るか機械として見るかというビジネススクール的な観点や、企業のメタファーが軍事に寄りがちだという組織統制の話がありました。世界が複雑になるほど、組織のメタファーは生命体的なものに変わるはずだという流れです。
もののけ姫も同じく複雑で、神、動物、自然、人間がそれぞれの事情を抱え、絶対的な善悪のないなかで関係を調整していく物語だと渡邉さんは整理します。この八百万的な関係性の束が、自然への畏怖を含む東アジア的な自然観の象徴かもしれない、という仮説です。
(サステナビリティを)せめぎ合いを引き受けるっていうのはいかに可能か。これを考え方のベースだけじゃなくて、具体的な施策としても何か落とし込んでいけるのがもしかしたらあり得るんじゃないか。
こうした前回までの議論を受けて、渡邉さんは荒木さんに話を振ります。
エボシ御前は破壊者なのか?記号化という認知の限界
荒木さんは、整理しきれていないと前置きしつつ、感じたままを創発的に話し始めます。最初に挙げたのは、人が複雑な存在にわかりやすいキャラ付けをしてしまう問題です。
複雑な存在ですと、本来は。ところが、この人は悪だとか、この人は善みたいな、わかりやすくキャラ付けしたくなる我々の認知の限界みたいなものが必ずあるよね。
例として出たのが、もののけ姫のエボシ御前です。表面だけを切り取れば、森林を破壊しながら鉄を作り、交易する資本主義的な破壊者に見えます。
しかし荒木さんによれば、エボシ御前の裏側に踏み込むと、実はいろんな人を救っていたり、その人なりの事情があったりする世界が見えてきます。
だから僕らは、そういう記号情報にどうやって戦っていくのかっていうのが、一つのすごい難しく、そして深遠なメッセージだなと思っていて。
荒木さんの言う記号化とは、ものを見聞きしたり情報に触れたりした瞬間に、対象を単純化してしまうことを指しています。
森林を破壊し鉄を作って交易する、資本主義的な破壊者
いろんな人を救い、その人なりの事情を抱えた複雑な存在
松岡正剛『擬MODOKI』は何を伝える本なのか
記号化の話からつながったのが、荒木さんが2025年で一番良かった本として挙げる、松岡正剛さんの『擬MODOKI』です。出版は2017年頃ですが、松岡さんが主宰していた塾に通うことをきっかけに改めて読み、メッセージの大切さに気づいたといいます。
渡邉さんも何年も前にこの本を大事に読んでいたと応じ、荒木さんからは「正剛さん好きだからね」と返されます。
本当にシンプルに言うと、この世は全てもどきであるっていうことなんだよね。もどきっていうのは擬態であり、そういう風に見えてしまっているだけであるっていうことなのかな。
荒木さんの理解では、世界がもどきである以上、強いサインとして見えている記号も解体し、編集し、新しい世界を作ることができます。荒木さんはこれを、この世の中は常に編集可能というポジティブなメッセージとして受け取ったと話します。
記号として見える
強いサインとして世界が目に映る
もどきと置く
それはそう見えているだけだと捉える
解体・編集する
見え方を組み替える
新しい世界
面白く広がった世界を作れる
「編集」とは具体的に何ができるのか?
渡邉さんは「ここでいう編集とは、例えば何ができるのか」と問いかけます。荒木さんは再びエボシ御前を例に答えます。
(エボシ御前が)森林を破壊しみたいな、そういう記号情報が見えた時でも、一瞬自分にはこう映ってるけれども、違う形で編集可能なのであるっていう。
荒木さんによれば、編集というツールを持っていると思えば、「こいつが悪い」「こうすれば世界を変えられる」といった、感情を操作するような強いメッセージに触れたときにも一拍置けます。
何が正しい正しくないという話ではなくて、もどきであるという風に置けば、一拍置くことができるっていう、そういうことなのかなと僕は今思っていて。
荒木さんはこれを、複雑なものを複雑なまま捉える知性の表れだと考え、改めて『擬MODOKI』を読んだと語ります。
何の話か迷う本、『擬MODOKI』の多面的な読み方
渡邉さんは、『擬MODOKI』を読むと「何の話をしているんだっけ?」という気持ちに何度もなると話し、荒木さんも強く同意します。
渡邉さんによれば、この本は肺がんを患った松岡さんの闘病記録とも、作家論やオリジナリティー論とも読めます。作品として世に現れるものは結果であり、その内側で駆動する思想やエンジンに思いを馳せる本としても読めるといいます。
荒木さんは、この本が与謝蕪村 ── 江戸時代中期の俳人・画家。絵画的で叙情豊かな句で知られ、松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ俳人とされますの詩から始まり、空をどう見立てるかという話に松岡さんが深く感銘を受けるところから展開すると補足します。人は見立てができる、という話でもあるといいます。
