アイドル解体の時代に、キョンキョンだけが別ブランドだった理由
速水健朗さんと米澤泉さんの対談はパート3に入り、テーマは90年代の小泉今日子と岡崎京子です。パート1では80年代とDCブランド、パート2では90年代への変化や坂本龍一とポップの関係が語られてきました。
速水さんはまず、80年代アイドルの終わり方を振り返ります。おニャン子クラブ ── 1985年にテレビ番組から生まれた大人数の女性アイドルグループ。素人性を打ち出し、短期間で多くのメンバーを入れ替えながら活動しましたは2年ほどで初期メンバーがいなくなり、後期に入った工藤静香は、グループの一員というよりソロアーティストに近い存在だったといいます。
速水さんの見立てでは、80年代アイドルという枠組みはその時点でかなり解体されていました。その中で小泉今日子だけが別ブランドとして残り、90年代以降はアイドルをそのまま続けるのではなく、独自の「キョンキョン」を作っていったと話しています。
(90年代以降のキョンキョンは)アイドルをそのままやったわけじゃなくて、ちょっと独自のキョンキョンをやったみたいな感じ。
米澤さんは、小泉今日子が女優業を広げつつ、音楽でもハウスなどの流行を積極的に取り入れていたと応じます。速水さんは、クラブミュージックの側からもきちんと評価された唯一のアイドルだったと付け加え、ほかにはラリー・レヴァン ── ニューヨークのクラブ「パラダイス・ガラージ」で活躍した伝説的DJ。ハウスミュージックの源流の一人とされますに弟子入りした島田奈美がいた程度だと話しています。
雑誌との関係については、宝島社の雑誌が台頭するのは90年代半ばから後半なので、当時の小泉今日子は『anan』で連載を持ち、エッセイを書き始めた頃だろう、と米澤さんは振り返っています。
『リバーズ・エッジ』は読まれすぎている?岡崎京子の好きな作品
岡崎京子の代表作として外から挙げられるのは、92〜93年頃の『リバーズ・エッジ』と、その後の『ヘルタースケルター』の2作だと二人は確認します。
好きな作品を問われた米澤さんは、有名作ももちろん好きだとしたうえで、『くちびるから散弾銃』のような女の子同士のおしゃべりを描いた作品を挙げます。他愛もない会話の中に、岡崎京子のさまざまな思いが込められているからだといいます。
速水さんが好きなのは『ジオラマボーイ・パノラマガール』や『ハッピィ・ハウス』など、89〜90年前後の作品です。そして、実は『リバーズ・エッジ』は苦手だと打ち明けます。
(『リバーズ・エッジ』は)90年代にソ連が崩壊して、平坦な戦場が始まるみたいな話で、不穏な感じの岡崎京子っていう。
日常は続くのだってことを書いているわけで、僕、あの不穏さってすごいなんちゃってだと思って捉えてるんです。
米澤さんも、いろいろな人が『リバーズ・エッジ』に意味を読み取りすぎている感じはある、と同意します。速水さんは、岡崎京子のムックの中で吉本ばななが『リバーズ・エッジ』をかなり辛辣に評していたことを紹介します。世の中の流行やポストモダン ── 近代の大きな物語や価値観を疑い、引用・断片・表層を重んじる20世紀後半の思想・表現の潮流の手法を、お勉強として取り込みすぎている、という批判だったそうです。
速水さんによれば、岡崎京子の一番の特徴は、少女漫画の中で「バカ女」を描いたことにあります。それは男性から見たバカではなく、女性だからこそ書けるキャラクターでした。その特徴から見ると、登場人物が気取っている『リバーズ・エッジ』はやや作り物っぽく映る、というのが速水さんの評価です。
米澤さんは、岡崎京子自身が自分の立ち位置を考えた結果としてああいう作品になったのではないかと見ます。速水さんも、30代を前に作風を変えていく中でも、本人は社会の捉え方には「別にそんなに興味ない」とあっけらかんと語っていたと話しています。米澤さんは、ボリス・ヴィアン ── フランスの作家・ジャズトランペッター。『うたかたの日々』では、奇妙な出来事が日常のように淡々と続く幻想的な恋愛を描きましたの『うたかたの日々』のような世界こそ、岡崎京子は好きだったのではないかと付け加えます。
