村上天皇の真夜中クイズ大会
話の起点になるのは、清少納言たちの時代からおよそ五十年前に世を治めた村上天皇平安中期の天皇。芸術・文化の庇護者として知られ、後の時代の人々から立派な帝として尊敬された。です。文化・芸術面での功績が大きく、後世からたいへん尊敬されていました。この村上天皇にまつわる話が『枕草子』第二十段に収められています。
登場するのは、村上天皇の妃の一人である藤原芳子「ほうし」または「よし子」と読む。父の言いつけで書道・琴・古今和歌集を熱心に学んだ才媛として知られた。。彼女は父からの言いつけで、書道・琴・古今和歌集の三つを徹底的に学んだ才媛でした。この三つは、そのまま平安時代の姫君に求められた必須教養でもありました。
とりわけ芳子の古今和歌集の知識はずば抜けており、全二〇巻・千百十一首をすべて覚えていたといわれます。その噂を聞いた村上天皇は、彼女の実力を試したくなり、ある日「ドキドキワクワク古今和歌集クイズ」を仕掛けます。天皇だけが本を見て、「何月何日、誰々が詠んだ和歌は?」と問う形式です。
芳子は完璧に答え続け、興が乗った天皇は和歌に詳しい女房を呼んで得点を数えさせながら本格的に勝負を続けます。十巻・約五〇〇首まで彼女はパーフェクトで答えきり、天皇はいったんお開きにして就寝しました。
やっぱこんな中途半端じゃ終われねえってなるんですよね。これめちゃくちゃ可愛くないですか、村上天皇。
ところが村上天皇は途中で目を覚まし、「中途半端では終われない」と起き上がります。しかも朝まで待てなかった理由が印象的です。自分が寝ている間に芳子が予習して備えたら公正な勝負ができない、と考えたからでした。真夜中に勝負は再開され、芳子は千百十一首すべてを答えきります。
この勝負の最中、一番焦っていたのは芳子ではなく、報告を受けた彼女の父親でした。娘が負ければ「父の教えで教養を積んだ娘」という評判ごと地に落ちてしまう。父は真夜中にもかかわらず大量の僧侶を呼び、必死にお経を唱えさせ、自らも娘のいる方角へ祈りを捧げたといいます。この笑い話が第二十段に収められています。
清少納言と中宮定子をめぐる人間関係
この村上天皇の話がどんな文脈で登場するのかを理解するには、清少納言まわりの人間関係を押さえる必要があります。清少納言の職業は女房身分の高い家に仕え、身の回りの世話をする召使い兼家庭教師のような役割。教養も求められた。で、大雑把にいえば、身分の高い家の人の身の回りの世話をする「召使い兼家庭教師」のような立場でした。
彼女が仕えたのが中宮定子藤原定子。関白・藤原道隆の娘で、一条天皇の正妻(中宮)。教養豊かで清少納言に慕われた。(藤原定子)です。中宮とは天皇の正妻を指す役職名。定子がこの立場にいたのは、父が当時最も栄えていた藤原北家藤原氏の中で最も権勢を誇った家系。摂関政治を主導した。の嫡男・藤原道隆で、時の関白天皇が成人男性であっても、代わりに政治を執り続ける役職。摂政とともに藤原北家の権力の象徴だった。だったからです。
深井さんは、関白という役職の異様さも指摘します。本来なら天皇が政治を執ればよいのに、権力を握る藤原氏が政治を主導し続けるための仕組みが関白だった、というわけです。そんな力を持つ道隆の娘だからこそ、定子は当時のファーストレディーになっていたのです。
ファーストレディー定子の教養と配慮
「親の力でブイブイ言わせていたお嬢様」に聞こえるかもしれませんが、深井さんは定子を立派な女性として高く評価します。その教養の背景には母・高階高子定子の母。学者の家系に生まれ、当時の女性には珍しく漢文に通じていた。教養を武器に女房として出世した。の存在がありました。
