浮いていた子供時代と高専で見つけた居場所
対談は映画館のような空間で始まりました。二人とも、こうした場は珍しいと少し緊張気味です。
濵渦さんは普段あまり取材を受けません。理由はクリエイターへのリスペクトにあります。
僕ら結構クリエイターさんと仕事してるじゃないですか。その人たちをすごくリスペクトしてる会社なので、クリエイターさんより前に僕は出ないっていう方針なんですよ。なんであんまり出ないんですけど、アンリさんから頼まれたら出るしかないよねっていう。
話は幼少期に移ります。濵渦さんは幼稚園から小学校の頃、友達もなく浮いていたと振り返ります。ただ、そのことにストレスはあまり感じていなかったそうです。
祖父はタクシー会社を経営し、庭に馬や鯉がいるような「コテコテの経営者」でした。母親は男気のある人だったと話します。
当時は言葉がなかったものの、ADHDのような特性があったと振り返ります。気が散り、本や文章がうまく読めず、国語と英語がとても苦手だったそうです。
そんな濵渦さんが居場所を見つけたのが高専でした。少し浮いた人たちが集まる環境で、初めてまともに友達ができたと語ります。
高専のすごい良かったのは、みんなちょっと浮いてる人たち、ちょっと変わった人たちの集まりで、初めてなんかね、友達がまともにできるというか。
ファッションとインターネット、そしてリコー初日退社
高専では英語の授業がほとんどなく、代わりに一年生から応用物理を学ぶような環境でした。理論より物を作ることが中心だったと話します。
高専時代にちょうどインターネットが登場します。濵渦さんは研究室でホームページ制作を任され、当時全盛期だったFLASHに夢中になりました。
ここからウェブの世界に入りますが、研究室は超電導などの強電系だったため、就職先は電気系メーカーに限られていました。ウェブの夢は一度封じ込めます。
カメラも好きだった濵渦さんは、GRデジタルを作りたくてリコーに入社します。三ヶ月の研修を受けたものの、配属はコピー機側でした。
そして、その配属の日に会社を辞めてしまいます。
その日に辞めました。ほんと申し訳ないです。リコーの方々に本当に申し訳ないなと思うんですけど。大事に育ててもらって、その日に辞めるっていう。初日に。
親は大激怒し、三年ほど勘当されます。宮崎に戻った濵渦さんは、裏原系のアパレルショップでアルバイトを始めました。
そこで転機が訪れます。店の社長に「高専だからウェブ作れるだろ」と言われ、楽天のサイトを作り始めたのです。好きな洋服と好きなウェブがつながった瞬間でした。
ARATANA創業とそうめんの味
作ったECサイトが売れると評判になり、商店街の他の店からも依頼が来ます。やがてシェア8割を占めるほどになり、そのまま起業へと進みました。
これが地方発のスタートアップARATANAです。佐俣さんは学生時代、地方でスタートアップという概念を初めて知ったのがARATANAだったと語ります。
共同創業は高専の同級生で、15歳から一緒にやってきた技術者の仲間でした。ウェブは仲間が作り、濵渦さんはタウンページをアからンまでかけまくるテレアポ担当でした。
ガチャ切りとかされて。でもガチャ切りされても今切れましたけど大丈夫ですかってかけ直して。すごい泥臭くね。一日一件取るまで電話してましたね。
ARATANAは約5億円を調達し、UNITED ARROWSなど大手アパレルの仕事も手がけるようになります。宮崎の会社としては異例のことでした。
当時は300万円で会社を作り、300万円を内装費に使ったといいます。給料は二人とも月10万円ほど。三年ほどカツカツの生活が続きました。
一方、佐俣さんの創業も志から始まったわけではありませんでした。転籍した先で親友と喧嘩して辞め、居場所を失った末に、恩人に半ば背中を押される形で独立したと明かします。
自分を育ててくれた会社を転籍してしまい、さらに自分から喧嘩し、最終的にはその恩人に脅されて起業しても生きてはいける。全然いいんだよっていう。
当時を象徴するのが、そうめんのエピソードです。仲間からもらったそうめんに、つゆを買う金がなく塩だけをかけて食べたといいます。
