地方の中高生もDCブランドのバーゲンに並んでいた?
パート2の入り口は、中高時代にどんな文化を受け取っていたかという話です。速水健朗さんは80年代後半、秋田や新潟の地方都市で中高生として過ごしていました。
米澤泉さんの中高一貫の女子校での体験とは状況が違うだろうと前置きしつつ、速水さんは地方にもDCブランドのバーゲンに並ぶ文化があったと明かします。
(バーゲンに並ぶ文化は)あったんです、実は。その最後の方だと思うけど。
米澤さんによると、DCブランド ── デザイナーズ&キャラクターズブランドの略。80年代に日本で大流行した国内アパレルブランドの総称ですのうち、デザイナーブランドはデザイナーの個性を前面に出すぶん高価格帯で、キャラクターブランドはそれより安めという位置づけでした。
速水さんが中高生の頃に流行っていたのは、パーソンズ、スクープ、ポッシュボーイ、ペイトンプレイスといった比較的安めのキャラクターブランドです。ニコルはすでに高く、若者向けのニコルクラブでも高めだったと米澤さんは振り返ります。
速水さんはペイトンプレイスのスタジャンをバーゲンで1万8000円ほどで買ったそうです。米澤さんは、半額で1万8000円なら元値は3〜4万円近く、今のH&Mなどの価格帯と比べると相当高かったと指摘します。
その上にはコム・デ・ギャルソンやヨウジヤマモトのような、まったく手の届かないブランドがありました。速水さんは88〜89年頃、単身赴任の父を訪ねて上京した際にパルコのバーゲンも見に行っています。
ただ、田舎から見て「まだ来ている」と思っていたDCブランドは、実際にはピークを過ぎつつありました。米澤さんは、とんがった人たちはもうインポートに流れていた頃だろうと見ています。
岡崎京子以前、少女漫画はファッションの参考にならなかった
話は、対談の題材である本で小泉今日子と並べられている漫画家・岡崎京子へ移ります。米澤さんは、岡崎京子の活躍期を80年代後半から90年代半ばぐらいまでと整理します。
ところが米澤さん自身は、高校時代に岡崎京子をリアルタイムで読んでいたわけではありません。もともと漫画の熱心な読者ではなく、『あさきゆめみし』のような有名な大河漫画くらいしか読んでいなかったといいます。
速水さんは、小泉今日子が双子役で出演した映画版『トーマの心臓 ── 萩尾望都の少女漫画。映画化作品については速水さんが「聖と諸君」と言い間違えた可能性があり、題名は要確認です』作品名に触れ、原作のごく前半で終わるからこそいい話になっている映画だと紹介します。
米澤さんが少女漫画に入り込めなかった理由は、主人公のファッションでした。当時は漫画家自身もおしゃれではなく、作中の服装に気を配っている感じもなかったと話します。
速水さんは、その状況を変えたのが岡崎京子と安野モヨコだと応じます。ファッション誌に描き、自分たちも遊びに出て、ファッションにハマっている人が描く漫画が登場したという見方です。
あの人たち(岡崎京子や安野モヨコ)はファッション誌に描いて、自分たちも遊びに行って、ちゃんとファッションとかにハマってる人たちが描いてる作品っていうね。
米澤さんによれば、岡崎京子はその先駆けでした。ただ80年代半ばはまだエロ雑誌やサブカル系の媒体が中心で、『anan』には文化人的な扱いで登場する程度だったといいます。
『東京ガールズブラボー』が描いた東京の二重性とは
米澤さんが研究対象として読んだ岡崎京子作品の一つが、80年代を描いた『東京ガールズブラボー』です。主人公の金田サカエは坂本龍一のファンという設定で、時代をきちんと描いていると米澤さんは評価します。
