都市銀行からソフトバンクへ、3社IPOまでの歩み
円山さんは平成元年に当時の東海銀行、現在の三菱UFJ銀行に入行し、11年間銀行員を務めました。
最後は企画部で海外の先進的な金融業を研究していました。
しかしバブル崩壊後、都市銀行の再編が始まります。日本ではイノベーションは難しいと感じていたところに、インターネットの波とソフトバンクの金融参入が重なりました。
インターネットという新しい波が来て、ソフトバンクが新しいインターネットファイナンスに参入するという発表があって。たまたまそのタイミングで、金融事業を一緒にやらないかって誘いがあって。全部のタイミングが揃ったので、このまま銀行にいるよりもソフトバンクに行った方が自分の成長につながるんじゃないかと思いました。
34歳だった2000年、円山さんはソフトバンクファイナンスへ転職します。そこでeLONEというアメリカのベンチャーとのジョイントベンチャー立ち上げに参画しました。
その後、日本初のモーゲージバンクであるSBIモーゲージを2001年に創業します。
SBIモーゲージは2012年に韓国のコスピ市場へ上場します。その後、2014年に住信SBIネット銀行の社長に就任し、2023年にこの銀行をIPOへ導きました。
三回IPOを経験し、社長としては二回。自分で作った会社は一回。雇われ経営者としてIPOしたのがこの住信SBIネット銀行という意味で、いろんなタイプのIPOをこれまで経験してきています。
同級生6人の過疎地の寺で芽生えた反抗心
円山さんの生まれは福井県芦原温泉の近くの小さな村です。同級生は6人、全校生徒でも49人しかいない過疎地域でした。
実家は浄土真宗のお寺で、円山さんは23代目の住職と言われていました。得度もしており、お経をあげる資格も持っています。
ただ、心の中ではずっと反抗心があったと話されています。
お寺の仕事はしたくないってずっと思ってましたね。生意気な子供でしたし、こういったお寺みたいな超保守的な業界っていうのは自分にはすごく合ってないと思ってました。そうじゃない生き方をするためにどうしたらいいかはずっと考えてました。
多くの寺の家系の人が宗教大学へ進む中、円山さんは学力で神戸大学へ進みました。近くの寺の家系では初めてと言われたそうです。
性格は昔から飽きっぽく、部活も1年ごとに変えていたと振り返ります。同じことを続けるのが苦手で、常に新しいことに挑戦していたい。それが連続起業家としての原型にもなっているようです。
難病で視力0.01に、絶望から得た勝ちの方程式
高校3年の受験1週間前、円山さんは突然両目の視力が0.01以下になりました。原因が分からないまま試験を受け、浪人することになります。
これは円錐角膜という難病でした。角膜が円錐形に尖り、視力が出なくなる病気です。ハードコンタクトで押さえる以外に矯正の方法はありません。
当時は1日10時間しか目を開けていられませんでした。限られた時間で成果を上げる必要に迫られます。ここで、後に貫く考え方の原型が生まれました。
人と違うことをやらなければ、自分は絶対に受験競争にも勝てないし、社会に出ても勝てない。人と違う方法で勝つ方法を見つけるってことを強烈に意識し出したのはその頃ですね。これが一番大きな転機です。
円山さんは、計画を立てることと実行するプロセスをとても重視すると話します。正しくやれば結果はついてくるという考えです。
泣きながら仕事した銀行員時代と、上司の一言
神戸大学ではバブル期の4年間をほぼ遊んで過ごしたと振り返ります。就職活動もほとんどせず、複数の内定を得て銀行に入りました。
しかし銀行員としては落第生だったと自ら語ります。
泣きながら仕事してました。目が痛いから。辛いからじゃなくて、単純に目が痛くて開けてらんないから泣きながら仕事してるっていうのが最初の銀行員時代だったので、もうこんなの絶対仕事なんかできるようにならないわって思ってました。
転機は3年目に訪れます。たまたま出会った上司が、円山さんの得意なことを評価してくれました。
その時の上司が言ってくれたのは、仕事は楽しくなきゃいけないから、自分の得意なことだけをやりなさいって。今までは苦手なことがいっぱいあって、人と同じぐらいにならなきゃいけないと思って無理して頑張った。それをやめたんですね。
苦手なことは周りに頼り、得意なことだけに集中する。「みんなと同じ競争をしない」と決めてから、仕事がうまくいき始めたと話します。
その一方で、周囲からは「アホだ」「バカじゃないの」と言われたそうです。それを気にしなくなったことが、勝ち残る鍵になったと振り返ります。
円山さんは銀行に入って1年目から、戦略や人事制度、インセンティブの付け方がおかしいと人事部に言い続けていました。銀行を変えたいから企画部に配属してほしいと訴え続けたそうです。
ソフトバンクでのベンチャーの洗礼と、チャンスの女神
