システムは本当に強くなっているのか?
このシリーズは、国分寺でクルミドコーヒーや胡桃堂喫茶店、シェアハウスのぶんじ寮を営む影山知明さんをゲストに、「一人ひとりが大切にされる社会をつくるには?」という問いを考えています。第2回の冒頭では、渡邉康太郎さんが前回の議論を振り返りました。
前回は、人が社会のシステムの側に合わせなければならないこと自体が、人の存在が大切にされていない状態ではないか、という問題提起から始まりました。荒木博行さんは、新社会人としてシステムへの適応がうまくいったタイプで、すでに回っているシステムを理解することも一つのリテラシーだと感じていると話していました。
影山さんも大きなシステム自体を否定しているわけではありません。ただ、システムの中で発揮する価値や貢献は、ある種の強さになる一方で、時代の流れの中で常に脅かされ続けるものでもあり、その怖さに多くの人がヒリヒリしているのではないか、と語っていました。
渡邉さんはそこから、カフェのマニュアルが作った本人さえ従属させるほど絶対化していくという影山さんの本の記述や、塩野七生 ── 古代ローマを描いた『ローマ人の物語』で知られる作家。ローマの制度や指導者を独自の視点で分析していますが分析した、ローマにはシステムを自ら作り変え続ける仕組みがあったという話を連想していました。
前回の終わりに影山さんは、50数年生きてきて最近は大きなシステムの側がさらに強くなっているのでは、と述べました。今回の議論は、その実感に対する荒木さんの疑問から始まります。
個人があんまり尊重されてないという問題意識は、ずっと昔からあったんじゃないかなという気がしてきて。
荒木さんは、システムが強まり、それに対して革命的な運動やリベラルの運動が起きる、という往復を社会は繰り返してきたのではないかと考えています。大企業に入った若い頃は問答無用のシステムの力を感じたものの、直近はむしろ小さなコミュニティが生まれ、居場所も見つかりやすくなっているのでは、という見立てです。
相手が大きくなりすぎた社会と「電車の連結問題」
荒木さんの疑問に対し、影山さんがまず挙げたのは「サイズ」の問題でした。江戸時代の封建制度まで遡れば、全体の設計としてのシステムはそのころのほうがよほど強かったと影山さんは認めています。
ただ、想像できる範囲の過去と比べると、かつてはビジネスも政治も教育も単位が小さかったと影山さんは話します。地方政治や一つの小学校のような手の届く規模だったからこそ、例外にも応用が利き、裁量として許されることも多かったといいます。
それが、教育では学習指導要領を核にした国家行政の仕組みが整い、政治は国政、企業は大企業やグローバル企業へと単位が大きくなりました。影山さんは、相手がどんどん大きくなったことで、相対的に個人の存在が小さくなったと感じているのかもしれない、と語っています。
国分寺のローカルなお店を営む影山さんから見ると、この規模感なら一人ひとりの裁量やファンタジーを大事にした経営や街づくりができる、という実感があるそうです。荒木さんはこの話を、鉄道の相互乗り入れにたとえて受け止めました。
要するにあの電車の連結問題ですよね。
神奈川県の隅っこの方が千葉県のダイヤに影響を与えるとか、なんかそういう話とかって。
荒木さんによれば、乗り入れ路線が増えるほど、一つのダイヤ改正が広い範囲に影響します。シームレスにつながることで効率は上がりますが、裏返せば一か所を変えるのに膨大な労力がかかり、想定外の場所で惨事が起きるのが怖くて誰もいじれなくなる、という構図です。
効率化
よかれと思ってシステム同士のインターフェースをつなぐ
連結の拡大
ローカルな取り組みも、より大きな仕組みに取り込まれていく
影響の波及
一か所の変更が、想定外の場所に大きな影響を与える
硬直化
怖くて誰もシステムをいじれず、顔のないシステムになる
影山さんはこの整理を「とても分かりやすい」と受け、全体最適という言葉が常について回るため、部分が扱いづらくなると補足しました。さらに、情報システムでも法律でも制度でも、作り手の想像力さえ超えていき、全体像を把握している人が誰一人いない状況になっているのかもしれない、と話しています。