『東京ガールズブラボー』の舞台は83〜84年頃の東京です。両親の離婚をきっかけに北海道から上京したサカエは、おしゃれな人ばかりの街を夢見ていたのに、住むことになったのは巣鴨でした。
巣鴨で出会うのは、聖子ちゃんカットでちょっとヤンキーっぽい、いとこの真由美ちゃんです。米澤さんは、80年代の東京ではみんながDCブランドでとんがっていたわけではなく、こうした人も同時に存在していたと強調します。
米澤さんの見立てでは、一部のDCブランドがとんがっていた一方で、普通の服はユニクロが出てくるまで全体の底上げがされていませんでした。速水さんはそれを「のび太のお母さんみたいなファッション」とたとえます。
速水さんが好きだというのは、謹慎を食らったサカエが大正ロマン風のカツラにほっかむり、ネギを挿した買い物姿のままライブに行く場面です。古いものが一周回っておしゃれになる、ニューウェーブらしい逆手の取り方がそこにあります。
米澤さんは、ニューウェーブ期の『anan』もニュー着物のように同じ発想だったと話します。速水さんは、YMOが未来派や人民服を持ち込み、あえて古いものに別の意味をつけて着たように、80年代のファッションは基本的に記号的だったと整理します。
昔のものの記号サンプリングみたいなものが、ちょっと大衆化するとレトロブームになるっていう感じですよね。
92年の上京、ロンドンナイトで気づいた「勘違い」
90年代初めに出版された『東京ガールズブラボー』を、速水さんは92年の上京とちょうど重なる時期に読んでいました。住んだのは岡崎京子の出身地でもある下北沢です。
速水さんは、下町の庶民的な町とおしゃれな部分が入り混じる下北沢を、岡崎京子的な場所だと感じていました。岡崎京子にはハイセンスな文化だけでなく、庶民的なものへの憧れもあるという見方です。
サカエが上京して真っ先に行こうとしたのが、大貫憲章がDJを務めるロンドンナイトでした。速水さんは92年、まだ続いていたロンドンナイトに実際に足を運んでいます。
ところが作中から10年が経ったロンドンナイトでは、パンクのレコードとパンクの衣装が、速水さんの目にはもうコスプレに見えたといいます。
なんか俺、なんかすごい大きい勘違いをしていたというか。
一方で当時の東京には、90年代初頭のクラブシーンもありました。速水さんは、『東京ガールズブラボー』巻末の浅田彰との対談で、ロックのライブハウスからハウスのDJへ移ると、みんな別々の方向を向いて踊るようになると指摘されていたことを挙げます。
速水さんはロンドンナイトではなく、テクノやハウスのクラブに通うようになり、そこで「ちゃんとアップデートして」90年代を迎えたと振り返ります。岡崎京子も作中では80年代を描きながら、90年代初頭のクラブで遊んでいた人だったはずだと速水さんは見ています。
米澤さんは、80年代から90年代にかけて、あらゆる意味でガラッと変わったと応じます。その変化を、速水さんが挙げた具体例で並べると次のようになります。
ディスコ、ロック、パンク。岡崎京子が愛したのもパンク、サブカル層は爆竹を聴いていた
クラブ、テクノ・ハウス、ストーン・ローゼズやマンチェスター。フリッパーズ・ギターや小沢健二へ
速水さんは高校3年のときにフリッパーズ・ギターが解散したものの、新潟のクラスでその話を共有できたのは宝島を読むバンド少女と自分の2人だけだったそうです。今は「あの世代はみんな聴いていた」ことになっているけれど、と笑います。
FM雑誌とサウンドストリートは何を教えてくれた?
