「ふわっ」とした日本と、ロジカルな仏教はどうつながる?
超相対性理論で全4回にわたって続く、松波龍源さんとの対話の2週目です。テーマは「日本人の精神性。その判断基準には何があり、それは昔と変わらないのか」です。
前回の出発点は、日本はよく仏教国と言われるけれど、それはどこまで本当なのかという問いでした。日本人の判断基準は「お天道様に恥じないように」「人生楽ありゃ苦もあるさ」のように、エモーショナルでふわっとしたものが多いのではないか、という指摘です。
一方で、仏教は物事をロジカルに定義することを得意としています。日本人の考え方には仏教的な部分もそうでない部分もあり、「ふわっと」と「カチッと」が混ざった状態をどう捉えればいいのか、というのが龍源さんの問題意識でした。
前回はそこから、仏教的なOSと西洋思想のOSの違いにも話が広がりました。西洋ではモラルが宗教で規定される面があるのに、あまり宗教的ではないと言われる日本が、海外からモラルが高いと評価されがちなのはなぜか、という問いです。
龍源さんは、話しているうちにいろいろ見えてきそうだけれど、まだ霧がかかっている感覚だと振り返ります。何を判断のよりどころにしているかというメタ的な議論は、比較対象がないと自覚しにくい、という声も上がりました。
日々日々なんか判断してんだけど、比較がないからわかりにくいっていうのもあるかもしれないですね。
ミャンマーの人はなぜ「功徳だ」と即答するのか
龍源さんが比較の材料として挙げたのは、ミャンマーでの経験です。ミャンマーの人たちはとても親切でフレンドリーで、龍源さんは正直なところ「気持ち悪い」と感じたほどだったといいます。
そこで龍源さんが「なぜ見ず知らずの外国人にそこまで親切にしてくれるのか」と尋ねると、彼らは迷わず「功徳 ── 仏教で、善い行いによって積まれる徳のこと。来世や将来によい結果をもたらすと考えられ、上座部仏教の国では日常の行動原理として語られることが多いだ」と答えたそうです。来世の自分が幸せであるために、現世でできる人助けはするものだ、という理屈です。
さらに「お前たちはそうじゃないのか、日本人だろ、仏教だろ」と返され、龍源さんは驚いたと話しています。日本にも親切な人は多いものの、理由を聞かれて「功徳だ」と食い気味に答える人はまずいない、というのが龍源さんの実感です。
親切の理由を聞かれると迷わず「功徳だ」と答え、来世の幸せのために人助けをすると説明する
親切な人は多いが、理由を聞かれて宗教的な言葉で即答する人はほとんどいない
龍源さんは、どちらがいい悪いではないと断ったうえで、日本人がなぜ親切にするのか、なぜそれがいいと思っているのかを考えること自体に、仏教的な意味があるのではないかと話しています。
もう一つの例が、海外へサッカー観戦に行き、スタジアムを掃除して帰る日本人のニュースです。欧米の資本主義的な考え方からすると、お金を払った客が掃除をする意味がわからず、宗教行為のようにすら見えるといいます。
スタジアムの清掃は、観客から取ったお金で雇われた作業員の仕事のはずです。それでも日本人には「来た時よりも美しく」という標語があるほどで、掃除をして帰ることに違和感がありません。功徳のような理由を口にしないのに、自然とそうしてしまう点が面白い、と龍源さんは言います。
掃除はなぜ日本の教育や武道に組み込まれているのか
深井さんは、ドバイの将来のリーダー候補たちが日本を視察したときの話を紹介します。視察先の一つが日本の普通の小学校で、通学の様子と掃除の様子を見るプログラムが組まれていたそうです。
多くの国では掃除は清掃員に外注される仕事ですが、日本の公立学校では給食のあとにみんなで掃除をするのが一般的です。深井さんは、自分たちの始末を自分たちでつけることが教育に組み込まれている点を、とても日本的だと感じています。
なんかその自分たちの始末を自分たちでするっていうのが結構教育の中に組み込まれているとか、(立つ鳥跡を濁さず)みたいな言葉があるっていうことが、なんか我々の根本にありそうだなっていうのはよく感じますよね。
深井さんはさらに、大谷翔平選手が学生時代に書いたとされる目標の曼荼羅の話も挙げます。健康やトレーニングといった科学的に必要な項目に並んで「運」の項目があり、その中に「ゴミを拾う」が入っていたような気がする、と記憶をたどります。
龍源さんは、長く続けてきた武道の経験を重ねます。道場では早く来て礼をし、冬でも床を水拭きし、使い終わったらまた掃除をして礼をして帰るのが当然で、それをやらない人は本当には強くならないと言われるそうです。
龍源さんは、掃除をすれば強くなるという考えは科学的に見ればむしろ非合理で、その時間をトレーニングに使ったほうがいいはずだと認めます。それでも実際に優秀な先生ほど、そのあたりをきちんとしている人が多いといいます。
龍源さんによれば、こうした振る舞いは仏教で説明することもできます。ただ、日本人自身は仏教だと思ってやっているわけではない、というところに今回の問いの難しさがあります。
