メキシコ、イスタンブール、ドバイへ続く1月
2026年最初の配信となるこの回は、年末に収録されています。渡邉康太郎さんは「2025ってキーボードで打つのにだんだん慣れてきたと思ったら、もう2026」と、年が変わる早さに驚いていました。
渡邉さんの1月は移動続きです。年末からメキシコに滞在し、その後は荒木博行さんとイスタンブールへ向かい、深井龍之介さんと合流する予定だといいます。
さらに渡邉さんは、仕事でドバイにも行きます。ドバイで開かれるアートアンドデザインフェスティバルSECAで、ジャパンハウスとして1つのギャラリーのキュレーションを担当することになったそうです。
4組くらいの日本人アーティストを呼んでコンセプト定めて展示するっていうのを目下制作中なんですよ。
普段は地元のアーティストを招くギャラリーで、日本人アーティストの展示を手がけるという仕事です。荒木さんは、予定が重なって移動が続く渡邉さんの様子を「旅芸人的な感じ」と表現していました。
客先で倒れた12月と、息子が出場する花園
荒木さんの12月は、プロジェクトがいくつも終わる慌ただしい時期でした。その中旬、荒木さんは客先で体調を急に崩し、身動きが取れなくなったといいます。
朝までは調子が良かったのに、午後になって頭痛と吐き気に襲われたそうです。荒木さんは車椅子でその会社の診療所まで運ばれ、休ませてもらって動けるようになりました。
原因ははっきりせず、症状も続いてはいません。それでも荒木さんにとっては、原因がわからないこと自体が大きな不安になったようです。
荒木さんは12月を「ここまでやって大丈夫かな」と恐る恐る過ごしたと振り返ります。渡邉さんは、因果関係がわからないのは怖いとしながらも、今が大丈夫なら何よりだと応じました。
明るい話題もあります。荒木さんの息子さんはラグビーをしていて、年末の全国大会に出場するそうです。会場は、野球でいう甲子園にあたる東大阪の花園 ── 大阪府東大阪市にある花園ラグビー場のこと。全国高等学校ラグビーフットボール大会の会場で、高校ラグビーの聖地と呼ばれていますで、荒木さん自身も高校時代に目指した舞台でした。
子供自体はあっけらかんとしてんだけどさ、もう見る側って何もできないじゃん。
荒木さんは「親の方が緊張する」と話し、見ているだけのつらさを口にしていました。
なぜ今、もののけ姫からサステナビリティを考えるのか
この回はゲスト不在で、年末年始の慌ただしさもあり、2人でゆるりと話す収録です。渡邉さんが持ち込んだテーマは「もののけ姫から考える日本的なサステナビリティとは?」で、完成した話ではなく、荒木さんとのブレストのきっかけとして示されました。
渡邉さんがこのテーマを思いついたきっかけは2つあります。1つは、冬の初めに有楽町あたりで、ドルビーサウンドでリマスター上映された『もののけ姫』を観たことです。
一見なんかこう、人間と自然っていうのの対比かと思いきや、全然そんなこともないっていうのがあって。
渡邉さんは、『もののけ姫』の一筋縄ではいかない複雑さが宮崎駿監督らしいと感じ、改めて考えてみたくなったといいます。もう1つのきっかけは、企業のパネルディスカッションで「日本的なサステナビリティ」というお題が出たことでした。
渡邉さんはまず、旧約聖書の世界観と『もののけ姫』の世界観を並べます。旧約聖書には「地を従えよ」という言葉があり、人間が大地を従える世界観が描かれています。
渡邉さんが示した2つの自然観の違いは、次のように整理できます。
人間が大地を従える。自然は常に管理すべき資源として捉えられる
祟り神や森の神がうごめく。自然はコントロールできない、怖さもある気まぐれな隣人
さらに渡邉さんは、『もののけ姫』では善悪二元論が通じないと指摘します。サンもアシタカも、タタラ場のリーダーであるエボシ御前も、正義らしい面と悪らしい面を少しずつ併せ持っています。
