『小泉今日子と岡崎京子』の見立てはなぜ「完璧」なのか
この回は、幻冬舎plusと『速水健朗のこれはニュースではない』のコラボ企画です。速水健朗さんと米澤泉さんは初対面で、まず米澤さんの著書『小泉今日子と岡崎京子』の紹介から話が始まります。
速水さんは、2つの時代のあいだにある「モードチェンジ」に関心があると話します。昭和から平成、バブル崩壊の前後、ソ連解体の前後など、さまざまな「以前以後」があるなかで、その転換を小泉今日子と岡崎京子の2人で語るという組み合わせ自体がすごい、と評価しています。
で、小泉今日子の後のモードを引き継ぐ土壌を作ったって見立てて本を書いていて、この見立てが完璧でした。
速水さんによれば、小泉今日子さんはずっと小泉今日子さんでありながら、髪型や生き方、世の中のアイドルの捉え方の面で変化があったといいます。2人は直接の関係というより、互いに作用し合っていたという読み方です。
米澤さんがこの2人を組み合わせようと考えたのは、雑誌を長く分析してきたからだといいます。2人とも特にファッション誌を主な活動の場にしていたため、この組み合わせでいけると思いついたそうです。
表テーマはその2人(小泉今日子と岡崎京子)だけど、裏テーマは雑誌ですよね。
米澤さんは、80年代には『宝島』のような雑誌や、10代の女の子向けの『Olive』、『anan』があったと振り返ります。2000年代以降は宝島社の雑誌がファッション誌の大きな潮流になり、そこで小泉今日子さんが全面的に取り上げられたことで、80年代の『宝島』からの流れがつながっていく、と説明しています。
速水さんは、普通の人は昔の雑誌を読み返さないと指摘します。そのうえで、個人として雑誌を読んできた経験と、研究者として雑誌をさかのぼる作業は違うのではないかと考え、米澤さん自身がどの雑誌の読者だったのかを聞いていきます。
13歳で出会った『Olive』は何が特別だったのか
米澤さんにとって最も衝撃的だった雑誌は『Olive』です。1982年ごろに創刊され、米澤さんは1983年から1984年ごろ、13〜14歳の中学生のときに読み始めました。
米澤さんによると、『Olive』はそれまでの10代の女の子向け雑誌とは作り方がまったく違っていました。レイアウトもキャッチコピーもあらゆる面でレベルが高く、この雑誌以外はもう全然ダメと思うほど、その世界観に共鳴したといいます。
米澤さんは、14歳ごろを境に、自分から意識的に80年代カルチャーへ関わっていくようになったと振り返ります。その入り口の1つが『Olive』でした。
一方で、当時の『Olive』は社会現象のような存在でもありました。そこまで深く入り込んでいなくても、おしゃれが好きな子はみんな『Olive』を読んでいる、という状況だったそうです。米澤さんは京都出身で、私服通学の大学付属校に通っており、ちょうどDCブランド ── デザイナーズ&キャラクターズブランドの略。80年代に日本で大流行した、デザイナーの個性を前面に出した国内ファッションブランドの総称ですブームとも重なっていました。
ちょっと特権意識があるのかなっていうふうに、外から。
速水さんが外から見た印象として「特権意識」という言葉を出すと、米澤さんもその特別感を認めます。写真は1枚で1ページを使い、誌面がごちゃごちゃしていませんでした。米澤さんは、当時の『Olive』を今の10代や大学生に見せても、古い感じがせず写真集のように楽しめるのではないかと話しています。
ハラカドで見た80年代の『anan』とニューアカの記憶
速水さんは話をいったん脇にそらし、原宿にできた東急の新しい商業施設、ハラカドに行ってきた話をします。そこにはマガジンハウス ── 『anan』『Olive』『POPEYE』『BRUTUS』などを発行する出版社。80年代には洗練された誌面づくりで若者文化をリードしましたが手がける、昔の雑誌を読めるスペースがあったといいます。
速水さんは『Olive』を見るのを忘れたものの、80年代半ばの『anan』を開いてみたそうです。昔の雑誌は印刷の匂いが気になったり、写真の質が低かったり、文字が小さすぎたりするものですが、『anan』にはそれがなかったといいます。
いまだにレイアウトかっこいい、写真イケている。で、やっぱマガジンハウスって30年経っても別格だなっていうのはね、ちょっとアンアン(anan)で感じました。
米澤さんも、80年代のマガジンハウスの雑誌のクオリティは群を抜いていたと応じます。当時から強く意識しており、『Olive』が10代の自分にぴったりの雑誌だったのに対し、『anan』はお姉さん向けの大人の雑誌という位置づけだったそうです。
