「集団的不安」の議論はどこまで進んだのか
深井龍之介さんを迎えたテーマ「僕たちは集団的不安に打ち勝てるのか」は、この回で2週目に入ります。冒頭では、渡邉康太郎さんが前回の議論を振り返りました。
前回の出発点は、深井さんの「最近、不安が拡大しているのではないか」という問題提起でした。戦争や選挙、気候変動による九州の大雨、パレスチナとイスラエルの戦争などが、集団の不安を強めている気がするという感覚です。
一方で渡邉さんは、ギャロップ ── アメリカの世論調査会社。世界各国で人々の感情や幸福度に関する調査を継続的に行っていますの「Global Emotions」という調査では、2024年にここ10年で初めてネガティブ感情やストレスが低下したと紹介しています。不安は増幅一辺倒ではなく、自分の感覚だけでは当てにならないかもしれない、という論点です。
ただし、政治の分断は日本でも広がっていて、インテリが庶民や信徒をバカにすると相手を理解できなくなる、という指摘もありました。ル・ボン ── 19〜20世紀のフランスの社会心理学者。『群衆心理』で、群衆の中では感情が伝染し個人の理性が弱まると論じましたの『群衆心理』に出てくる「感染」という言葉を手がかりに、恐怖や怒りは感染しやすいので、当事者でない人は感情的にも時間的にも距離を取れるのではないか、とも話されています。
荒木博行さんからは、知人の経営者が荒木さんとは違う政治思想を語っている例が出されました。その人の個人的なナラティブと、ある党のナラティブが共鳴して物語が感染したのかもしれない、という見立てです。
前回の議論は、国家や宗教のナラティブにも目を向けました。古代にルーツがあるように見える伝統的な儀式も、実は近代に作られたものがあり、人は歴史にナラティブを後付けしてきたのかもしれないという話です。
渡邉さんは、問いを急いで具体化せず、混乱した状態をもう一周続けてみようと提案しました。ソーシャルメディアがもたらす感染や共感の圧力に対し、従順すぎず抗いすぎないバランス感覚が大事だ、というのが前回の着地点です。
すごいまとめだ。
民族も国家も「決めの問題」なのか
振り返りのあと、深井さんは前回のナラティブの話をもう少し続けたいと切り出します。歴史を勉強していて強く感じるのは、「自分たちはこういう民族だ」という語りの多くが幻想だということだそうです。
歴史勉強しててすごい感じるのが、自分たちはこういう民族だみたいなやつ。大体やっぱね、幻想なんだよね。
実際のその本物の、その自分たちのルーツとかがわかっちゃったりするとびっくりするんだろうなって思いながら勉強してたりする。
荒木さんは、民族の物語が幻想だとしても、だからこそ力を生む側面もあると応じます。深井さんも同意しつつ、民族という言葉そのものが幻想に近く、国家も民族も基本的には「こうだ」と決める問題だと話します。
渡邉さんは、ポルトガルで読んだ日本語の本に「ポルトガルは一民族一言語国家」と書かれていて驚いた体験を紹介します。イベリア半島は北アフリカに近く、イスラム圏の影響も受け、大航海時代 ── 15〜17世紀にヨーロッパ諸国が航海によってアフリカ・アジア・アメリカへ進出した時代。ポルトガルはその先駆けでしたには活発に動いていた国だからです。
事実かどうかは僕はちょっとジャッジできる知識とかデータはないんだけど、こういう説明あり得るんだとか思っちゃったよね。
渡邉さんは、一民族かどうかを自分は判断できないと断ったうえで、文化的交流が盛んだったはずの国を「一民族」「一言語」とさらりと言い切る説明に違和感を覚えた、と話しています。
ミュージカル『ハミルトン』は何を起こそうとしているのか
深井さんは、日本もよく単一民族のように言われるものの、古代の段階ではかなり多民族国家だった可能性が高いと考えています。そこで例に出したのが、ニューヨークのブロードウェイで観たミュージカル『ハミルトン』でした。
『ハミルトン』は実在の人物アレクサンダー・ハミルトン ── アメリカ建国の父の一人で、初代財務長官。白人の政治家ですが、ミュージカルでは非白人の俳優が演じることで知られますの物語です。史実では白人のハミルトンを、アジア人や黒人が演じていることに、深井さんは当初どういう意図なのかと考えたそうです。
深井さんが腹落ちした解釈は、日本の大化の改新の頃を描くドラマとの比較でした。その時代の日本は多民族で、氏族によって顔立ちも言語も違った可能性があるのに、今のドラマでは物部氏も蘇我氏も日本人の役者が演じます。