渡邉さんは、矛盾を抱えたままの共存方法を探るという『もののけ姫』の考え方に、サステナビリティの未来像のヒントがあるのではないかと考えています。荒木さんは、サステナビリティの議論は善悪がはっきりしすぎてしまいがちだという意味かと問いかけ、渡邉さんは「あるある」と応じました。
旧約聖書が描く「神・人間・自然」の垂直レイヤー
渡邉さんによると、旧約聖書の自然観は、上に神、真ん中に人間、下に自然がある垂直のレイヤー構造になっています。人は神の似姿として創られたという記述があり、人間には自然を支配し、管理し、世話する役割が与えられています。
その構造をわかりやすく示す例として、渡邉さんは16世紀末のディエゴ・バラデスによる銅版画『レトリカ・クリスチャニア』を挙げます。縦長のページの最上部に、天使に囲まれて雲間から顔を出す神が描かれています。
この銅版画では、神の下に天使、その下に人間が置かれます。さらに鳥、魚、四つ足の獣、木々、地下の鉱物と続き、一番深いところには地獄とサタンが描かれているといいます。
渡邉さんは、こうした階層の図がスカラ・ナトゥラエ ── ラテン語で「自然の階梯」。神から人間、動物、植物、鉱物へと存在を一列の序列で並べる、西洋の伝統的な世界観を指しますと呼ばれると説明します。日本で聖書や西洋美術に触れていないと目にする機会は少ないものの、序列がはっきり分かれている点がポイントだといいます。
旧約聖書の創世記1章26〜28節では、神が段階的に世界を造り、最後に「我々に似せて」人を造ります。そして人間に、海の魚、空の鳥、地のすべての生き物を支配せよと命じます。
渡邉さんは、この「支配せよ」が英語の聖書で「have dominion」と表記されることにも触れ、かなり強い表現だと話します。唯一絶対の創造主、その似姿である特別な人間、管理を委ねられた自然という構造です。
一方で、創世記2章15節では、神が人をエデンの園に置き、耕し守る役割を与えています。そのためキリスト教神学には、支配を搾取ではなくスチュワードシップ ── 預けられたものを責任を持って管理・世話するという考え方。キリスト教では、人間は神から託された自然の管理者だという意味で使われますとして読む解釈もあるそうです。
ただし渡邉さんは、どちらの解釈でも、神の代理人として人間が自然を管理するという垂直の構造は変わらないと見ています。この前提はユダヤ教やイスラム教とも共通するため、「西洋」と雑にくくるより、旧約聖書を参照する一神教系の宗教が共有するイメージだと話していました。
支配から保全へ、それでも残る「管理できる」という前提
渡邉さんは自身の仮説として、西洋近代以降の自然観には「支配(コンカー)」と「保全(コンサーブ)」の2つがあったのではないかと話します。
渡邉さんによれば、支配の考え方は聖書だけの問題ではありません。科学革命のあとには、自然を制御可能な機械とみなす機械論的自然観 ── 自然を精巧な機械のように捉え、法則を解明すれば予測や制御ができるとする考え方。17世紀の科学革命以降に広まりましたが生まれ、産業資本主義や帝国主義も加わりました。
渡邉さんは、エベレストの頂上にイギリスが国旗を立てるような出来事を例に挙げます。南極やエベレストの探検は、自然を支配できるのは自国だと他国に示す国威発揚の手段でもあったといいます。
渡邉さんは、歴史家デビッド・ブラックボーンの著書『The Conquest of Nature』にも触れます。近代ドイツの歴史を「自然征服」というキーワードで読み解く本で、自然をマスターするという自己イメージが、ナショナリズムや人間中心主義の象徴として読み取れるといいます。
やがて環境危機への反省から、保全が強調されるようになります。ただ、渡邉さんはここにもツッコミどころがあると指摘します。