30代の女性はなぜ「大人」にならなければいけなかったのか
80年代にデビューした人たちは、90年代に中堅となり、それまでと同じブランディングではいられなくなります。米澤さんは、女性の場合はとくに、30代以降どう生きるかについて今以上にロールモデルがなく、小泉今日子も岡崎京子もそれを模索していたのではないかと話します。
速水さんは、子どものままでは母親にも妻にもなれず、一度は大人にならなければならないという呪縛があった、と整理します。二人がその呪縛をはねのけたという見立てこそ、米澤さんの本『小泉今日子と岡崎京子』の中心テーマだと評価しています。
米澤さんも、ある年齢になったら女性は大人にならなければいけないという空気が、80年代から90年代前半まで強くあったと振り返ります。今は未婚率も上がり、結婚は個人の自由というムードがあるものの、当時はそうではなかったといいます。
大人になるって消費社会と距離を取って、消費した主体のまま親にはなれないよねっていうイメージだったと思うんですよね。
ところが米澤さんは、別の見方を示します。『JJ』を読んでいた女性たちは、一定の年齢で相手を見つけて結婚し、母親になると今度は『VERY』を読む。つまり消費社会からは降りないまま、決まったライフコースを歩んでいたというのです。
米澤さんは、ユーミンを実際に聴いていたのは裕福な層ではなく、その世界に憧れる普通のOLだったという本書の記述にも触れます。速水さんは、富裕層向けのユーミン、労働者階級向けの中島みゆきと思われがちだが、消費していた層は逆だった、と応じます。
米澤さんによれば、富裕層を相手にしているように見える『JJ』や『VERY』も、実際はそのライフスタイルに憧れる普通の人を相手にしていて、ユーミンとの親和性が高いといいます。JJの保守性とユーミンの保守性は同じものだ、というのが米澤さんの見立てです。
米澤さんが描くその典型的なライフコースを整理すると、次のようになります。
20代
ユーミンをBGMに、JJのファッションを着て恋愛する
結婚
適当な相手を見つけて結婚し、母親になる
30代
『VERY』を読み、消費を続ける
その後
ユーミンを懐かしみ、またコンサートへ行く
米澤さんは、小泉今日子と岡崎京子の二人は、こうしたライフコースではない道を探そうとしたのではないか、と話しています。
男は永遠の少年、女は美魔女。「おじさん」と「おばさん」の非対称
速水さんは、小泉今日子と岡崎京子にあたる男性版はいるのかを考えます。男性の側には、ある時期まで「大人になりたくない」というイズムが強くあり、その象徴として佐野元春の「つまらない大人にはなりたくない」という一節を挙げます。
米澤さんは、佐野元春はつまらない大人になりたくないまま60歳を超えた感じがある、と笑います。速水さんは、自分たちの世代ではフリッパーズ・ギターが永遠の少年の象徴であり、永遠の少年でいられないから解散したのだろうと見ています。
男の子は別にね、なんかそのまま、おそらく男の子のままお父さんになれるっていう社会だった。
米澤さんは、60代や70代でも少年っぽい男性は「素敵な人」として受け入れられてきたと指摘します。一方で、40〜50代の女性の少女性は良しとされず、おばあちゃんになってようやく「少女のような人」と言われる程度だったといいます。
速水さん自身は、永遠の少年を主張するのが嫌で、30代から早めに「おじさん」を引き受けようとしてきたと話します。ところが「おじさんっぽくない」と言われてしまうので、今はおじいちゃんを目指しているそうです。
