免許を取った若者は、なぜ深夜のラーメン屋へ向かったのか?
速水健朗さんの世代では、クラスの大半が18歳になると自動車教習所に通い、免許を取ったそうです。親の車を借りてドライブに出かけるようになり、行動範囲だけでなく、時間の使い方も自由になりました。
速水さんによると、高校生のころと比べて門限がほぼなくなり、帰りが遅くなってもよくなったといいます。そうした若者たちのドライブ先として、大定番だったのが深夜のラーメン屋でした。
(18歳になったのは)ちょうど90年代の前半、初頭ぐらいなんですが、人生でね、3番目ぐらいに楽しかった時期。
当時は環七ラーメン戦争 ── 1990年代に東京の環状七号線沿いでラーメン店が次々に開業し、行列や路上駐車が目立った現象を指す呼び名ですの時代でした。速水さんは下北沢から車で環状七号線へ向かい、ラーメンを食べて帰っていたといいます。
速水さんの説明では、当時の客の多くは店の前に路上駐車して、ラーメンを食べていました。店の前に車が横付けで並び、危険な状態になっていたそうです。
速水さんによると、「環七ラーメン戦争」という名前は、当時の週刊誌が付けたものです。実際に死者が出た交通戦争のような事態が起きている、という意味が込められていたといいます。路上駐車をしてラーメンを食べる文化は、いまではもう途絶えています。
速水さんにとって、恵比寿も夜中に車で行く街でした。一風堂 ── 福岡発祥のラーメン店。現在は国内外に多くの店舗を持つチェーンとして知られていますがチェーン店というより恵比寿にしかなかった時代で、速水さんはいまでも「恵比寿といえば一風堂」という印象を持っているそうです。
恵比寿にはもう一つ、品ぞろえのよい巨大なTSUTAYAがありました。深夜の恵比寿は、ラーメンを食べてレンタルビデオを借りて帰る街だったのです。
速水さんは、レンタルビデオの変化についても触れています。
都心でこうした夜の過ごし方をしていたことは、いまの感覚では不思議に見えるかもしれません。それでも速水さんは、90年代を生きた人ならわかる話だと語っています。
オンライン会議をすっぽかす、適応できない男
本題に入る前に、速水さんはその日に起きた失敗を打ち明けます。前の週に決まっていたオンラインミーティングを、すっぽかしてしまったそうです。
俺が設定して言い出したミーティングを自分で来ないっていうね。
速水さんは、LINEに届いた「始まってます」という通知で、ようやくミーティングのことに気づきました。気づいたのは開始から30分後ぐらいで、参加できたのは40分ぐらい経ってからだったといいます。
速水さんがミーティングを忘れたのは、これが初めてではありません。これまでにおそらく3回ほど同じ失敗をしているそうです。Googleカレンダーは使っていても、それを見て予定を管理しているわけではなく、だいたい頭の中で把握しているつもりでいるといいます。
抜け落ちてるのね、オンラインミーティングだけが。
オンラインミーティングが広まって5年ほど経っても、速水さんはまだ適応できていません。そう自嘲しつつ、話はこの失敗とは関係のないラーメンの「全部乗せ」へ移ります。
速水さんが全部乗せを初めて知ったのは、1998年か99年ごろでした。普通の人より知るタイミングが遅く、ここでも「適応が遅い」と振り返っています。全部乗せを教えてくれたのは、当時の後輩の森内森内さんでした。
全部乗せを知った夜の背景には、速水さんが当時働いていた週刊誌『週刊アスキー』の仕事があります。『週刊アスキー』は火曜日発売で、入稿は3回ほどに分かれていたそうです。1週間前に入れるのが基本で、その後に締め切りBが来て、最後が前の週の金曜の夜から土曜の朝にかけての入稿でした。
土曜の朝
編集部が最後の原稿を入稿する
月曜の朝
見本誌が刷り上がる
火曜日
ほぼ全国の書店の店頭に並ぶ
これはね、紙のサプライチェーンが研ぎ澄まされていた最高潮の時代だったからこそできたと思う。今できないでしょ、多分。
当時の速水さんは、とても忙しかったそうです。それでも、その時期を「人生で2番目に楽しかった時期」と表現しています。
原宿の深夜、「全部乗せ知らないんですか?」
最後の入稿がある金曜の夜は、編集部の誰もが徹夜を覚悟していました。車で出社する人もいて、作業の合間に1〜2時間ほど空きができると、みんなでラーメンを食べに行ったそうです。
速水さんたちは5〜6人ほどで、ときには車2台に分かれて、いろいろなラーメン屋を回っていました。それがちょっとしたマイブームになっていたといいます。その夜に行ったのは、深夜12時ごろまで営業していた原宿のジャンガラでした。
ジャンガラで速水さんは、普通に味玉入りを注文しました。ところが後輩の森内さんは、「全部乗せで」と頼んだそうです。