速水さんはロッキング・オン派の洋楽少年でしたが、米澤さんはYMO系で、ロッキング・オンとはあまり縁がなかったといいます。代わりに米澤さんが思い出したのが、かつてあったFM雑誌です。
速水さんによれば、FM雑誌は主要4誌があり、80年代半ばから5年ほどがピークでした。中身は週間の番組ガイドで、関東版・関西版など地方ごとに版が分かれていたため、部数も多かったといいます。
米澤さんは、今週の聴きもの特集やアーティストのインタビューも載っていたと補足します。そして話は、坂本龍一もDJを務めたNHK-FMの『サウンドストリート』へ進みます。
米澤さんは、80年代前半に夢中で聴いていた曜日ごとのDJをすらすらと挙げます。
| 曜日 | DJ | 速水さん・米澤さんの記憶 |
|---|---|---|
| 月曜 | 佐野元春 | アメリカのラジオのように曲紹介がかっこいい |
| 火曜 | 坂本龍一 | 一番喋りが下手で、とつとつとしていた |
| 水曜 | 甲斐よしひろ | ゴールデンメンバーの一人 |
| 木曜 | 山下達郎 | オールディーズをかけ、落語家のように滑らか |
| 金曜 | 渋谷陽一 | 速水さんにとって音楽を教えてくれる先生 |
曜日の組み合わせは時期によって変わっていたようで、二人の記憶も83年か84年かで揺れています。米澤さんは、84〜85年頃に坂本龍一がデモテープを募集し、そこに槇原敬之が応募したことも挙げます。
速水さんは、坂本龍一の声をこの番組で聴きながら、当時は坂本龍一がYMOのメンバーだとあまり知らなかったと明かします。佐野元春の「ボーイズ・アンド・ガールズ」という呼びかけは今でも好きで、YouTubeに残る音源を聴いてしまうそうです。
「世界の坂本」はなぜJポップに敗北感を抱いたのか
米澤さんは坂本龍一をずっと追いかけていましたが、後半に活動家のような姿勢が強まってからはそこまで熱心ではなくなったといいます。速水さんは、坂本龍一が92年頃にニューヨークへ拠点を移したことに触れます。
米澤さんによると、80年代の坂本龍一はタレント的な活動もしていましたが、世界で評価され、バルセロナ五輪の開会式で地中海をテーマにした曲を手がけたあたりから、世界で評価される方向にシフトしていきました。
米澤さんは、日本人のミュージシャンに地中海の歴史を表現する曲を任せる発想自体が、日本ではまず出てこないと驚きます。一方で速水さんは、坂本龍一はその後バルセロナの話をほとんどせず、失敗作だと考えていたはずだと指摘します。
あの頃の坂本龍一、スランプに陥っていたと思っていて。
速水さんが「その究極」として挙げるのが、ダウンタウンと組んだ「GEISHA GIRLS」です。曲は売れたものの、小室哲哉が手がけたダウンタウンの「WOW WAR TONIGHT」の売上には遠く及ばず、坂本龍一は敗北感を抱いたと速水さんは見ています。
米澤さんは、出自的にもポップな要素がまったくない坂本龍一が、ポップへの憧れを常に持ち続けていたと読み解きます。その流れは次のように整理できます。
ポップへの憧れ
ポップな出自ではないが、常にそれも視野に入れようとしていた
GEISHA GIRLS
Jポップに挑むが、小室哲哉の曲に売上で大差をつけられ敗北感
原点回帰
「バック・トゥ・ザ・ベーシック」で自分の原点に帰ろうとする
「energy flow」
意図せずほぼダブルミリオンのヒット。速水さんいわく「2分で作った」曲
速水さんは、坂本龍一が活動家になったのも本質的な部分だと話します。大学に入る頃から資本主義との向き合い方を考え続け、国の制度に教わるのは嫌だと言いながら芸大を受けたこと自体が、すでに活動家的だったという見方です。
米澤さんも、新宿高校でバリケード封鎖をし、大学には「解体しに行く」と言いながら入ったエピソードを挙げます。速水さんは、そこからGEISHA GIRLSも売れたかったというより、Jポップを解体しに行った試みだったと解釈します。
全然そっちじゃなかった。エナジーフローが売れたことで彼の悩みはさらに深まる。
米澤さんは、「energy flow」がリゲインのCMで売れたことにも注目します。同じ商品が、24時間戦う栄養ドリンクから癒やしの商品へと売り方を変えたこと自体が、時代のモードチェンジを表しているという指摘です。
