子ども時代とマイペースな性格
対談はまず、これまで話したことがなかったという子ども時代の話から始まります。
じゃあ遡ると、宮城さんはどんなお子さんでしたか?
宮城さんは自分を「マイペースだった」と振り返ります。おもちゃを渡しておけば一人で遊び続けるような、周りにあまり依存しない子どもだったと言います。
ゲームも、トレンドを追ってハマるというより、付き合いのコミュニケーションツールとしてやっていたと話します。
家族もマイペースで、二十代で海外に引っ越しそのまま帰ってこない親戚もいたそうです。父方には自立した血が流れていたと言います。
一方で母方は商売の家でした。中小企業の社長だった祖父の家に預けられ、売り上げや税金、銀行、株価といった話題が日常的に飛び交う環境で育ちました。
母方は商売の家で、よく祖父の家に僕預けられてたんですけど、祖父は中小企業の社長だったんで。売り上げだとか税金だとか銀行だとか株価だとか、そういう話がもう祖父と祖母の間で頻繁に行われて、お客さんも来てっていう中にいたんで。
音楽に浸って育った人が音楽に興味を持つように、ビジネスの世界観が自然に身近にあった感覚だと宮城さんは表現します。
でもやっぱ起業家の人って家系的に経営者だったとか多いよ。だからまさにその身近にあるから、それが当たり前のものでもあり、自分がやるっていう時に、そこまで飛び地に思えないから、すっとそこに。
クロスカントリースキーで学んだ経営の原型
大学時代、宮城さんはクロスカントリースキーに打ち込みます。登っては下り、下っては登るという、非常にきつい競技でした。
これ、本当に今もなんでやってたのかわかんないくらいきつい。上がったとこ下がる、下がったら上がるみたいな。何の生産性もないですからね。
この経験が、今のメンタルの基礎になっているかもしれないと宮城さんは話します。会社にも浮き沈みがあり、「登ったら下るんだろうな」という感覚につながっているそうです。
競技のために地方を渡り歩くうち、同じ地方でも栄えている場所とそうでない場所があることを目の当たりにしました。人の努力によって改善できる部分もあると肌で感じたと言います。
東京にいたら気づかなかっただろう、と宮城さんは振り返ります。日本経済への課題意識と、人の努力への希望が同時に芽生えた時期でした。
競技を始めたきっかけも、合理的な理由ではなく人のご縁でした。お世話になった人に誘われて始めたと言います。
ビジネスもそうですけど、合理的な理由があって始めることってなくて、その時の人のご縁でお世話になった人のためになりたくてとか、その人の期待があってみたいなのがすげえ多くて。
長野の寮で暮らした五年間は、組織や商売のベースができた場所でもありました。大学三年の時に組織が崩壊し、同期が二人だけになった経験もあったそうです。
そこからチームビルディングをやり直し、いい雰囲気を作っていく過程で、リーダーシップや採用について試行錯誤したと言います。
寮や道具を提供してくれるOBやスポンサーがいたからこそ、儲けのない学生が金のかかるスポーツに没頭できました。宮城さんはこれを「四、五年赤字のスタートアップと似ている」と語ります。
OBやスポンサーが家や車を提供し、卒業後に返済する。儲けはないが挑戦に没頭できる
儲けが出るまで数年赤字でも、投資家が資金を出す。前のめりに挑戦できる
河野純一郎の繊細な少年時代
続いて河野さんが自身の子ども時代を語ります。宮城さんとは対照的に「繊細な子どもだった」と言います。
すっごい繊細で、とにかく人の顔色とか、人の評価とか、そういうものばっかり気にしてた。すごい小心者の子供だった気がしますね。
親の顔色や先生の評価を気にし、自分がどうしたいかよりも、周りからどう見られたいかで頑張っていたと振り返ります。落ち着いていて育てやすかったとも言われたそうです。