松岡正剛はなぜ出典を明記しないのか
渡邉さんが『擬MODOKI』で特に好きだと語るのは、松岡さんがなぜ引用文献のページや出典を明確に書かないのかをぽろっと記した箇所です。
渡邉さんは、松岡さんの書評サイト千夜千冊 ── 松岡正剛さんが2000年から続けた書評連載。1夜に1冊を取り上げ、膨大な本を連鎖的に読み解いたことで知られますでも、書名はあってもページは書かれていないことを不思議に思っていたといいます。その理由が、この本で語られていたというのです。
世界自体が引用の織り物として成り立っている中で、唯一の出典を決めるっていうこと自体がそもそもおこがましいのであるみたいな。
渡邉さんの記憶では、そこでバルト ── フランスの批評家ロラン・バルト。テクストはさまざまな引用の織物であるとし、作者を唯一の意味の源とする見方を問い直しましたの話にも触れていたかもしれないといいます。読みと書きの体験は1つの出典に絞り込めない、という信念に近い執筆作法だと受け止め、大事な文章に出会ったと感じたそうです。
出典を明記するのが真摯な書き方。誰が何を言ったかを思想として信じるベースがある
誰もが周りから影響を受けて再構成しているので、1つに特定するのはかえっておこがましい
荒木さんも、人類はずっと知を編集し続けていて、ある人の発言もいろんな知を編集した結果にすぎないと見れば、その人だけを土台として示すことに心理的抵抗が生まれるのだろうと整理します。
渡邉さんは、このオリジナリティーの議論を自著『生きるための表現手引き』でも扱い、『擬MODOKI』の「この世界は編集可能である」という考え方を引用していると明かします。
人を「敵」と記号化する組織で、どう生身の相手に戻れるか
荒木さんが改めて論点を「記号を記号として受け取らない、常に遊びの余地がある」とまとめると、渡邉さんは話を組織の人間関係へ広げます。
渡邉さんによれば、人を敵か味方か、得意か不得意かとレッテル貼りすること自体は、脳のエネルギーを節約する生存本能です。ストレスのかかる組織では、相手を深く理解するより「とりあえず危険」と分類して距離を取るのが、一見自然な行動になります。
そこから抜け出し、生身の人間同士として再認識するには、ネガティブケイパビリティ ── 答えの出ない不確実な状態に、性急に結論を出さず耐え続ける能力。詩人キーツの言葉で、近年は精神医学やビジネスでも注目されていますのような、気持ち悪いけれど大事な行為が必要になると渡邉さんは話します。
渡邉さんがヒントとして挙げたのは、哲学者マルティン・ブーバーの「I-It」と「I-Thou」です。
相手を記号として処理し、自分の目的の手段として扱う。相手は物になる
相手を代わりの利かない人格を持った存在として扱う
だから怒りっぽいなっていう記号に対して、なんで怒ってるのかなとか、何が彼をそこまで追い詰めてるのかなとか、少しずつ深めていく。
渡邉さんは、家ではきっと優しい父親だろう、別の人から無理難題を押し付けられて余裕がないのかもしれない、と多面性を想像すると、相手は「怖い人」という記号から「恐怖と戦う生身の人間」に変わっていくと話します。人間関係における編集とは、背景に思いを巡らせ、生身の人間として相対することだという整理です。
ストーリーはなぜ人を単純化してしまうのか
荒木さんは、記号化に加えて「もう一個厄介な敵」としてストーリーを挙げます。ストーリーは物事を単純化し、感情の起伏を作るものだからです。
企業でさ、そういう運動を作っていこうって思った時に、明確な敵みたいな存在を作って、これを崩しさえすれば、我々はこれからもハッピーに生きられるんだみたいな、分かりやすいストーリーを作った上でみんなを動員する。
荒木さんによれば、それはストーリーの力強さでもありますが、倒すべき相手は一面的な悪になり、複雑な事情や生い立ちは捨象されます。ストーリーで感情にスイッチが入る自分たちとどう付き合うかが大事なイシューだと話します。
渡邉さんは、ナラティブの話には段階があると応じます。
トラウマ支援などで、その人に何が起こったかの物語に触れ、人を記号化から解き放つ肯定的な役割
仮想敵を作るストーリーが人を動員し、分断やフェイクニュース、政治闘争につながりうる
善悪の戦いみたいな単純化をしちゃうと、分断を加速する兵器になっちゃうっていうのは冷静に見た方が良い
渡邉さんは、ナラティブは諸刃の剣だとし、これは2年ほど前に谷川嘉弘谷川嘉弘さんと話したテーマかもしれないと振り返ります。荒木さんも、『擬MODOKI』でもナチスがアーリア人の優れた血統という物語でドイツ人の結束を高めた例が扱われていたと補います。
シングルストーリーの危うさとは何か