渡邉さんが例に挙げたのは、アメリカのギフォード・ピンショー ── アメリカの森林官で、初代の合衆国森林局長官。森林を科学的に管理し、長く賢く利用するという保全思想を推し進めた人物ですの言葉です。ピンショーは森林を「よく管理された作物」とし、人間が長期的な利益のために賢く使う対象だと語っていたといいます。
渡邉さんの見立てでは、ピンショーのような保全は、自然そのものの尊さよりも資源が枯渇しないことを重視しています。渡邉さんは良し悪しを言いたいのではないとしたうえで、人間が自然をコントロールできるという前提は保全に転換しても残っていると観察しています。
支配(コンカー)
科学革命後の機械論的自然観、産業資本主義、帝国主義。自然の探検は国威発揚の手段にもなった
保全(コンサーブ)
環境危機への反省から登場。ただし自然は人間が科学的に管理できるシステムという発想の延長にある
サステナビリティ
今の議論も、人間が自然を管理できるという考え方がベースになっているのではないか
渡邉さんは、サステナビリティという言葉が広まった現在の議論にも、同じ前提が残っているのではないかと考えています。そこまで話したところで、渡邉さんは荒木さんに意見を求めました。
科学と八百万の神の間で揺れる日本人の感覚
荒木さんは、科学革命後に生まれた自分たちにとって、自然は方程式で解き明かせて支配できるものだという感覚が当たり前になっていると応じます。それこそが近代的であり人類の進化だという考えを、どこかで持っているといいます。
一方で荒木さんは、日本人の自然観のルーツには八百万の神や仏教の考え方もあると話します。前回の龍玄さんとの回で触れた草木国土悉皆成仏 ── 草木や国土のような心を持たないとされるものまで、すべてが仏になれるという仏教の考え方。日本の仏教で広く受け入れられてきましたや、すべてを相対化する空の概念がその例です。
多分なんかその辺のこう割り切れなさみたいな部分も僕らのDNAにはあり、
荒木さんは、序列や超越のない相対的な見方と、科学的な見方の両方を残していることが、日本的あるいは東アジア的なのかもしれないとまとめました。
渡邉さんも、その点に同意します。渡邉さんは、西洋の考え方が間違っているとも、日本の考え方がサステナビリティ向きだとも言いたいわけではないと強調しました。
東アジアっぽく育った自分としては、自分の直感とは世界観が違うなっていうのを言いたいんだよね。
渡邉さんが親しんできた自然は、災害をもたらす怖い存在であり、恵みと表裏一体の怒りを持つものです。決して従えられるものではない自然観を、まず冷静に比べてみたいというのが渡邉さんのモチベーションでした。
話はここで一区切りとなり、荒木さんもこのテーマで考えていることがあると話しました。渡邉さんは、次回はより『もののけ姫』に踏み込んだ話をしたいと予告し、この回は「次回へ続く」で締めくくられています。
まとめ
この回は、渡邉さんと荒木さんの新年の近況から始まり、『もののけ姫』を手がかりに日本的なサステナビリティを考える導入へ進みました。旧約聖書の垂直な世界観から、西洋近代の支配と保全までをたどり、「人間が自然を管理できる」という前提そのものを問い直す視点が示されています。
- 『もののけ姫』は人間と自然の単純な対比ではなく、登場人物がみな正しさと間違いを併せ持つ物語として語られた
- 旧約聖書では、神・人間・自然が垂直に並び、人間が自然を支配・管理する構造が描かれている
- 渡邉さんは、西洋近代の支配から保全への転換にも「自然は管理できる」という前提が残っていると見ている
- 荒木さんは、科学的な見方と八百万の神や仏教の割り切れなさを併せ持つ点が日本的なのかもしれないと応じた
- 『もののけ姫』に踏み込んだ具体的な話は次回へ続く