80年代:「24時間戦えますか」で売る栄養ドリンク
90年代:坂本龍一の「energy flow」とともに癒やしの商品として売る
暗いだけじゃない、アーリー90年代のキラキラ
速水さんがこの対談で掘り下げたいのは、90年代前半です。90年代を語ると、天皇崩御、ソ連解体、バブル崩壊を並べて暗い時代の始まりとして描きがちですが、実際の90年代前半はキラキラしていたと速水さんは考えています。
どうしても暗い時代の始まりっていうものをなんか書いてる。その三つを並べてるうちにね。
米澤さんは90年代初めに大学生で、まだバブルの勢いが残っていたと振り返ります。ブランドブームが来て、JJにはシャネラー ── 全身をシャネルで固めるような、シャネルを熱狂的に愛好する人を指した90年代の流行語ですのようなセンスを超越したものまで登場しました。
CanCamやViViも同じ方向へ進み、米澤さんはそれを日本独自のカルチャーとして分析すべきだと思い始めたといいます。ユニクロのフリースブームは96〜97年頃で、それよりずっと前の話です。
バブルが崩壊しかける頃、ファッション誌ではモード系とスーパーモデルが流行り出しました。米澤さんは、ナオミ・キャンベルやクラウディア・シファーがJJのような雑誌でも取り上げられ、ファッションセンスが底上げされたと話します。
米澤さんの整理では、女性ファッション誌が全部同じ方向を向き始めたのが90年代でした。コンサバ系の赤文字雑誌も、モードを載せるSPURのような雑誌も、同じスーパーモデル特集を組むようになったのです。
スーパーモデルが使うMACの口紅や、アメリカの百貨店ヘンリ・ベンデルのストライプのバッグが日本で大流行したこともありました。ファッション写真好きだった速水さんは、スティーブン・マイゼルやマリオ・テスティーノに強い関心があったといいます。
スタジオ・ボイスが年に1回、ファッション写真だけで特集を組んでいた時代を、速水さんは今では考えられないと振り返ります。さらにケイト・モスの登場で、ゴージャスなスーパーモデル像は毛色が変わったと二人は話します。
ガーリーフォトはなぜ今、再評価されているのか
最後の話題は、米澤さんの本でも扱われているガーリーフォトです。米澤さんは、90年代半ばから蜷川実花さんやHIROMIXが目立ってきたと話します。
速水さんは、マリオ・テスティーノのように当時特権的だった写真家がキャンセルされ、悪趣味文化やサブカルの評価が下がるなかで、ガーリーフォトは当時の受容と今の再解釈の両方で一番面白いものになっていると見ています。米澤さんも、フェミニズム的な文脈で評価されていると応じます。
速水さんがガーリーフォトに惹かれた理由は、テクノロジーの逆戻りでした。オートフォーカス全盛の時代に、HIROMIXはコニカのビッグミニのようなコンパクトカメラに戻り、ブレやボケ、色の使い方で独自の表現をしていたといいます。
やっぱテクノロジーの変化の中で、あそこで一回遡るんですよ。
彼女たちがセルフヌードのように自分たちで自分たちを撮ったことも、今あらためてフェミニズム的な意味で評価されていると速水さんは話します。90年代に切り替わったところで、対談は続編へ持ち越されました。
まとめ
パート2では、地方の中高生にも届いたDCブランドのバーゲンから、岡崎京子の描いた東京、FMラジオ、坂本龍一のJポップとの格闘、スーパーモデルとガーリーフォトまで、80年代から90年代への変化が二人の記憶を通してたどられました。
- 80年代の東京にはとんがったDCブランドと保守的な普通の服が併存し、その二重性を岡崎京子は逆手に取って描いた
- 速水さんは92年のロンドンナイトにパンクのコスプレ化を見て、テクノやハウスのクラブで90年代を迎えた
- GEISHA GIRLSでの敗北感と「energy flow」の意図せぬヒットは、ポップと資本主義に向き合い続けた坂本龍一の悩みを深めたと速水さんは見る
- 90年代前半は暗い時代の始まりではなく、スーパーモデルやファッション写真がきらめいた時代でもあった
- ガーリーフォトはテクノロジーの逆戻りとセルフポートレートの視点から、今フェミニズム的に再評価されている