米澤さんは、『anan』には「コムデギャルソン論争」のもとになった号のように、当時のニューアカ ── ニュー・アカデミズムの略。80年代前半、浅田彰らの現代思想が若者のあいだでファッションのように消費されたブームを指します的なものをファッションとして捉える号もあったと振り返ります。速水さんが吉本隆明の名前を挙げると、米澤さんはうなずきます。
米澤さんは、あの時代にニューアカ的なものが「かっこいい」と思わされていたことが、研究の道に進んだ理由かもしれないと話します。浅田彰の言っている難しいことも、かっこいいものの延長として理解しておかなければならないと感じていたそうです。
大人になってからそうした熱は過ぎ去ったものの、大学院に進んだことで、少しは身近にわかるようになったといいます。速水さんは、浅田彰の『構造と力』が最近文庫になったことに触れつつ、自分はいまだにちゃんと読めたことがないと笑っています。
チェッカーズとキョンキョンは何を変えたのか
米澤さんの好みは、本来はもう少し上の世代のものだったといいます。速水さんは米澤さんとほぼ同世代で、周りとは違う受け止め方をしていたのではないかと尋ねます。米澤さんによると、周りの友達が夢中だったのはチェッカーズでした。
速水さんは、80年代半ばに秋田や新潟などの東北・北陸で小学生時代を過ごしていました。クラスの女の子はシブがき隊の誰が好きかで分かれていたのに、チェッカーズが出てきた瞬間に全員がフミヤ派になったといいます。
チェッカーズが出てきた瞬間にクラスの全員がフミヤ派になったんですよ。あれが僕の人生の中で一番ね、びっくりした。
米澤さんは、ジャニーズ的なものはファッションとはまったく別の世界だったと説明します。だからこそ著書でも、女の子にとってのキョンキョン(小泉今日子さん)、男の子にとってのチェッカーズのフミヤさんが、若者のファッションアイコンだったと書いたそうです。フミヤさんもキョンキョンも、当時のDCブランドを着こなせるアイドルでした。
それ以前のアイドルは、ファッションとは別物の「衣装」を着ていたと2人は話します。米澤さんは、元ジャニーズの人たちが今もメンバーカラーの独特な衣装を着ることに、その流れが残っていると指摘します。
あれ多分ね、海外のボーイズグループの伝統でもあって、なんで袖がないベストを素肌に着るのかっていうね、あの独特の衣装感って、あれはずっと60年代の黒人のボーイズグループぐらいからあるので。
米澤さんが「ジャニーさんが」と言いかけると、速水さんは、そうした衣装が輸入されてきたのだろうと応じます。女の子たちが喜ぶであろう男の子のファッション像の系譜がある、という見方です。
女性アイドルについても、速水さんは、キョンキョン以前のアイドルは80年代なのに70年代のアイドル感を強く残していたと話します。米澤さんも、天地真理 ── 70年代前半に「白雪姫」のような清純派イメージで人気を集めたアイドル歌手ですからキャンディーズの流れを引きずっていたと同意します。
アイドルは野暮ったいものを着せてなんぼみたいなところに、そこをすごい保守的だったからこそ、キョンキョンだけがめちゃめちゃ浮いてた。
米澤さんは「浮いていた」というより「突出していた」と言い換えます。速水さんは、当時の主な男性ファン層が保守的で野暮ったい服を好み、手が届きそうな女の子のファッションを、幻を作る側も意識していたのだろうと推測しています。
2人の話をもとに、キョンキョン登場前後のアイドルとファッションの関係を整理すると次のようになります。
アイドルは70年代を引きずった衣装を「着せられる」存在。白やパステル、ふんわりしたミニスカート、聖子ちゃんカット
キョンキョンやフミヤがDCブランドを着こなし、若者のファッションアイコンになる
松田聖子と菊池桃子は誰に向けて売られたのか
速水さんは、雑誌『BRUTUS』の歌謡曲特集で、80年代アイドルを「リゾート」と「都市」に分けてマッピングする企画があったと紹介します。速水さん自身、それを「ちょっと頭のおかしい企画」と笑っています。
この企画では、新宿・歌舞伎町を舞台にしたような歌詞の「少女A」で、スケバン風のキャラクターで登場した中森明菜さんは「都市」に分類されます。一方、松田聖子さんは、米澤さんの言葉を借りれば「高原か海か」のリゾート側です。
松田聖子。高原のテニスコートや海のイメージ
「少女A」の中森明菜、ポニーテールの松本伊代。都会っぽく少しおしゃれ寄り
速水さんは、都市とリゾートだけでは格好よすぎるため、その間に「凡庸」を入れていくことがアイドルには大事だと話します。米澤さんが堀ちえみさんの名前を挙げると、速水さんは「ちょっと凡庸」と応じたうえで、自分が好きだった菊池桃子さんの話を始めます。
