夢日記から始まった「シャイニングを読め」
冒頭で鼠がホテルをさまよう長い文章を朗読します。これは小説の引用ではなく、鼠自身の夢日記でした。
引用めちゃくちゃ長くないですか?
と思うじゃないですか。これ私の夢日記です。
鼠は今年3月ごろから夢日記をつけるようになり、不眠症の薬を減らすなかで非現実的な夢をよく見るようになったと話します。
ホテルをさまよう夢を見たことが、スティーブン・キングの「シャイニング」を扱うきっかけになったといいます。
これはスティーブン・キングをやれという神の啓示であると。
そのうえで鼠は、今回は映画の話をほとんどしないと宣言します。理由は、原作者がキューブリックに批判的だからです。
原作は「文学」だ、という主張
鼠は「シャイニング」を単なるホラーではなく、文学の領域に片足を踏み込んだ作品だと主張します。
スティーブン・キングという作家がホラー作家としてしか有名じゃないということに対して、昔から腹が立ってて。
鼠によれば、キングは青春を描く作家でもあります。意識の流れの文学運動の影響を受け、作中には作家である父ジャックの長い独白が続くパートもあるといいます。
キング自身がドストエフスキーからの影響を明言していることにも触れ、原作にはドストエフスキー的な独白の重さがあると話します。
一方の蛇は、映画版のシャイニングを大笑いしながら見たと明かします。凍った父の死体が出てくる場面などに笑いを禁じ得なかったといいます。
大笑いするしかなくないあれ。
鼠はそれを「キューブリックが悪い」としつつ、原作にも笑える部分は多いと認めます。ただしそれはキングの作家的なポテンシャルによるものだと補足します。
映画版と原作は「全然違う」
鼠はまず、映画版と小説が大きく異なる点から話を始めます。
小説版は登場人物が3人ほど多く、ホテルにいるのは家族だけです。父、母、そして息子のダニーが中心になります。
あらすじの骨格は変わりませんが、結末は異なります。父ジャックは映画のように凍って死ぬのではなく、爆発に巻き込まれて死ぬと鼠は明かします。
キングの作品は映像化・ゲーム化が多く、「ミスト」の霧の中の設定は「サイレン」や「サイレントヒル」にも影響したと言われる、と鼠は語ります。
スティーブン・キングは全てを書いてるんです。
鼠は「シャイニング」の怖さを3つの型で整理します。ラブクラフト的な探索の面白み、幽霊現象、そして人が怖い「人怖」です。
なかでも鼠が強調するのは人怖です。キングの怖さの核心は人間そのものにある、と話します。
探索
古いホテルの資料をたどり、触れてはいけない秘密に近づく
幽霊現象
ホテルにまつわる霊的な現象に遭遇する
人怖
人間そのものの狂気や悪意が最も怖い核になる
象徴としてのスズメバチと、消えたモチーフ
鼠は、原作が象徴主義的で、あらゆる場所に象徴が仕込まれていると指摘します。その最大の犠牲になったのが、映画で消えたスズメバチだといいます。
この小説でおそらく一番大事な象徴の一つがスズメバチなんですよ。
原作では章題に「スズメバチの巣」が並ぶほど重要なモチーフです。父ジャックが巣を壊す場面で、かつての教え子への殺意や、自作の不出来への苛立ちが重なっていきます。
息子が「刺してくるものが怖い」と訴える場面と、父が息子を刺すイメージが二重写しになり、やがて「刺してやれ」という声が誰のものか分からなくなっていきます。
だんだん意識のレベルにそれがこう介在してくるっていう。
さらに鼠は、スズメバチの巣がフラクタルな構造だと指摘します。一室で起きたことが隣人との関係、過去の出来事へと縦横に広がっていくのです。
蛇は、映画版にも過去の管理人が同じことを繰り返したという循環の構造はあったと応じます。ただし、それはキューブリックなりの解釈に置き換えられていました。
だから入り口は小さなものなんだけれども、そこから入っていくと、どんどんどんどんその妄想が広がっていって、さらにその妄想が、自分自身よりも大きくなってしまって、妄想に後押しされて。
妄想が現実を侵食する描写と、実体験
鼠は、キングの描写が実体への違和感から妄想へと入り込み、急に現実の冷たさへ引き戻される点に注目します。やたら大きな時計の音や、冷たすぎる窓外の風景が入り口になります。
蛇は、この構造をサルトルの「嘔吐」をホラーにしたようだと表現します。鼠は、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」冒頭のエレベーター描写にも近いと応じます。
ここで蛇は、子どもの頃の実体験を語ります。和室で天井の木目を見つめていると模様が回り始め、自分を上から見ているような感覚になったといいます。
どんどんどんどん高いところに行って、自分はその木目の中に吸い込まれて消えてってしまうんじゃないかって、そういうような感覚がありましたね。
蛇は大学時代、睡眠の質が落ちていた時期にも同じ感覚が戻ってきたと話します。木目の中に吸い込まれるような、離人的な感覚です。
主語が「it」に変わる恐怖