この「人の顔色を読む力」は、かつてコンプレックスでした。しかしVCの仕事を始めてから、大きな武器になったと河野さんは話します。
この仕事を始めてから、人の心の機微を読むっていうことが、投資をする時も、投資後のサポートにしてみても、メンバーの育成とか採用においても、すごい役に立ってるなって。起業家がなかなか言語化できないことを、表情とか所作から読み解いて、寄り添うっていうところについては、コンプレックスだったものが武器になってる。
一方、宮城さんの「マイペース」は良くも悪くも和を乱すタイプでもあり、周りに合わせられないことへのストレスが大きかったと明かします。二人は正反対の性格として互いを理解し合います。
どこにも内定がなかった青年がフィンテックに出会うまで
大学卒業後、宮城さんはコンサルティング会社のマッキンゼーに入社します。ただし、これも「唯一内定をくれた会社」だったと打ち明けます。
まあどこにも内定もらえなかったんですよね、僕ね。一切取れてないです。変な人だったわけですよね。みんながちょっと避けるような。その変な人に内定を唯一くれた会社だった。
合理的な世界は宮城さんの性格とは相反し、最初は「向いていなかった」と言います。朝五時から働き、量でカバーしようとしても、うまくいかなかったそうです。
転機は、頑張る姿を気に入ってくれた経営者たちとの出会いでした。彼らがたまたま金融業界の人だったことが、キャリアの方向を決めます。
金融領域の仕事は学びが多い一方、金利がマイナスになる時代で、人員削減や店舗削減といった後ろ向きのプロジェクトが多く、世の中のためになっているか微妙だと悶々としていたと言います。
そんな時、先輩に「一回ロンドンでも行ってこい」と背中を押され、2016年にロンドンのマッキンゼーへ移ります。
ロンドンでは、走るバスの広告がことごとくフィンテックのものでした。宮城さんは一人のユーザーとして、それらを使うのが自然な環境で暮らしていたと言います。
正直ネイティブスピーカーでもないですし、仕事はできるタイプじゃなかったんで、マジで苦しかったんですよね。よくここでサボってたんですよね。こうやってバスが走るんですよ。で、ここの広告がその当時はことごとくフィンテックの広告だったんですよ。
仕事ができない中で、周りに役立ち生きていくために、新しいテクノロジーが金融をどう変えるかに時間を注ぎ始めます。それは後ろめたい仕事から抜け出す入口でもありました。
ただし、当時盛り上がっていたのは日本もロンドンも個人向けのフィンテックでした。この点は、後のUPSIDERの方向性と対比される重要な事実です。
日本での起業と、二年半に及んだ苦しい創業期
2018年、宮城さんは起業するために日本へ帰国します。当初はシンガポールや香港を検討したものの、市場や顧客の解像度が低く、信用力もないことから、まず日本での立ち上げを選びました。
開発現場の写真を前に、宮城さんはこの時期を「一番つらかったかも」と振り返ります。出口の見えないトンネルを歩いている感覚だったと言います。
共同創業者の水野さんと二人、住む場所もほとんどないほど貧しい生活を送っていました。渋谷のガストに行くのが数少ないご褒美だったそうです。
今日はうまいもん食うぞみたいな勢いでガストに行ってた時期ですね。あまりにもこの生活が長かったですね、僕らは。
当初は数ヶ月の想定だった苦しい生活は、結果的に二年半続きました。
この創業を後押ししたのが二人の恩人です。一人は、宮城さんがマッキンゼー時代に知り合った杉江さん。新生フィナンシャルの社長で、後にPayPayの社長も務めた人物です。
あなたその頭は良くないけど、行動力とエネルギーレベルは高いから、ビジネスの感覚を持った方がいいよと。それは起業するのが一番いいし、あなたは合ってるんじゃないっていうのをワンオンワンで言ってくださって。