塩を少しだけかけてそうめん食って、すごい寂しい味がするんですよ。もうあの、今そうめん僕食いたくないですよ。当時を思い出して。
前澤さんとの出会いと三年で三十億を使い切る
ARATANAはZOZOに買収されます。濵渦さんはここで初めて自分のボスができ、前澤さんの仕事を間近で学ぶことになりました。
前澤さんはアート、プライベートジェット、そして宇宙への見送りまで、多くを教えてくれた師匠であり恩人だと語ります。
ARATANAは約30億円で売却され、株高もあって濵渦さんの持ち分は大きくなりました。しかし、前澤さんの一言が濵渦さんを動かします。
前澤さんに家に行った時に、「ハマちゃんの会社はこのアート一個分かな」って言われて、超悔しかったんですよ。このアート一個分、十年やってこれかみたいな。
その悔しさから、濵渦さんは売却したお金を三年で使い切ることにします。投資に回すのではなく、あえて使い切る道を選びました。
前澤さんがZOZOを辞めると決めたとき、濵渦さんは「親父が死んだみたいな気持ち」になり、同じ日に自分も辞めると決めます。NOT A HOTELの構想があって辞めたわけではありませんでした。
熱に投資しよう——TwitterのDMから始まった投資
辞めると決めた濵渦さんは、次に何をするかを考え始めます。そして、以前から遠目に見ていた佐俣さんに連絡を取りました。
きっかけは佐俣さんの著書『君の熱に投資しよう』でした。誰かを通せば会えたはずでしたが、あえて熱を見せようとTwitterのDMを送ったといいます。
このとき、事業は何も決まっていませんでした。佐俣さんに会うと決めてから事業計画を書き始めたそうです。
投資の話が進む中でコロナ禍が始まります。ホテルを作りたいというタイミングで、世界が真逆の状況に向かいました。
4月に東京が初めてロックダウンとなり、ホテルを作るなど頭がおかしいと言われる空気の中、濵渦さんは一度自信を失い、投資を断りに行きます。
しかし佐俣さんと河野さんは裏側で「これは素晴らしい人だ」と話していました。断りに来た誠実さが、逆に評価を高めたのです。
なんかスーツ着てね、たい焼きを買ってごめんなさいをしに行ったんですけど、逆に背中を押されたんですよ。いや、濵渦さん絶対やった方がいいですよっていう風に言ってくれて。
この投資が、後に那須のエリアを手にする唯一のタイミングになりました。一年待てば土地も知らず、建築費の高騰も始まっていたと二人は振り返ります。
信頼と絆、そして「もう一回同じ山を登る」
濵渦さんにとって、前澤さんと並ぶ恩人が佐俣さんです。うまくいっている時も悪い時も干渉しすぎず、助けを求めたときに的確なアドバイスをくれる存在だと語ります。
NOT A HOTELの二つ目の分岐点は、内製か外注かでした。大きな組織に疲れていた濵渦さんは、当初10人ほどで上場する構想を持っていました。
そんなとき、佐俣さんが横丁で飲みながら謎めいたアドバイスをくれます。
濵渦さん、もう一回同じ山登った方がいいよっていう謎のアドバイスをくれて。それは人を抱えてちゃんとやりたいことをやりきった方がいいっていうアドバイスだったんだけど、それがやっぱり大きかったですね。
佐俣さんは、事業のことは本人が一番考えているからプランには口を出さないと話します。代わりに、怖い・面倒だといった感情の部分に寄り添う姿勢です。
この一言をきっかけに、濵渦さんは10人構想から一気に舵を切り、今の300人規模のチームへと向かいました。清掃スタッフまで自社で行う、徹底した内製化に振れていきます。
いいブランドって、やっぱり最初から最後まで自分たちでやってるブランドしかないなって。Appleも半導体からAppleStoreまでやるじゃないですか。そこ一つも手を抜いちゃダメなんだなっていう。
ストックフォトとポエムで八億円が売れた瞬間
NOT A HOTELという名前は、英語が得意でなかった濵渦さんが「NOT, あ, ホテルですよ」と言われてAを入れたことに由来します。
佐俣さんに会った当時は、CGすらありませんでした。事業計画に使われたのは、ストックフォトと濵渦さんが書いたポエムでした。
