自然を「制御可能な機械」と見る西洋近代の前提とは?
この回は、映画『もののけ姫』から日本的なサステナビリティの仮説を探る話の続きです。渡邉さんは、前回話した旧約聖書的な世界観ともののけ姫的な世界観の比較を、冒頭で振り返ります。
渡邉さんによると、旧約聖書には神、人間、自然という垂直のレイヤー構造があり、人間は自然を支配・管理・お世話する役割を与えられているという世界観があります。
さらに西洋近代の価値観では、自然を制御可能な機械とみなしたり、帝国主義的に国威発揚のため自然を探検・征服したりする考え方が強かったと渡邉さんは話します。
その後に出てきた「保全」の考え方も、渡邉さんの見立てでは、自然を作物とみなし人間の利益のために賢く使うという発想が根底にあります。人間が自然をコントロールできるという前提を残したままの方向転換であり、荒ぶる神や自然を抱える東アジア的な世界観とは違いそうだ、というのが前回の到達点でした。
神・人間・自然の垂直構造。人間が自然を支配・管理し、保全も人間の利益のための賢い利用が前提
荒ぶる神や自然がいて、人間が自然をコントロールできるという前提に立たない
会社組織は機械か、生き物か
荒木さんは、自然を機械と見るか生き物と見るかという話は、会社組織をどう見るかにも通じると切り出します。荒木さん自身がビジネススクールで教えてきた経験から、経営の知の源流はアメリカなど西洋にあると指摘します。
(経営の知の)基本っていうのはさ、やっぱり管理っていうことがベースになってるわけだよね。支配みたいな。
渡邉さんが「マネジメントだもんね」と返すと、荒木さんは、経営学は経営者がいかに組織を支配し、コントロールし、再現可能な方程式に落とせるかを追ってきた歴史だと続けます。
荒木さんが引っかかるのは、その対象が本来は自然物である人間だという点です。人は機嫌が悪かったり調子が悪かったりし、自分の体さえ急にコントロールできなくなることがあります。
そういう寄せ集めがその会社組織というものを作っているみたいなことだから、動物の集団なんだよね。つまり自然の集団なわけですよ。
荒木さんによると、組織を管理できないものとして見て接するか、方程式があるコントロール可能なものとして接するかで、出来上がる組織はまったく違ってくるといいます。
だから荒木さんは経営者と話すとき、その人が組織をコントロール可能なものとして見ているかどうかという世界の見方を、直感的に大事なポイントとして気にしているそうです。西洋と東洋で分けること自体には留保をつけつつ、組織をコントロール可能なものと見るかどうかが問われていると話します。
なぜビジネス用語は軍事用語だらけなのか?
渡邉さんは荒木さんの話を受けて、そもそも経営用語に軍事用語が非常に多いことを指摘します。戦略(ストラテジー)、戦術(タクティクス)、兵站(ロジスティクス)、前線(フロントライン)、目標(ターゲット)、展開(デプロイメント)などです。
渡邉さんの見立てでは、産業革命以降に企業が巨大化し、数千・数万人規模の人間を統率する必要が出てきたとき、参考にできる組織や指示系統が軍隊くらいしかなかったのではないか、といいます。明確なヒエラルキーやラインとスタッフの考え方も、そこから来ていると渡邉さんは話します。
産業革命
企業が巨大化し、働く人数が急増する
統率の必要
数千・数万人規模の人間をコントロールする必要が出る
軍隊を参照
大人数の組織・指示系統の手本が軍隊くらいしかない
軍事用語の定着
戦略、兵站、前線などがビジネスのメタファーになる
荒木さんは、安西さん ── 株式会社MIMIGURIの代表で組織論の著述家・安斎勇樹さんを指すとみられます。表記は安西の著書『冒険する組織の作り方』も、軍事的メタファーにどう対抗するかをテーマに書かれていたと振り返ります。管理と軍事は相性がいい、というのが荒木さんの受け止めです。
自分を機械とみなす自己管理の落とし穴
荒木さんは、管理を軸にした世界観にはまると、自分自身さえ機械とみなす感覚が出てくると話します。意思によって何とでも動ける、何とでも実現できるという考え方には、自己啓発の影響が大きいと荒木さんは見ています。
だから自分をコントロールできる対象として見なしているわけだよね。
その一番ミクロなのが自分への接し方だと思うんだけれども。