もう一人は、とある金融機関の社長でした。法人カードという領域に市場があると共感し、ライセンスや資金の面で本当の支援をしてくれた人物です。
いいじゃん、やってみなよと。もうその場で即決してくれて、僕らが法人カード出す時にその基盤を提供してくださった。
河野純一郎との出会いと、狂気への共感
二人の初めての出会いは2018年の6月。かけはしの中川さんの紹介でした。当時河野さんは伊藤忠にいましたが、次のステージへ移ろうとしていた時期でした。
いや、ちょっと僕会うのはいいけど、多分力になれないと思いますよって言って。それでもいいんでっていうんで、最初に会ったんでね。
河野さんは、辞めるかもしれないが一緒にやりたい、株主はちゃんと選んだ方がいい、と伝えたと言います。そこで河野さんが強く印象に残ったのは、宮城さんの姿勢でした。
一番株価を高くしてくれそうだとか、投資してくれそうだっていうことじゃなくて、自分たちにとってどの株主がベストなのだろうかっていうことに想像力を働かせて、レファレンスチェックなりをしてその場に臨んでる。そこに対しての感度の高さと行動力、それが印象的だったね。
宮城さんも、価値観の合う相手でなければ長い浮き沈みを乗り越えられないと考え、多くの先輩起業家に聞いた上で「この人しかいない」と河野さんに会いに行ったと語ります。
河野さんは事業構想を「面白いが大変だ」と感じつつ、直感的に「これは俺がサポートしなきゃダメかも」という義務感を覚えたと言います。
大変そうなこの会社をこの段階で多分投資ができるのは俺だけだなって僭越ながら思ったの。種銭だけつけてあとはよろしく、じゃダメだと思ったんで。でも出さなければスタートすら切れないから、その天秤にかけた時に一緒にやっていこうと。
宮城さんが挙げる河野さんの第一印象は、狂気じみたアイデアを馬鹿にせず、むしろ実現できると思わせてくれるリアクションでした。
当時の構想は、新しい銀行を作り、銀行業界の構造を変えるという壮大なものでした。エントリーが法人カードで、普通なら地に足がついていないと突っ込まれかねない内容だったと言います。
河野さんは、長くVCをやってきたことで「不感症」になっていたと語ります。想像できる範囲のビジネスにはリミッターが触れなかったと言います。
なんか今流行ってるビジネスとか、自分の想像できる範囲のビジネスに対して、そんなにそのよっしゃとかおもろとか、これやりたいなっていう、自分の中のリミッターが触れることがあまりなくて。だからミヤギさんが持ってきた荒唐無稽に見えたアイデアは、いや、これは面白いと。
河野さんは過去に、貨幣を介さないやりとりが生まれるブランドビジネスの構想を支援した経験がありました。その原体験が、UPSIDERのアイデアと確信としてつながったと言います。
当時、世の中の大衆は個人向けのキャッシュレスに向かっていました。しかし河野さんは、法人向けこそブルーオーシャンで市場規模も大きいと見ていました。
世の中の大衆がツーシー向けのキャッシュレスっていう方向に向かってる中で、実はツービーってブルーオーシャンだし、市場規模で考えたらこっちの方が大きいから、こっちの方が大きいビジネスになるんじゃないかっていうのも盲点だったんだよね。でもなんか逆張りのようでそっちが本丸なんだよね。
多くのプレイヤーが向かう方向。ロンドンでも日本でも盛り上がっていた
逆張りに見えるがブルーオーシャン。市場規模が大きく「本丸」だと考えた
与信を出し続ける「ありえない構造」を支えた資金調達
リリース後、UPSIDERは赤字のスタートアップをターゲットにしました。小さく赤字の自社が、自社より大きく赤字の会社に誰も出せない与信を出すという構造でした。
成長すればするほどお金がなくなっていくという、このビジネスとしてはありえない、やっちゃいけない構造。
この構造にフルベットしたのがANRIでした。宮城さんはシリーズCやシリーズBの際、ANRIのオフィスで言われた言葉を今でも覚えていると言います。