濵渦さんは100エピソードほどのポエムを書き、感動して泣きながら書いていたといいます。ZOZOを辞めた妻から見れば、家で泣きながら小説を書く夫の姿でした。
そのポエムは、今ユーザーが体験しているものと同じ内容でした。約束を守った、というのが濵渦さんの表現です。
そして販売の日が訪れます。十六万坪の土地を買い、建築家に設計を依頼した八億円超の家を、オンラインで売るという前例のないモデルでした。
僕はそのリリースの日に、これ全く反響なかったら切腹だなっていうぐらいドキドキしてたんですよ。絶対売れるって言ってたけど、内心やっぱ心配で。
結果は、24時間で15億円。最初の一ヶ月でほぼ7割が完売しました。しかも、身近な人以外の顧客が多かったことに大きなポテンシャルを感じたと佐俣さんは話します。
ストックフォトとポエム、CGすらない状態で八億円の家を提案
那須・青島に実物が完成し、24時間で15億円が売れる
非効率に賭けるブランドと、リスペクトが呼ぶコラボ
NOT A HOTELはシステムに20億円以上を投資しています。売上やリテンションといった短期の合理性では説明できない投資でした。
その狙いは体験の統一です。建築のデザインはすべて違うのに、タブレットで操作する使い勝手は共通しています。行くたびに使い方が変わらない、この横串がNOT A HOTELらしさを作っていると濵渦さんは語ります。
この五年間で歩んできた道をすごい賢い人たちが後ろから追おうとしても、多分途中で発狂すると思う。明らかに途中合理じゃないものが大量にあるから。
濵渦さんは、あえて非効率な方向に価値があると考えています。AIで効率化が進む時代だからこそ、誰かの人生を豊かにするスタートアップがもっとあっていいという立場です。
立地も特徴的です。青島や水上など、有名観光地ではない場所を選ぶことが強みになっています。坪一万円の土地に建築を持ち込み、坪二千万円で販売することで地域の価値を引き上げます。
濵渦さんは、日本の国富の半分は地方の土地だと指摘します。安い土地の価値を十倍にできれば、日本の価値そのものを上げられるという構想です。
ブランドについての濵渦さんの考えは明快です。どう尊敬されるかではなく、誰をリスペクトするかで決まるといいます。
このリスペクトが、コラボレーションを呼び込みます。NIGOさんとは再会をきっかけに一緒に仕事をすることになりました。決め手はドライヤーが立っていたディテールだったといいます。
さらにビャルケ・インゲルスからは、問い合わせフォームに直接メールが届きました。詐欺かと疑うほどでしたが、本人がテレビ会議に現れ、一緒にやろうと誘ってきたのです。
その世の中のその業界のスターが向こう側から来て俺たちに誘ってくるみたいな。このベクトルの差を作るって何なんだろうとか、あの話を聞いてからずっとテーマなんですよね。
今、濵渦さんには新しい目標があります。「売れないNOT A HOTEL」を作ってみたいというのです。売れないと思ったものが売れ続けているのは、チャレンジが足りない証だと考えています。
売れないNOT A HOTEL。これさすがに売れなかったねっていうチャレンジをしないと。クリエイターさんに失礼だなと思ってて。
佐俣さんは、こうした常軌を逸したチャレンジこそ最高の褒め言葉だと語ります。世の中の期待を背負って挑戦する価値のあるテーマは、そう多くないからです。
まとめ
NOT A HOTELは、高専で浮いていた少年が、ファッションとインターネット、そして前澤さんや佐俣さんとの出会いを経てたどり着いた事業です。ストックフォトとポエムから始まったこの挑戦は、非効率とリスペクトを軸に、日本の価値を上げる構想へと広がっています。
- 濵渦さんは友達のいない子供時代から、高専で初めて居場所を見つけた
- リコーを初日で辞め、勘当と極貧の中でARATANAを創業した
- 前澤さんの「アート一個分」という言葉が、三十億を三年で使い切る原動力になった
- コロナ禍のロックダウン直前という、唯一のタイミングでANRIの投資が決まった
- 建築家への徹底したリスペクトと非効率への投資が、追随できないブランドを作っている