道がきれいなことが、なぜ「リスペクト」なのか
深井さんは、イタリアから来た友人たちを日本で案内したときのエピソードを話します。感想を聞くと、みんな興奮して「リスペクトがあるよね」と言ったそうです。
ほとんど日本人と話していない友人たちが言う「リスペクト」とは何のことか。深井さんが尋ねると、返ってきたのは「道端がすごくきれいじゃん」という答えでした。
え?道が綺麗なことがリスペクトっていう言葉で表現されるのって一番驚いたんですけど。
イタリアの友人たちは、ポイ捨てをしないことや公共の場をきれいに使い続けることを、周囲や環境への敬意の表明として受け取っていたようです。敬意がなければ適当に扱っていいので散らかしても何とも思わない、という裏返しのロジックです。
龍源さんは、日本人には確かに敬意のようなものがある気がすると応じます。「路上は自分の家じゃないから汚していい」とは普通思わないので、それは道路そのものではなく、そこを通る他の人たちへの敬意なのかもしれない、という見方です。
イタリアの人たちもリスペクトはあったほうがいいと考えているはずです。それでも街がきれいに保たれない理由について、深井さんは想像だと前置きしつつ、守らない人が数人いるだけで全体が崩れ、自分が守っても結果に反映されない無力感があるのかもしれない、と話しています。
深井さんは、自身が通った香港のインターナショナルスクールでは用務員が掃除をしていて、生徒の掃除の時間はなかったと振り返ります。日本では学習指導要領の特別活動に掃除が含まれ、当番制で自分たちの環境をケアする仕組みになっている、と比べています。
龍源さんは北京に長く住んだ経験から、中国ではそうした気配を感じなかったといいます。股の割れたズボンを履いた小さな子どもがスーパーの食品売り場で用を足し、清掃員がすぐに片付ける光景を見て衝撃を受けたそうです。ただし、オリンピック以降どうなったかはわからない、とも付け加えています。
龍源さんが注目するのは、ここに判断基準の違いがはっきり表れていることです。子どもは我慢できないのだから片付ける人が給料をもらって片付ければいい、という価値判断と、街や他人へのリスペクトとしてやってはいけない、という判断は明らかに違います。何が根本的に違うのかが日本の場合よくわからない、と龍源さんは問いを深めています。
砂漠的思考と森林的思考は、日本人に何を残したのか
答えの手がかりとして深井さんが紹介したのが、地理学者の鈴木秀生の議論です。自分たちが何者かを考えるとき、それはどんな環境で生まれ育ち、世界をどう見ているかに帰着する、という考え方です。
この議論では、世界の見方を大まかに二、三の類型に分け、その代表として「砂漠的思考」と「森林的思考」を挙げています。深井さんはそのエッセンスを次のように整理しました。
始まりと終わりがある有限の世界観。リーダーが上から俯瞰して進む道を決め、みんなでまっすぐ進む。間違っていればすぐに捨てて次の答えを目指す。一神教と親和性が高い
循環的・持続的な世界観。地表から見上げる視点で、慎重にじっくり考える。状況に応じて詳しい人の話を聞き、合議で曖昧なまま生きていける。多神教や輪廻転生の思想が生まれやすい
森林は高温多湿で命にあふれ、動物の屍の上に新しい木が育つような光景が見られます。深井さんは、そうした環境から輪廻転生のような思想が生まれやすいのは想像しやすい、と説明します。あわせて、仏教やイスラム教の理解が大雑把だという批判もあることにも触れています。
龍源さんは、お釈迦様が生まれたルンピニー ── 現在のネパール南部にある、釈迦の生誕地とされる場所。ヒマラヤ山脈の南麓に位置し、仏教の四大聖地の一つに数えられるはヒマラヤの裾野で、古代には棚田や段々畑が広がっていたらしいと話します。だとすれば日本に近い環境で、日本と仏教には妙な親和性があるのかもしれない、という見立てです。
龍源さんはさらに、日本人は縄文以前から続く根源的な世界との向き合い方を残しているのかもしれない、と踏み込みます。北京などで見た中国の人々には、新しく獲得した行動様式のようなものを感じるといいます。
渡邉さんは、森林は砂漠より変数が多い環境だと指摘します。砂漠は水のありかを探しゴールに早くたどり着くという単純な変数なので強いリーダーが必要ですが、森林はうろちょろしていても生きるのに苦労しなさそうだ、という見方です。
龍源さんは、日本が定期的にとんでもない自然災害に見舞われる国であることも挙げます。普段は自然が優しいのに、火山や地震、津波で突然村が消える経験を繰り返してきたことも、精神性に影響しているかもしれないと話しています。
渡邉さんは、畑と田んぼの文化の違いという視点も紹介します。田んぼに必要な水は共有しなければならない資源で一人勝ちができず、村全体でシェアする共同体的な文化ができやすい、という話です。アメリカの大規模な畑作のように、自分たちだけ効率的にやればなんとかなる農業とは根本的に違う、と指摘しています。
日本・中国・アメリカ・EUを2×2で並べると何が見える?