高階家は名門ではなく、もともと学者の家系でした。娘の高子は学問に励み、当時としては非常に珍しく漢文を使いこなせる女性でした。漢文は男性貴族が公的な政治の場で使う教養であり、女性が学ぶ必要はないとされていた時代です。高子はその教養を評価されて女房として出世し、やがて道隆に見初められて正妻に迎えられます。名家ではなかった高階家にとって、これは凄まじい玉の輿でした。
定子はこの母の成功体験を受け継ぎ、才気煥発な知的女性に育ちます。当時、帝は妃たちの部屋を訪ねて時間を過ごすもので、その時間が知的な教養に満ちていれば楽しいものになる。そういう時間を帝や貴族に提供できる女性であるべきだ、というのが母の教えであり、定子もそれを清少納言たち女房に伝えていました。とっさに気の利いたことを言える知性を日頃から心がけよ、と。
定子の夫は一条天皇村上天皇の孫にあたる帝。定子より年下で、彼女を深く愛していた。で、村上天皇の孫にあたります。定子より年下の「姉さん女房」の構図でしたが、一条天皇は定子を深く慕っていました。清少納言はさらに年上で、つまり『枕草子』に登場する定子や一条天皇は非常に若い人物たちだった点も見どころです。
第二十段では、一条天皇が「いい感じの紙があるから、気の利いた古い和歌を書いてみてくれ」と無茶振りをします。当時、紙は貴重品でした。ところが清少納言は、目の前の二人があまりに素敵で見とれてぼーっとしており、とっさに反応できず赤面します。これは『枕草子』でしばしば起こる「あるある」で、彼女は仕える貴族社会の美しさに見とれてしまうのです。
続いて定子から「古今和歌集の下の句当てクイズ」が出されますが、清少納言も同僚の女房たちもうまく答えられません。そこで定子が語り始めたのが、冒頭の村上天皇と芳子の話でした。
「千百十一首を全部覚えた人がいた」というスケールの大きな話で、女房たちの恥じらいをほぐした。
古今和歌集を学ぶことは、帝の周りにいる女性として尊く大切だと再認識させた。
深井さんは、この引用に定子の心ばえの立派さを見ます。失敗しかけた女房たちの恥をほぐしつつ、教養の大切さも同時に伝える。繊細な配慮と文化的な薫陶を両立させ、そこにファーストレディーとしての矜持がにじむのです。甘いだけでも厳しいだけでもない定子だからこそ、清少納言は心底慕っていました。
定子の没落と道長の台頭
素敵な定子でしたが、その人生は幸福なままでは終わりませんでした。父・藤原道隆が病死(糖尿病とされる)してしまうのです。平安貴族社会の姫君にとって、父の死は政治的後ろ盾を失う「ゲームオーバー」を意味しました。
深井さんは、定子に残された救いの可能性は二つだけだったと整理します。一つは帝との間に男子(次の帝)がいること。もう一つは兄が道隆の跡を継いで権力を握ること。しかし当時、定子と帝の間に男子はおらず、二十歳過ぎだった兄も政治争いに敗れて左遷されてしまいます。
不幸は立て続けに起こります。父が死に、兄が左遷され、前後して母・高階高子も亡くなります。あまりに辛いことが続き、定子は出家してしまいます。天皇の正妻という立場のまま仏門に入るのは異例のことで、これで彼女の家系は政治の表舞台から完全に姿を消しました。
その隙をついて台頭したのが、道隆の弟であり定子の叔父にあたる藤原道長平安貴族社会の権力者として最も有名な人物。定子の叔父で、娘の彰子を中宮に立てて権勢を確立した。です。道長は権力を握ると、自分の娘・藤原彰子道長の娘。すでに中宮であった定子を差し置いて、一条天皇の正妻(中宮)の位にねじ込まれた。を天皇の正妻にしようと目論みます。すでに定子が中宮の位にあったにもかかわらず、無理やり彰子を中宮の位にねじ込んできたのです。誰もこの動きを止められず、定子にとっては屈辱的な流れでした。
難しく切ないのは、一条天皇が変わらず定子を愛していたことです。道長の権力には逆らえず、定子の兄たちを左遷した最終決裁も帝が下したものでした。それでも個人としては定子を愛し続け、一度出家した彼女を還俗させて呼び戻します。愛ゆえの選択でしたが、戻ってきた彼女はもうかつての輝かしいファーストレディーではありませんでした。