円山さんが銀行を離れた理由は、インターネットの波よりも、銀行が冬の時代に入るという危機感の方が大きかったと話します。都市銀行の大合併が始まり、自分の人生を自分でコントロールできなくなると感じたのです。
企画部からの転職は東海銀行では第一号でした。100人中99人が反対し、ITをやりたいならNTTを紹介すると言う上司もいたそうです。
転職の目的はIT企業に入ることではなく、起業の経験を積むことでした。当時ベンチャーという言葉すらほとんどなく、経験を積むならソフトバンクが最高だと考えたと話します。
しかし入社直後、誘ってくれた社長が去り、3か月後にはナンバーツーも去り、幹部が全員いなくなります。結果、円山さんが実質の事業責任者になりました。
さらに転職の2、3日前には、eLONEが業法違反を指摘されているという情報も耳に入っていました。初日から弁護士事務所に通う日々が始まります。
自分を支えてくれる、誘ってくれた役員たちが全員いなくなって、結果僕が一番上になっちゃったんですよ。全部を三ヶ月後に全部自分一人で回さなきゃいけなくなった。これがベンチャーなんだと思いましたね。
この混乱の中でも、円山さんはeLONEの立ち上げと並行してSBIモーゲージの立ち上げ準備を進めていました。完全なパラレルです。
チャンスだと思った瞬間掴まないと。前髪しかないのに逃げてっちゃったら、後ろ髪ないから掴めないんですよ。だから迷ってる暇ないから、チャンスって思った瞬間に掴むっていうのはもうずっと決めてました。一瞬も躊躇しない。
円山さんはこれまで立ち上げた会社は約10社、買収も含めると約20社に関わり、やめたのは2社と話します。うまくいかないと判断すれば、迷わず閉じるか売るそうです。
自分のリソースが一番貴重だと。ダメだと思ったらさっさと辞める。優秀な社員を巻き込みたくないんですよ。それは社員に対する責任でもあると思ってます。
銀行員ゼロで住宅ローンを売る仕組み化
円山さんの事業づくりには、海外のモデルを日本流にローカライズするという一貫した姿勢があります。eLONEはアメリカではオンラインモーゲージブローカーでしたが、日本では比較サイトとしての広告事業で成功しました。
SBIモーゲージでも、日本には第三者が住宅ローンを売る土壌がありませんでした。そこで保険業界で成功していた代理店モデルを応用します。
全て代理店は素人の保険代理店や携帯ショップや普通の人たちを代理店にしました。住宅ローンって銀行員がやらなきゃいけないってものを、いや、銀行員じゃなくてもできるんじゃない?っていう発想で仕組み化したってことですね。
この仮説は成功し、全国200店舗のフランチャイズ展開で日本一になりました。円山さんは同じ発想を住信SBIネット銀行にも持ち込み、店舗で働くのは銀行員ではなく代理店の人たちという仕組みを作っています。
オンラインモーゲージブローカーとして展開したが、この会社はうまくいかなかった
比較サイトとしての広告事業として成功した
偶然の出会いから生まれたネオバンク構想
2015年、日本経済新聞に「フィンテック元年」という言葉が登場しました。円山さんはこのタイミングで社長になったことに意味を感じ、単なるネット銀行ではなくフィンテックだと考えます。
そこでモバイル、クラウド、OpenAPI、AI、ブロックチェーンという5つのテクノロジーに集中投資を始めました。当時は「なぜそんなものに投資するのか」と言われたそうです。
ネオバンクの発想は偶然からひらめきました。日本航空が多通貨プリペイドカードのパートナーを探しており、20社以上にオファーを出していたのです。
円山さんは、海外のネオバンクが失敗した理由を分析しました。原因はマーケティングコストの高さと、決済や預金だけというモノラインの収益構造の悪さでした。
日本航空さんと組めば、顧客獲得コストはゼロだよねと。住宅ローンだとか為替だとか、あらゆるサービスをフルバンクで提供したら、収益性は一気に高まるよねと。獲得コストがゼロで収益源の多様化ができれば、投資を回収できるんじゃない?って思ったのが、実はネオバンクの発想なんですよ。
円山さんは日本航空にネオバンクを一緒にやろうと提案し、コンペで勝ちます。これが第一号となり、現在は30社近くと提携するまでに広がりました。
この構想の背景には、30年前のビル・ゲイツの言葉があったと話します。
銀行が究極のインフラ産業になればいいと。自分たちのブランドで顧客を集めるのをやめるって決めたんですよ。これがネオバンクの発想で。
周りの反対こそ好機、唯一無二の市場を創る原則
円山さんは、ビジネスで成功する方法はマーケットを作り上げて独占するか寡占化することだと考えています。モーゲージバンクも代理店ビジネスもネオバンクも、この勝ち筋で成功したと振り返ります。
どんなビジネスをやるにあたっても、とにかくユニークであること、シンプルであること、競争しないってこと。これがさっきの子供の時の原体験からもそうですけど、人と競争しない。同じ努力をしない。
