『ゲーデル、エッシャー、バッハ』とはどんな本か
今回のテーマは「知性とは何か」。蛇はその手がかりとして、1冊の分厚い本を持ち出します。
あるんですよ。『ゲーデル、エッシャー、バッハ』という本なんですよ。聞いたことありますか?
著者はダグラス・ホフスタッター。人工知能を研究しながら、幅広い分野をわかりやすく解説する人物として紹介されます。
ダグラス・ホフスタッターというアメリカの、人工知能とかを研究されてた人ですね。
タイトルに名を連ねる3人は、数学者ゲーデル、画家エッシャー、作曲家バッハ。一見バラバラなこの3人に共通点はあるのか、というのが本の出発点です。
鼠は当てにいきます。バッハの対位法のような自己完結性が知の本質ではないか、と。
フラクタルとかみたいな、要は自己完結性。そういう自己完結性みたいなのが知の本質だ。
蛇はこれを冗談まじりに制しつつ、まさにそういう方向の話になっていくと認めます。
この本は1979年、コンピューターが一般に普及する前、第1次AIブームの時代に書かれました。
内容は数学基礎論、視覚芸術、音楽、人工知能、言語学、遺伝子、禅まで。二段組で約800ページという大著です。
この本をね、紹介してくれたおじさんがいたんですけど、もし読めなかったら枕にすればいいって言ってました。
蛇によれば、この長い本を読み終えて感じるのは「出発点に戻ってきた」という感覚。本自体がゲーデル的・エッシャー的・バッハ的な構造を持っている、と語られます。
エッシャーの騙し絵――有限の中の無限
最初に取り上げられるのは、比較的とっつきやすいエッシャーの視覚芸術です。
代表作『上昇と下降』は、どこまでも登り続ける階段を描いた作品です。
ここで蛇は、収録場所である鼠の自宅マンションへ来る途中の体験を語ります。エレベーターが止まっており、窓のない階段を延々と登ることになったのです。
二周ぐらい回ったところで、なんか八番出口の世界に囚われたんじゃないか。本当にビビって。
物理的には不可能な階段が、絵の中では奇妙なループとして成立している。もう一つの代表例が、右手が左手を描き、その左手がまた右手を描く「描く手」です。
これらに共通するキーワードが、自己言及的な構造でした。
バッハの音楽に潜む循環と対話
続いてバッハ。学部時代にジャズをやっていた鼠にとって、バッハは教科書のような存在です。
ジャズマン目指すピアニストは、「まずバッハからやれ」って言われるくらいバッハがめっちゃ大事なんですよ。
蛇が注目するのは『音楽の捧げもの』に収められた「無限に上昇する調のカノン」です。
弾いていると、気づいたら調が一つ上がってる。だけど気づいたら元の場所に戻ってる。
上がり続けているように聞こえるのに元へ戻る。エッシャーの階段を、視覚ではなく聴覚で表現したような構造だと蛇は言います。
循環は宗教的なオブジェの円や渦巻きにも通じる、と鼠。有限の構造の中に無限を生み出す、もっとも原始的な方法だと整理します。
さらにフーガでは、複数の声部が同じテーマを追いかけ合います。蛇はこれを「対話」の構造として捉えます。
どこまでも登る階段が元に戻る。有限の平面で無限を表す視覚表現
調が上がり続けて元に戻る。同じ循環を聴覚で表す音楽表現
対話編とゼノンのパラドックス
GEBには各章のあいだに対話編が挟まれています。そこに登場するのがアキレスと亀です。
ここで鼠が、アキレスのパラドックスと「飛ぶ矢」のパラドックスは主張が別だと補足します。前者は追いつけなさを、後者は運動の不在を問題にしている、というのです。