辞世の歌に込められた二重の切なさ
やがて定子は、さまざまな風当たりにさらされながら失意のうちに世を去ります。深井さんは、彼女が死の前に残した辞世の歌を紹介します。
夜もすがら 契りしことを 忘れずば
恋ひむ涙の 色ぞゆかしき
「夜もすがら」は一晩中の意味です。深井さんは歌意を次のように読み解きます。一晩中愛を確かめ合い語り合った夜をまだ覚えていてくださるなら、あなたはきっと私が死んだ後に泣いてくださるでしょう。その時に流れる涙の色を、私は知りたいのです──。
この歌には二重の切なさがあると深井さんは指摘します。一つは、帝に「私を覚えていて、恋しがって泣いてください」と願う祈りの気持ち。もう一つは、本当はその涙を見たいのに、自分は死ぬ側だからそれが叶わない、という寂しさです。
定子は二十四歳という若さで亡くなりますが、最後まで知的な教養あふれる女性としての美しさを保ち続けました。
祈りの文学としての『枕草子』
定子とその家族は悲しい結末を迎えますが、清少納言は『枕草子』本文に定子の晩年の惨状をほとんど描いていません。この注意深さとさりげなさは、鎌倉初期の文芸評論『無名草子』の中で称えられています。
『無名草子』は、関白(道隆)が亡くなり内大臣(兄)が流されるといった家の衰えを、あえて書きあらわさなかったことを「いみじき心ばせ」だと褒め称えています。つまり悲劇や没落の悲しさを表に出さず、書き切った清少納言の心がすばらしい、というのです。
どうやら清少納言は、良かったことや輝かしかった時期だけを意図的に書き残そうとしていたようです。定子が生きていた頃は苦境の主人を慰めるため、亡くなった後は鎮魂や手向けとして、それが続きました。ここに『枕草子』の本質があると深井さんは考えます。
その象徴が、第二十段に登場する一節です。「げにぞ、千歳もあらまほしげなる御ありさまなるや。」──本当に千年経ってもこのまま続いてほしいと願うばかりのご様子であることよ。定子や兄、一条天皇ら、清少納言が同じ時間を過ごした人々の尊さを称え、この優雅な時間が千年先まで続くよう、しみじみと願う言葉です。
この一節は祈りの言葉と言ってもいいものです。そして清少納言の才気溢れる筆致が、この祈りを単なる祈りで終わらせませんでした。作品が古典の名作として受け継がれてきたことで、本を開けば千年後を生きる私たちの心にも、彼女が愛した景色がよみがえります。定子と過ごした時間の尊さや美しさは、消え去ることがなかったのです。深井さんは、そこにこそ『枕草子』という作品の大事な本質があると締めくくります。
まとめ
教科書には載っていない第二十段を入り口に、村上天皇の微笑ましいクイズ大会から、清少納言が仕えた中宮定子の知性と悲運、そして作品全体を貫く「祈り」の本質へと話がつながりました。定子の晩年の悲劇をあえて描かず、輝かしい時間だけを書き残した清少納言の筆致こそが、千年後の私たちにその景色を届けています。『枕草子』は、失われた美しい時間を永遠にとどめようとした祈りの文学だと言えるでしょう。
- 第二十段には、村上天皇が妃・藤原芳子に真夜中まで古今和歌集クイズを挑む微笑ましい話が収められている。
- 清少納言が仕えた中宮定子は、漢文に通じた母・高階高子の影響を受けた知的なファーストレディーだった。
- 定子は失敗した女房を気づかいつつ教養の大切さも伝える配慮を見せ、清少納言に深く慕われた。
- 父・道隆の死と兄の左遷を機に定子の家は没落し、叔父・藤原道長が娘・彰子を立てて台頭した。
- 定子は二十四歳で世を去り、辞世の歌には帝への祈りと、涙を見られない寂しさの二重の切なさが込められている。
- 清少納言は悲劇を描かず輝かしい時間だけを書き残し、その筆致が『枕草子』を「祈りの文学」として千年後に伝えている。
