前回の振り返り。表現を奪うものと「余白」
この回の前半では、渡邉康太郎さんが前回の議論を振り返ります。テーマは「なぜ人は大人になると表現者でなくなってしまうのか」です。前回は、表現を定義するより先に、自分の行為を「表現」と呼べるかどうかという問題が出てきました。
渡邉さんによると、自分の行為を表現と呼ぶのは気恥ずかしく、呼びたくないという心の動きがあります。子どもの頃に表現したい心を奪われる経験もあり、それは何かを作ることだけでなく、問いを持つ心にもつながっていると整理されました。
荒木博行さんが、習っていたピアノを表現とは言いたくない理由として挙げたのが「遊び」や「余白」の有無です。算数で答えを出すだけなら表現とは言いにくくても、他の人が引かない補助線や独自の解法があれば、そこには表現性があるかもしれない、という話でした。
一方で、余白が残されていても、慣れていなければ「表現してみて」と言われても難しいという「表現慣れ」の問題も出ています。美術ではゼロから絵を描く機会があるのに、音楽ではゼロから表現する機会がそもそも与えられていなかったかもしれない、という指摘もありました。
的場優季さんは、前回の「余白」と「遊び」の話が、本のタイトルにある「生きる」という言葉と深くつながっていると感じたと話します。タイトルを『生きるための表現手引き』とシンプルにしたこと自体に、読者それぞれが自分にとっての「生きるため」を見出せる余白があると振り返りました。
「編集者は表現者であってはいけない」は本当か
荒木博行さんは、的場さんに「この本は、的場さんにとって表現ですか」と問いかけます。担当編集者自身に、作った本との関係を聞く質問です。
的場さんの答えは、この本を作るまでは「編集者は表現者であってはいけない」と思っていた、というものでした。本は著者のものであって編集者のものではなく、映画でも「監督の作品」とは言っても「プロデューサーの作品」とは言わない、という考えです。
的場さんの考えを変えたのは、この本の元になった渡邉さんの講座でした。flier ── 本の要約サービスを運営する企業。読書や学びをテーマにしたオンライン講座なども手がけていますの「flier book camp」で、渡邉さんは「非表現者のための表現手引き」というワークショップシリーズを開いていました。講師満足度は5.0の満点だったそうです。
的場さんが受講生に話を聞いたところ、もともと創作に縁がないと思っていた一人が「作っていないと自分自身じゃないかもしれない」と語ったといいます。渡邉さんも、作ることと無縁だと思っていた人がそこまでの自己認識に至ったことに驚いたと話しています。
その受講生は、ものづくりをしていない仕事の場面でも自己開示するようになったそうです。ビジネスライクな会議では自分の話をしてはいけないと思っていたのに、自分を出すことで自分自身でいられる気がする、と話していました。
この話を受けて的場さんは、どんな仕事でも「自分自身でいること」と「表現すること」は一致していると気づき、編集者も表現者であっていいと思えたと語ります。この本は、編集者という仕事への考え方まで変えてくれた本だといいます。
本は著者のものであり、編集者は表現者であってはいけない
著作物は著者のものでも、編集者としての関わり方は表現になり得る
作者と読者のあいだにある「広大なスペース」
荒木博行さんは、編集が表現かどうかは人によって考えが分かれる自認の問題だとしたうえで、編集には大きな余白があると指摘します。著者が作ったものを世に届ける過程に、その余白があるという見方です。
著者のメッセージと世の中、読者みたいなことがあった時に、これ(両者)が完全にかみ合うかどうかっていうのはすごく未知数なわけで、ここに広大なスペースがあるわけですよね。
渡邉さんに「何と何のスペースか」と聞き返された荒木さんは、「読者と作者の間」だと答えます。両者は一対一で対応せず、噛み合うとも限らないため、その間をつかさどる編集者がどう埋めるかが問われるといいます。
ただし荒木さんは、編集が過度にメソッド化されると、その「間」がなくなっていくと話します。「うちの会社はこういう形でやります」と決まってしまうと、遊びの領域が奪われていくという指摘です。
僕のその子供の頃のピアノみたいに、この鍵盤を押せみたいなことしか思えてこなくなるみたいな、そういう仕事をやってると、やっぱ編集っていうのは表現ではないっていう話になってっちゃうと思う。
余白がある
作者と読者の間には、埋め方の決まっていない広いスペースがある
型や他者の目に依存
メソッド化、上司の顔色、過去の事例に頼り始める
余白が埋まる
決められた鍵盤を押すような仕事になり、表現ではなくなる
的場さんは、編集が表現でなくなるパターンはもう1つあると話します。上司の顔を見ながら作るなど、自分ではないと感じるやり方をすると、仕事が表現ではなくなってしまうといいます。
的場さんには、すぐに上司と連絡が取れず、AかBかを自分で決めた経験がありました。誰かの正解を探す作業ではなく、自分で作り出さなければいけないと思った瞬間だったそうです。
的場さんは、本そのものを自分の表現物と言うかは別として、自分がいいと思ったものを提案するような小さな関わり方に、仕事を表現にしていく道があると考えています。著作物は渡邉さんのものであってほしいとしつつ、関わり方は表現になり得る、という繊細な区別です。