いや、それ弥生系の顔じゃないじゃんとか言わないじゃん、もう。
やっぱそれ(大化の改新のドラマ)と同じことを起こそうとしてんだろうなと思って、すごい納得したんだよね。
深井さんの見立てでは、『ハミルトン』は「アメリカ人にアジア系も何もないだろう」と伝えようとしているのではないか、ということです。日本人が顔立ちの違いをもう気にせず全員を日本人と思っているように、元は白人だという意識も変えうるという考えです。
多民族だった可能性のある時代の物部氏や蘇我氏を、今は違いを気にせず日本人の役者が演じる
史実では白人のハミルトンを、アジア人や黒人が演じる。人種の違いを気にしない状態を起こそうとしているのでは、という解釈
ほんとナラティブなんだよね、それも。ストーリー付けでしかなくて。
深井さんは、自分たちが何人かという語りも含めて全部ナラティブでできていると認めたうえで、そのファクトをどう扱えばいいのか、言っても仕方がないとも感じていると話します。
渡邉さんは、ハミルトンの配役は演劇の世界で機会を得られなかった人種的マイノリティに機会を開く、アファーマティブ・アクション ── 歴史的に差別されてきた集団に、教育や雇用などで優遇的に機会を与える是正措置のことの表れではないかと問いかけます。深井さんは、直近の狙いはアファーマティブ・アクションと機会の平等で間違いないと答え、逆差別と言われてもおかしくない種類のものだとも付け加えました。
実際、なんかもっと歌上手い人いたもん。主役より。
深井さんが観た公演では主役はアジア人で、黒人ですらなかったといいます。深井さんは、次はアジア系を押し出そうとしているのだろうと感じ、「すげえなアメリカ」と思ったそうです。
アメリカの歴史認識をめぐる「1619プロジェクト」とは
渡邉さんは、日本ではこうしたムーブメントが起きていないため距離があり、アメリカ人がどう考えているのかが気になると話します。深井さんは、ニューヨークに住む人たちはこの動きを歓迎的に見ていて、その空気を牽引する誇りも持っているだろうと答えます。観客には黒人も多く、アジア人はほとんどいなかったそうです。
渡邉さんは、白人が黒人奴隷のもとで作ってきたアメリカの歴史への反省を込めた動きとして、ニューヨーク・タイムズが牽引した取り組みを紹介します。最初は年号を言い間違え、あとで「1619プロジェクト」だったと訂正しました。
渡邉さんがWikipediaを読み上げて紹介したところでは、ジェームスタウンに初めて奴隷が連れてこられた1619年を真のアメリカ建国として描いた長編ジャーナリズム作品で、著者は2020年にピュリツァー賞を受賞しています。アフリカ人奴隷をアメリカの物語の中心に据える試みが、建国をめぐる議論を加速させたといいます。
ただし渡邉さんによれば、黒人の学者から事実の部分に疑義があると事前に指摘されていたのに、十分な調査や訂正をせずに記事が出され、のちにウェブサイトの記述がしれっと書き換えられたこともあったそうです。
大義として正義に向かってる感じがするんだけど、そのプロセスはあんまり本質的じゃない、急ぎすぎた側面があるっていう。
問題提起
黒人の犠牲の上に成り立った国だと受け止め、歴史認識を更新しようとする
指摘
黒人の学者から事実の部分に疑義があると事前に指摘される
発表
十分な調査や訂正をしないまま記事が出る
修正
ウェブサイトの記述がのちに書き換えられ、反省を示す対応も必要になる
この経緯は、会田弘継さんの『それでもなぜトランプは支持されるのか』で紹介されていたと渡邉さんは話しています。
深井さんは、アメリカには主義主張を一度思いきりぶつける文化があり、どちらの方向にも行き過ぎることが多いと感じています。渡邉さんは、東浩紀 ── 日本の批評家・哲学者。著書『訂正する力』で、過ちを認めて修正し続ける力の大切さを論じましたさんが『訂正する力』で、むしろそこがアメリカや欧州の強みだと論じていたと応じました。
まあそれ(1619年を建国とする見方)もナラティブだよね。なんかもう正直どっちでもいいんじゃないかなって思っちゃうんだけど、開始年自体は。
深井さんは続けて、問題は開始年そのものではなく、今の彼らの関心として、どのナラティブで合意するかという話なのだと整理しています。
ナラティブなしで不安は払拭できないのか
深井さんはここで、ナラティブの話を元の不安の話に戻します。問いが鋭くなってきたとして、ナラティブがないと人は不安を払拭できないのか、と投げかけました。