荒木さん自身も、前職の大学院ビジネスでこの問題をリアルに経験したといいます。拠点運営を効率化するためにルールや規約を統一すると、新規事業も共通のシステムに乗せる話になり、例外を生み出しながらPDCAを回すべき事業が、ヘビーなシステム調整会議に阻まれて苦労したそうです。
荒木さんは、統一化そのものが悪いわけではないと断ったうえで、効率性と手触り感のトレードオフを当事者として強く感じた、と振り返っています。
部活より先に就職先を考える高校生
渡邉さんは、システムの影響力が強まっていると感じる理由として、連結問題とは別の切り口を加えました。それは他者目線や周囲からのプレッシャーの強まりで、少なくとも若者世代にはその傾向が大きいのではないか、という見方です。
渡邉さんは、ソーシャルメディアが人間のスケールを飛び越えた飛距離で一人の発信を世界中に届けるようになったことを挙げます。政治家やポップスターと直接会話できるよさがある一方で、炎上しやすさやキャンセルカルチャー ── 過去の言動などを理由に、著名人や企業をSNS上で強く批判し、不買や降板などを求めて社会的に排除しようとする動きも生まれていると話しています。
渡邉さんが驚いたのは、仕事でZ世代の受験事情を調べたときの話です。毎月100人単位でZ世代と話しているマーケターによると、新しく高校1年生になった生徒が、入部する部活を決める前に就職したい業界を意識し、なんとなく大学を考え始めることが割と普通になっているそうです。
部活より先に社会でどこにフィットするのかみたいな。
渡邉さんの見立てでは、ソーシャルメディアで多くの人の暮らしを垣間見られるため、多くを知ったつもりになり、悪い意味で身の程を知った状態で早くに進路を決めすぎてしまう人も少なくないのかもしれません。そうなると、システムをどう変えるか、どう面白くはみ出るかより、全体最適に染まることが自然になる傾向がありそうだ、と渡邉さんは話しています。
よくできる子であればあるほどそうなってしまうみたいな傾向あるかも。
空気読めすぎみたいな。
荒木さんは、システムを所与のものとして捉えすぎる問題だと受け止めました。サイズが小さく手触り感があれば、自分たちで変えられると思えるので不都合にプロテストもしますが、遠すぎて見えないシステムに対しては「文句を言ってもしょうがない」と考えるほうが合理的になってしまうといいます。
この中で生きやすくするにはどうしたらいいんだろうねっていうのがめっちゃ合理的な問いだもんね、その方がね。
少子化の裏返しとしての「多大化」
影山さんは、他者目線の話にもう一つの要因を加えました。少子化を裏返して捉えると「多大化」、つまり子どもが減って相対的に大人の割合が増えている状態だと言う人がいて、なるほどと思ったそうです。
影山さん自身は4人兄弟の一人で、親から見ても4分の1の存在だったため、どこで何をしていてもあまり気にされず、子どもは子どもで大人の目線を感じずに遊べる環境や時間があったと記憶しています。
影山さんは、今の子どもたちのことを隅々までわかるわけではないと前置きしつつ、子どもが少なく大人が多い今は、子どもが常に大人の目線や期待値にさらされ、それに合わせることを習慣的に学んでいるのではないか、と話しています。
子どもが多く、大人の目線を感じずに勝手に遊べる時間や環境があった
大人が相対的に多く、子どもが常に大人の期待値にさらされ、早くから合わせることを学ぶ
影山さんの言葉を借りれば、自分らしく命を弾けさせる方向に遊んでいくより、親や先生など身近な大人の期待を敏感に感じ取り、ある程度の諦めを伴いながら早くから収まるところに適応していく子どもが多いように感じる、ということです。荒木さんは、こうした要因が重なって、システムを不可侵とみなすマインドセットが社会に埋め込まれつつあるのかもしれない、とまとめました。
「好きにやって」が届かない若者と生成AIのディストピア
影山さんは、クルミドコーヒーを17年続けてきた中で、そこで働く若いスタッフにも変化を感じているといいます。店の土台やこれまでの経緯はあるにしても、一人ひとり「君はどうしたい?」「好きにやったらいい」と水を向けているそうです。
ところが、その投げかけそのものを肯定的に受け取ってもらえず、決められた通りにやることを素直に受け入れる若い人が相対的に増えている気がする、と影山さんは話します。この傾向が強まるなら、この先の世の中はどうなるのだろう、という思いもあるそうです。