「え、ハヤミズさん全部乗せ知らないんですか?」ってそこで初めて言われて。で、俺も慌ててメニューをね、「全部乗せで」って変えて。
ラーメンの全部乗せは、チャーシューや味玉、海苔などのトッピングがすべて乗ったものです。速水さんの記憶では、ジャンガラの全部乗せには明太子も入っていたかもしれないといいます。それまでの速水さんにとって、トッピングは1品までが常識でした。2つ乗せるという発想すらなかったそうです。
カルチャーショックって言葉をね、軽々には使いたくないんだけど、いやもうそれとしか言いようがない。
森内さんが全部乗せのことをどんな言い方で口にしたかまで、速水さんの脳裏に焼き付いているそうです。それほど大きなショックでした。速水さんはそれからしばらく、ラーメン屋へ行くたびに全部乗せを頼み、「すごい発明だ」と夢中になったといいます。
なぜ全部乗せをやめた?「自分へのご褒美」と格安チケットの余白
ところが速水さんは、しばらくすると全部乗せを頼むのをやめてしまいました。全部乗せはあまり良くないのではないか、と思うようになったからです。
速水さんは、全部乗せをやめた理由を子どものころのプレゼントにたとえて説明します。誕生日やクリスマスのプレゼントは、欲しいものがいくつあっても1個に絞るように決められていたといいます。
速水さんは、プレゼントを1個に絞るという教育が自分に刷り込まれていると話します。ただ、それは「贅沢は良くない」という教えとは違うと考えています。速水さんの中には、ご褒美はハードルを下げたほうが効くという感覚があるそうです。
速水さんが全部乗せを知ったのとほぼ同じころ、PUFFY ── 大貫亜美と吉村由美による女性デュオ。1990年代後半に大ヒットを連発しましたの吉村由美さんのソロ曲「Vacation」がヒットしていました。作詞作曲は小西康陽さんです。この曲の歌詞には「自分へのご褒美」というフレーズが出てきて、格安チケットで海外に出かける女の子のことが歌われています。
ファーストクラスとかじゃないけど、なんか余白を残しているところ、そこが格安チケットなんですよ。
「Vacation」のご褒美は、格安チケットだからこそ成り立っている、と速水さんは読み解きます。その先には、次にもっと頑張ったときのもっといいご褒美が残されているからです。
速水さんは、90年代を語るうえで格安チケットは重要だと話します。あの時代は景気が悪かった以上に、それまで高かったものがどんどん安くなった時代だったといいます。
80年代までは、大手の旅行代理店や航空会社、酒屋が独占していて競争が働かず、航空券もお酒も定価で買わされていた
90年代になると格安チケットが登場し、コンビニの参入と規制緩和でお酒も大幅に安くなった
海外旅行が安くなった背景には、円高もあったそうです。速水さんは、90年代のデフレを、大手がそれまで独占していたものが安くなっていった「いい時代」だったと見ています。
速水さんによると、グローバリゼーションと貿易の自由化によって、先進国による独占も崩れ、世界はフラット化しました。工場労働者の賃金のような中間層が減ることは世界的に起きたものの、規制緩和は大手や先進国の独占をならしていったといいます。
さらに速水さんは、当時はまだテクノロジーが目に見えて経済を発展させていた時代だったと続けます。出版物のデジタル化やデジタルカメラの登場など、いろいろな現場がデジタルに置き換わっていきました。
速水さんは、その後についてはピーター・ティール ── PayPalの共同創業者として知られる投資家。テクノロジーの進歩が停滞しているという趣旨の主張でも知られていますの言葉を引き合いに出します。スマホの画面の中でしかイノベーションが起きなくなり、本当の変化が止まった「大停滞の時代」が90年代の後に来た、という見方です。
宇多田ヒカル「Keep Tryin'」と、贈与と返礼の関係
次に速水さんが挙げるのは、宇多田ヒカルさんが2006年に発表した「Keep Tryin'」です。速水さんはこの曲が一番好きで、この曲のころが宇多田ヒカルさんの中で一番好きな時代だといいます。
「Keep Tryin'」の冒頭近くには、「ないものねだり、ちょっとやそっとじゃ満足できない」という歌詞があります。速水さんには、この曲が、自分が全部乗せを頼まなくなった心情を歌っているように聞こえていたそうです。
速水さんは、全部乗せをやめた理由を、文化人類学 ── 人間の社会や文化を、慣習・儀礼・親族関係などから比較研究する学問。贈り物のやりとりも重要な研究対象ですで重要とされる「贈与と返礼」の考え方で説明します。プレゼントは相手に喜んでもらうためのものですが、自分のためでもあり、何より大事なのは相手との関係を続けることだといいます。