速水さんによると、菊池桃子さんは、キョンキョンをはじめとする三大アイドルが尖っていくなかで、少し凡庸さを求められて登場しました。米澤さんは、80年代の文化人、おそらく中森明夫さんが「菊池桃子は最強だ」と言っていたと記憶をたどります。
速水さんは、松田聖子さんは大学生に売りたかったアイドルだと話します。70年代のアイドルが小中学生向けだったのに対し、80年代には対象を上の世代へ伸ばしていった、という見立てです。米澤さんも、カネボウのCMで「ロックンルージュ」を歌っていたころの松田聖子さんは、ハマトラ風の女子大生のようなファッションで、『CanCam』に出てもおかしくなかったと応じます。
速水さんによれば、菊池桃子さんも実は大学生に向けて売り出されていました。シングルのジャケットには、ニコニコ笑う顔のアップ写真がなく、コックピットの中にいたり海に浮かんでいたりする、おしゃれな写真が使われていたといいます。
作曲は、シティポップの流れをくむ林哲司さんがすべて手がけていたそうです。ただ、本人は難しい16ビートの曲を嫌がり、その路線を自分の自意識で否定したところがあった、と速水さんは話します。
大人向けに売ろうと思ったんだけど、すごいそうじゃないところに届いてしまったっていう面白さがあります。
速水さんは、キョンキョンはむしろ自分をプロデュースしようとする力に、自分からうまく乗っかっていたのではないかと続けます。米澤さんも、キョンキョンは自分の見せ方や受け止められ方をよく意識し、わかっていたのだろうと話しています。
DCブランドからアニエスベーへ、10代のファッションはどう移ったか
話は『Olive』に戻ります。米澤さんは『Olive』やマガジンハウスの雑誌のほか、『流行通信』のような格好いいメディアが好きでした。中学・高校は女子校でしたが、大学は共学になるため、普通の女子大生ファッションも勉強しておいたほうがいいと考えるようになったといいます。
米澤さんは中学時代、DCブランドに憧れていました。特に好きだったのは、アツキオオニシや、ヒロミチナカノさんの「ビバユー」だったそうです。私服の学校だったため、「新しいアツキの服を着ているあの子」と話題になるようなこともあったといいます。
米澤さんによると、DCブランドブームは高校のころに終わりを迎え、ちょうど自分の成長と時期が重なっていました。東京では渋カジが台頭し、フレンチカジュアルが広まっていきます。当時、アニエスベーは日本に2〜3店舗しかなく、アニエスが京都好きだったことから2号店は京都にあったそうです。
米澤さんは、そのころのアニエスベーは直営に近い形で、値段も手が届く範囲だったと振り返ります。ボーダーTシャツは6800円ほど、全部ボタンのカーディガンは8700円ほどで、消費税もまだなかったため、女子高生がお小遣いで頑張れば買えたといいます。
速水さんは、同じ時代にベネトンがブームだったことに触れます。速水さんの地方の県立高校は制服でしたが上に着るものはある程度自由で、ショッキングピンクやオレンジ、黄緑といったビビッドな色のベネトンのポロシャツや、ラルフローレンが流行っていたそうです。
ベネトン着る人たちは庶民だな。
速水さんは、米澤さんの学校はいいところだったのではないかと冗談めかします。米澤さんは、ベネトンより希少価値のあるアニエスベーが学校で流行っていたと話しつつ、ラルフローレンは大学生がみんな着ていた時代だったと答えています。
センスが合わない『JJ』を、なぜ欠かさず読み続けたのか
米澤さんは高校3年の12月に内部推薦で大学進学が決まり、そのころから『JJ』や『CanCam』を本屋で買って読み始めました。80年代後半には『Olive』の編集長が替わり、リセエンヌ ── フランス語で女子高校生のこと。『Olive』はパリの女子高校生のようなおしゃれを提案し、読者は「オリーブ少女」と呼ばれました路線から変わり始めていたこともあり、自分には合わなくなってきていたそうです。
米澤さんは、『JJ』や『CanCam』を中学のころから本屋で立ち読みして知っていました。正直に言えば「なんてセンスのない雑誌」と遠巻きに見ていたと話し、速水さんは「キャラがわかってきました」と笑います。
ところが、実際に読んでみると、『JJ』は情報量が多く、ブランドのことや大学生活のことが載っていました。当時の『JJ』は、大学デビューに備えて「今キャンパスではこんな格好が流行っています」「女子大vs共学ファッション対決」のように、実際の大学生の声を拾う誌面だったといいます。
米澤さんは現在、甲南女子大学の教員です。その甲南女子大学という名前を意識して知ったのも、『JJ』の誌面だったそうです。就職とは関係なく、縁があって呼ばれたときに「これがJJに載っていたあの大学だ」と思ったといいます。