確かにね、生成AIに引くんですよ、みんなそうしたら。
その外れ値が生まれ続けないと、生成AIのなんか情報源が同じになっちゃうから面白くなくなっちゃうよね。
荒木さんはこれを受けて、生成AIが巨大なエコーチェンバー ── 似た意見や情報ばかりが反響し合い、閉じた空間の中で同じ考えが強化されていく現象。SNSの議論でよく使われる言葉ですのようになってしまう、と指摘しました。そのうえで、影山さんの取り組みは、国分寺というローカルな場所から手触り感のあるものを実験的に作り、その流れをひっくり返す挑戦ではないか、と問いかけます。影山さんも「そういう言い方はできる」と応じています。
ルールを作らないぶんじ寮で目覚める野生
荒木さんが手応えを尋ねると、影山さんは手応えと課題の両方があると答え、お店での経験に加えて、5年前から始めたぶんじ寮での経験を語りました。ぶんじ寮は22、3人が共同生活を送る「町の寮」で、20代から50歳近くまでの人が暮らしているそうです。
一般的なシェアハウスでは、水回りなどを共有するとすれ違いが起こるため、暮らしのルールや管理規定を作って衝突を避けることが多いと影山さんは説明します。ところがぶんじ寮は発足以来、ルールを作らず、一切制度化しないことを是としてきました。
大家側の影山さんは、そんなことが成り立つのかとむしろ不安だったそうです。実際には日々ぶつかり合いが起こるものの、それを経て、ルールがなくてもなんとなく成り立っていくといいます。影山さんは本の中で、この状態を無秩序の秩序と表現しました。
影山さんによれば、クルミドコーヒーや胡桃堂喫茶店では、のびのびやってほしいと思っていても、言葉にならない部分も含めた「らしさ」がチームに影響を与えています。それに対してぶんじ寮では、住む人たちが文字通り放し飼いのように野に解き放たれていると話しています。
のびのびやってほしいと思いつつ、店の「らしさ」が言葉にならない形でもメンバーに影響する
ルールを一切作らず、住む人が放し飼いのように自由に暮らす
ぶんじ寮の住人は、野に解き放たれると一人ひとりの野性が目覚め、好き勝手なことを始めるそうです。いきなり田んぼを作る人、気づけば廊下にバスケットのゴールが付いている、内装自由の部屋にアーティストを招いて立体オブジェを壁面に取り付けた人もいて、退去後どうするのかと思うことも日常的にあるといいます。
住人同士で「うるさい」「もっとちゃんとしろ」と怒号が飛び交うこともあるものの、どこかで動的平衡 ── 絶えず変化し入れ替わりながら、全体としてはバランスが保たれている状態。生物学者の福岡伸一さんが広めた言葉として知られますになっていく、と影山さんは感じています。そして、未来に希望があるとすればむしろこういう姿かもしれない、環境さえあれば人の中に眠る野生は実際に動き出す、とぶんじ寮から教わったと語りました。
この話に荒木さんと渡邉さんは強く関心を示し、続きは次回に持ち越されました。渡邉さんは、無秩序の秩序でもいつの間にかルールが自然発生してしまうのではないか、そうだとしたらどう良い無秩序へ戻っていくのか、その工夫やエピソードを次回聞きたいと話しています。
まとめ
第2回では、システムが強くなったと感じる背景として、社会の単位が大きくなり連結しすぎたこと、ソーシャルメディアによる他者目線の強まり、少子化による「多大化」が挙げられました。その対極として、ルールを作らないぶんじ寮で人の野生が目覚めていく実践が紹介され、次回への問いが残されました。
- 影山さんは、教育・政治・企業の単位が大きくなったことで、相対的に個人の存在が小さくなったと感じている
- 荒木さんは、システムが連結しすぎると誰も変えられなくなる構図を「電車の連結問題」にたとえ、効率性と手触り感の反比例を指摘した
- 渡邉さんは、部活より先に就職先を意識する高校生の例から、若者が早くから全体最適に染まる傾向を感じている
- 影山さんは、大人の割合が増えた「多大化」によって、子どもが大人の期待に早くから適応していると見ている
- ルールを作らないぶんじ寮では、ぶつかり合いを経て「無秩序の秩序」が生まれ、住人の野生が目覚めているという