深井さんはもう一つの比較として、ビジネスデザイナーの浜口秀志さんの整理を紹介します。日本、中国、アメリカ、EUの4つを、2つの軸でマトリックスに配置するという考え方です。
横軸は、砂漠と森林の話にも通じる「決断型」と「バランス型」です。縦軸は、選択肢を多く保とうとする「more」と、1つに絞りたい「less」です。
この整理では、隣り合う領域どうしはなんとなく理解し合えるものの、斜め向かいの相手は理解が追いつきにくいといいます。日本の斜め向かいに位置するのは、決断型で「もっともっと」を志向するアメリカです。
アメリカはハンバーガーは大きいほうがいいし、数は多いほうがいい、という考え方です。日本は優柔不断で迷っているうちに時間が経つ一方、ときに極限まで削ぎ落とされたものを生み出すことがある、と深井さんは説明します。
その例として挙がったのが無印良品です。シンプルに引き算しながら、強い思想を押し出さない中庸のものを作るのはかなり日本的で、アメリカでは流行るイメージがないが中国やEUでは普及している、というのも配置と関係しているのではないか、と深井さんは話しています。
日本人は、なぜそう判断するのかを自覚しているのか
渡邉さんは、こうした表れ方の違いにはいろいろな切り口があると認めつつ、「そのルーツは何か」と問われた途端に難しくなる、と指摘します。何をベースにその判断基準になっているのかが、今回の龍源さんの問いの核心です。
龍源さんは仏教者の立場から、自分がなぜそういう判断基準を持っているのか、それがどこから来るのかをメタ的に知っておくことがとても大事だと話します。それがないと、平常時はよくても、何かあったときに判断を間違えてしまうかもしれない、というのが理由です。
渡邉さんは、自身のキャリアで最も長く関わったビジネススクールを例に挙げます。ビジネススクールは典型的なアメリカからの輸入品なのに、日本のものは全く違う姿になっていて、アメリカ人が来ると「なんだこのカリキュラムは」と驚くそうです。
コアの科目に、アメリカ西海岸の人たちには意味不明に見える科目が置かれ、それを「私たちの売りです」と言っていた、と渡邉さんは振り返ります。ただ、それを意識してやっていたのかと聞かれると難しく、そうなっていた、という感覚に近いといいます。
ここで深井さんは、証拠はないと断ったうえで、飛び道具的な仮説を投げかけます。日本にもいろいろな人や思考があり、今注目している側面は、美意識や鎖国といったいくつかの偶然の掛け算によってたまたま強調されたにすぎないのではないか、というものです。
深井さんには美意識や鎖国にまつわる好きなエピソードがいくつかあるといい、次回はそこから話を始めることになりました。
まとめ
今回の対話では、ミャンマーの「功徳」、スタジアムや学校の掃除、道のきれいさを「リスペクト」と表現したイタリア人の視点などを手がかりに、宗教的な理由を語らないまま一定の振る舞いを続ける日本人の判断基準が掘り下げられました。砂漠と森林、田んぼと畑、2×2のマトリックスといった比較で輪郭は見えてきたものの、そのルーツはまだ霧の中で、次回は美意識と鎖国の話へ進みます。
- ミャンマーの人は親切の理由を「功徳」と即答するが、日本人は同じような振る舞いを宗教的な言葉で説明しない
- 掃除やゴミ拾いは教育や武道に組み込まれ、海外からは周囲への敬意の表明として受け取られている
- 砂漠的思考と森林的思考、田んぼの共同体文化、決断型とバランス型の2軸などが、日本の精神性を考える手がかりとして挙がった
- 龍源さんは、自分の判断基準がどこから来るのかを自覚することが、いざというときの判断のために大事だと語った
- 日本の判断基準は美意識や鎖国など偶然の掛け算で強調されたのではないか、という仮説が次回へ持ち越された