アンリさんからもうこれ伸びていく限り支えるからっていう風に言われて、なんだこの狂気じみたチームはって思って。今でも覚えてますよね。
河野さんは、ガソリンさえ供給し続ければ必ず伸び、ある臨界点を超えればエクイティに頼らず回ると構造的に見えていたと言います。だからこそ、共感する投資家を連れてくることを強く意識しました。
僕らが起点となって、僕らの余震を使って共感するインベスターを連れて来れば、二段ロケットの段目ぐらいまでは絶対持っていけるなというのがあったんで。
その結果、シリーズB、B'と、株主同士がリードのバトンをつなぐ形が実現しました。河野さんが紹介した二社が、通常はリードしか務めない立場でありながらフォローに回るという「ミラクル」も起きたと言います。
シリーズA
ANRIがリード。時間をかけていい株主構成を作る方針を取る
シリーズB
DNXへリードをバトンタッチ
その後
GLOBAL GREENへとつなぎ、株主間で方向性を一致させて支える
日の出を感じた瞬間と、顧客からの手応え
UPSIDERは物理的な製品を持たず、街中で見かけるサービスでもありません。宮城さんが手応えを感じたのは、2023年の創業五周年パーティーでした。
お客さんが台風の中集まってくれたんですよ。もう水浸しで、しかも確か金曜の夜とかで、もう仕事じゃない時間なんですよ。それにも関わらず、会場に人が入れないくらい人が集まって。
それまでは転げ落ちるような成長への対応に必死で、ポジティブな意味で何かを感じる瞬間はなかったと宮城さんは正直に語ります。
河野さんも近い感覚を挙げます。SNSで、知らない人が投資先のプロダクトを絶賛している声を目にした時に「顧客が欲するものになれたのかもしれない」と嬉しかったと言います。
過去の投資先を振り返ってみても、自分が一番嬉しかった瞬間って、街中とか電車の中でそのサービスを普通に使ってる人がいる瞬間なんですよ。あ、多くの人の生活に根差したものになったんだなと思った瞬間が一番嬉しいんですよね。
宮城さんは、地方のケーブルテレビ会社にお詫びに行った時のことも語ります。怒られると思って向かったところ、丁寧に迎えられ、感謝の言葉をかけられたそうです。
もうどれだけ怒られるかと思って行ったんですけど、いや、本当に助かってると。こんなサービスあると思わなかったみたいな話をされて。今後どうなっていくの?って話をしてもらった時はマジで泣きそうになりましたね。
スタートアップという世界で育ったプロダクトが、社会のインフラを担う会社に使われるようになった。そのリアクションが、日々前に進んでいる実感になっていると宮城さんは話します。
信頼と絆をつくった、率直さとハードシングス
最後に、二人はお互いへの信頼や絆を最も感じた出来事を語り合います。宮城さんは、河野さんが個人的なつながりの人たちを次々に紹介してくれることを挙げます。
旧知の知人を僕に紹介してくれて、この人は役に立てるかもしれないみたいなのをどんどん河野さんが紹介してくれて。それはやっぱり、自分が失礼なことをしない、期待を裏切らないっていう風に感じてくださってるからこそ。
河野さんも、紹介した人たちをUPSIDERがファンや社員に変え、大事にしてくれているからこそ、自分も本気で成功を願うようになると話します。ある社員が「毎日幸せです」と言ってくれるのが何より嬉しいそうです。
河野さんが絆を感じるのは、重要な意思決定の時に必ず相談があり、良くないことも含めて率直に意見を言ってくれる点だと言います。
日常的な業務の中では、しっかりクライアントに自分の時間とマインドシェアを使って、休みの日に僕に相談するみたいな。その時間の使い方も含めて、なんとなく安里さんのために時間作るよって自然と思わせてくれる。深い信頼関係と絆があるから、率直に言いたいことを言いながらも人間関係が破綻しない。
