喋場cueとはどんな番組か
番組の冒頭で、PUNCHしょーへーさんは「喋場cue」のコンセプトを紹介します。
ダンサーやダンサーに関わる人たちに、ダンスへの思いを言葉で語ってもらう番組だと説明します。
悩めるダンサーの世界や、それでもあまりあるダンスの魅力やダンスの可能性を、リスナーさんと一緒に学んでいきます。
話し手はダンススクール&ホール「graffy」の代表で、ダンス舞台公演プロジェクト「踊り場cue」の支配人でもあります。
第1回は「PUNCHしょーへーとは何者か」「なぜ喋場cueを始めるのか」「今後どうしたいのか」を一人で話す構成です。
ダンス業界でこの言葉を発するメディア、SNSっていうことをやってる人は少ないと思うんですけれども。
肩慣らし程度に、作業や移動をしながら気軽に聞いてほしいと呼びかけます。
名古屋の少年がダンスと出会うまで
続いて、PUNCHしょーへーさんの自己紹介に入ります。
1988年5月11日生まれの37歳で、名古屋出身。大学進学で大阪に来て、現在は大阪市住之江区を拠点にしています。
拠点は住之江区の商業施設「オスカードリーム」にあるダンススクールと、隣接するホール「graffy」です。
ダンス歴は長く、中学2年生から23、24年ほどダンスに触れ続けてきたと話します。
ダンスを知ったきっかけは、中学生の頃にこたつでぼんやり見ていたテレビ番組でした。
ガレッジセールが韓国にブレイキンバトルをしに行くみたいな番組を、たまたま特番でやっていて。
思春期の少年にとって、ブレイクダンスは新鮮で刺激的なものに映り、衝動に駆られたと振り返ります。
年賀状に「年明けてからブレイクダンスの練習しましょう」と一筆書いて送ったら、友達3人がやろうって。
自己流で駐車場で始めたブレイクダンスが、ダンサーとしての出発点になりました。
ロックダンスと、ダンサーで生きる選択への迷い
ブレイクダンスはウィンドミルで腰と肩を痛め、途中で挫折します。
一方でダンス自体は続けたく、教材ビデオで見たロックダンスに惹かれ、次第にロックダンスがメインになっていきました。
大学は名古屋を離れ、ダンスを軸に進学先を選びました。オールドスクールの聖地は関西だと考え、関西の大学に進んだと話します。
大学のダンスサークルで多くの出会いがあり、将来ダンサーとして生きる選択肢を考えるきっかけになったといいます。
しかし卒業を控え、ダンサーとして生きるか就職するかの岐路で、自分のダンスの実力に自信が持てなかったと明かします。
その一方で、ダンス業界でお金のことがあまり注目されていない印象を持っていました。
お金のことに詳しくなれば食いっぱぐれないんじゃないかと、その時漠然と考えていて。
結果として就職先を大阪の地方銀行に絞り、内定を得て就職します。
銀行員とダンサーの二重生活、そして芽生えた夢
6年前まで、PUNCHしょーへーさんは銀行員でした。勤続は8、9年ほどだったと話します。
28、29歳の頃は「ロカジャイブセット」という4人チームでコンテストに挑戦していました。
目指したのは、ストリートダンサーの最高峰とされる大会「ダンスディライト」でした。
練習はいわゆる深夜練が中心で、夜中に集まって朝まで踊る生活だったといいます。
朝働いて8時9時に家に着いて、仮眠してオール練に行って、朝6時に帰ってまた出社する生活でした。
その甲斐あって、OSAKA DANCE DELIGHTでの優勝や、JAPAN DANCE DELIGHTのファイナルに合計3回進出する成果を残しました。
あそこで見た景色、踊った経験は、本当に忘れられない素晴らしい景色でした。
一方で、銀行員としてのキャリアは順調に伸び、給料も増えていきました。
対してダンス業界では、ショーやジャッジで報酬は得られても、生活に直結させるのは難しいと感じていました。
銀行員という立場で業界の当事者になりきれないモヤモヤと、体力的なきつさが重なり、ダンスの意味に思い悩む時期に差し掛かります。
そんな中、長風呂で考えた末にひとつの夢を思い描きます。
1階はバーやクラブ、2階はレッスンスタジオ、3階は物販、4階以降は民泊という構想でした。
本人は「小学生が考えそうな夢」と表現しつつも、30代以降の目標ができたことに浮かれていたと振り返ります。
会長との出会いが「graffy」を生んだ
当時の仕事は法人営業で、中小企業の社長や経理部長と会って融資を提案する役割でした。
営業の8割は雑談だったといい、親密になった社長たちに自分の夢をよく話していました。
将来、銀行員じゃなくてこんな仕事をしてみたい、こんなビルを持ちたいと結構言っていました。
その相手の一人が、現在graffyがあるオスカードリームを持つ会社の会長でした。