米澤さんによると、甲南女子大学はバブルのころ、日本でいちばん派手と言われるほどの大学でした。その後、実名で読者モデルをすることが問題になって禁止されるなどの経緯があったそうです。
米澤さんは、『JJ』が自分のセンスとあまりに違っていたため、かえって客観的に読めたと話します。読み物としてとても面白かったことから購読を始め、1号も欠かさずに今まで読み続けているといいます。
トラサルディとハンティングワールドが映すバブルの空気
大学に入ると、米澤さんは郊外のキャンパスに通うことになり、それまで履かなかったデニムを履くなど、カジュアル感を出すようになりました。あまり好きではないラルフローレンも着てみたそうです。
そこで2人が盛り上がったのが、80年代後半のブランドジーンズブームです。米澤さんがトラサルディの名前を出すと、速水さんは「今それが言いたかった」と応じます。
(トラサルディは)OLの人たちが履くジーンズといえばトラサルディ。
米澤さんによると、トラサルディが愛されたのは5年間ほどで、ピタッとしたジーンズにヒールの靴を合わせるのが定番でした。速水さんは、当時のジーンズはカジュアルなものやアメリカンなものとしてではなく、イタリアやヨーロッパのものとして着られていたと指摘します。米澤さんは、バブル期のイタリアブームやイタ飯ブームの影響だと説明します。
その時々にちょっとずつ流行りとか太さとかは変わるんだけど、あのバブルの前後だけですよね。異様なヨーロッパの時代。
速水さんは、トラサルディは同世代には鉄板ネタなのに、それ以外の世代にはまったく伝わらないと笑います。米澤さんが次に挙げたのはハンティングワールドでした。
速水さんは、ハンティングワールドといえばロス疑惑 ── 1981年に米ロサンゼルスで起きた銃撃事件をめぐり、被害者の夫・三浦和義氏に保険金殺人の疑いがかけられ、80年代半ばに過熱報道が起きた事件ですの三浦和義さんだと話します。米澤さんは、日本人がまだ誰も持っていないころにハンティングワールドを広めた人ではないかと応じ、緑色の革のショルダーバッグは男の子が持っていたと振り返ります。
坂本龍一一筋の中学生が見た「二層化した社会」
速水さんは、時代の空気は社会的な事件や雑誌、そして音楽にも表れると話し、高校・大学時代にいちばん聴いていた音楽を米澤さんに尋ねます。米澤さんは、中学生のころからずっと坂本龍一一筋だったと答えます。
米澤さんは、最初はYMOを聴いていましたが、YMOがすぐに散開したため、1984年の坂本龍一のソロアルバムや、大貫妙子さん、矢野顕子さんといったファミリーの音楽を追うようになりました。その後も『音楽図鑑』から『ラストエンペラー』まで、世界へ出ていく坂本龍一を追い続けたといいます。
速水さんは、その音楽は自分にとって10歳ほど上の世代が聴くもので、YMOは一切通っていないと話します。ほぼ同世代だとすれば、米澤さんは相当ませていたと驚き、米澤さん本人もそうかもしれないと認めています。周囲とは合わないものだと思っていたそうです。
米澤さんは、80年代は服も音楽も同じ構図だったとまとめます。DCブランドは尖っていてもそれ以外の服はそうではなく、音楽でも坂本龍一たち一部の人は世界を相手に尖っている一方、普通の人は歌謡曲を聴いていた、という見方です。
DCブランド、坂本龍一とその周辺。世界を相手にした表現
DCブランド以外の服、歌謡曲。多くの人が日常的に親しんだ文化
米澤さんは、90年代にJ-POPが出てくることで、この構図が変わっていくと示します。速水さんは、80年代から90年代へのモードチェンジはちょうどいい続きの話題だとして、この回をいったん区切っています。
まとめ
この前編では、米澤泉さん自身の雑誌・ファッション・音楽の体験を通して、80年代の文化の手触りが語られました。マガジンハウスの雑誌の別格さ、70年代を引きずるアイドルの中で突出したキョンキョン、そして尖った層と普通の層に分かれた「二層化した社会」が、90年代へのモードチェンジを考える前提として示されています。
- 米澤さんは13〜14歳で『Olive』に出会い、レイアウトやコピーのレベルの高さに強く共鳴した
- 80年代のアイドルは70年代の衣装感を引きずっており、DCブランドを着こなすキョンキョンやフミヤが若者のファッションアイコンになった
- 米澤さんの10代のファッションはDCブランドからアニエスベーへ移り、大学入学前後にはセンスの合わない『JJ』を読み物として読み始めた
- トラサルディやハンティングワールドなど、バブル前後にだけ流行したヨーロッパ志向のブランドが時代の空気を映していた
- 80年代は服も音楽も「尖った層」と「普通の層」に分かれており、90年代のJ-POP登場が次の話題として予告された