渡邉さんが紹介したのは、ナイジェリア生まれの作家チママンダ・アディーチェです。アフリカやフェミニズムを扱い、『なにかが首のまわりに』などが日本語でも出ています。
アディーチェは、1つの強い言説を「シングルストーリー」と呼び、それが固定観念を作り出すと指摘しているといいます。
固定観念の問題っていうのは、それが忠実でないことではなくて、不完全だということ。
渡邉さんによれば、1つの話は真実かもしれないけれど全体ではありません。ある話を唯一の話に変えてしまうと人間の尊厳が奪われ、連帯できる類似点よりも差異が強調されるようになるといいます。
そのため渡邉さんは、シングルストーリーには危険性があると覚えておくことをベースラインにしたいと話します。今信じている物語に、語られていない側や不可視化された側、相手側の正義の物語があるのではないかと心に留めておく態度です。
荒木さんは、もののけ姫の物語が複雑なのも、分かりやすさへのアンチテーゼなのかもしれないと応じます。もしあの物語が現実にあったなら、現実はさらに複雑だろうとも付け加えます。
ポリフォニーはなぜ健全なのか
渡邉さんが次に挙げたのは、ロシアの思想家ミハイル・バフチン ── 20世紀ロシアの文芸学者・思想家。ドストエフスキー論で、作者の声に統合されない複数の声が響き合う小説のあり方を論じましたのポリフォニー(多声性)です。
バフチンはドストエフスキーの小説を分析し、著者の視点に回収されない独立した複数の声が対等に響き合う状態をポリフォニーと呼びました。渡邉さんは、現実社会も相反するナラティブが響き合っていて、どちらかを排除・統合せず矛盾を抱えたまま共存させる態度が読み取れると話します。
荒木さんは、斎藤環さんの『イルカと否定神学』にもポリフォニーの話が書かれていると紹介します。
(精神疾患的な状態は)小さな真理をもうかたくなに信じ込んで、それ以外ないと思ってしまっている状態。
荒木さんによれば、斎藤さんは対話(ダイアローグ)によってモノフォニーをポリフォニーへ、いろんな声が聞こえる状態にしていくことを1つの治療のあり方として語っていたといいます。
モノフォニー
1つの小さな真理だけを信じ込んでいる状態
対話
ダイアローグでケアする
ポリフォニー
いろんな声が聞こえる状態
東浩紀の「観光客」はポリフォニーを運ぶミツバチか
渡邉さんは、ポリフォニーは健全だけれど難しいことでもあると応じ、東浩紀さんの議論につなげます。東さんは『訂正可能性の哲学』でもポリフォニーに触れていますが、渡邉さんは『観光客の哲学』の村人・旅人・観光客のメタファーも、ポリフォニーの横断として読めると考えています。
| 存在 | 特徴 | ポリフォニーとの関係 |
|---|---|---|
| 村人 | 問題の当事者で、特定のナラティブを持つ | 敵味方が明確で政治的に動員されやすい |
| 旅人 | 放浪し、特定の場所に属さない | 関わらない |
| 観光客 | 無責任で好奇心だけで見てすぐ去る | 別の村のナラティブを輸入し、誤配を誘発できる |
渡邉さんによれば、観光客は軽さゆえに意図しないコミュニケーションを生む可能性があります。観光客を好意的に捉えることは、ポリフォニーを前提に、それを引き受けるミツバチになるイメージだと話し、荒木さんも「いいミツバチ」と応じます。
旧約聖書からポリフォニーまでの旅を終えて
終盤、渡邉さんは3回を振り返り、旧約聖書、もののけ姫、機械的な組織と生命的な組織、人間関係、記号化、多声的な話まで旅をしてきたと話します。
モドキの話はどっかで独立してもいいのでお話ししたいなと思ってたんだけど、この文脈で話せるとは思わなかったけど良かったです。
渡邉さんは別の回でも『擬MODOKI』への愛を語ってほしいと期待を寄せます。次回は深井龍之介さんの回で、イスタンブールでのトークになりそうだと予告して、この雑談は締めくくられました。
まとめ
もののけ姫のエボシ御前の複雑さから始まった話は、記号化とストーリーによる単純化に、編集やポリフォニーでどう抗うかというテーマへ広がりました。善悪を決めつける前に一拍置き、語られていない側の物語を想像することが、組織にも社会にも求められていると語られています。
- 人は複雑な存在に善悪のキャラ付けをしがちで、エボシ御前もその裏側を見ると別の姿が現れる
- 松岡正剛さんの『擬MODOKI』は、世界はもどきであり常に編集可能だと教えてくれると荒木さんは話す
- ブーバーのI-Thouのように、相手の背景を想像すると記号から生身の人間へ見え方が変わる
- ストーリーやシングルストーリーは人を動員する一方、分断を加速する危うさも持つ
- バフチンや斎藤環さん、東浩紀さんの議論から、矛盾する声を共存させるポリフォニーの健全さが語られた