一方で、荒木さんは「自分は自然である」という見立ても示します。自分は意図とは切り離されて動きたいように動き、動かないときは動かない存在だと捉えられれば、付き合い方が変わるといいます。
荒木さんによると、もてはやされるビジネスパーソン像は、自分の意志で自分を完璧に動かせるというマシン的なメタファーに寄っています。マクロな組織観が個人へとカスケードダウンし、それがうまくいかないと心身が分離したような精神的な不調につながるのではないか、と荒木さんは現代病として捉えています。
自分は機械。意思で何とでも動かせるはずで、動かないと心身分離のような不調に陥りかねない
自分は自然。意図とは切り離されて動く体と、どう付き合うかを考える
ティール組織が示す機械型から生命型への転換
渡邉さんは、軍隊や機械のメタファーは、もともと変数が少なく予測可能な世界で、統率しながらゴールを達成するためのものだと整理します。
渡邉さんは、ティール組織 ── フレデリック・ラルーが著書で提唱した組織モデル。組織の発達段階を色で表し、自律分散的で生命体のように進化する組織をティールと呼びますを提唱したラルーも、まさにこのことを言っていると紹介します。
機械のメタファー。軍隊型や産業革命後の企業モデルで、レバーを操作して管理し、交換可能な部品たる社員の出力を最大化する
生命体の象徴。細胞的なチームが自律分散で独自の機能を持ちつつ全体として調和し、予測不可能な世界に適応する
渡邉さんによると、ティール組織は中央からのコントロールがあまりできない世界でどう動くかを考えるもので、一人一人が動物的・生命的な人間であることを踏まえています。
渡邉さんは、人間が世界観を複雑系として捉えるほど、組織の在り方も生命的にするのが良いという帰結にビジネスの世界でも至ってきていると話します。そして同じことが自然にも言えるのではないか、というのがもののけ姫で言いたいことだと明かします。
もののけ姫の誰も「絶対善」ではない世界
渡邉さんは最近、もののけ姫をデジタルリマスター版で見直し、あらためて複雑でとても面白いと感じたといいます。そこで物語の流れを振り返ります。
縄文っぽい東北辺りに住んでいそうな、独自の文化を持つアシタカの一族の村に祟り神がやってきます。アシタカは村の娘たちを救うため祟り神を倒しますが、腕に呪いを受け、村を出て祟り神が来た西へ向かいます。
アシタカがたどり着くのは、エボシ御前が率いるタタラ場です。渡邉さんは、以前深井龍之介さん、荒木さんと一緒に訪れたたたら製鉄 ── 砂鉄と木炭を炉で燃やし、ふいごで風を送って鉄を得る日本古来の製鉄法。大量の木炭を使うため森林の伐採を伴いましたの現場を、もっと大規模にしたお城のような場所だと表現します。
物語の中でエボシ御前は、もののけ姫であるサンと敵対し、森林破壊もしているため悪役に見えます。ところが渡邉さんは、エボシ御前には善の側面もあると指摘します。
エボシ御前は、遊女として地位の低かった女性たちをかくまい、住みかと仕事を与えています。タタラ場では女性が強く、みんなで足を踏んでふいごを吹き火を絶やさない風景が描かれます。全身を包帯で巻いたハンセン病患者の包帯を自ら替え、体を洗い、仕事を与える場面もあります。
渡邉さんによると、差別されてきた人々のために生きる場所を作ることが、エボシ御前のライフワークの1つでもあります。
自然の側も清らかなだけではありません。死と生を司るシシ神、イノシシの祟り神、サンの育ての親である山犬が登場し、憎しみや復讐心に駆られたイノシシや、人間を食べたいと考える猩々のような怖い存在も描かれると渡邉さんは話します。
アシタカ自身も、悪を倒そうと矢を放つと呪いの力で人の首や腕が飛んでしまう、超人的な破壊力を宿した二面性を持っています。渡邉さんは、アシタカの描かれ方を人間の両義性そのものだと見ています。
(もののけ姫は)善悪二元論を拒否するとか、どの側にもなんか正当性と暴力性が潜んでいるみたいなのは言えて。
渡邉さんは、映画全体はどの立場も絶対善ではない中で、関係調整をするプロセスを描いていると読み解けると話します。人間、森、エミシ、朝廷、タタラ場と、3つ4つ5つのコミュニティが歴史的・環境的に対立する分かりづらい構図こそが魅力だといいます。
八百万の神はなぜローカルなのか?