対話編では、アキレスと亀がパズルやレコードを交換し合います。亀は少し性格が悪く、意地悪な仕掛けを繰り出します。
たとえば、特定の再生機で必ず壊れてしまうレコードを渡す。防衛システムを作っても、それをメタな場所からハックするレコードには破られてしまう、という展開です。
蛇はここで核心を口にします。
鼠はここで「これはゲーデルだ」と反応し、話は本丸へ向かいます。
ゲーデルの不完全性定理と形式体系
クルト・ゲーデルは1931年に不完全性定理を証明した数学者・論理学者です。
鼠はゲーデルがやったことを「コード化の話」と表現します。今見ればプログラミングそのものだが、その発想がない時代にやったことがすごい、と。
今見るとただのプログラミングじゃないかってみんな言うんですけど、プログラミングの発想がない時代にこれやってんのがやべえんだって。
話は前提となる形式体系から始まります。形式体系とは、公理と推論規則のセットです。
公理は「これ以上は深掘りしない」と決める前提の命題。証明を無限に遡らないためのベースラインです。
20世紀初頭、数学者たちは数学全体を厳密な形式体系として基礎づけようとしました。その代表がヒルベルト・プログラムです。
求められたのは無矛盾性と完全性の2つ。しかしゲーデルは、これが成り立たないことを証明してしまいます。
その体系の中で矛盾が導けないこと
真である命題は、その体系の中で必ず証明できること
第一不完全性定理は、算術を含む十分に強い無矛盾な形式体系には、その体系の中では証明も反証もできない命題が存在する、というものです。
ある体系があるとしたら、その体系の中には絶対にその体系のツールだけでは正しいとも間違っているとも言えないような問題が必然的に出てきてしまう。
着想の元になったのは「クレタ人のパラドックス」だと語られます。「この命題は証明不可能である」というゲーデル文を、数の体系に組み込む発想です。
ゲーデルはゲーデル数という技法で、命題や証明をすべて数へ翻訳しました。命題について語る命題が、数について語る命題に化ける、いわばコード化です。
第二不完全性定理はさらに強く、無矛盾な形式体系は自分自身の無矛盾性を自分の中では証明できない、と主張します。
デカルト・フィヒテとゲーデル的問題
鼠は第二不完全性定理を、自身の専門である哲学へ引き寄せます。
「我思う、ゆえに我あり」は、それ自体からは証明できない。デカルトはこれを公理として認め、そこから出発するしかなかった、というのです。
どう考えても実際そうなんですよ。「我思う、故に我あり」を証明するような命題って不可能なんですよ。
鼠は、自我が自己を定義できるとした体系哲学こそ、体系を思考する哲学におけるゲーデル的問題を象徴していると語ります。
蛇はこの本の面白さを、自分自身を定義できないがゆえに意識は内部と外部を往来する、という論の運びに見出します。
話はシェリングや、言葉を殺しても「殺した」という言葉が残るというアマザラシの楽曲へも広がり、自己言及への人間の関心の根深さが示されます。
創発と自己組織化――秩序はどう生まれるか
ここまでの話を蛇はいったんまとめます。知性は体系の内側だけでは完結しない、と。
続いて蛇の学部時代の研究テーマ、「創発」や「自己組織化」へと話が移ります。設計者がいないのに、なぜ秩序立った世界ができるのか、という問いです。
設計者がいないのに、なんでこんなに秩序立った世界ができている?