当時76、77歳ほどの会長で、いい意味で型破りな人物だったと話します。
最初はほんと冗談半分だと思っていたんですけど、どうやら本気っぽいぞとわかって。
1年近く話を重ねる中で会長の本気が伝わり、PUNCHしょーへーさんはその会社に転職します。
転職と同時期に、graffyホールが2019年12月に、graffyダンススクールが2020年4月頃にオープンする流れになりました。
この後にコロナ禍が訪れますが、その詳細は今後ゲストを呼んだ回に譲るとして、いったん区切ります。
社会人経験、プロダンサー経験、そして現在は子どもたちを教えるインストラクターという、複数の側面を持つ経歴だと自身をまとめます。
「パンチ」の由来と、踊り場cueへの思い
名前の由来にも触れます。「パンチ」は、元オリックスの野球選手でタレントのパンチ佐藤さんに似ていると言われたことに由来します。
東幹久さんにも似ていると言われたそうですが、覚えてもらう戦略として自ら「パンチ」を名乗るようになりました。
この業界は人と人が密接につながっているので、いかに覚えてもらうかが戦略の一つで。
本名は野村翔平さんですが、ダンサーとしては「パンチ」「パンチ翔平」と呼んでほしいと伝えます。
番組を始めた背景には、2023年1月から支配人を務めるダンス舞台公演プロジェクト「踊り場cue」があります。
これは、ダンスを生業にする難しさが解決されていない現状の中で、ダンサーが自分のダンスで集客し、対価を得る舞台文化を広げようとする取り組みです。
ダンスを見に行く、見て楽しむという文化が、吉本のお膝元である大阪から発信できたら。
踊り場cueのサポートは2つです。制作面の全面支援と、集客に左右されないギャランティーの保証です。
自主公演は熱意を持って行っても収支が赤字になりやすく、若いダンサーが挫折する現状を見てきたためのサポートだといいます。
なぜポッドキャストなのか
踊り場cueは集客に苦戦しており、その魅力をどう伝えるかが課題だと率直に語ります。
昨今はSNSでダンスが身近になった一方、コンテンツが速く消費されすぎているという問題意識を示します。
ダンスの本質的な自己表現や、表現したい世界が、簡単に消費されすぎているなと思っていて。
対して舞台公演は、半年以上かけて準備し、数公演で表現するという、いわば「コスパの悪い」営みです。
だからこそ来場者に伝わる価値があると考え、その魅力を動画ではなく言葉で伝える手段としてポッドキャストを選びました。
そんなに聞かれるものじゃないと認識していますが、コアなダンスファンを少しずつ増やしていければ。
番組では毎週ゲストを招く予定です。まずはgraffyダンススクールのインストラクターから始めるといいます。
生徒数200名以上のスクールで、先生の過去や挫折、未来はレッスンだけでは伝わりにくいため、その人柄を深掘りしたいと話します。
さらに、デザインや音響、照明、舞台監督といった制作の裏方も招き、ダンサーに役立つノウハウも発信する構想です。
番組の今後の方針
今後の展開として、まずは番組を続ける決意を表明します。
当面は毎週土曜日の配信を想定し、休日や移動中の聞き流しでも構わないとしています。
聞いてほしいのは、ダンサーやダンサーを子に持つ保護者など、ダンスに関わる人たちです。
配信と同時に、graffyホールでのオフラインのワークショップも展開したい考えです。照明プランを書いてみる、曲編集を学ぶなど、ダンサーの利益になる内容を想定しています。
ゲストには、懇意にするダンススタジオのオーナーやイベンターも招き、普段話せない人のノウハウを引き出したいと話します。
最後に、今回一人で40分話したことに触れ、次回以降はゲストを招いた対談形式になると予告します。
まずは2年間、毎週週1回配信をやり続けることを、ここに決意表明します。
2年後にはオフイベントをして語り合えるくらい、成長できるコンテンツにしたいなと思っています。
まとめ
第1回は、銀行員からダンス施設運営者になったPUNCHしょーへーさんの経歴と、言葉でダンスの魅力を伝えたいという番組の狙いが語られました。ダンスの舞台公演文化を広げるための、地道な入り口としてのポッドキャストという位置づけが示されています。
- 「喋場cue」はダンサーとその周囲の人が、ダンスへの思いを言葉で語る番組
- 主宰のPUNCHしょーへーさんは、8〜9年の銀行員を経てダンス施設「graffy」を運営している
- 番組の背景には、集客に苦戦する舞台公演プロジェクト「踊り場cue」の魅力を伝えたいという狙いがある
- SNSで速く消費されがちなダンスに対し、時間をかけた舞台の価値を言葉で伝えようとしている
- 今後は毎週土曜配信でゲストを招き、まずは2年間続ける方針が示された