渡邉さんは、もののけ姫の複雑さは八百万の神 ── あらゆるものに神が宿るとする日本の多神教的な考え方。山や川、石、火など自然物や営みそれぞれに神を見いだしますの考え方に通じると話します。山、川、石、火、人の営みなど、いろいろなものに神が宿り遍在している感覚です。
渡邉さんによると、最近の環境倫理の研究でも、こうした神々の存在が日本人の自然への道徳的な感受性を育ててきたと言われているそうです。
旧約聖書と比べると、日本の神々は神・人・自然という一直線ではなく、ネットワーク的で局所的だと渡邉さんは整理します。山の神は村人と、川の神は漁師と、別の神は百姓とつながり、そうした局所的な関係が束になって人間界や自然界の全体像を作ります。
神・人・自然が直線的な序列をなし、神は世界全体を支配する
山の神と村人、川の神と漁師など局所的な関係が束になり、ネットワークとして全体を作る
だから神は世界を支配する神じゃなくてローカルな神なんだよね。
渡邉さんは、もののけ姫の山犬や猩々、イノシシも森の自分の領域に根ざした局所的な存在にとどまっていると指摘します。森も神もタタラ場も全員が生き残りのために戦い、暴力性と正当性を宿しているのが面白いポイントだといいます。
綺麗なソリューションのない世界をどう生きるか
渡邉さんに話を振られた荒木さんは、もののけ姫の世界には素晴らしく綺麗なソリューションがないと応じます。みんなが少しずつ妥協しながら、1ミリずつバランスを取っていくしかない、というのが荒木さんの受け止めです。
荒木さんは、矛盾を矛盾のまま抱え続けるネガティブケイパビリティ ── 答えの出ない不確かな状況に、性急に結論を出さず耐える力。詩人キーツが用いた言葉で、精神医学などでも注目されていますの重要性にも触れます。
分かりやすいソリューションっていうのは基本的に全てにおいて効かないんだよね。なんかそれを僕らは求めちゃうし、なんか外交問題とかもそうじゃない。
荒木さんは外交を例に挙げます。対中国、対ロシア、トランプ氏への働きかけなどで「強くこうすれば解決できる」と言いたくなるものの、社会はめちゃくちゃなネットワークなので、そうはいかないといいます。
もののけ姫から考える日本的サステナビリティの仮説
渡邉さんは、社会が複雑な関係調整で成り立っているという一見当然のことを、自然に当てはめるとどうなるかを考えます。そして、もののけ姫を日本的なサステナビリティのヒントとする仮説を示します。
渡邉さんの仮説では、神、人間、動物、その周辺の人々がそれぞれの事情を抱えつつ、なんとか共存できるバランスを探し、交渉し続けるプロセスこそがサステナビリティです。
神の代理人として、人間が自然を正しく管理する
事情を抱えた多様な存在が、共存できるバランスを探し交渉し続ける
渡邉さんは、世界を二分して善悪を決めるのではなく、整理しきれない多様な存在のせめぎ合いを引き受ける知恵が求められているのではないかと話します。
資本主義社会で、発展途上国から安く資源を調達して先進国で消費するように、外側を外側として管理するだけでは立ち行かない、という問題意識はどの文化圏にもあると渡邉さんは認めます。そのうえで、根底の自然観としてアニミズム ── 自然物や現象に霊魂や精霊が宿ると考える信仰や世界観のようなOSを少しでも共有できれば、関係調整のきっかけになるのではないかと語ります。
渡邉さんはもう1つの方向として、安宅和人さんの『風の谷という希望』や、竹村泰希さんの『地球第三の森』のように、複雑な状況を単純化しすぎずにタックルするアプローチを挙げます。表記は竹村泰希です。
『地球第三の森』については、人間の都市こそが生命を育む第三の森林になり得るという逆転の発想だと渡邉さんは紹介します。知的好奇心をくすぐり、夢を見せてくれるアプローチも同時にあるといい、と話します。
最後に荒木さんが時間を告げ、新年のカジュアル版として今回は区切り、話は次週へ続くと締めくくられます。
まとめ
渡邉さんと荒木さんは、自然や組織、さらには自分自身を「制御可能な機械」と見る前提を問い直し、もののけ姫の善悪二元論を拒む世界から、多様な存在が交渉し続ける日本的サステナビリティの仮説を描きました。
- 経営学は管理・支配をベースに発展し、戦略や兵站など軍事用語が多く使われている
- 組織も個人も本来は自然であり、コントロール可能と見るかどうかで接し方が大きく変わる
- ティール組織は、機械型から自律分散の生命型への組織観の転換を示している
- もののけ姫ではどの立場にも正当性と暴力性があり、物語は関係調整のプロセスとして読める
- ローカルな八百万の神の感覚は、共存のバランスを探し続けるサステナビリティのヒントになりうる