速水さんは、プレゼントのお返しを数字にたとえて説明しています。
貸し借りがゼロになり、関係性が継続しない
貸し借りが残ることで、さらに関係が続いていく
宇多田ヒカルだって小西康陽だって歌っているものっていうのは、自分への貸し借りなんですよ。今のご褒美をあげすぎてしまうと、ここで止まってしまう。
速水さんによると、深夜のラーメンはもともと背徳的で、それ自体が自分へのご褒美のようなものです。そこに全部乗せまで乗せるのは、特別なことだと考えています。
全部乗せをやめてから、速水さんはトッピングを1品にしています。海苔なら海苔、チャーシューならチャーシュー、味玉なら味玉で、味玉とチャーシューを乗せるのはたまにある程度だそうです。
満足のいく仕事ができた日でも、速水さんはそこで全部乗せという「100の返礼」をしてしまうと続かないと考えています。次に続けるために、まだ足りないという状況を自分に課していくのだといいます。
今日味玉ぐらいにしておいてね、残りは次回に持ち越しだっていうようなことを、これは自分が自分に言うっていう感じじゃなくて、宇多田ヒカルに言われてる気がしている。
「無課金おじさん」に残された、人生の全部乗せタイム
速水さんは、週刊誌で毎週16〜18ページほどの入稿をこなしていたころの自分なら、全部乗せが許されていたと振り返ります。それでも速水さんは、全部乗せをやめてから一度も頼んでいないそうです。
全部乗せをやめてから10年、20年が経つと、健康管理の面でも全部乗せを頼んでいる場合ではない世代になったといいます。
ラーメンも普通、ノーマル、無課金おじさんになっていたっていうことですよね。
それでも速水さんは、人生でもう一度、全部乗せを食べるつもりでいます。速水さんにとっての「人生の全部乗せタイム」は、まだ残っているからです。
速水さんは、その全部乗せタイムがあと2回来ると考えています。1回目は、大きな仕事をやり遂げて自分で満足できたときです。2回目は、全部乗せを教えてくれた森内さんと再会したときです。
(森内君と)ラーメン屋に行きましょう。そこでは僕は多分全部乗せを頼むので、そしたらぜひ、「え、速水さん、まだ全部盛り食べてるんすか?」って言ってほしい。
いまは消息のわからない後輩、森内君の記憶
速水さんによると、森内さんは速水さんより3つほど年下で、後から入ってきた後輩でした。いつも面白いことを考えていて、仕事以外の遊びでも中心になるタイプだったそうです。
ただ職場のみんなは、森内さんは仕事ではまだくすぶっている、と見ていたといいます。速水さんも、森内さんはいつかすごいことをするはずで、そのきっかけをいつ見つけるのかと思っていたそうです。結局、速水さんが先に職場を辞め、最後には森内さんも辞めました。
森内さんとの最後の記憶は、沢登正紀沢登正紀さんの引退試合です。速水さんは森内さんにチケットを取ってもらい、磯貝磯貝さんを目当てに日本平まで見に行きました。ただ、試合の会場では森内さんに会えなかったかもしれないといいます。
速水さんには、「こいつは後にビッグになるのでは」と思いながら、その後の消息がわからなくなった友人が2人いました。1人は、18、19歳のころによく一緒にドライブでラーメン屋へ行った友人です。
ドライブ仲間だった友人とは、去年、25年ぶりぐらいに会うようになりました。その友人は、速水さんが思っていたより少しビッグになっていたそうです。
もう1人が森内君で、こっちは完全にね、誰を介しても連絡が取りようがないんだよね。何してるんだろうなっていうの、気になる唯一のやつっていう感じです。
全部乗せを教えてくれた森内さんは、速水さんが「人生の全部乗せタイム」の1回を一緒に過ごしたいと考えている相手です。同時に、いまは連絡の取りようがない、気になる存在として語られています。
まとめ
速水さんは、90年代の深夜ラーメンの記憶から、全部乗せをやめた理由を語りました。自分へのご褒美は満額で返さず、余白を残すことで次へ続くのだといいます。その考え方は、贈与と返礼の関係や、「Vacation」「Keep Tryin'」の歌詞と重ねて説明されています。
- 1990年代初頭、免許を取った若者の定番は深夜のラーメン屋で、環七や恵比寿へ車で通った
- 1998〜99年ごろ、速水さんは原宿のジャンガラで後輩の森内さんに全部乗せを教わり、カルチャーショックを受けた
- プレゼントのお返しは、100に100で返すと関係が止まり、70や120で返すと関係が続くという贈与の考え方が語られた
- 速水さんはご褒美に余白を残すため、全部乗せをやめてトッピングを1品にしている
- 残された「人生の全部乗せタイム」は、仕事で大きな達成をしたときと、森内さんと再会したときの2回