周りが反対することしかやりたくないです。みんながいいっていうものは大したアイデアじゃないんですよ。みんながいいっていうことは、もうみんなわかってるんでしょ?と。レッドオーシャンになるんですよ。
田中さんは、この事業観が円山さんの幼少期の原体験と一貫している点に注目しました。
みんな頭ではわかってるけど、本当に心から納得してそう動けてるかっていうと、そうでもなかったりする。だから丸山さんはその辺が一貫してるなっていうのは今すごく感じましたね。
円山さんは、規制の多い保守的な業界だからこそ自分の個性が生きたと話します。IT業界なら自分よりクレイジーな人が山ほどいて勝てないだろうと。
テミクス・グリーンが挑む第一次産業×DX
円山さんは2020年頃、法人融資の一つとしてサプライチェーンファイナンスを構想しました。しかし多くの業界で、システムベンダーの調整コストが壁となり、総論賛成・各論反対を崩せなかったと話します。
もうそんなにシステムベンダーに邪魔されるんだったら、もうシステムベンダーがいない業界に行こうって決めたんですね。
そこで着目したのが、大企業がおらずシステム化が遅れている農業、林業、水産業という第一次産業でした。
ただ資金がないという課題に対し、カーボンクレジットで収益を生む仕組みを構想します。しかし今度は行政手続きが複雑で、クレジットを発行しても儲からないことが分かりました。
結果として、行政のシステムまでつなげる必要があると気づきます。こうして生まれたのが、行政のシステムを作る会社テミクス・グリーンです。
サプライチェーンファイナンス
もともとやりたかった法人融資の構想
システムベンダーの壁
既存業界では調整コストが高く、各論反対を崩せなかった
第一次産業へ
システムベンダーがいない農業・林業・水産業に狙いを定める
カーボンクレジット
資金を生み出す仕組みとして導入を検討
行政システムへ
手続きの複雑さを解消するため、行政のシステムを作る事業に至る
テミクス・グリーンは多くの自治体で採用され、成長し始めています。しかし自治体からの要望に応えようとすると、銀行法という壁に頻繁にぶつかりました。
ニーズは顕在化している。やれば成功する。わかっている。銀行法だけは壁。しょうがないなと。もう銀行からスピンアウトするしかないねみたいなのが、今回銀行からスピンオフすることになったきっかけであって。
そこでALPHAの田中さんが出資し、円山さん自身も株主として関わる形でスピンオフしました。
一番面白いなと思ったのは、誰も見てないニーズというか課題解決をされてるなっていうところでしたね。一見ニッチに見えるんですけど、その先に広大な肥沃な土地がありそうな可能性が広がっているところ。
自然資本の時代とAI失業、地方で稼ぐ未来
円山さんは今、Nature is Capitalという言葉を使い始めています。自然が資本になる時代が来るという考えです。
背景には2つの大きなトレンドがあります。1つは、人口増加による食糧危機や気候変動で、農地や森林の価値が上がること。もう1つは、AIの進化でホワイトカラーの仕事が減っていくことです。
AIの進化によってホワイトカラーの仕事がどんどんなくなっていく。その人たちはどうやって生きていくんだろうと。地方に行って農業をやればいいんじゃないか、林業をやればいいんじゃないって僕は思うと。そのための受け皿を作っておくべきだと。
円山さんは、地方でも農業や林業で年収1000万、2000万を稼げるようにすべきだと考えています。AIにも第一次産業にも投資し、労働人口の大移動が起きる流れの布石を打っているのです。
テミクス・グリーンで求める人材についても、円山さんは一貫した考えを持っています。
農業経験者や林業経験者がいいんじゃないかという人がいるんですけど、違うなって思いますね。全く関係ない人の方がいい。学習能力が高くて、ゼロからイチができる人であれば誰でもいいなってぐらいです。
ゼロからイチができる人とは、決められた仕組みの中で頑張る人ではなく、自ら考えて仕組みを作り出せる人のことだと話されています。
まとめ
難病や落第生だった銀行員時代という挫折を経て、円山さんは「人と違う方法で勝つ」という原則を貫いてきました。ユニークでシンプルであること、そして競争しないこと。その姿勢が3度のIPOと新市場の創造につながっています。
- 難病で1日10時間しか目を開けられない中、「多くの人が不可能でも自分だけは成功できるスイートスポットを見つける」という考え方が生まれた
- 得意なことに集中し「みんなと同じ競争をしない」と決めたことが、銀行員時代の転機になった
- チャンスは前髪しかないと考え、好機は迷わずすべて掴む。ダメなら迷わず閉じるか売る
- 海外のモデルを日本流にローカライズし、銀行員に頼らない仕組み化で市場を制した
- 「正しいことを正しくやって、正しく儲ける」を信条に、世の中の歪みを正して勝つことを目指している