荒木さんは最初の問いの意図について、編集は表現だと思っているし、そう思っていてほしいからだと明かします。「この仕事にどう向き合いましたか」という問いでもあったと聞き、的場さんは「ドキッ」とし、渡邉さんは「入社面接みたい」と笑いました。
赤字だらけの一冊目と、松岡正剛の「エディトリアル」
渡邉さんは荒木さんに、これまでの本づくりで印象的だった編集者とのやりとりを尋ねます。荒木さんが挙げたのは、2013年に出た一冊目の本『ストーリーで学ぶ戦略思考入門』でした。
荒木さんの原稿は、業界のジャーゴン ── 特定の業界や集団の中だけで通じる専門用語や言い回しや使い古された言葉に徹底的に赤が入り、赤字だらけで戻ってきたといいます。最初はショックで、「ここまで書かなきゃいけないの?」と感じたそうです。
僕にとってはすごくその狭い範囲の読者しか見えてなかったんだけれども、本を届けるっていうのは、ある種もっともっと広がりのある世界で。
荒木さんは、編集者は著者には見えない読者を見ていると気づいたと話します。グロービスから出る本ならビジネススクールの語彙が入っていて当然にも思えますが、それでも言葉そのものに自分の思考が規定されていたことに気づかせてくれたのが、当時の編集者だったといいます。
荒木さんはここから、松岡正剛 ── 編集工学を提唱した編集者・著述家。「編集」を本づくりに限らず、情報や知を関係づける営みとして捉えましたの本『編集宣言』書名に話をつなげます。渡邉さんから香港で借りた本で、サブタイトルは「編集芸からエディトリアル闘争へ」だったと記憶しているそうです。
荒木さんの理解では、松岡さんは手垢のついた「編集」という言葉を捨て、どんな仕事でも「エディトリアル」を冠すれば戦いになる、という趣旨を語っていました。荒木さんはこれを、今回の文脈でいえば「表現になる」ということだと読み替えています。
未経験から編集者へ。最初に教わったこと
渡邉さんは的場さんに、なぜ編集者になったのかを尋ねます。的場さんはもともと、50〜60歳くらいになったら本に関われたらいいと思っていたそうです。
前職で転機があったとき、的場さんはその時期を20〜30年早めても面白いかもしれないと考えました。当時、未経験者に門戸を開いていたのがNewsPicksだけだったといい、編集者になったのは「結構たまたま」だったと振り返ります。それでも結果としてとても良かったと話しています。
的場さんが編集スキルを身につけた最初の1年半では、前の編集長の井上晋平井上晋平さんの言葉が支えになりました。読み手である期間が長かったことは自信を持っていい、その読み手としての自分を原稿に生かしていくのだ、と教わったといいます。
そのうえで的場さんは、タイトル回りのようなテクニカルな部分や、本をどう見せてパッケージ化するかを教わりました。謝罪の仕方のような、人間関係を作っていく部分も含まれていたそうです。
表現者同士で「編む」関係とは
荒木さんは、著者と編集者の関係はとても難しく、自分もいつも悩むと話します。そのうえで、渡邉さんが的場さんを番組に呼ぼうと提案したこと自体が、2人の関係性を表しているといいます。
決められた鍵盤を叩く人であって欲しくないわけですよね。だから表現者と表現者がお互いにこう、まさにこう編むっていう関係性でありたいなと思っている。
荒木さんによれば、表現は自分をさらけ出すリスクを取る行為です。著者は自分の思想をさらけ出して脆い状態になるのに、編集者はさらけ出さないという非対称な関係では、うまくいかないといいます。
著者だけが思想をさらけ出し、編集者はさらけ出さない非対称な状態
お互いにさらけ出し、リスクを取りながら作り上げていく
荒木さんは、その理想が実現できないことが多いからこそ、冒頭の「この本は表現ですか」という問いにつながったと説明します。一冊目の赤字については、ショックであると同時に開眼でもあったと渡邉さんがまとめました。
当時の荒木さんは、出版社は原稿を製本して流通に乗せる存在くらいに思っていたといいます。実際には、ノウハウや蓄積、プロフェッショナリズムがあり、編集者ごとに違う世界観と表現があることを徐々に学んでいったそうです。
渡邉さんは、リスナーも「自分の仕事は表現か」を考えながら聴いているのではないかと語ります。次回は的場さんの提案で、大人になった私たちはどうさらけ出せるのかをテーマに深掘りすることになりました。
まとめ
今回は、担当編集の的場さん自身が「編集者は表現者か」という問いに向き合いました。著作物は著者のものでも、余白への関わり方や、自分をさらけ出す姿勢によって、仕事は表現になり得るという視点が示されています。
- 的場さんは「編集者は表現者であってはいけない」と考えていたが、本づくりを通して関わり方が表現になり得ると捉え直した
- 荒木さんは、作者と読者の間の広いスペースこそ編集者の表現領域だとし、メソッド化や他者の目がその余白を奪うと指摘した
- 荒木さんの一冊目は赤字だらけで戻り、編集者は著者に見えない読者を見ていると気づかされた
- 理想は、著者と編集者がお互いにさらけ出し、リスクを取りながら「編む」関係だと語られた