速水さんは、浅草などの紳士服店でいまも流通している、おじいちゃんしか着ていない服、たとえばマンシングウェアの中古をあさっていると明かします。
米澤さんは、男性には「イケオジ」というプラスの言葉があり、雰囲気次第で70代でもギリギリ通用するかもしれないと話します。対して「おばさん」は自嘲的に使われがちです。速水さんが、美おばではなく「美魔女」といきなり異界の存在になると指摘すると、米澤さんは、この言葉は男性編集長の時代に美魔女コンテストなどとともに生まれたので、男性的な視点が入っているかもしれないと応じます。
「少年っぽい」「イケオジ」が褒め言葉になり、70代でも通用しうる
40〜50代の少女性は良しとされず、「おばさん」は自嘲的、褒め言葉は「美魔女」という異界の存在になる
こうした状況に対して、本書では90年代から2000年代以降の女性誌に「◯◯女子」というジャンルが現れ、女性たちがそれを自称していったことが描かれています。米澤さんは、その動きが一定の役割を果たしたのではないかと話しています。
閉じ込める場所から自由な場所へ。団地と花柄ポットが映す世代の断絶
速水さんは、小泉今日子が出演したドラマ『団地のふたり』に話を移します。速水さんは映画に出てくる団地だけを見る「団地団」という活動をしていて、本にもなっています。
速水さんによると、団地はもともと『団地妻』もののように、専業主婦が閉じ込められて鬱屈する場所として描かれてきました。米澤さんはそれを聞いて、60年代アメリカの郊外に住む裕福な専業主婦の悩みを暴き出したベティ・フリーダン ── アメリカのフェミニスト。1963年の著書『新しい女性の創造』で、郊外の専業主婦が抱える「名前のない問題」を描き、第二波フェミニズムのきっかけを作りましたのようだと応じます。
速水さんは、映画『家族ゲーム』のように、規格品の部屋に家族を閉じ込める場所として団地が描かれてきたと続けます。しかし今は団地をネガティブに捉えることはなくなり、『団地のふたり』では団地も生き方も自由で、その中心に小泉今日子がいる、と話しています。
専業主婦や家族を3DK・4DKの規格品に閉じ込め、鬱屈が爆発する場所
『団地のふたり』のように、場所も生き方も自由なコミュニティ
速水さんによれば、団地は70年代末から80年代にかけてマンションの時代に移り、大量生産型の住宅として嫌われていきます。その団地を舞台にしたのが岡崎京子の『ジオラマボーイ・パノラマガール』です。
『ジオラマボーイ・パノラマガール』の主人公・春子は88年頃の高校生で、速水さんとほぼ同世代です。春子の母は、高度成長期に団地へ移ることで「家」から脱出し、初めて自分のセンスで家具や家電を揃えた世代でした。さらに祖母は嫁入り道具を持たされた世代で、作品は団地を舞台に三世代を描いています。
(花柄ポットを)高度成長時代のセンスって言って春子が断罪するんだけど。
米澤さんも速水さんも、子どもの頃に家にあったポットは花柄だったと懐かしみます。速水さんはポットの技術史を調べたことがあり、魔法瓶のような形からポンプ式、電気式へと変わってきたと話します。話はさらに、レトロブームで再び売られていたかき氷機「キョロちゃん」やシャービックへと脱線していきます。
速水さんは、花柄ポットが気に食わない80年代のセンスと、それ以前の母親のセンスとの間に大きな断絶があると指摘します。米澤さんは、そうした断絶をセンスで表現できたことこそ、岡崎京子の表現者としての新しさだったと話しています。速水さんも、キャラクターでも小物でも固有名詞の音楽でも、ディテールこそが岡崎京子だと応じます。
岡崎京子展の「大事故」と、本の最後に置かれた二人の接点
速水さんは、2016年頃に世田谷文学館で開かれた岡崎京子展に足を運び、安野モヨコ ── 漫画家。岡崎京子のアシスタントを務めた経歴を持ち、『ハッピー・マニア』『働きマン』などで知られますさんと桜沢エリカ ── 漫画家。岡崎京子と親しい同世代の作家として知られ、『シッポがともだち』などの作品がありますさんのトークイベントを観たといいます。