そのナラティブっていうのはどういうナラティブだったらいいんだろうね。むずいなって思って。
深井さんは、ナショナリズムを全部否定したいわけではないものの、この話を突き詰めると大体ナショナリズムの否定になってしまう難しさも口にしています。
荒木さんの答えは、ナラティブを選択できるとよい、というものでした。ナラティブなしで生きるのは人として無理だと感じる一方、一つのナラティブだけに生きることからは抜け出せるのではないか、と荒木さんは考えています。
みんながより相対的になる方がハッピーになるんじゃないかという気はしている。
絶対的な物語に依拠し、そこから外れにくい
ナラティブは手放せないが、複数を前提に選び取れる
渡邉さんもこの考えに一理あると応じます。違いがある前提で「あなたはその信念、私はこの信念」と言える場をどこまで広げられるかが鍵だという整理です。
ただし渡邉さんは、違いを断絶と捉えずに交流や共存を続ける手続きは骨が折れるので、距離を取ったり分断したりするほうが楽なのが今の時代だとも話します。
本当に日本人の多分100倍ぐらい努力して、そのすり合わせの、異なる意見との共存の努力を100倍ぐらいしてて、それであれだもん。
深井さんは、アメリカは異なる意見との共存に日本の100倍ほど努力しているのにあの混乱ぶりで、若干の絶望感を覚えると率直に語っています。
レストランの毛虫と同じ小中、距離は何で決まるのか
渡邉さんは「めちゃくちゃ頭悪い話」と前置きして、分断を身近な例で考えます。一人で夜のレストランに入り、5〜6人組の集団が食事をしていたら、敵でも味方でもない他人でも、自然と少し距離を取るはずだという話です。
渡邉さんによれば、異なると認識した瞬間にそこへ混じらないのは動物的に普通の営みかもしれません。放っておくと分断するのは本能に近い防御的リアクションであり、違いを理解したうえで交流をやめないのは非常にカロリーが高い、という見方です。
渡邉さんはさらに、高校に入学したとき、一度も話したことがない相手でも同じ小中学校出身というだけで気軽に話せるようになる例を挙げます。友達ではなかったのに、他の人より近いと思い込めるのが面白いというのです。
どでかい毛虫みたいのがさ、6匹ぐらいで飯食ってたら、多分さ、全然違う人種でも「お、どうしよう」つって多分。
荒木さんは、レストランに巨大な毛虫の集団がいたら、人種の違う客同士でも一緒に戸惑うだろうと例えます。渡邉さんが「協力する」と受け、「正直レストランから逃げる方が先かも」と笑いが起きました。荒木さんは、カフカの『変身』のグレゴール・ザムザ ── カフカの小説『変身』の主人公。ある朝目覚めると巨大な虫に変わっていたという設定で知られますのようだとも口にしています。
でもまあそういうことだよね。結局他の何と比較して近いかみたいな話で。
渡邉さんも、距離感も相対的なものだとまとめます。近いメンバーの中ではその中の小さな差異が違いになり、遠い存在がいれば、それとの比較で距離感が生まれるということです。
荒木さんは、アメリカがこれほど努力しているのにという深井さんの絶望の話を、全4回のうち次回の冒頭で取り上げたいと提案しました。最後に渡邉さんが、この回に登場した本として『それでもなぜトランプは支持されるのか』とカフカの『変身』を挙げて締めくくっています。
まとめ
この回は、国家や民族がナラティブで作られているという歴史的な視点から始まり、ミュージカル『ハミルトン』や1619プロジェクトを経て、ナラティブとどう付き合えば不安や分断と向き合えるのかへと話が進みました。荒木さんの「相対性の中に生きる」という提案と、違いとの距離は比較で決まるという渡邉さんの身近な例が、次回以降の議論の足場になっています。
- 深井さんは、民族も国家も基本的には「決めの問題」であり、ナラティブだと話している
- 『ハミルトン』の配役は、大化の改新のドラマのように人種の違いを気にしない状態を起こそうとしているのでは、と深井さんは解釈した
- 1619プロジェクトは歴史認識を更新する試みだが、プロセスを急ぎすぎた面もあったと渡邉さんは紹介した
- 荒木さんは、ナラティブなしには生きられなくても、一つのナラティブではなく相対性の中に生きることはできると考えている
- 距離を取るのは本能に近く、誰を近いと感じるかも比較の中で決まる相対的なものだと話された