象徴的な出来事が、2019年のリリース前の危機でした。裏側の決済システムを委託する予定だった海外の会社が、蓋を開けると何も動いておらず、リリースできないことが判明します。
宮城さんはその日のうちにイギリスへ飛び交渉しますが、答えは出ませんでした。二人は、必要な機能をすべて自社で作り直すという判断を下します。
潜ってでも世の中のニーズとか構造的な課題は半年、一年遅れても変わらないと。それならもともと必要だった機能を全部自社で作った方がいいんじゃないかと。一年かかってもいいんじゃないかと。
河野さんは、重要なシステムを他社に依存したからこそ問題が起きたと考え、ここは譲れないと判断しました。リリースは遅れても、クライアントに大きな迷惑をかけるリスクを避ける方が良いという結論です。
そして河野さんは、こうした難局こそ「ワクワクした」と言います。投資家としての役割観がここに表れます。
無傷ででかくなって大怪我するよりは、適切に成長痛を伴って成長してった方がいいなと思ったし、なんかハードシングスの方が燃えるじゃん。起きちゃった事象に対して悩んでくよくよしててもしょうがないんで。おっしゃみたいな。来たぞと。
宮城さんは、ハードな相談の時ほど河野さんのテンションが上がるので話しやすいと言います。河野さんは、一番ショックを受けているのは起業家であり、投資家が同じテンションで落ちても良い方向に向かわないと考えているそうです。
現在の距離感と、これからの挑戦
現在、二人は適切なステージで適切な距離感を取れていると感じています。事業がおおむね順調なため、資金調達のタイミング以外では、投資家が関わることはほとんどないと言います。
こうやって徐々に関与が薄くなって、株主としての存在感と役割がなくなっていくことが、VCとしての運命でもある、宿命でもあり、喜びでもあり、寂しさでもあるよね。
宮城さんも、ANRIというファンドの成功のステークホルダーだと考え、より自立し、頼る先を変えていくことを常に意識していると話します。
河野さんにとっても、UPSIDERはファンドの個性を象徴する投資先です。自分たちが言葉で語るより、投資先が伸びている事実の方が説得力があると言います。
一方で河野さんが最も懸念するのは、上場などが視野に入ることで意思決定が小さくまとまってしまうことです。
より狂気性を持った形で事業をやってってほしいし、小さくまとまらないでほしいなっていうのはすごいあるよね。三振を覚悟するぐらい満振りしないと特大ホームランは多分出ないんで。
宮城さんも、今の成長スピードでは挑戦し続けなければ追いつかないと語ります。挑戦をやめれば、今言っていることがただのお絵描きになってしまうと言います。
挑戦し続けないと、今の成長スピードだと全然無理なんですよ。どんどん自分たちが挑戦し続けないと、今言っていることがただのお絵描きになっちゃう。こっからのは長いと思います。
まとめ
マイペースな起業家と繊細なキャピタリスト。正反対の二人が、狂気じみた構想への共感と、率直に言い合える関係を土台に、UPSIDERを支えてきた対談でした。危機の時ほど燃えるという姿勢と、適切に距離を取りながら挑戦を促す関係が、これからの成長を支えていきそうです。
- 宮城さんの価値観は、商売の家系やクロスカントリースキー、地方での経験、そして人のご縁の中で形づくられた。
- 河野さんが投資を決めた背景には、法人向けフィンテックという逆張りの構想への確信と、株主を真剣に選ぶ宮城さんへの信頼があった。
- 与信を出し続けるという「ありえない構造」を、河野さんが起点となった株主のバトンリレーが支えた。
- 2019年のリリース前の危機では、システムを自社開発する難しい判断を二人で下し、それが信頼を深めた。
- 現在は関与を薄めながらも、小さくまとまらず狂気性を持って挑戦し続けることを二人が共有している。