そのトークイベントでは、司会者が岡崎京子の事故の話に触れた瞬間、場が凍りつきました。速水さんは、トークの失敗というより、事故 ── 岡崎京子は1996年に交通事故に遭い、その後は執筆活動を休止していますによって一人の漫画家の作家生命が途絶えた絶望を、その場の全員がもう一度思い出してしまったのだと話します。
(90年代半ば)あの辺のカルチャーみたいなものの受容者だったショックってすごい覚えてるんですよね。
本書では、その後、岡崎京子的なものを小泉今日子が継いでいくと描かれます。速水さんは、二人の直接の接点が本の最後の最後に置かれていることに注目しました。岡崎京子が、写真集の中の漫画のラストシーンで、髪を切った小泉今日子に「私はアイドルでも私は私」と言わせている場面です。
僕だったらこれ、こんな、こんなこの二人の接点の話は冒頭に持ってきそうなんだけど。引っ張ったなっていう。
米澤さんは、最初にその場面を書くと結論として読まれてしまうと考えたこと、また元が4コマ漫画的な短い作品であることから、最後に置いたと説明します。速水さんは、核心となる一言を最後に持ってきたと感じたと話しています。
雑誌のピークとインターネット前夜。赤文字雑誌はどこへ行ったのか
話題は米澤さんが大学時代から読んできた『CanCam』『JJ』に移ります。米澤さんによると『JJ』はすでになく、今はどの雑誌もあまり特徴がないといいます。
『CanCam』の全盛期は、エビちゃんブームのあった2000年代半ばから後半で、赤文字系 ── 『JJ』『CanCam』『ViVi』『Ray』など、表紙ロゴが赤い女性ファッション誌の総称。コンサバで男性受けを意識したファッションが特徴とされましたの勢力もそこがピークだったと二人は確認します。2010年代にはSNSが台頭し、『ViVi』がギャル路線を取り入れながら生き延びたと米澤さんは話しています。
速水さんは、雑誌の販売部数が96〜97年にピークを迎え、その直後にインターネットの時代が来たと話します。90年代半ばに何が起きたかはよく語られるテーマですが、まだ掘り起こされていないことがたくさんあるといいます。
米澤さんによれば、90年代半ばにインターネットは登場したものの、女性向けのコンテンツはまだ少なく、ファッションの情報はほとんど紙媒体から得ていました。美容雑誌の創刊も90年代後半以降で、新雑誌は2000年代にかけて次々と創刊されており、インターネットへの危機感もまだあまりなかったそうです。
一方で現在について、速水さんは、紙の雑誌に注目すべきテーマがあるとは言いづらいと率直に語ります。米澤さんも、ファッション誌は惰性で出ている感じがあり、表紙にどのアイドルを持ってくるかが中心になっていると話します。今の『anan』には80年代のマガジンハウス性が皆無で、同じロゴの別の雑誌だと思う、と米澤さんは言い切ります。
アートディレクターが編集者より強い。マガジンハウス流の雑誌づくり
速水さんは、自身がコンピューター誌『ASCII』の編集者だった経験を語ります。80年代の雑誌『ログイン』の編集を振り返る塩崎剛三さんの本が出たことにも触れつつ、『ASCII』はマガジンハウス出身の雑誌人が来て、その作り方を踏襲していたと明かします。
速水さんによると、マガジンハウス流の一番の違いは、アートディレクターが編集者より強いことです。普通の雑誌づくりとの違いを整理すると、次のようになります。
取材して記事を作り、それをデザイナーに持っていく
取材や撮影の前に、デザイナー・副編・アートディレクター・編集者で打ち合わせ、ラフをアートディレクターが直す。写真とテキストの分量も先に決める