誰も設計しなくても、部品の局所的な相互作用だけから全体の秩序が自発的に生まれる。これが自己組織化です。
身近な例がホタルの点滅の同期です。指揮者がいなくても、一匹一匹が単純なルールに従うことで全体が揃います。揺れる台の上のメトロノームも同じ仕組みだと語られます。
1977年にノーベル化学賞を受賞したイリヤ・プリゴジンの「散逸構造」も紹介されます。外部とエネルギーや物質をやりとりすることで内部の秩序が保たれる、という考え方です。
孤立系のエントロピーは増大する。しかし外とやりとりする系では話が別で、そこに秩序が生まれる。蛇はこれをゲーデルの「内部と外部の往来」と重ねます。
システムの内部で閉じているんじゃなくて、外とのやりとりをしていると、そこに秩序が生まれるよと。
鼠はこれを、自我・非我・その相互作用を語るフィヒテの三命題と結びつけ、「フィヒテです」と繰り返します。
脳・意識・クオリアへ
自己組織化や散逸構造のモデルは、最終的に生命現象や意識の理解につながる、と蛇は言います。
心臓は一つ一つの心筋細胞が拍動し、それが同期することで全体が動く。人体も多数のシステムの相互作用の結果だと整理されます。
鼠は哲学の側から、逆方向でこの問題に近づけると語ります。ヘーゲル以降、対象は「もの自体」から「現れ(現象)」の理解へ切り替わった、というのです。
その延長で登場するのがクオリアです。
同じ波長の赤い光を見ても、二人が感じている赤の質は同じとは限らない。この交換不可能性が、意識を自然科学だけでは解けないとする論者の支柱になっていると鼠は説明します。
一方で、その質は入力に応じて必然的に生じるものだとし、クオリアを疑似問題とみなす立場もあると付け加えます。
蛇は、この本の著者はどちらかといえば科学畑で、知性を形式システムとして捉えている、と位置づけます。
人文学は人間を特別視しがちだが、自然科学はそうではない、という対比も語られます。鼠は、人文学は社会なしには成立しにくいが、自然科学は社会なしでも成立しうる、と踏み込みます。
ニューロンのモデルと知性の創発
蛇は、神経の発火現象がすでに方程式で記述されていることを紹介します。
このモデルはコンデンサーや抵抗を用いた電気回路として、活動電位が閾値を超えると次へパルスを送る発火現象を表します。膜電位やナトリウム・カリウムチャネルなどの変数を含む複雑なものです。
これを簡略化したのがフィッツヒュー–南雲モデルで、蛇はそのプロット方法を記事にも書いていると語ります。
ここから話は本筋へ戻ります。ニューロン一つ一つは自発的に発火しているだけなのに、そこに知性が生まれるなら、それも一種の創発だ、というのです。
意識っていうのも一つの秩序ですからね。秩序を生み出すシステムですから。
鳥やムクドリの群れの動きも創発の例として挙げられます。ヴィチェックモデルでは、近くの個体の平均的な動きにわずかなノイズを加えるだけで、群れの秩序が再現されます。
個々は局所的な秩序しか持たないのに、それが重なると全体の大きな秩序になる。これが要点です。
AI時代に問い直す「知性とは何か」
GEBが書かれた1979年は第1次AIブームの黄金期でした。人間の知を命題化して詰め込めば知性を持てるのではないか、という楽観論があった時代です。
著者ホフスタッターは、知性をアルゴリズムに還元できるかという問いに対し、否定はしないという立場をとります。
蛇は、この本が示す知性像を、循環する輪の構造と外部を参照する構造の両方が必要だ、と整理します。
知性って結局体系の内側だけでは完結しないよねと。
そして、そうした形式システムが十分に複雑なある点を超えた瞬間に、創発として知性になるのではないか、と語られます。
この見方に立てば、大規模言語モデルもある種の知性と呼べるのかもしれない、と二人は話します。
最後に、この回自体が参照の中でさらに参照を重ね、脱線を繰り返す構造になっていたと振り返られます。蛇はそれを、ゲーデル・エッシャー・バッハ的な構造だとまとめます。
まとめ
『ゲーデル、エッシャー、バッハ』を入口に、自己言及・無限・外部との往来という共通構造が、数学から芸術、哲学、生命現象、そしてAIまでを貫くさまが語られた回でした。脱線を重ねた対話そのものが、本の構造を映していたとも言えます。
- エッシャーの階段とバッハの上昇カノンは、有限の中に無限を表す同じ構造を、視覚と聴覚で示している
- ゲーデルの不完全性定理は、どんな形式体系も自分の外部を持ち、自分自身を完結させられないことを示す
- ホフスタッターはこの本で、知性を形式システムとして捉え、循環と外部参照の両方が知性に必要だと論じる
- ホタルの同期や群れの動きに見られる創発は、脳や意識の理解にもつながる中心テーマである
- 体系の内側だけでは完結しないという発想は、デカルトやフィヒテの哲学とも響き合い、AI時代の「知性とは何か」に接続する