鼠は、この小説の恐怖の核心を「どこまでが自分で、どこからがコントロールできないものかが分からないこと」だと語ります。
そのうえで、英語ならではの表現に注目します。物語の途中から、非人称の「it」がホテルを指す「it」へと変わっていくのです。
最初は普通の「Itisbeautifulplace」とか「Itsoundsgreat」とか始まったのが、「ホテルが我々を引き止めようとしているのだ」とかっていう描写が突然増えるんですよ。
ホテルが意思を持ち始め、しかもそれが誰の意思なのか指し示せない。この非人称的な恐怖こそがキングの描いたものだと鼠は主張します。
鼠はまた、キングが子どもにとっての親の言葉の不気味さを巧みに描くとも指摘します。ホテルの過去は、古典的なゴシックホラーの言葉で語られます。
作品のエピグラフはポーの「赤死病の仮面」からの引用で、逃れられない死のモチーフがホテルに重ねられていると鼠は読み解きます。
子ども視点の恐怖には赤ずきんや青ひげが使われます。映画のラストでダニーが赤いずきん付きの服を着て父から逃げるのも、その象徴だと鼠は指摘します。
ジャックにとってダニーは赤ずきんちゃん、つまり食べる対象、殺す対象に見える。
無意識、狂気の伝播、そして解釈
鼠は、キング作品には無意識の話が頻出し、作中でフロイトの名前も明示的に使われると指摘します。潜在意識は言葉ではなくシンボルで示す、という趣旨の一節を引用します。
鼠は、三人称で書かれたこの小説を「ホテル、あるいはホテルに憑いた悪霊の視点」で描かれていると読みます。一方、映画はジャック視点だと解釈します。ここがキングの気に食わなかった点だと考えられると話します。
自分も今小説の中に取り込まれてんじゃないかって錯覚を覚えるんですよ。それを下手なメタフィクションに落とし込まずにやってるっていうのがキングのうまいとこだなと。
ここから話題は「狂気の伝播」へと移ります。蛇は、映画で父・母・息子が同じ狂気に巻き込まれていく点に着目します。
蛇は、ユヴァル・ノア・ハラリが描いた共同幻想を引き合いに出し、共同幻想を持てるということは共同の狂気も持てるのではないか、と問いかけます。
共同幻想を持ちうるってことは共同の狂気も持ちうるんだろうなと思って。
蛇は、大学時代に住んだ家でネズミに悩まされた体験を語ります。壁の中を走る音、コロナ療養から戻ると荒らされていた部屋、異臭。恐怖はやがて「殺さなければ」という攻撃性に変わりました。
鼠は、ラブクラフトの「壁の中のネズミ」を引き、我々の世界の隣にある別の論理の世界が干渉してくる恐怖こそキングの主題だと話します。
もうその別の論理体系、別のシステムで動いてる何か世界が、平行世界があって、それが干渉してくるんじゃないかって恐怖を、めちゃくちゃ描いてるんですよ。
鼠は「シャイニング」を、縦に積み重なってきたホラーの歴史を横に展開した作品だと位置づけます。ダニーとジャックは、ホテルに圧縮された過去の情報量を一度に受け取ってしまうのです。
鼠自身も、ネズミに悩む蛇の話を聞いて実家で幻聴を感じ、家族にまで「音が聞こえるかも」と伝染しかけたと明かします。狂気は伝わるのです。
蛇のネズミの話には結末があります。クリスマスイブにネズミ捕りに1匹かかり、その死骸を見た瞬間、恐怖がぴたりと止まったといいます。
これは現実の出来事だ、ネズミは本当にいたんだっていうのをちゃんと自分の目で見た瞬間に終わったんです。
鼠は最後に自身の解釈を語ります。ホテルは匿名性の象徴であり、外部の参照を失った意識が内へ内へと向かい、出口を見失って自らを刺してしまう。その内側の歪みを感じ取る能力こそがシャイニングだといいます。
そして、大きなホテルの中で家族は互いに離れて暮らし、同じ恐怖を体験しても助けを求め合えない。孤立無援であることの恐怖が描かれていると鼠はまとめます。
同じような恐怖体験をしてるのに助けが求められないっていう恐怖を描いてる。
複数の読みを許す作品を名作と考える鼠は、「シャイニング」はホラーの域を超えていると繰り返します。
まとめ
今回は、映画版とは別物の原作「シャイニング」を、象徴と狂気の伝播という切り口で読み解く回でした。鼠は原作をホラーの域を超えた文学として推し、蛇は自身のネズミ体験を通してその恐怖のリアリティに共鳴していきました。
- 原作「シャイニング」は象徴主義的で、映画で消えたスズメバチや赤ずきんなど多くのモチーフが仕込まれている。
- 恐怖の核心は「どこまでが自分で、どこからがコントロールできないものか分からない」ことにあり、主語が「it」からホテルへ変わる描写がそれを支える。
- 鼠は原作を「ホテルの視点」、映画を「ジャック視点」と読み、その違いが原作者キングの不満につながったと解釈する。
- 共同幻想が共同の狂気にもなりうるように、狂気は人から人へ伝播する。蛇のネズミ体験がその実例として語られた。
- 蛇の恐怖は「現実にネズミがいた」と自分の目で確認した瞬間に終わり、外部の現実に触れることが狂気を止める鍵になった。