アートディレクターの言うことは絶対で、見開きを写真に使うと決まれば、編集者が文字数を増やしたいと言っても通りません。速水さんは、『anan』の堀内さんの流れでスタッフ全員がそれを叩き込まれ、写真にテキストを乗せない場所や文字量を先に決めていたと話します。
これは。パソコン誌ですよ、だけど。
撮るのは新型パソコンでも、マガジンハウスのように写真は手を抜かず綺麗に撮り、アートディレクターが撮影に立ち会うこともあったそうです。米澤さんは、それほど写真やレイアウト、ロゴを大事にしていたからこそ、今でも「Olive」のロゴを見かけるのであり、そういうことは他の雑誌にはないと応じています。
デザイナーからインフルエンサーへ。インターネット以後に岡崎京子がいたら
速水さんは、雑誌の時代はコンテンツの制作コストが高かったと指摘します。インターネット時代にはチープ革命で制作コストが落ち、ユーザーもお金のかかっていない身近なコンテンツを求めるようになったので、ファッションも変わらざるを得なかったのではないかと米澤さんに問いかけます。
米澤さんによれば、20世紀まではデザイナーが大きな力を持っていましたが、21世紀に入ってからは、日本でも世界でも「これは」というデザイナーがあまりいません。代わりに、半径2メートル以内の素人に近い人が自分の着たい服を作り、フォロワーが買うことでアパレルが成り立つようになったといいます。
米澤さんは、デパートのポップアップショップで売られるインフルエンサーブランドの構造は、ブロガーや人気ポッドキャスターの話を書籍化して売る本の世界とよく似ていると話します。
権威に認められることで、デザイナーや作家になり、発信できる側になる
思い立てば明日からでもデザイナー。顔の見える身近な人の発信がフォロワーに届く
米澤さんは、これこそインターネットが変えた大きなものだと話します。速水さんは、岡崎京子の作品が途絶えた96年は、ちょうどその変化の直前にあたる絶妙な時期だったと指摘します。
米澤さんは、時代の変化に敏感でファッションが大好きだった岡崎京子が、インターネットやAIの時代に生きていたら何を書いたのかを考えるといいます。今のファッション業界は環境破壊などで悪者扱いされ、岡崎京子が描いたように次々と新しいものを追いかけることは良しとされません。速水さんも、ゴルチエのような尖ったブランドが成立しにくくなった時代だと応じます。
一方で速水さんは、若い世代が『ジオラマボーイ・パノラマガール』を現代の東京を織り込みながら映像化するなど、岡崎京子を新しく捉え直す動きが面白いと話します。米澤さんは、それは山本耀司に若い世代が関心を持つのと似ていると見ています。
確かにそのリバイバルって、その当時のものが懐かしいじゃなくて、今おそらく今の視点でなんか価値するものみたいなものを見つける作業になっている気がする。
こうして対談は、80年代、90年代、そしてインターネット以後までを通して、パート3で締めくくられました。
まとめ
この回は、小泉今日子と岡崎京子という2人のキョウコを軸に、女性に課された「大人になる」呪縛、団地や花柄ポットに表れる世代の断絶、マガジンハウス流の雑誌づくり、そしてインターネット以後のファッションの変化までを、速水健朗さんと米澤泉さんが語り合いました。
- 90年代のキョンキョンはアイドルを続けるのではなく、ハウスや女優業を取り込んで独自のブランドを作った
- JJとユーミンの保守性は同じもので、二人はそのライフコースではない生き方を探したと米澤さんは見ている
- 男性は少年のままでも許される一方、女性には「大人になる」ことが強く求められてきた
- マガジンハウス流ではアートディレクターが編集者より強く、写真とレイアウトにコストをかけていた
- インターネット以後、権威に認められる時代から、身近なインフルエンサーが発信する時代へと文化の構造が変わった




